2023年5月3日水曜日

4 御霊の満たしを受けるには

ある集会で、私が信仰に沿った教えをした後、聖霊を受けに来るよう人々を招いた所、三人が前に出て来ました。彼らは、聖霊によるバプテスマや異言を話す事を信じない教派の教会に属していました。私は彼らに言いました。「私が手を置いたら、すぐに聖霊を受けるでしょう。」それから私は彼らの上に手を置きました。彼らは皆、すぐに聖霊に満たされ、異言で話し始めました。礼拝が終わると、最近聖霊に満たされたという教派の牧師が私の所にやって来て、こう言いました。「ケニー兄弟。それは驚きでした。私はそこに立って、あなたが三人が『聖霊に満たされる』と言うのを聞いていました。そうしたら、彼らはあっと言う間に聖霊に満たされました。どうして彼らが聖霊に満たされる事を知ったのですか?」


私は、「実際に彼らが受け取る事になるとは知らなかったが、彼らが受け取る事ができ、又、受け取るべきだと私の心に疑いはありませんでした」と言いました。それで私は、彼らが聖霊を受けたいと望んで前へ来たのだから、きっとそうなるだろうと信じたのです。私がこれほどはっきりと話す事ができたのは、主がかつて、幻の中で私に現れ、『人々が聖霊を受ける為に手を置きなさい』と言われたからです。主が、聖霊を受ける為に信者に手を置くようにと私を遣わされたので、私は信者が受けると期待するのです。神に感謝します。殆どの人々は聖霊を受けます。


もちろん、時には聖霊を受け取らない人もいます。神の言葉で思考を新たにするには、しばらく時間が掛かる事もあるのでしょう。特に、例えば、聖霊を受ける為には、待つ時間が必要だという教えのような間違った考えで混乱している場合はそうです。このような人々を正しく教え、考え方を正すのを助けるには、時間が掛かる事もあるのです。全てのクリスチャンが、新約聖書に書かれている聖霊と異言による祈りについて、神との歩みの最初の段階から教えられるようになれば素晴らしい事です。そうすれば、苦労する事もないでしょう。


私は、ある場所で三週間の集会を開いた事がありました。この三週間で、72人が聖霊を受けました。実際、前に出てきた人は皆、聖霊に満たされた。受けられなかった人は一人もおらず、その72人の殆どが即座に聖霊を受けました。聖霊に満たされるまでに、その集会に三回ほど来て、御言葉によって思考を新たにしなければならなかった人もいましたが、誰も三回以上来る必要はありませんでした。



聖霊は賜物


「聖霊に満たされるのに時間が掛かると教えるのは、肉による努力と不信仰の組み合わせ以外の何ものでもない。」これは、ある有名な教師が言った言葉です。それは本当です。私の長年の奉仕の活動を通して、人々が聖霊を受ける為に信仰を持った時、ただ神に協力さえすれば、彼らは聖霊を受けるという事が分かりました。私が、人々が聖霊のバプテスマを受けるように奉仕する時、それについて何か疑いを持つ事はありません。というのも、私は若い時に、御言葉に書かれている事を学んでいたからです。


当時、まだ私が聖霊のバプテスマを体験する前の頃、私が聖霊によるバプテスマの問題について何を信じるべきかを理解しようとして祈っていた時に、私は神から啓示を与えられました。突然、主が私の心に語りかけ、使徒言行録2章39節に書かれている事を尋ねられました。私はその一節を引用しました。「この約束は、あなた方に、あなた方の子供たちに、そして遠くにいる全ての人々に、すなわち、私達の神である主が召される人なら誰にでも、与えられているのです。」すると主は私に尋ねました。「何の約束ですか?」私は答えました。「38節の後半にはこう書かれています。...そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」その時、私はすぐに、聖霊は賜物だと理解しました。神から無償で与えられた贈物なので、私はそれを受け取るのに待つ理由はないと思い、すぐに受け取る事に決めたのです。


それで私は、知り合いの牧師の家に行って、今すぐ聖霊を受けようと思いました。牧師の家に着くと、彼は私に言いました。「ケニー兄弟、今夜の礼拝が終わるまで待って、祭壇で聖霊を求めたらどうですか?」私は自信を持って言いました。「いえ、聖霊の満たしを受け取るのにそんなに時間は掛かりませんから。」そして私は、その五分後に異言を話していたのでした。何故、聖霊の満たしを受け取るのに、待つ時間が必要でなかったのでしょう?それは、信じる者全てに神が惜しみなく与えて下さった贈り物の為に、私たちは待つ必要がないからなのです!


