2023年3月3日金曜日

10 神とのコミュニケーション

異言は聖霊のバプテスマの最初のしるしとして、典型的なものである事については既に説明しました。では、定期的に異言で祈る事から得られるその他のメリットについて話しましょう。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


異言で話す時、私たちは人と話しているわけではない事に注意して下さい。私たちは神に話しかけています。つまり、神は、私たちが超自然的に神に話しかける事ができる、神聖な手段を私たちに与えて下さったという事です。残念な事に、殆どのクリスチャンは、この賜物を本来あるべき形で利用していません。「そういうコミュニケーションが必要なのですか?」と聞く人もいます。それは必要であるに違いありません。神が私たちに用意して下さったからです。パウロは続けて、「...霊において、奥義を語る」と言いました。ある聖書の訳では、「...神聖な秘密を話す」となっています。あなたが異言で祈る時、誰もそれを理解できないのはその為です。あなたは神の奥義を御父と話しているのです!奥義とは、隠されているという意味があるので、サタンもあなたを理解できないでしょう!それが、悪魔が異言と激しく争う主な理由だと私は思います。彼は秘密の会話に参加できないからです。あなたが御父と奥義を祈っている時、悪魔はあなたが何について祈っているかを知る事ができないので、できる限りの方法で戦って来るのです。神の奥義について、神と話す事に何か価値があるでしょうか?あるはずです!そうでなければ、神はご自身とのコミュニケーションの為に、この神聖で超自然的な手段を教会に与えなかったでしょう!



人ではなく神と話す


私の知人、ルーク氏はある教団の教会の人で、小さな町の農民でした。私はこの町の小さな教会を牧師にする為にやって来た事がありました。ルーク氏は、私が到着する数年前に、この辺りであったリバイバル集会を開いた説教者について話してくれました。説教者は、リバイバルの初めに、新生についてだけ説教したそうです。町中から、数百人の農民とその家族がこの説教を聞きにやって来て、多くの人々が救われました。その地域全体が、これらの集会で起こった事に興奮しました。リバイバルが数週間続いた後、説教者は聖霊のバプテスマについて、そして異言について説教し始めました。人々はそのメッセージを受け入れ始めました!ご想像の通り、この小さな町は大騒ぎになりました。集会で奇妙な言語を話す地元の人々に何が起こっているのかについて、人々は自分たちの理論を持っていました。例えば、テントの集会を照らす為に、柱に吊るされたガスランプと関係があると思った人もいました!その頃、田舎の野外集会には電気がなかった事がよくあったのです。ある人は言いました。「それらのガスランプは光の輪を放つ。説教者はランタンの光の中に何かを入れて、あなたに異言を話させているに違いない。」当時では、霊的な事柄について無知だったのが普通であったのを知る事ができます。


説教者が病人の為に祈る時に使用した油についての理論もありました。病人を油を塗って癒すという概念は、その人々にとって新しいものでした。その為彼らは、「説教者は、人々が奇妙な言語で話すようにさせる為に、その瓶から何かを人々に与えたに違いない。説教者に近づき過ぎるな。さもないと何かが来るから」と考えたのでした。人々はあらゆる種類のばかげた考えを持っていました。実際には、彼らは心配する必要はありませんでした。聖霊はその人が望まない場合、その人の上に臨む事はありません。御霊は完璧な紳士です。


その地域全体は、聖霊のバプテスマと異言で話すという事について、どちらか一方に分かれていました。誰もがそれについて話していて、多くの人が、何が起こるかを見る為だけにテント集会に行きました。好奇心旺盛な見物人は、ランタンの明かりから離れた影の中に立ちます。結局の所、彼らは、人々が奇妙に振る舞う原因が何であれ、彼らに臨む事を望んでいなかったのです!その後、近所の農夫が救われ、ルーク氏は私にこう言いました。「私はその男を知っていました。彼は正直であり、誠実な人でした。それで、別の農家の友人と私はお互いに言いました。『その隣人が異言の経験をした場合、私たちは彼をよく知っているので、それが本物である事が分かります。彼は偽物などには興味ありません。』」ルーク氏は続けて言いました。「当時の人々が知っていたのは、祭壇に来て、聖霊に満たされる事を求めるだけでした。それで、友人と私は物陰に立ち、あえて祭壇に近づき、この男に何が起こったのかを観察しました。ある夜、この近所の農夫は祭壇で一人で祈っていました。他の誰もが去り、私の友人と私は他の誰よりも彼に近くにいました。私たちは、彼が祭壇でひざまずいて祈っているのを注意深く見ていました。突然、彼は両手を上げ、天を見上げ、この奇妙な言語で話し始めました。誰も彼にランプの光を当てたり、油を塗ったりする事なく、それが起ったのです!一緒に物陰から見ていた友人がこちらを向いてこう尋ねました。『彼は何を言っているんだ?』私は答えました。『分からない。私に話しているのではない。』」ルーク氏は、その言葉がどれほど聖書的であるかを知りませんでした。つまり、ルーク氏は、第一コリント14:2に沿って話していたのです。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


