2022年9月28日水曜日

種々の異言 1

聖霊のバプテスマ


「父の約束」とは、人が御霊を受け、聖霊のバプテスマを受ける事である。聖霊のバプテスマとは、聖霊の中に浸かる事であり、それは御霊の満たしを意味する。御父は、神の子が常に聖霊に満たされる事を望んでおられる。その理由は、それが神の子の歩みであるからだ。


御父は人がイエスを信じて、ご自分の所に戻って来て、神の子となって欲しい、聖霊を与えたい、聖霊で満たしたいと望んでおられる。未信者は最初に、イエスを信じて神の子となり、水によるバプテスマを受け、聖霊を受けるが、信者である神の子が、御父に求めると、イエスが御父の霊で我々を満たして下さる。この聖霊の満たしに関して、我々がしなければいけない事は、単純に、聖霊を父に求めるという事だけだ。


ヨハネ7:38「私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」


聖霊が信者の最も深い所から流れ出すのは、新生の時であり、それは、聖霊が我々の中に入る事になるからだ。信者は御言葉という御霊の剣を用いて、様々な戦いにおいて勝つ事が可能だが、通常、そこにはある種の限界がある。何故なら、御霊の力によって歩む時に、我々はイエスの証人として力強く歩めるからだ。そして、御霊の力にあって歩むには、聖霊のバプテスマ、つまり、聖霊の中に浸かる事、聖霊に満たされる事を通して可能になる。聖霊に満たされ続けて歩まなければ、我々は助け主である御霊の助けと、その力の恩恵を受ける事はできない。 


使徒1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」


「lambanō」は手に入れるという意味から、所有者になるという意味も含む。信じて所有するという事。


あなたが神の御霊によって人々に仕え始めると、御霊とその力はあなたの内(霊)から出て来る。そこ以外の場所から注ぎ出される事はない。あなたの腹の奥底から生ける水の川が流れ出る。水や川は聖霊を表すが、この川は複数形である。又、聖書は神の声について言及している箇所があるが、神の声の音は、多くの水の音と関係している。そして、あなたから出る聖霊の働きには、多くの目的があり、それらは、一般に言う、御霊の賜物である。正確には、御霊の賜物とは、恵みの現れ、御霊の現れの事である。



ヨハネ14:10「私が父の内にいて、父が私の内におられる事を、信じていないのですか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではありません。私の内におられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」


イエスは「私の内におられる父が、ご自分のわざを行う」と言った。イエス自身のわざではない。御父があなたを通して、御霊の力で行うのであり、その栄光を主張する事はできない。しかし、あなたを通して働かれるので、その栄光を共有して下さっている。


ヨハネ14:11-12「私が父の内にいて、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。まことに、まことに、あなた方に言います。私を信じる者は、私が行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。私が父の元に行くからです。」


イエスが行ったのと同じ働き(病人を癒し、死者を蘇らせ、悪魔を追い出し、福音を説き、食物を増やし、嵐を静めるなど)を我々ができる唯一の理由は、イエスが御父の元に行かれて、御霊を送って下さったからだ。従って、神の恵みによって、これらが可能である。しかし基本的に、我々は信仰によって一歩踏み出し、病人に手を差し伸べなければ何も起こらない。人々に福音を伝えなければならない。嵐に命令して、地を治めなければならない。


ヨハネ14:15「もし私を愛しているなら、あなた方は私の戒めを守るはずです。」


イエスは十戒を守れとさえ言わなかったが、我々が神を心、知性、魂、力を尽くして愛し、隣人を自分自身のように愛しているなら、自動的にモーセの律法を守っている事になる。


ヨハネ 14:16「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。」


御霊(paraklētos)は我々と共にいて、敵に抵抗し、助け下さる。


ヨハネ14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


世は御霊を受ける事ができない。人は最初に生まれ変わる必要があり、それから聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受ける。


聖霊はイエスが言われた事だけを言い、イエスが言われた事を思い出させる。これは慰め者、助け主の第一義的な役割。聖霊は、何よりもまず、全ての真理へと導き、イエスへと、イエスの教えと導く。御霊は父が送ろうと望んでおられる「父の約束」であり、人の中に住むようになり、力で満たし、神の子として地を治める事ができるように助けて下さる。


神格の第三位格である聖霊なる神は、人間の中に生きるという事は驚くべき事である。古い契約の下では、それは決して起こらなかった。それはなんと光栄な事であるか。


あなたが生まれ変わった、聖霊に満たされたクリスチャンであるなら、あなたは、イエスが十字架にかかる前に、他に存在がいなかった立場にいる。それは以前とは根本的に異なる。時々、我々は今の状況に慣れてしまい、その違いについて考えたり、十分に感謝していない。


古い契約の時代とは事なり、聖霊はあなたの中に留まり、あなたと共におられる。聖霊は去って行かれはしない。


御霊の存在、あなたの中に留まっているその存在を真に意識する事は重要だ。これは、あなたが無力ではない事を意味する。パウロは、「私を強めて下さるキリストを通して、私は全ての事ができるのです」と言った。神と共にいれば全てが可能であり、不可能な事はない。この考えができるのは、あなたの中に住んでいる聖霊のおかげである。


神の御霊に燃え立ちなさい。テモテでさえ、何となく神の働きをし、いつの間にか情熱を失い、再び燃え立たせる必要があった。聖霊は常に準備ができており、燃えている。しかし、それに目覚める必要があるのは我々である。異言によって、我々は霊を再燃させる事ができる。


*異言が与えられている理由の一つは、我々が再び自分の霊を燃え立たせる必要があるからだ。


御霊を燃やしなさい。我々は、人生のあらゆる面、24時間ずっと、実際に浸透する神の御霊をもっと持つべきである。神の存在をさらに意識するという意味で、私たちの一日の全てが神とより密接に接触している必要がある。


御霊の存在をもっと意識しなければならない。御霊は常に我々の中におられ、いつでもその交わりを望んでおられ、いつでも助けて下さる準備ができている。我々が注意を払っていないだけである。我々が御霊にもっと自由を与えるほど、我々を通して、よりスムーズに助けて下さる。 


我々はいつも異言で話すべきである。大声で、小声で、声に出さずに御霊の中で祈るのだ。絶え間ない神とのコミュニケーションが必要である。御霊にあって燃えているなら、それが普通になってくる。


運転中、異言で祈る事さえ考えなくとも、自然と異言が出るくらい異言で祈っているのだ。神は我々をコントロールしない。我々は、御霊の導きにただ委ね、神が語られるのを望むのだ。