5 聖霊の満たしの証 へ続く

2023年5月2日火曜日

5 聖霊の満たしの証

ある日、私たちの町で特別集会がありました。それは、聖霊派の人たちが開いたもので、彼らは私と似たような事を信じていた事が分かりました。私は説教者の話しを聞いて非常に喜びました。同じ信仰を持つ人たちとの交わりが始まったのは、それがきっかけとなりました。その交わりによって、私の信仰は強められると思ったからです。聖霊派の人たちは私と同じような救いの理解を持っており、癒し、聖霊のバプテスマに関しても同じ考えを持っていました。しかし異言に関しては、私が所属していた教団の教えは、彼らとは異なるものでした。それについては、私自身もまだはっきりとした理解を持っていませんでした。聖霊の満たしについては信じていましたが、異言については、実際のところ、私は避けていたのです。癒しを信じていた聖霊派の人たちとの良い交わりを保つ為、私は異言については触れずに、仲良く付き合っていたのでした。


ある時、私は聖霊のバプテスマについて主に尋ねました。私自信、それを体験したいと思っていましたが、どうしても異言の事について知りたいと思っていました。「主よ、この聖霊について、誰が正しい事を言っているのでしょうか?私たちの教派の指導者の一人は、人は新しく生まれ変われば、聖霊を持っていると言います。でも、他の指導者は、聖霊のバプテスマと呼ばれる救いに続く体験があるが、異言を話す必要はないとも言っています。そして、聖霊派の人たちは、使徒 2:4を土台に教えています。」


使徒 2:4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」


主は、私にこの御言葉に注意して読むように促されました。聖霊に満たされた人は皆、「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」とあります。特に、「異言はオプション的なもの」とは明言されていません。むしろ、聖霊に満たされた時、異言を語ったという事が三度もありました。


私が異言について否定的な考えをやめ、ただ聖霊に満たされる事の大切さを認めた時、私は知り合いの牧師の所へ行く事に決めました。牧師は私を快く迎えて下さいました。私はその牧師に聖霊に満たされたいと希望しました。すると彼は答えました。「ケニー兄弟、今、この私の友人の伝道師と集会をしているところなんです。今夜の礼拝が終わるまで待って、それから聖霊を求めたらどうですか?」


既に夕方の六時になっており、礼拝は7時から始まる事になっていました。しかし私は、聖霊の満たしを受け取るのには、それほど時間は掛からないでしょう」と答えました。それでその牧師は、私を彼の家へ入れてくれました。私は居間に行って、大きな椅子のそばにひざまずきました。牧師と伝道師がそうするように言ったのではありませんでした。私は、ただ内からの衝動に駆られてそうしたのです。それから私は手を上げ、目を閉じ、祈り始めました。「主よ、私は聖霊の満たしを受ける為にここに来ました。信仰によって私は新しく生まれ、信仰によって癒しを受けました。今、私は信仰によって聖霊の満たしを受けます!私は今、聖霊に満たされています。そして今、私は聖霊が私に言葉を与えて下さるので、異言で話す事を期待します。ペンテコステの日に使徒たちがしたように、また使徒言行録を通して信者たちがしたように、異言を話す事を期待します。私は神を賛美します。聖霊が私に言葉を与え、異言を語る事ができるので、主よ、あなたに感謝します。」それから私は、「ハレルヤ」と十回ほど言いました。全く何の変化も感じませんでしたが、私は何も感じないからという理由でやめる事はしませんでした。


2 コリント 5:7 「私達は見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」


この聖句の意味は、神が私たちに教えている事を信じて歩むという事なのです。ですから、「ハレルヤ」と私が何度か言いながら何も感じなかったとしても、私は聖霊と異言を与えて下さった神に感謝しました。聖霊の満たしを受ける事に関しては、人それぞれ違う経験がある事については、私も知っています。多くの人は、他の異言で話すという一般的な経験以外には、超自然的な現れは全くないものです。一方で、炎のようなものが現れて、教会の人々が一斉に異言を話しだしたというケースも聞いた事がありました。天井から光のビームが降りてきて、異言を話しだしたという人もいると聞いた事もあります。私の場合、炎も光のビームも見る事はありませんでした。私はただ目を閉じていたのです。しかし突然、私の内側に、燃えるような火を感じました。何が起こるか分からなかったので、「主よ、この火照りが止まらなければ、私はやめなければなりません!」と言いました。