この人は、ルーク氏や他の人と話していたのではなく、神の奥義を神に話していたのです。



理解を超える祈り


1コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


別の聖書訳によれば、「私の霊は(私の中の聖霊によって)祈る」とあります。祈っているのは聖霊ではない事に注意して下さい。神はあなたの霊の中で言葉を発する事によって、あなたの祈りを助けています。


パウロは、私たちの理解とは別に、神が私たちの霊が祈る事ができる手段を私たちに与えて下さったと語っています。私たちの知性は、御霊によって祈る事とは何の関係もありません。そのような祈りは必要でしょうか?神が超自然的な準備をされたので、必要に違いありません!ある人が私にこう尋ねました。「自分が何を言っているのか分からない祈りは何の役に立つんだ?」私は答えました。「私は自分自身に話しているのではなく、神に話しているのです!」もう一度言いますが、私たちが異言で祈るのを助けて下さるのは聖霊ですが、祈りをしているのは私たち自身でもあるのです。その事を覚えて第一コリント14:2を見ましょう。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


パウロが「御霊によって」という言葉を使う時、何を意味しているのでしょう?エペソ人に書いた手紙でパウロは、「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。」と言っています(エペソ6:18)。


1コリント 14:2の御霊による祈りが異言の祈りを指しているなら、エペソ 6:18 での御霊による祈りも、異言による祈りを指していると結論付ける十分な理由があります。


1コリント 14:14-15「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り(又は、霊と共に祈り)、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


15節の「霊と共に」という言葉に注目して下さい。人々が祈る祈りの殆どは知性で祈るものであり、聖霊とはあまり関係がありません。しかし、パウロはここで、霊と彼の知性で、両方の方法で祈ったと言いました。聖霊に満たされる前、私は御霊と共に祈る事と御霊による祈りについて、様々な聖句を見て来ました。私は自分の教団の様々な牧師に尋ねました。「御霊と共に祈る事と、御霊によって祈るとはどういう意味ですか?」何人かの牧師は言いました。「それは、もう少し『気合を入れて』 祈るという事だ。」


時々、私たちは教会の賛美歌を歌っていました。賛美リーダーが言います。「さあ、次の詩を霊と理解をもって歌いましょう」しかし、彼が意味したのは「次の節はもう少し元気に歌おう。もう少し『気合を入れて』歌おう」でした。しかし、1コリント14のこの一節が話しているのは、そのような事ではありません。もしあなたの霊が英語で祈っていたら、あなたの知性はあなたの言った事を理解するでしょう。しかし、パウロは、「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈ります」と言っています(14節)。パウロはこの事について、コリントの人々に、そして、エペソの信者にも書きました。両方の手紙で彼は、「御霊によって」という表現を使用しています。また、1コリント 14:15では、「御霊と共に」という表現も使用しています。


パウロがこれらの表現を使用している所を見ると、彼が異言で祈る事について言及している事が分かります。もちろん、預言の霊によって「御霊によって」祈る事もできます。預言の霊による祈りは、あなたが異言で祈る時に聖霊があなたを捕らえ、霊感によってあなたの知っている言語で祈り始める時に起こります。


時々、預言の霊によって、私の理解できる英語で一時間以上祈った事もあります。私は自分が何を言っているのか分かっていましたが、私の知性はそれとは何の関係もありませんでした。言葉が私の霊から出ていたからです。


この種の祈りの例は、詩篇で見る事ができます。ダビデ、モーセ、その他の詩編著者の祈りは、神の御霊によって与えられました。古い契約の下では、誰も異言を話しませんでした。既に言ったように、異言と異言の解釈は、新しい契約だけのものです。しかし、これらの人々は、御霊によって、又は、預言の霊によって祈りました。預言の霊によって祈る時、あなたは自分の舌を自分の霊に結びつけ、聖霊の霊感によって自分の言語で祈りますが、あなたの知性はそれとは何の関係もありません。あなたの祈りは、あなたが自分で考えているものではありません。代わりに、それらは完全に聖霊に霊感を与えられて、あなたの霊から出てきます。これは、自分の言っている事を理解していても、頭で祈ったり、自分の理解から祈ったりする事ではありません。むしろ、これは御霊によって祈る別の方法です。