異言で祈る時はいつでも、神に祈っており、神は我々を通して話しておられ、同時に、我々は神と一つになっている。この完璧な交わりがそこにある。

2022年9月27日火曜日

種々の異言 2

 多くの人が、ある程度、聖霊の満たしを体験するが、実際には、聖霊のバプテスマ(直訳は御霊の中へ浸かる事)を体験していない。

*真の聖霊のバプテスマとは聖霊充満の事であり、聖霊の中に浸り続ける歩みの事である。そうすれば、火によって我々の肉を焼き尽くされるという恩恵がある。これは聖霊の働きの事である。もちろん、思考の一新による魂の聖化も効果がある。

異言は、聖霊に十分に深く浸かる事からの溢れ出るものである。しかし、この御霊に深く浸かるという体験は、異言を話すだけではなく、それ以上のものだ。

*御霊に深く浸かる事によって、自然と異言を発する事になるが、更に深く御霊に浸かって行くには、その異言を利用して、深みに入る事も可能。


我々は、完全に機能する御霊に満ちた教会、完全に機能する御霊に満たされた体になり、神の御霊が我々と結びつき、常に我々の中で動いていく所まで行く必要がある。その為には、御霊の中へ浸かる事を通して、御霊の力を掴む必要がある。御霊の中へ浸かる時に異言が伴う第一の理由は、異言は、神の子である我々が常に御霊の力を帯びている為の効果的な手段となるからだ。この力によって、我々はキリストの証人となる。


神は、聖霊を持つ人々が世界中で伝道できるように、その伝道を通して、神の子が地を治めるように、ご自身の霊を人々に入れようと計画された。それが、イエスが地に来られた全ての理由であった。それは、人々が世にしるしと不思議を与え、世を回心させ、人々に神の霊を戻す事であった。


聖霊のバプテスマ(御霊の中へ浸かる事)は、我々が世に対してキリストの証人になる為に、神の力を得る為のものである。我々は、神の力を現して、神の子としてこの地上を治める。神は人をえこひいきしない。神は全ての人に対して、神の力を利用できるようにされた。神は言われた。「誰が証しの為の力を求めるのか?その為には、自然の考えから出て、超自然の中へ一歩踏み入れなければならない。」



異言は神と交わる為の手段でもある為、親密な交わりを意識するのも良い。又、異言は自身を燃え立たせる手段でもある。

2022年9月26日月曜日

種々の異言 3

聖霊が我々の内に住むだけ事だけでなく、我々の内から流れ出る為に聖霊が来られた。これが重要なポイントだ。


使徒 2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなた方が目にし、耳にしている聖霊を注いで下さったのです。」


聖霊の中へ浸かる事(聖霊のバプテスマ)、異言の祈り、御霊の現れ(御霊の賜物)は、それぞれ成長の過程で経験するものなのだ。それらは一度限りのイベントではなく、あなたの生活の一部であるべきだ。それらは、神の子たちが正しい道を歩む中で経験する成長過程の一部である。


生まれ変わった時から、あなたは成熟に向かって進んでいる。溢れるほど御霊に満たされる事(聖霊の中に深く浸かる事)は、その成熟の過程の一部である。又、思考の一新を通して、自身を罪から離れて清く保つ事も成長の一部である。


聖霊のバプテスマを待つ必要はない

ホーリネス運動では、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を第二の恵みと呼び、聖化の為には待つ必要があると教えていた。あなたが御父からの約束である御霊を受ける事は、御父の御心である。そして、約束の御霊の中に浸かる事も御父の御心である。従って、あなたがその体験をする為に、特別に待つ必要はない。ちょうど、生まれ変わる為に、何かを準備して待つ必要がないのと同じだ。

重要なのは、単に御霊を求めて、御霊を受け取るだけである。実際、ただ心をオープンにして神を求めた人たちの中には、水の浸かり(水のバプテスマ)と同時に聖霊に浸かってしまい、水から上がると異言を話し出した人たちもいた。

1916年までに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、「異言で話す事は、御霊のバプテスマを受ける事(聖霊の中へ浸かる事)の唯一の証拠である」という基準を確立した。

確かに、聖霊の中へ十分深く浸かった場合、信者は異言を話す。浅く聖霊の中に浸かるなら、それはいわゆる聖霊のバプテスマとは言えない。しかし、この教義の問題点は、異言を聖霊の中へ浸かる事の、唯一の証拠として扱っている所だ。実際、聖霊派の信者で、聖霊の中へ浸かった時に異言を話した経験を持つ人はいるが、彼らは異言を日常で使わない。彼らの多くは、過去に経験したイベントとして異言を認識しているだけなのだ。異言は御霊の現れの一つにしか過ぎない。

キリストの証人となる為に与えられる神の力は、様々な形として現れても良い。だからと言って、恵みの現れ(御霊の賜物)で奉仕する信者の全てが、聖霊の中へ浸かったという証拠にはならない。そもそも、聖霊の中へ浸かった証拠を確かめようとして、異言やその他の何かを見ようとする考えもズレている。そうではなく、新生の体験から、聖霊の中へ浸かる事へと進み、異言を体験し、他の様々な神の力を現して行く成長の過程と見なすべきなのだ。

神ご自身が異言をしるしとして設定された。異言は、マルコ16章で言及されている数少ないしるしの一つである。イエスは、信じる者は新しい言葉を語ると言われた。教会での異言は、御霊の力の現れ(御霊の賜物)の一つであり、1コリントでも言及されている。しかし、神ご自身が異言を設けた第一の理由は、我々が常に御霊の中へ浸かる為、つまり、我々が絶え間ない神との交わりを持つ為に異言を与えられたのである。この個人的な交わりを通して、我々は成長する。従って、御霊の中へ十分深く浸かるのなら、異言は自然と伴うものである。神は我々がそうして、より霊的な事柄を体験して成長して行く事を望んでおられる。

異言が出ないという人がいるが、時には、誰かに促されたりする必要もあるだろう。それは、按手という一つの手段を通してもなされる。或いは、自分で信仰によって一歩踏み出すという方法でも良い。しかし、信者自身が積極的に御霊を求め、御霊の中にもう少し深く浸かれば、自然と異言で話し始めるだろう。この方法がベストだ。何故なら、御霊の中により深く浸かる事こそが、聖霊のバプテスマであり、異言そのものよりも、より親密な御霊との交わりが重要だからだ。