その時、奇妙な言葉が心の中に沸き上がってくる感じがしました。その言葉が何なのか、口に出せば分かるような気がしました。それで私が口に出すと、異言が流れるように出て来ました。私の時計を見ると、祈り始めてから僅か五分たったほどでした。私はそのまま異言で一時間も祈り続けました。やめようと思えばやめられたのですが、私はそのまま祈ろうと思いました。私はその体験を通して、神の言葉を信じるなら、聖霊を受けるのに時間は掛からないと理解したのです。



他の賜物


聖書に書かれている事を見て、それを信じた後、私は聖霊に満たされました。それから、私は神の御言葉をよく調べるようになり、使徒言行録の中で、信者が聖霊に満たされると、異言を語る事がある事が分かりました。多くの人々が、聖書にそのように書かれている事を見ても、それをあまり信じていない事には驚きです。その中には、説教者や牧師も含まれています。「では、異言を求める必要がありますか」と聞かれる事が時々あります。私はそういう人たちに言います。「いいえ、聖書は私たちが異言を求めるようにとは言っていません。私たちが求めるのは、異言を与えて下さるお方、聖霊です。」私の場合、異言を求めてはいませんでしたが、異言で話す事を期待していました。聖書は、聖霊によって完全に満たされると、異言を話すとあるからです。


私は異言を話したので聖霊の満たしを受けた事は分かっていたのでしたが、正直に言うと、全てが満足というわけではありませんでした。  聖霊派の人たちが聖霊に満たされた時の体験が壮絶だったと証言しているのを聞いた事があったので、私は圧倒されるような、感情的に高まるような体験を期待していたのでしょう。聖霊のバプテスマは、単に肉体的、感情的に影響を与える祝福を受けるだけではない事を、私はまだはっきりと知らなかったのです。ただ私は、異言を話したのだから、聖書が言うように、聖霊の満たしを受けた事は確信しました。



ですから私は、その後も、主の御霊で私を満たして下さった主に感謝し、賛美し続けました。それ以来、失望を感じる事はありませんでした。それからしばらくして、私は知識の言葉を通して御霊が働いている事にも気づきました。次第にその賜物がはっきりと現れる事が分かってきました。聖霊に満たされると、異言を話すだけでなく、他の霊的賜物を受ける事があるようです。たとえば、使徒言行録19章では、エペソの弟子たちが聖霊を受けた時に異言を語っただけでなく、そのうちの何人かは預言もした事が書かれています。そして多くの場合、他の霊の賜物も、神と共に歩み初めるにつれて、加えられるようです。しかし、ここで覚えておかなければならないのは、異言で話す事が最初の賜物であるという事です。それこそが、聖霊の満たしを受ける時に期待すべきものなのです。


知恵をもって歩む


聖霊に満たされた後、私は所属していた教派から離れて、聖霊派に移りました。しかし私は、新しい仲間に加わった途端に、その人たちを正そうとするのが、私の役目ではない事は知っていました。別の場所の新しい教会で牧師として二年目に入った時、私は聖霊派の人々が聖霊の満たしを求めにやって来るのを見ました。彼らは、聖霊に満たされる為に、祈りながら聖霊をひたすら待っていました。私は他の教会の人々に、彼らと共にいて、一緒に祈ってあげるよう指示しました。私は、彼らがそのようにする必要がない事を知っていましたが、その時には何も言いませんでした。人々は、「主よ、ここに来て下さい」と歌いました。しかし聖書によると、聖霊はもう来られたのです。私たちは、聖霊に来て下さいと懇願する必要はないのです。人々がそのようにして歌ったり、懇願する必要がなかったのですが、私はその教会に来て二年は、何も言いませんでした。何故なら、それが彼らのやり方であって、彼らはその方法でも、聖霊の満たしを体験していたからです。私は彼らとの議論を避ける事にしました。


このような状況において、何をするべきでしょう?私はただ、ひたすら聖書を開いて説明し、それを証明する私自身の証を加えました。彼らは議論する事もなく、私の言う事に耳を傾けました。そして彼らは徐々に、聖霊の満たしを受ける為に、聖霊が来られるのを待つ必要がないと理解して行きました。私は最終的に、聖書的な方法で彼らが聖霊の満たしを受けるように導く事ができました。


