異言についての人々の立場は、他のテーマでも同じですが、それを信じるか、否定するかのどちらかです。しかし、単なる議論で決着をつけようとするなら、どちらが正しいかを見極めるのは難しいかもしれません。特に、何の証拠なしに、聖書的な議論ばかり進めても、お互いの解釈の正当性を訴えるだけになり、決着がつきません。
議論オンリーで解決しようとする試みよりも、良い方法が一つあります。それは証しです。真理の言葉は机上の理論ではなく、実践的なものです。証しが伴う教えであれば、少なくとも、より「説得力」のあるものになるのではないでしょうか。
最終的に、異言について詳しく知っている人々が、その恩恵と力を示す必要があります。そうでなければ、誰も異言を知ろうとしないでしょう。実体験によって得られる神からの恵みを示す事ができれば、つじつまを合わせて作り上げた神学、その他の勝手な個人的な解釈は、その存在の意味を失う事になります。
結論から言うと、異言とは、ギリシャ語のカリスマが示すように、恵みの現れの一つなので、明らかに聖霊の働きが関わっています。第一コリント12章によると、このカリスマは聖霊の現れとして、教会に与えられたものであり、各信者がキリストの体としての働く為にあるものです。もちろん、終焉説を持ってきて、議論を終わらせようとする考え方は存在しますが、それは、聖霊の働きが終焉しているという危険な主張でもあります。教会が存続しているのなら、御霊の現れもそこにあるべきです。こうした神学的な議論についても、このブログで紹介する異言の証しの中に答えを見つける事ができます。
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