又、異言は一度限りの体験ではなく、信者の生活の中で継続的に行われなければならない。そして、その異言の祈りを通して、継続的に神との交わりをする事が、我々の神の子としての歩みを安定させる。何故なら、御霊との歩調が合うほど、神の力と品性によって歩む事が可能になるからだ。逆に言えば、聖霊体験のある信者でも、神の力を常に発揮できていないのは、常に御霊の中に浸かっておらず、そうした親密な交わりがないからだ。パウロは、御霊の中に浸かって神の力を発揮できるように、聖霊を再燃させるようにテモテに言った。そしてこの交わりは、あなたの神を求める情熱次第で、より深いものとなる。

さて、異言には様々な目的があるが、個人的成長の為に異言が与えられた事をまず知る必要がある。毎日異言で祈るだけで、多くの問題を避ける事ができ、神の知恵が発揮され、気づかないうちに、あなたは正しい決断を下す事になる。何故なら、あなたが前もって異言で十分に祈ったからだ。

2つの異なる状況で使用される異言:
(1) 教会: 異言と異言の解き明かし  
(2) 個人的な異言  

2テモテ1:6「そういうわけで、私はあなたに思い起こして欲しいのです。私の按手によってあなたの内に与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい。」

ここでの「神の賜物」とは、一つの御霊の賜物(御霊の現れ)ではなく、聖霊の事を指してパウロは言っている。パウロは「再び燃え立たせて下さい」と言っているので、あなた次第であるという事だ。神からの賜物である聖霊が、あなたの中で燃やされていないのは、神の責任ではなく、あなたの責任だ。聖霊が燃えるなら、あなたの霊も燃える。

ガラテヤ 4:19「私の子供たち。あなた方の内にキリストが形造られるまで、私は再びあなた方の為に産みの苦しみをしています。」

パウロは彼らの内にキリストが形造られるよう祈っていた。御霊による祈りは、あなたの中にキリストが形造られるのを助ける。しかし、キリストが形造られる為に、最も重要なのが御言葉による思考の一新だ。真理を正しく理解し、それによって思考を一新させながら、異言で祈るなら、キリストが形造られるプロセスが最速になる。新しい契約までは、聖霊が人々の中に宿らなかったので、誰も異言を語らなかった。当時には、この異言による恩恵は全くなかったのだ。

異言で祈ると、レンガを積み上げるように、自分自身を築き上げる。今日、あなたが異言で祈ると、昨日異言で祈って築いたレンガの上に、さらにレンガを重ねる事になる。異言で祈れば祈るほど、強くなり、敵が隙を突く事ができなくなる。それほど、異言の祈りは重要なのだ。異言で祈るほど、真理の理解が深まる。聖書を読んでいると、分からない事が出て来るが、異言で祈る事で、全てが解決する。

異言で神を礼拝する

ペンテコステで異言を話した人々は、イスラエル以外から来ていた外国人の言葉で、神に栄光を帰し、神を礼拝していた。この時、異言は信者が聖霊の中へ浸かったかどうかを、信者が確認する為のしるしとして捉えていたのではなく、未信者の為のしるしであった。信者がそれを聖霊のバプテスマの証拠として見るのではない。信者はしるしを必要とせず、信じるがゆえにしるしが伴うものだ。

執り成しによる突破

異言による執り成しの祈りは、状況などを変える事がある。言葉にならないうめき声を発したり、それが笑いに変わったり、踊ったりする事もある。笑いや踊りは、執り成しの祈りが終わって勝利を得た事のしるしとなる。

御霊を得るには、生まれ変わらなければならないが、重要なのは御霊である。教会では、生まれ変わる事、救いに重きを置いており、救われた後はイエスの再臨を待つだけとしている。神が我々に聖霊を受け取って欲しいと望んでおられる理由は、我々がこの地上で神の子として歩み治める事ができるからだ。それが神の大いなる計画なのだ。

異言で祈るほど、御霊の力の現れが見られるようになる。異言で祈れば祈るほど、あなたはより霊的になる。あなたが異言で祈ると、あなたの肉はなくなり始める。あなたは御霊と密接に歩み始める。そうすれば,あなたが神の子として霊的な事柄を行ない始め、御霊はあなたを効果的に助ける事ができる。

種々の異言 4

聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けたしるしとは、原則、異言か預言のみである。それらが無くて、他の恵みの現れを聖霊に浸かったしるしとして見るべきではない。

真に聖霊に浸かると、様々な恵みの現れ(御霊の賜物)がありながらも、異言か預言もあるべきだ。この二つのうち、一つがないなら、その人はまだ御霊に浸かっていない(聖霊のバプテスマを受けていない)。

聖霊に十分に深く浸かっているのなら、異言が伴う。何故なら、異言がないなら、以下の事が欠けている事になるからだ。その人がこれらを欠いているのにも関わらず、「御霊に浸かった」とは言えない。

1. 霊による交わり(神と共に歩む事を意識させる)

2. 啓示が与えられる(起こる事を示される)

3. 礼拝の助けになる(感謝を表す)

4. 休息(精神的、肉体的な回復)

5. 信仰を助ける(成長を助ける)

6. 執り成し

7. 舌の制御

8. 世の汚染からの守り

9. 他の恵みの現れへの扉

神が異言を選んだ理由は、上記の通りであり、それらの恩恵が理由で、サタンは異言に激しく抵抗した。


悪魔が最も激しく戦ってきた分野は三つ。癒し、異言、御国の経済。


イエスは、「悪い、姦淫の時代(世代)はしるしを求めます」と言われた。信じる者にしるしが伴うとも言われた。イエスは我々に、悪い、姦淫の世代の人々に、しるしを与えなさいと言っておられる。そのうちの一つは、異言なのである。


マルコ16:17「信じる人々には次の様なしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、」


初期のギリシャ教父全員がマルコ16章を引用している。彼らが読んでいた聖書にはマルコ16章があったという事だ。マルコ16章が8節で終わっている写本よりも、その後の節、特にイエスの語った部分を含んでいる写本の方を尊重した方がより安全だと言える。


異言は外国語の場合もある。使徒言行録2章で起きた事だ。弟子たちは無学だったが、外国の言葉を話した。超自然的な事が起きていた。しかし、外国語としての異言でない場合(御使いの異言)でも、解き明かしを伴う異言によって理解できる場合もある。


2022年9月25日日曜日

種々の異言 5

 御霊によってなされるべきものが、多くの場合、人間的な努力や肉のものになる事がある。それは、興奮や感情から来るもので、聖霊の働きではない。


多くの場合、我々は集会で神の霊の深さを否定してきた。それは、聖書が全く言及されず、全てが御霊によるものであるような、極端なものではない。或いは、「聖書的になり過ぎ」て、儀式や律法主義的な考えに傾倒して、やたらと人々を非難してしまう事でもない。霊の深みとは、御霊と御言葉がバランスを保ちながら共に働き、深みをもたらすという事だ。