6 神は求めている人を満たされる へ続く

2023年5月1日月曜日

6 神は求めている人を満たされる

聖霊に満たされ、異言を話し始めるまでは、適切に霊的に成長する事はできません。聖霊に満たされ、異言を語らなければ満たされないものがあるのです。私の場合、聖霊を受ける前に、既に五年間説教をしていました。私は霊において、自分が救われた事、自分が神の子である事を理解していました。私は人々に説教し、他の人々が救われるのを見て来ました。病人の為に祈ると、彼らが癒されるのを見ました。しかし、聖霊を受けて異言を話すまでは、私の霊には決して満たされる事のない虚しさがありました。


ある教会の牧師が次の証しを私に話してくれました。昼食会の数日前、この牧師は自分の教会の聖堂で聖霊の満たしを受けていました。皆で座って食事をしていた時、私がこの牧師に目をやると、彼の顔が輝いていたように見えました。それからこの牧師は立ち上がり、証しを私たちにシェアし始めました。「今日ここに来られて本当に嬉しく思います。以前、皆さんについての否定的な噂をよく耳にしていましたが、残念な事に、私はそれを信じていたのです。しかし、当時の私の心はとても飢えていて、正しい判断ができませんでした。その頃、その飢えを満たしてくれるものは何もないように思えました。私は何年も説教をしてきたし、教会も新しい建物を建てたばかりだったにも関わらず、私の中には虚しさがあったのです。新約聖書を読めば読むほど、自分には人々の霊的なニーズに応えるだけの力がないと、自分の霊の中で確信するようになりました。」 


その牧師はそれから、数日前に教会の聖堂の通路を上り下りしながら祈っていた時の事を話してくれました。彼は祈りました。「主よ、新約聖書を読むと、あなたの初期の弟子たちは私にはないものを持っていた事が分かります。あなたは弟子たちに、高い所から力を授かるまでエルサレムに留まるように言われました。何らかの方法で、私が受け取る事ができるはずです。自分が救われている事は知っています。しかし、奉仕の働きを続けて行くには、それ以上のものを持たなければなりません。私はとても不十分だと感じています。あなたが私に与えたいと望んでおられるものを受け取らずに、再び教壇に立つ事はできません。虚しい気持ちで人々に向き合う事はできないのです。それから、聖霊派の人たちや異言についてよく耳にしますが、主よ、どう考えて良いのか分かりません。しかし、それがあなたからの必要なものであれば、それを与えて下さい。」牧師は教会の通路を行ったり来たりしながら、主に語りかけました。突然、彼は両手を上げて絶望的に叫んだのです。「神よ、聞いて下さい。あなたの霊で私を満たして下さい。」すると聖霊が彼の上に望み、彼は異言を話し始めました。この牧師は、これが聖霊派の人たちがいつも話している事なのだと理解し、すぐに、同じ体験をした誰かと交わりたいと思うようになりました。


私の知っている、別の牧師の話しからも、神が求める人々を聖霊で満たす事が分かります。私は、ある教団の牧師と釣りに行った事があります。その牧師は私との会話において、ただお互いにとって異議のない聖書の話題ばかりを話しました。聖霊や異言について一言も語りませんでした。それから何年かして、私は彼に電話で話す用事があり、彼の電話番号を調べて電話をかけました。電話に出た牧師は、二人で釣りに行った事を思い出してくれました。すると、この牧師はこう漏らしたのです。「恐らく、私はあなた方が持っているものを受け取ったようです!」「どういう事ですか?」と私が尋ねると、「聖霊のバプテスマの事です」と彼は答えました。そして電話越しに異言を語ったのです。「それですよ。あなたは聖霊のバプテスマを受けたのです。神を褒め称えます」と私は彼に言いました。


この牧師の証言は、私が長年に渡って聞いてきた他の多くの人々の証言と同じです。これらの証言と御言葉から、そして私自身の個人的な経験から、神は御霊を求めている人の所に来て下さるという事実を、私は知っています。