エペソ 6:18「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。その為に、目を覚ましていて、全ての聖徒の為に、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」


私たちが異言で祈る時、私たちは自分自身を築き上げる(成長を促す)だけでなく、全ての聖徒の為に祈るという神の命令を果たす事ができます。当然の事ながら、私たちは全ての聖徒を知っているわけではないので、私たちの知性で全ての聖徒の為に祈る事はできません。しかし神は、私たちの理解とは別に、超自然的なコミュニケーションの手段を提供し、まさにそれを可能にしました。


ここで少し立ち止まって、神が私たちの為にして下さった驚くべき事について考えてみて下さい。神は私たちの霊が私たちの知性から離れて祈る事ができる方法を私たちに提供してくれました。


1コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが...」


異言を話すというこの賜物を通して、私たちの霊は今、霊的存在である神と直接コミュニケーションを取る事ができます。一度御霊に満たされると、初めてあなた自身の霊が神と直接話す事ができるのです。それ以前は、知性で神と話していたのですが、異言を話す事は霊と霊のコミュニケーション手段です。


イエスがサマリアの井戸で女に言われた事を覚えているでしょうか(ヨハネ4:4-26)。女はイエスに言いました。「私たちの先祖はこの山で神を礼拝しましたが、ユダヤ人たちはエルサレムで神を礼拝しなければならないと言っています。それについてどう思いますか?」イエスはそれらの見解のどちらも正しいとは言いませんでした。イエスは答えました。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)。サマリアの山で神を礼拝する必要はありませんし、エルサレムで神を礼拝する必要もありません。神は霊的な存在であり、私たちはどこでも神を礼拝する事ができます!しかしイエスは、神は霊である為、霊と真理をもって礼拝しなければならない時が来たと言われました。これは、異言で話す事の価値を示すもう一つの指標です。あなたが異言で祈る時、あなたの霊は、霊である神と直接接触しています。思い出して下さい。パウロは、あなたが異言で祈っている時、あなたの霊が祈っていると言いました(1コリント14:14)。あなたは神聖で超自然的な方法で神と直接話しているのです。


私は自分自身の経験から、知性だけで祈る事と霊で祈る事には大きな違いがある事を知っています。知性の祈りは、私が幼い頃から祈っていたやり方でした。8歳の時、私は祖父の納屋に行き、神と二人きりになり、一時間も祈ったものでした。主をどれほど愛しているか、主がどれほど素晴らしいかを英語で伝えようと懸命に努力した時の事を覚えています。でも、その祈りの場に二時間は留まっていたとしても、内心では満足してはいない気がしていました。どうすれば満足できるのかと思いました。私の霊は、自分自身を表現する機会が本当にありませんでした。しかし、聖霊に満たされ、異言で話した後、私の霊がついに神と通信できるようになったので、不満を持って祈りの場所を離れる事は決してないと気付き始めたのです!


実は、御霊に満たされる前、私がどれほど主を愛しているかを主に伝えようと祈ろうとした時、つまり、私の語彙の全ての言葉を使っていた時、私の唇と舌はある種の感覚を持っているように思った時がありました。ある日、もっと祈ろうと努力した時、舌が部分的に麻痺したように感じた事がありました。私は怖くなったので、起きて立ち去りました。それからは、舌が再びそのように感じるほど長く祈る事はありませんでした。何かを感じ始めるとすぐに祈るのをやめて起き上がり、その場を立ち去りました。しばらくすると、私の舌は再び正常な感覚に戻ったのでした。


祖父の納屋での祈りの時間に何が起こっているのかを理解したのは、御霊に満たされてからの事でした。聖霊はその時にも、私に言葉を与えようとしていましたが、私は知りませんでした。聖書にあるペンテコステの経験について誰も教えてくれませんでした。私の周りには、その祈りの時間に私に起こった事について話す人が誰もいなかったので、私は聖霊に委ねませんでした。私は起き上がってその場を飛び出したのでした。後で聖霊に満たされて異言で話した時、もし当時聖霊に委ねていたら、ずっと前に異言で話せたかもしれない事に気づきました。聖霊はいつも私の中にいて、私を満たして溢れさせようとしていたのです!私は自分に言い聞かせました。「理解さえしていれば、ずっとこうして祈っていたのに!私は異言を通してずっと自分自身を築き上げていた可能性があった。私は自分自身の成長を促す事ができていたかもしれない、超自然的に神と話していたかもしれなかったのです。」しかし、ありがたい事に、私はそれ以来ずっと異言で祈るようにしています。