*ジョン・レイクは、かつて彼の秘書だったミス・エマ・ウィックが、御霊の中へ浸かる事なしに人々に異言を話させるコツを持ってた事を話している。恐らくこれは、真のものではない。


御霊との継続的な関係は、我々を御霊のより深い所へ連れて行ってくれる。今日の神学は浅く広いが、本来はもう少し狭く深い教えになっているべきだ。そして、我々は御霊の事柄をもっと掘り下げるべきである。


異言は神との直接のコミュニケーション


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


異言は誰も理解できないというのがパウロのポイントだ。パウロは、主に教会での異言についてこの章で語っているが、この節では、個人的な異言の用法についても言及している。そのコミュニケーションの動機となっているのは、あなたの中におられる神の御霊である。


2022年9月24日土曜日

種々の異言 6

異言は知恵ある者を恥じ入らせる。神は常に世の愚かなものを選び、知恵ある者を恥じ入らせる。


異言はおかしな言葉として人の耳に聞こえるかもしれないが、外国語もそのようなものだ。言語のように聞こえないものもある。しかし、それを話す人々とそれを理解する人々にとっては、それは明確なコミュニケーションとなるのだ。あなたが理解できないのなら、あなたが無知なだけである。奇妙に聞こえても、その言語を習得すれば、もはや奇妙に聞こえる事はない。 

それが我々の問題の一つだ。理解できない事は、自動的に押しのけて、「それは意味をなさないので、真実ではない」と言う。しかし、神の霊はあなたよりも、もっと知っておられるのだ。


1コリント 14:23「ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来た時、あなた方は気が変になっていると言われる事にならないでしょうか。」

パウロはこう言ったのである。「もしあなたが教会にいて、異言を話すだけで、初心者か未信者が入ってきたなら、彼らはそれを理解していないので気が狂っていると思うでしょう。」彼は異言で話す事自体が間違っているとは言わず、状況を考えて、秩序を保ちながらするように注意した。

2022年9月23日金曜日

種々の異言 7

イザヤ28:9-10「彼は誰に知識を教えようとしているのか。誰に啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」新改訳第三版

10節では、神は、全てを一度に得る事はできないと言っている。神は少しずつ教えて下さる。一つ一つのレンガを積み上げるように、家を立てるのと同じなのだ。


イザヤ28:11「まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。」

「もつれた舌」、「外国の言葉」とあるが、これらはしるしである。

異言が言葉のように聞こえない理由は、「もつれた舌」と書かれてある通りだ。しかし、頻繁に異言で話す事により、言葉のように発展して行く。定期的に異言で祈らず、それを生活の一部分としないなら、流暢な異言にはならない。どもりのような、同じ言葉を繰り返すように聞こえたりする。

ただ日曜日に、教会において、しかも、賛美の20分の時にだけ異言を話すのなら、異言が発展して行かない。それだけだと、時間も頻度も遥かに少ないからだ。従って、異言の祈りの殆どは、個人的な使用であり、家でやるものである。


イザヤ28:12「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」

異言は、最初にユダヤ人にもたらされたが、彼らは受け取らなかった。異言は休息であり、回復である。


ガラテヤ 6:9「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取る事になります。」

人々が善を行う事に疲れるなら、異言が必要だ。異言は休みと回復をもたらす。


異言で祈るのに最適な時期の一つは、気分が乗らない時だ。やりたくなくてもやらないといけない事がある。その時に異言を祈るのだ。疲れて来て効果が見えない時こそ、それをやり続ける必要がある。

それは、農夫が種を蒔いて、最初の二週間毎日外に出て、こう言っているようなものだ。「何も見えないので、もう二度と畑に出ません。」 神の言葉の種を蒔く時があり、収穫の時がある。種まきから収穫までには時間が掛かる。その間の時間、異言で祈るのだ。その時には忍耐が必要だ。その時には疲れたりして、つらい時でもあるが、諦めずに続けていく必要がある。異言は休みと回復をもたらす。大抵、諦める人は異言で祈っていないからだ。


個人的な異言の祈りは、周りに人がいない所なら、いつでもどこでも可能だ。それによって休みを得、回復を得るのだ。異言で祈ると、全てのゴミや肉の思いを振り払うので、集中力を保つ事ができる。

人々は教会で、聖霊が来た時に休みがあると思って待ってる。しかし、異言で祈る事が回復なのだ。回復するまで待ちなさいと神は言われなかった。


異言の祈りは、いつでもやめる事ができるが、時には御霊の促しが加わる事がある。肉の思いがもっと取り除かれ、霊の中に入ると、異言の祈りがたやすくなり、スムーズになる。御霊と共に祈れやすくなる。異言が溢れ出して来る。


パウロは、「私は霊で祈り、知性でも祈りましょう」と言いった。それは、二種類の祈りがあるという事だが、霊で祈る事が異言であり、それは、知性による祈りとは違って、理解できるものではない。それが理由で、パウロは異言の解き明かしについても言及した。解き明かしは教会においてのみではなく、あなたの私生活でも必要だ。パウロはまた、「霊で賛美し、知性でも賛美しましょう」と言った。つまり、異言で歌うという事だ。


2022年9月22日木曜日

種々の異言 8

異言を一つのしるしとして使う事にしたのは神であった。我々は、神が何かをなさる理由を全て理解しているわけではないが、神への信仰はそこから生まれる。神は異言で話すように言われた。それは神が言われた事である以上、我々はそれを行うべきである。

パウロは、あなたが異言で祈る時、あなたは人ではなく神と話していると言っているが、解釈できるように祈りなさいとも言いった。御霊を通しての神とのコミュニケーションは異言である。父なる神と我々の間に働き、我々を神に繋いで下さるのは御霊である。神が私たちの為に用意して下さったものは、御霊によって我々にもたらされる。

あなたは常に正しい祈りを祈る方法を知らないが、あなたの内にある御霊は正しく祈る事ができる。それは、御霊があなたを通して祈るという事だ。


御霊があなたを通して話す時、あなたは聖霊に委ねている部分もあり、あなたを通して話す機会を御霊に与えている。


聖書が新生について殆ど語っていないのは驚くべき事である。しかし、全ての弟子たち、イエス、神、旧約聖書の預言者たちによる聖書の圧倒的な証拠と、彼らが教えたものは、新生の結果よりも、聖霊の到来と我々の内に宿る御霊に関するものであった。