求めている人々


1960年に私が経験した御霊に満たされた体験の中で、ここで話している事に関連するものを、また紹介しましょう。何故なら、私は神が御自分の民が御霊に満たされる事を望んでおられると確信しているからです。カンザスで開いた集会で起きた事です。私は数年前に主が与えて下さったある幻を会衆に話している最中でした。突然、私はその幻の一部を間違って解釈していた事に気づいたのです。その瞬間まで、幻全体の解釈を受け取った事はありませんでした。その啓示に打ちのめされた私は、すぐに話すのをやめ、説教壇の後ろにひざまずいて祈り始めた。会衆も私と一緒に祈り始めました。祈りの時間が終わる頃、私はトランス状態に陥り、身体感覚がなくなるように感じました。そのトランス状態の中で、私は突然、別の場所にいました。花が咲き乱れる美しい庭に向かって歩いていたのです。庭には白いフェンスが巡らされ、たくさんの小道が通っていました。庭の真ん中は、つる草や花で溢れ、その両脇には大理石のベンチが置かれていました。


私が東側からこの庭の門の所まで歩いて来ると、主が門のそばに立っておられました。主は手を伸ばされ、私の右手を握られ、左手で門を開いて私を中に引き入れて下さいました。それから、庭の真ん中へと私を導いて下さいました。主は大理石のベンチにお座りになり、私を隣に座らせました。私が西の方を見ると、庭の西側に川が流れていました。川は庭に入る所で非常に狭くなっていました。しかし、この川が我々に向かって流れているのを見ているうちに、川幅はどんどん広くなり、約8キロメートルもの幅があるように思えました。


突然、川は水の川ではなく、多くの人々の川となりました。私は、彼らが強大な軍隊のように私たちに向かって流れてくるのが見えました。私は尋ねました。「主よ、私の見ているこの川は何ですか?この人たちは誰ですか?」するとイエスは答えられました。「庭に流れ込むこの川は、他の教派から人々で、聖霊のバプテスマとペンテコステのメッセージの充満に導かれる人々です。この時代において、私は全ての求める人々を訪れ、 多くの人が私が訪れないと思うような宗教的な地域にも訪れるでしょう。人々が心を開いて求めているからです。あなたが見ている庭に流れ込んでいる人たちは、これから来る人たちです。」


神に感謝します。何年も前に見たあの幻以来、私たちは数え切れないほどの大勢の飢えた心が聖霊の満たしを得るのを目の当たりにしてきました。そして、その川にはまだ終わりがありません。そして、幻の中で私は尋ねました。「主よ、これらの花々とあの素晴らしい芳しい香りは何を表しているのでしょうか?」イエスは答えられました。「これらの花の美しい香りは、私の霊の充満に入る者たちの香りとして、私の御座に昇る賛美です。あなたはその一翼を担わなければなりません。様々な教派の人たちと協力するのです。私の到来に備える為に人々を助けるのです。私はどのように、何をあなたがすべきかを示します。」この真理は、1960年代、私たちがカリスマ運動と呼んでいる神の動きの中で、私が確信したものでした。


私はある会合で、ピーターソンという人と共に講演者の一人として、その場にいました。ピーターソン兄弟は、ある集会で、ある人が教えの最中に聴衆の後ろに立ち、異議を唱えた時の事を話してくれました。聴衆の誰もが彼の言葉を聞き取れるわけではなかったので、ピーターソン兄弟は言ました。「兄弟、言いたい事があるなら、皆に聞こえるようにここに来てくれないか。」明らかに動揺していたその男性が前に出てくると、ピーターソン兄弟は彼にマイクを手渡しました。その人は、「私は牧師ですが、異言は話しません。しかし、私はあなたや他の誰よりも聖霊に満たされています!私は異言で話さないし、異言で話す必要もありません!」


ピーターソン兄弟はとても冷静で優しい人でした。彼がマイクをこの人から取って言いました。「愛する兄弟よ、あなたが今持っているものに満足しているなら、それは私たちにとって喜ばしい事です。これ以上神を望まないのであれば、或いは、必要なものは全て持っているというのであれば...」 するとその牧師は割って入ってきて言いました。「いいえ、私は神をこれ以上求めないとは言っていません。」そこでピーターソン兄弟は「あなたの話し方から、私はあなたが今まで望んでいたもの全てを持ったのだと思いましたよ」と言いました。「いやいや、私はまだ求めていますとも...」とこの牧師が答えると、彼はそれ以上何も言えなくなりました。そこでピーターソン兄弟は、彼に手を置いて祈りました。「主よ、この人は求めています。もっと与えて下さい。」するとこの牧師は、すぐその場で聖霊に満たされ、異言を話だしたのです!そうなったのは、この人が求めていたからでした。彼は神と共に歩む事に前向きだったのですが、神をより深く理解する為には、異言で話す事が必要だという事に気づいていなかっただけなのでした。この牧師は、新生において、既に聖霊に導かれていましたが、その日、彼は神との歩みにおいて、新しい、より深い次元に足を踏み入れたのでした。