知性を持って祈る事しかできなかった頃、私はあらゆる形容詞を使って主を賛美し、主がどれほど素晴らしいかを伝えようとしていました。しかし、どういうわけか、心の奥底で、不満を感じていたのです。私はその事について、時々次のように説明します。私は米国中の集会に行きました。その間、私は年間数千マイルを移動しました。旅行中、見知らぬ町にいると、どこで食事をすればいいのか分からない事が何度もありました。でも、昼過ぎに車を運転してお腹がすいたら、美味しそうなレストランに落ち着いて、そこで食事をしたものです。さて、誰でもそう思うでしょうが、私は美味しい食事の為にお金を払う事には問題がありませんでした。しかし、まずいものを食べた後で、苦労して稼いだお金をレジに置く事が嫌いでした。それは、何かだまされた気分でした。


この事は、祖父の納屋の祈りの場所を出るたびに起こった事と非常によく似ています。私の霊は、「だまされた!」と叫んでいたのです。しかし、その時私は、聖霊に委ねる方法をまだ知りませんでした。自分の霊が祈る事ができるとは知らなかったので、自分の知性を最大限に発揮して神に話しかけました。しかし、私が聖霊に満たされ、異言で話し始めて以来、私の霊が満たされずにその祈りの場を離れた事は一度もありません。何故かと言うと、私の霊が聖霊の霊感の下で言いたい事を言えるようになったからです。



両方の祈り


教会全体がいかに祈りに欠け、遅れを取っているかがすぐに分かります。多くのクリスチャンは、知性の祈りだけで何とかやってこようとして来たので、彼らが霊的な進歩を遂げていないのも不思議ではありません。神がご自分の子供たちに霊で祈り、そして、知性で祈る能力を与えてくれました。しかし彼らは、一つの祈りだけでやり遂げようとしているのです!一つの方法で祈る事は、片輪がパンクした状態で自転車に乗ろうとするようなものです。そうすれば、遠くまで行く事はできません。この例えで私が言いたいのは、知性の祈りだけでは、達成できないものがあるという事です。異言による祈りは、私たちを霊的に前進させ、より良い結果をもたらします。教会の大多数が、異言の祈りは使徒と共に死んだと決めつけたので、信者は知性の祈りでしか祈れず、霊的に前進して行く事ができなくなりました。その為、殆どのクリスチャンは知性による祈りだけで、霊的歩みを始めてしまったのです。その結果、それらのクリスチャンは何年も同じ場所に留まり、大きな進歩を遂げる事はありませんでした。彼らは前に進んでいると思っているかもしれませんが、神が望んでおられる目的地と比較すると、全く到達できていません!ですから、パウロは次のように言ったのです。


1コリント 14:15「それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう...」


私たちの人生で神のベストを実現するには、二つの祈りが必要です。多くの人々は、この問題について御言葉が何と言っているかを教えられていません。異言で話す事は、今日では信者の為のものではないと、未だに言う人もいます。しかし、当時の信者が霊で神に祈る必要があったとすれば、私たちもそうする必要があるのは当然の事です。私たちは知性で祈る必要がありますが、それだけでは上手く行かないのです。本来の祈り方が分からないという単純な理由からです。


ローマ 8:26「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。」


一方、霊で祈る事についても同じ事が言えます。異言で祈るだけではやっていけません。周りの人があなたの祈りに一致するには、彼らの理解できる言語で祈る必要があります。従って、両方の種類の祈りが必要です。しかし、あなたがまだ聖霊に満たされて異言で祈った事がなければ、ぜひ積極的にそれを信じて下さい。そして、神の超自然的な手段によって御父と意思疎通する方法を学んで下さい。


11 霊的成長の手段 へ続く

2023年3月2日木曜日

11 霊的成長の手段

パウロは、コリントの教会や、彼が説教した他の教会への手紙の中で、異言で祈るよう勧めました。パウロは、このように祈る事が重要である理由は、異言が霊的な成長の為の神聖な手段だと言っています。


1コリント 14:4「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」


パウロは、コリントの信者たちに、霊的な成長の手段として、個人的な礼拝や祈りの生活の中で、異言で話す事を続けるように勧めていたのです。ギリシャの学者によると、「成長」というギリシャ語の意味は「充電」に近いという事です。「充電」という言葉は、バッテリーに関連してよく使用されます。従って、1コリント 14:4を次のように言い換える事ができます。「異言で話す者は、自分自身を築き上げ、電池のように自分自身を充電します。」つまり、私たちが異言で祈る時、私たちは聖霊の力によって私たち自身を充電しているのです!