生まれ変わった事は素晴らしいが、そこに留まるべきではない。御霊に満たされるのだ。イエスの到来は、神の霊を私たちに与える為、神の御霊を我々と結びつける為だったのだ。


我々は御霊との関わりについてよく理解していない。我々の内に住まわれる御霊は、我々の霊において、一つになっておられる。聖霊を歓迎すれば、聖霊が天から降りてくるのではない。既にあなたの内におられるのだ。あなたが新生しているのなら、御霊が内におられる。


異言で祈るにつれ、あなたは御霊との密接な関係を保てる。そうすると、あなたの考えや知恵が聖霊からのものとなる。御霊があなたの内におられるという事は、神ご自身がそこにおられるので、神の知恵を必要な時にいつでも使用できるように、文字通りあなたの中に埋め込まれている事と同じなのだ。そして、引き出す方法は異言で祈る事による。


何をどう祈れば良いのか分からない事があっても、異言で十分に事前に祈っているなら、御霊は必要としているものを与えて下さる。


2022年9月19日月曜日

種々の異言 9

我々は、生活の中で働く御霊の力(御霊の賜物)を現しているべきである。


我々は御霊の実を現さなければならない。御霊の力の現れはすぐに見られるが、実は育つのに時間が掛かる。つまり、成長するには時間が掛かるという事だ。

御霊の力の現れを常に保つには、御霊の実が必要である。御霊の実は安定性を与え、間違った方向へ行く事を抑止する。しるしと不思議だけを求めるのではなく、キリストの性質である御霊の実も同時に求めていかなくてはならない。


我々は神の性質を持っている。御霊の力、御霊の実、神の性質これら全ての特徴が合わさってクリスチャンになるのだ。それらは一つになってクリスチャンを築き上げ、クリスチャンが神の御子の生きた真の模範となり、神の力の中を歩み、神の知識の中を歩む事ができるようにする。その殆どは異言で祈る事によってもたらされる。



2022年9月18日日曜日

種々の異言 10

 1コリント2:16「誰が主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、我々はキリストの心(考え)を持っています。」


我々は実際にキリストの考え方を引き出す事ができる。我々は、いずれキリストの思いに満ちて歩む事ができる。成長の過程でそこに到達するはずである。これは、思考の一新の事である。


キリストの考えはあなたの内にあるので、それにアクセスする事は可能だが、だからといって、キリストの考えで歩めているわけではない。ポジションと経験の違いがある。我々は、神の子というポジション(立場)にいる為、全てを持っているが、経験においては、全てを経験してはいない。


神の御霊があなたの中に住んでおられる。従って、あなたの祈りや信仰における神の御霊の活動は、神の御霊があなたから外へ出て行かれる事であり、天から降りてくる事ではない。

あなたが聖霊に満たされている時、「私にあるものをあげよう」とペテロが言った言葉を言う事ができる。これは、聖霊に満たされる事の利点だ。異言を通して神とのコミュニケーションを取っていると、その親密な関係により、あなたは聖霊をより近くに感じるだろう。そうすると、あなたは神の子として大胆に歩み始め、常に神に何かを求めたり、許可を得ようと考える事をしなくなる。

2022年9月16日金曜日

種々の異言 11

異言で話し始めると、同じ音節または同じ音を何度も言う事がある。時々、別の音節を口にするが、殆どはその領域に留まる。その理由は、あなたの異言が幼児期の状態だからだ。毎日異言で話し続けると、それは流暢になる。


異言には違いがあり、異言の使い方も異なる。ペンテコステの日に、彼らは様々な国の言葉で話していた。それは異邦人へのしるしであった。


終焉説の教えは、「異言は過ぎ去り、癒しも過ぎ去った」などと言う。ペンテコステ派、カリスマ派が今日行っている事は、使徒行伝に書かれているような外国語ではないとし、それゆえに、異言は過ぎ去ったと言う。確かに、殆どの異言は個人的な異言であり、信者が神と話す為のものだ。しかし、御霊の判断で、異言が外国語であるケースもあったりする。また、教会では異言と異言の解き明かしによって、預言の働きをするケースもある。異言で祈る人々の教会の中に、終焉説の支持者はいない。彼らは外から見ている為に、様々な異言を見た事がなく、勝手に判断している事が多い。


1コリント13:1「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」


パウロによると、御使いの異言もある。


我々が異言を与えられた主な理由は、個人の成長の為である。


ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」


御霊によって祈る事で、自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいとユダは言っている。異言で話す事から得られる副産物の一つは、霊的に敏感になり、霊的な夢、ビジョン、洞察力が増える事だ。


もし一度も聖霊に浸かった事がないのであれば、イエスの証人となる為に力を得る必要がある。そして、自分の成長と神とのより深い関係の為に御霊のバプテスマを求める事に重点を置くべきであり、異言そのものではない。以前に御霊に浸かった事がある人は、自分がそうできると信じながら、より深く霊に入ると決めて、そこに集中しながら、異言を話してみるのだ!

神の御霊があなたの中に来る時、神はあなたに浸透し、もはやあなたが生きているわけではない。あなたの中に見えるのは神である。神はあなたの霊を聖霊で圧倒する。あなたは神の霊と一つだからだ。あなたが神と協力する時、そうなる。あなたは神に委ねる部分、思考を一新する部分がある。

あなたが神に話しかける時、それはあなたを通して祈る神の御霊であり、同時に、あなたの霊の祈りでもある。あなたが異言で話す時、御霊はあなたに加わり、あなたが話す異言を作られる。御霊はそれらを言語に形成されるのだ。

悪魔は異言を理解できない。悪魔は肉的なので、神の御霊の事を理解できないからだ。

人が問題や困難な状況を経験する時、必要な助けが得られないような事があるのは、彼らが異言で祈らないからだ。助け主は、人を通して異言で祈る事によって、助ける為にそこにおられる。人々が異言で祈っていない場合、彼らを通して神の御心を祈るのを助ける御霊の力が制限されてしまう。御霊はあなたの為に執り成しをする事ができ、神がご自分の御心に従って答えられるように、正しい方法で祈って下さる。ある事柄に関しては、異言による執り成しが必要になる。

我々は、静かに異言で祈る事ができる。

思考の一新の一部は、神の御心で祈り、御霊によって神の知恵を引き出す事である。それは異言と、それを解き明かす事によってなされる。

2022年9月14日水曜日

種々の異言 12

 異言について知るべき事


1. 神は預言者イザヤを通して異言を預言された

神はイザヤを通してこれを預言したが、これはそれが起こる約 800 年前のことだ。これは神の定めであった。神がそれを決め、預言の言葉として与え、それから実現させた。