求める人への賜物


第二次世界大戦直後、ある教派のアフリカ宣教師の証言を読んだ事があります。1947年、ある女性宣教師はアフリカの潅木地帯で35年間休む事なく宣教した後、初めて米国に戻りました。滞在先のニューヨークの教会に彼女が訪れた時、そこの牧師夫妻が彼女を祈りの部屋へと迎え入れてくれました。そこでは、教会の人々が救いの為に、聖霊に満たされるように祈っていました。宣教師が観察していると、祈祷室にいた何人かの信者が異言を話し始めました。牧師婦人はその女性に、「あの人たちは聖霊に満たされているのです 」と説明しました。宣教師はこう答えました。「聖霊派の人たちと一緒にいた事はありませんが、彼らが異言について話してたのを聞いた事はあります。この人たちがおかしな言葉で話しているのがそうですか?」「あなたが聞いているのは、異言で、聖霊に満たされたというしるしなのですよ」と牧師婦人は答えました。


宣教師は話ました。「まあ、私もそれをずっと持っています。神が私を祝福してくれましたが、何と呼ぶのか知りませんでした。数年前、若い独身宣教師として初めてアフリカに来た時、私は宣教師になる事について華やかな考えを持っていたのです。でも、実際に行ってみると、それは大変な事でした。わずか数カ月後、私は藁葺き屋根の小さな草小屋で膝をついて祈りました。『主よ、あなたが私を呼んで下さった事を信じます。あなたの御手が私の人生に注がれていると信じています。しかし、私にはその為のものがありません。主よ、もっとあなたが必要です』と。私はできる限りそのように祈り続けました。しかしある日、私は絶望的な気持ちになり、祈りの中で叫びました。『主よ、私は続けられません!あなたが私を送って下さった事は分かっていますし、応援してくれている人たちを失望させたくはありません。でも、もっとあなたが必要です。でないと、私はあきらめて家に帰るしかありません。』すると突然、私はここにいる人たちが話しているような、奇妙に聞こえる言葉を話し始め、その後、同じ奇妙な言葉で歌い始めたのです。私は喜びに満たされ、神様が私に何か良いものを与えて下さったと思いました!それが誰にでも与えられるものだとは知りませんでした!しかし、それ以来35年間、毎日、私は神と二人きりになり、その奇妙な言葉で神と交わりを持って来ました。私もよくそうやって歌います!それは私を高め、とても祝福してくれます。」


この女性宣教師の証しから、聖霊によるバプテスマや異言を何と呼ぶか、それらについてよく知っているかどうかは、それほど重要ではない事を示しています。重要な事は、この超自然的な祝福を受ける事なのです!


私は、この証しに関連する、別の証言を聞いた事がありました。それは、フルゴスペルの宣教師からでした。彼はアフリカのある教会に招かれて説教した時の事を話してくれました。その宣教師は、論争になりそうなテーマを避け、救いのメッセージを説く事に努めていました。彼の救いのメッセージの後、7人が救いを求めて祭壇に進み出ました。教会の祭壇にその教会の奉仕者たちが彼らの周りに集まりました。この宣教師はクリスチャン全員を祭壇の周りに招いて祈りました。すると、救われに来た7人のうち3人が突然、異言を話し始めたのです!その宣教師は失敗したと思い、そこの教会の牧師に謝ろうとして言いました。「兄弟、私は問題を起こすつもりはありませんでした。私はただ救いのメッセージを説いただけです!」その教会の牧師は、「どうしたと言うのです?」と言いました。「この信者の方々は異言を話しているのです。聖霊に満たされたのです」と宣教師が答えると、「それを聖霊の満たしというのですか?私たちの回心者はそれをずっと、体験してきていますよ。私たちはそれを清めと呼んでいるのです。まあ、私たちがそれを何と呼ぼうが、神は御名を呼ぶ全ての人に、この貴重な贈り物を用意されたのですね」とその教会の牧師は言いました。どこの信者であれ、ただもっと神を求めて、聖霊に満たされれば良いだけの事なのです!


7 聖霊の満たしを受けるには へ続く

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...