2. イエスは信じる者たちが異言を話すと言われた

マルコ16:17で、イエスは信じる者に伴うしるしとして「新しい言葉」があると言いわれた。信じる者なら、異言を話すという事だ。これは、いわゆる「御霊の賜物としての異言」とは異なる種類である。


3. イエスは弟子たちに、異言が伴う父の約束を受けるまで待つよう命じた

ペンテコステで聖霊が降った時、異言を伴う聖霊のバプテスマがあった。ペテロは弟子たちの異言を、預言者ヨエルが語った「預言」と結びつけた。彼は人々が異言で話すという事を、異言についてさえ言及していない聖書の成就と関連付けた。

彼らは異言を話し、それらの異言を解釈したかもしれない。彼らはそれらを「異言」や「解き明かし」とは呼ばず、預言という言葉を使っていたのかもしれない。その可能性はあり得る。


4.神が教会において、異言を確立した


5.パウロは異言の祈りを禁じないで、秩序が大事だと言った

神は、異言を話す信者がいるどんな状況でも、聞こえるように話す方法を持っておられる。異言を話す信者がいる場合、神はそのグループと対話してメッセージを伝える能力を持っておられる。その後、神はそのメッセージを解釈し、全ての人に理解してもらう事ができるのだ。

知恵の言葉、知識の言葉、または信仰に基づいて行動する人よりも、異言と解き明かしする人の方が多くいる。それは、異言で話す事がより一般的である為だ。

人々は、異言を流暢に話す事を目指し、より霊的に機能する事を目標にせず、聖霊のバプテスマの要件と見なして、一度だけ異言を話すだけだ。

2022年9月13日火曜日

種々の異言 13

 マルコ 16:15-18「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次の様なしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」


しるしは信者の為ではなく、未信者の為。そして、異言は未信者の為の一つのしるし。

よく言われる「聖霊のバプテスマとその証拠としての異言」という表現には、クリスチャンが「証拠」にこだわってしまう欠点が含まれている。実際、クリスチャンが聖霊のバプテスマを受けたかどうかのしるしとして、その人が異言を語るかどうかに注意が行き、その為の異言という理解になってしまっている。

異言は、あなたと神との直接のコミュニケーション

1コリント 14:2 「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」

異言を話すには信仰が必要。異言を話す時はいつでも、あなたは信仰を持って一歩を踏み出している。

神は異言を通して人に教えようとしている。その啓示の示しは少しずつであり、徐々に人はそれを学ぶ。そして、その教えは休息であり、力であり、回復である(イザヤ 28:9-12)。

神は異言を選ばれた。我々は、神がなさる理由を全て理解できるわけではない。しかし、神が異言という手段で我々に啓示、休息、回復を与えている以上、我々が異言で祈るなら、それらが得られるのである。


2022年9月11日日曜日

種々の異言 14

 殆どの人は二つの理由で疲れる。一つは、長期にわたる戦いによるものだ。特に病気の為の祈りが長くなると、それは絶え間ない戦いである為、疲れる事がある。


人が疲れるもう一つの理由は、平安がない事だ。いつも警戒しているのなら、疲れてしまう。緊張状態が長くなり過ぎると、人の体は疲れる。常に緊張していてはならない。我々はイエスの平安を得なければならない。


イエスが残した平安は、聖霊と関連している。この平安は、聖霊の臨在を通してもたらされる。神は御霊によって私たちの中に住んでおられる。つまり、聖霊ご自身がイエスの平安という事。


「paraklētos」は、一緒に反対する事を意味する。御霊はあなたと協力し、あなたの問題を取り上げ、あなたと共に問題に対して働きかける。しかし御霊は、あなたが神の子として一歩踏み出す時に、助けて下さるのであって、あなたがするべき事をしなくてはならない。御霊は、我々がイエスと同じわざ、それよりも大きなわざをするのを助けて下さる。我々は、御霊の助けを絶対的に信頼する必要がある。癒しの為に命じたら、たとえその時には回復が見られなくても、御霊を信じて、病人に手を置けば癒されるという御言葉を信じ続ける。我々の役割は、信じて手を置き、病に去るように命じる事であり、御霊のなさる事は、その力で癒やす事である。


落ち着いて平安を持つ事ができなければならない。平安は知る事から来る。


癒しの確率に変動が起こるのは、多くの場合、様々な世の事に気が散ちらされているという事もある。忙しすぎない、複雑ではない、シンプルな生活を送るのがコツ。そうすれば、焦点を合わせ、集中しやすい。


2022年9月10日土曜日

種々の異言 15

人の異言と御使いの異言


目的と機能に関連して様々な種類の異言


· メンテナンス

· 執り成し

· 教会での異言 - 解き明かしを伴う

· 霊の戦い


メンテナンス異言は、日々の成長の為のもの。エネルギーと健康を維持する為に毎日食べるようなもの。



異言は様々な形で現れるが、ポイントは、我々のうちにおられる神の霊は、様々な川となって流れ出たいと望んでおられるのだ。状況に応じて、御霊は働かれるという事だ。時には、霊的戦いの為に、我々を通して現れる。その時、我々の異言は、霊的戦いの為のものとなる。


あなたの普段の異言は一つの川だが、川は複数だ(ヨハネ 7:38)。もしあなたが普段の言葉のみで、御霊を外に出していないとしたら、あなたは一つの川の中で活動しているのであって、複数の川の中で活動しているわけではない。しかし、御霊は状況に応じて、様々な働きをしたいと望んでおられる。我々の協力や理解がないなら、御霊は他の領域においてご自身の助けを発揮できない事になるのだ。


2022年9月9日金曜日

種々の異言 16

 パウロが啓示を受けて、奥義を知ったのは異言で誰よりも祈ったから。個人的な成長に異言が関わるのは、啓示がもたらされる事により、自分自身を築き上げられるから。


異言によって、内にある神の力を充電して、発揮できるようになり、意図的に解放できるようになる。神の力は既に我々の内にあるが、その使用方法を学ぶ必要がある。聖霊が与えられたのは、あなたが異言で祈る事によって、神の力で充電して、自由に解放する為。


日常生活で疲れ果てた時や、忙し過ぎる時はいつでも、異言で祈るようにする。多くの奉仕者がバーンアウトするのは、異言で十分に祈ってないから。


異言で祈る事により、我々のミニストリー、すなわち、御霊によるミニストリーにおいて、より効率的で、より効果的になる。


異言で祈ると、生ける水の川があなたの中を流れ、休息と回復をもたらす。


御霊を待つのではなく、御霊は我々の内から流れ出なくてはならない。御霊は既に与えられたから。


ヨハネ 7:38「私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

生ける水の川(聖霊)があなたから流れていなかったら、異言で祈らなくてはならない。

イザヤ 28:11「まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。」

あなたの唇は、生ける水の川が流れ出る注ぎ口であり、それは生ける水の川を止める事もできる。

「私の言葉は霊であり、命です」とイエスが言ったように、聖霊が我々の口から出る。


川が複数形。御霊が様々な形で口から出る。あなたの通常の言語や、異言で出て来る。御霊は様々な方法で、我々から出たいと願っている。


ヨハネ 7:39「イエスは、ご自分を信じる者が受ける事になる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」


イエスが栄光を受け、ペンテコステの日に御霊は来られた。イエスが来られた理由は、御霊が我々の内に留まる事ができるようにする為。御霊が我々の中に留まるようになった理由は、御霊が我々から出て、様々な形で力を発揮する為。

2022年9月8日木曜日

種々の異言 17

 多くの人が異言で祈る時、それを解き明かす事はない。


レイクは異言で祈り、解き明かした。それは、神の霊が彼を通して祈り、神を讃える事だった。それは、神を崇め、神を讃える事であった。同時にそれは、彼を慰め、励し、彼の置かれた状況に対処する為の助けとなった。


これは、誰かから与えられたメッセージではない。彼は神に向かって異言で祈り、神を崇め、その過程で神は彼に語りかけ、彼の状況の必要性に答えていた。


誰かが持って来たのではなく、レイクの中から出て行った生ける水の川が、自分の中に戻って来たのである。


ダビデは、主にあって自分を励ました。それは、詩篇を書いて自分自身を励ます為に歌うという方法であった。


自分の中から、異言で祈る事によって、神の知恵、助言、励まし、慰め、問題に対する答えを引き出す事ができる。

2022年9月7日水曜日

種々の異言 18

異言による執り成しは、うめき声、叫び、泣き、苦しみに関係している。


ローマ 8:26「同じ様に御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、執り成して下さるのです。」


パウロは、我々の知性では分からないという意味で語っている。御霊の思いなら知る事はできる。必要なのは、御霊の思いにあるものを我々の思考に取り込む事。これは、思考の一新の事であり、最良の方法は、異言で祈り、それを解き明かす事である。



我々は、他の人々の為に御霊によって執り成す。時々、御霊の強い導きによって、執り成しの為に祈る事があるだろう。自分では、誰の為に祈っているのか分からない時もある。


誰かが祈りを必要としていると察する時、危険な状況がある時、異言で祈ると良い。



執り成して行く中、神が様々なものを見せて下さる時がある。神が秘密を守る為にあなたを信頼すればするほど、神は秘密を明らかにして下さる。そうでないなら、あなたの異言の祈りの中に留めておく。



異言で祈っていると、写真のようなものを瞬間的に見る事がある。それは神の霊が、あなたが何を祈っているかを示しているのだ。だからこそ、思考を集中させ、考えがあちこちに行かないようにする。



あなたの思考の肉的な部分は、この世と同じように考えていて、神と敵対している。悪魔はどんな地も譲ろうとしない。悪魔は、あなたが霊の中に入っていく事を望んでおらず、あなたが肉的、魂の領域にいて欲しいと望んでいる。何故なら、あなたが推論している時、悪魔はあなたを騙す事ができるからだ。悪魔は、あなたに理にかなったものを与え、そう考えるのが論理的だと言うだろう。しかし、神は論理的に考えるのではなく、霊的に考える。


ジョン・レイクが与えたメッセージは通常、全て最初に異言で祈られ、解き明かされた。ジョン・レイクはこう言っている。「私が道路を車で走っていた時、神の霊が私に語りかけました。カーブを曲がろうとした時、神の霊が道の反対側に行けと言うのが聞こえました。私はその声を何度も聞いていたので、それに従えばいい事がすぐに分かりました。私が車線変更した直後、トラックが反対車線のカーブを曲がって来ました。もし私が右車線に留まっていたら、理性的に考えていたら、正面衝突していたでしょう。しかし、私は御霊の声に耳を傾け、言われた通りにし、反対車線にいた私は、トラックを回避したのです。」


レイクが神の御霊を聞いたのは、異言で祈った事によって、御霊に敏感になったからである。異言で話す事のもう一つの利点は、神の霊に敏感になる事である。異言でよく祈るようになると、あなたも敏感になるが、神の御霊も、あなたを導きやすくなる。



異言でよく祈っているなら、より神に頼る事ができ、行く先々で良い事が起こり始める。それは、あなたが神と一致するにつれ、自然と神の導きの中に入る事になるからだ。神の声を明確に聞いていなくても、タイミングの良い場面にいる事ができる。


異言でよく祈ると、直感も霊的になって、正確になる。神の声を明確に聞いていなくても、「こうするべき」だという直感が当たるのだ。



1コリント 6:17「6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」


異言によって主と交わる者は、その人の魂が、主と一つの霊になるのだ。それにより、自然と様々な良い事が起こる。私は、「主が私に回れ」と言って下さると信じているが、それは私が望んでいる事になっていると思う。それほど、我々は主と一つになれるのだ。


主とそこまで一つになっていない場合、あなたはそれほど霊的に敏感ではない。その為、「そこを曲がりなさい」という神の指示があっても、あなたはそのまま歩き続けるだろう。もう一度、神が「そこを曲がりなさい」と言われ、あなたがその指示に気づいて、曲がろうとするなら、 あなたはようやく、神の指示に気づいたという事だ。しかし、気づかないほどに、神と一つになるなら、神と共に行動して、自然に道を曲がる事になるのだ。



神と共に歩む事への敏感さは、普段の生活の中で異言で祈る事で得られる。危機的状況に陥った時に祈るだけでは、その敏感さは得られない。


大抵の人は、危機に陥った時だけ神に祈る。全てが順調な時は、ただ放っておく。異言で祈り続けるなら、もっと良くなるはずだ。


神の最善とは、あなたが神と共に歩み、上手に危機を回避する事なのだ。そうすれば、もしあなたが危機に陥ったとしても、あなたがそこにいるのは誰かを助ける為だと分かる。


2022年9月5日月曜日

種々の異言 19

 異言で祈っている自分の声を聞く事に集中し、思考があちこちに行かないようにする。肉は何かを欲したいので、集中し続ける事が必要。

思考は関与していないので、異言で祈りながら読む事さえ可能である。異言で祈りながら読んでいるものを理解できない場合は、異言ではない。偽の異言は肉によってもなされる。


執り成しの祈りをする時、人々の状況について全てを知る必要はない。神は我々が異言を用いるようにされた。もしその状況の全ての詳細を知っていたら、我々は神の御心に沿って祈るというよりも、利己的な祈りをするかもしれない。神は地を人に与えているが、執り成しなどを通して介入する場合もある。しかし、多くの介入は人を通して行うものである。


多くの場合、我々が今こうして歩いているのは、過去の世代が祈ってきた結果であり、彼らの祈りが実現したという事だ。


神は悪い事を変える事ができるが、地上で起こる全てが神の計画であるわけではない。ローマ 8:28


神は人々を自由に用いて、執り成しの祈りを促す。こうして、誰かの執り成しで良い結果を生む事になる。


異言で宣言しなかったが為に、物事が上手く行かない事が多々ある。


ガラテヤのクリスチャンが成長するまで、パウロは執り成していた(ガラテヤ 4:19)。


執り成しの祈りをしていて重荷がなくなるのを感じたら、問題の為に祈ったのが解決されたという意味。


御霊は、我々の「言葉にならないうめき声」を通して、我々の為に執り成しをする。


我々が異言を話すが、異言の言葉を与えるのは聖霊である。


2022年9月4日日曜日

種々の異言 20

あなたの肉は異言で祈る事を嫌う。何も実を結ばない、退屈だとあなたに訴えるだろう。異言で祈り始めた途端、様々な余計な事を考えるは、まだ肉が強いからだ。


自分の思考を制御し、落ち着けるようにしなければならない。通常、最初のうちは、御霊の事柄に集中できるようになるまでに長い時間が掛かる。殆どの人は、落ち着ける所に到達しない。彼らは、少しばかり祈るだけで、まだ魂の領域におり、異言を通して霊との繋がりがない。


あなたが世と関わっていて、日常生活で未信者の人々との交流が多いなら、御霊の事柄に集中できるようになるには少し時間が掛かるかもしれない。気が散らされない為に、こうした世的、肉的なものを排除しなければならない。

「私はこれだけの時間を取って、祈るのだ」言って、集中し、他の事を遮断しなければならない時が来る。肉の思いが常にあなたを他の事に導こうとする為、祈る事を決断して、自分にそうするように課す。

最初は、それは訓練である。しばらくすると、訓練であったものが、習慣になる。その次に、あなたは夢中になってできるようになる。


いつ祈るかは自分で決める。自分の霊が支配している事を理解しなければならない。あなたの霊は、魂と体をコントロールしなければならない。自分の魂と肉体に、何をするべきかを伝えなければならない。

朝、眠気が抜けないまま適当に祈らない。目が覚めている時間に祈るようにして、祈らなければならない。それを学習しなければならない。あなたが神と真剣に向き合っていて、御霊によって常に自分自身を築き上げている必要があるからだ。何が起きても常に準備が整えられているように歩め。

必要な事は何でも準備し、万が一の事の為に備え、何でもできるようにしておかなければならない。だから今日、異言で祈らなければならない。

 ある時点で決断し、「私は祈る」と言わなければならない。誰かが、あなたの助けを必要としているからだ。


あなたが異言で祈る事を通して、御霊は神の完全な御心を祈る。


異言で祈る時、特にそれを解き明かしする時、あなたは御霊によって建て上げられているだけでなく、あなたの知性も実を結んでいる。それは、解釈しながら理解しているから。

御霊は、あなたを通して神の完全な御心を祈り出す。あなたがすべき事は、それを解釈する事であり、そうすればあなたは神の御心を知る事になる。そうすれば、あなたは神の御心を知る事ができる。


我々はキリストの心を持っている。霊がそれを知っている。異言で祈る事で、御霊に、キリストの心を自分の霊から自分の思考へと引き出してもらう事ができる。

御言葉に沿うように思考を一新させるが、異言を解き明かせば、キリストの考え方をあなたの思考で得られる。

御霊が神の御心を祈って下さる。御霊はあなたの為に神の完全な御心を祈り、それがあなたをキリストのように形成する。それをもたらすのは、言葉にならないうめき、霊における苦しみなのだ。それは、自分自身に対するものでも、他人の為の祈りでもある。


2022年9月3日土曜日

種々の異言 21

 1コリント 14:18-19「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」

パウロは異言を重要ではないと言ったのではなく、時や場所を考えなくてはならないと言っている。 

パウロは、異言を話す事で知られていたコリントの人たちよりも多くの異言を話した。これは、彼が日常生活の中でより多くの異言を話した事を証明し、異言の私的、及び、公的な使用がある事を示している。パウロは異言によって祈ったので、多くの奥義を知った。

パウロは、異言の賜物の秩序ある方法を教えた。異言を話すなら、多くても三人までで、解き明かす者がいる場合に限る。従って、秩序は、賜物を用いる人が作るという意味でもあるが、同時に、その人は御霊に導かれている必要がある。我々のする部分と、神が働かれる部分があり、神との一致が鍵だ。

聖霊は異言の言葉を与え、それを我々が信仰を持って口を通して話す。

神は、救われてから直ぐにでも、新生したクリスチャンが、聖霊に満たされて、神の力にあって神の子として歩む事を望んでおられる。聖霊のバプテスマを受けるのに適切な霊的レベルに達する必要はない。

他の異言で祈ると、自然的なものと霊的なものとの間のギャップを埋める。その時、あなたがどこにいて何をしているかに応じて、どちらにも足を踏み入れる事ができる。

毎日、一時間異言で祈れば、我々は霊の領域で繋がっている為に、皆が強くなれる。キリストの体として機能するとはそういう事である。

2022年9月2日金曜日

種々の異言 22

異言は我々の霊が祈る。その祈りを御霊が助けて、共に祈って下さる。

教会での異言

教会で初心者や異言を知らない人がいる場合で、誰も解き明かしができない場合、異言で語る事はしない。初心者や異言を知らない人がいる場合の秩序を乱してはならない。どうしても異言を話さなくてはと思うのは、感情で受け止めているから。

皆が異言を知っており、異言で祈るという目的でリーダーが集めている場合は別。

異言のアクティベーション

異言を話せる人と話せない人をペアにすると、話せない人を促す事ができる。

準備

普段から御霊によって祈る。必要になるまで待たず、率先して祈る。必要な時に証しとなるように、祈って準備を整えておく。

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...