この「成長」という言葉は、霊的な事柄に関して、我々が熟知し、真理の言葉を体験して行くという意味で、超自然的な手段についての事です。もちろん、人を霊的に成長させるもの、築き上げるものは、精神的、肉体的に対しても良い助けになります。パウロは、異言で話す事が信者を神の力で充電し、強めるという事実について理解していました。


1コリント 14:18「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」


パウロは、「私は、あなた方よりも異言を話す事によって、自分自身を築き上げ、電池のように充電しているのだ!」と言ったのです。


ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」


あなたが霊的な歩みの内から出てしまうと、バッテリーが切れた状態になります。この聖句はそれを充電する方法を教えてくれます。聖霊によって祈るのです。「自分自身を築き上げる」という言葉に注目して下さい。異言は、あなたの為に働く霊的な成長の手段なのです!ユダは「聖霊によって祈れば信仰が得られる」とは言っていない事に注意して下さい。信仰は聞く事によってもたらされ、聞く事はキリストについての言葉によってもたらされます(ローマ10:17)。しかし、異言で祈る事は、あなたの最も聖い信仰の上に築き上げます。ですから、異言で話す事は、主にあなた自身の個人的、霊的な成長の為です。それはあなたを築き上げ、あなたを強化するので、あなたに益をもたらします。


スミス・ウィグルスワースは英国の説教者で、あらゆる所で聖霊の素晴らしい働きを経験しました。ウィグルワースのミニストリーでは驚くべき事が起こりました。例えば、イギリスの聖霊派の年配の牧師は、この偉大な神の人の働きの下で、多くの人が死からよみがえった事を私に語った事があります。ウィグルスワースは、わずか六歳の時に、かぶを引く仕事に就きました。その後、児童労働法が制定される前の時代に、彼は工場で働いていました。彼は大人になってから、誰かが彼に自分の名前を署名する方法を教わったのでした!ウィグルワースは、御霊に満たされて異言を話すまで、人生で一度も本を読んだ事がありませんでした。それから聖霊は彼に聖書を読むように教えました。スタンリー・ハワード・フロッドシャムは、ウィグルスワースの伝記の中で次のように書いています。「異言の賜物は彼にとってかけがえのない宝物であり、彼は毎日何度も神への愛と敬愛の念に駆られました。地上の汚れた言語ではなく、神が恵み深く与えた聖霊によって与えられた愛の言語でした。彼は、この異言で話す事が常に霊的な成長の源である事を発見しました。彼は、「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい」という御言葉を実践して歩みました。


自分自身が成長されていない限り、人々を成長させる事はできません。しかし、霊的に築き上げられたら、他の人を助ける事ができます。ウィグルスワースのような人々の成功を体験したいと思っている人は多くいますが、彼らは神の偉大な人々が払った代償を払いとは思っていません。彼らは手っ取り早い、ファーストフードのような解決を求めています。でも神様は「即席のもの」を扱ってはいません!神はいつもと同じように、神の言葉で述べた真実に従って働きます。それらの真理の一つは、1コリント 14:4とユダ 1:20に見られます。神は私たちに、霊的な成長の為の神聖で超自然的な手段を与えて下さいました。聖霊によって毎日多く祈る事によって、最も聖なる信仰の上に自分自身を築き上げるのは、私たち次第です。


自身を充電する


「成長」という言葉には「バッテリーのように自分自身を充電する」という意味があると初めて読んだ時、私は以前、自分がしている事をよく理解せずに祈っていた事に気づきました。そうする事が正しいと分かっていただけでした。しかし、振り返ってみると、最も素晴らしい癒し、最も超自然的な経済的奇跡、または悪魔を追い出す最も素晴らしい経験の前には、私はいつも時間を取って異言で祈るように導かれている感じがしました。主はあなたの前に何があるかを知っています。あなたはそこに何があるか分かりませんが、主は知っているのです。


私は、1950年3月に、妻と私がミズーリ州にある小さな教会の牧師だった時の事を覚えています。妻と私はその日、日曜日の礼拝の準備をする事以外、何も計画していませんでした。いつものように、妻がベッドを直して寝室の掃除をしている間、私は別の部屋の掃除をしていました。


その日の朝、いつもの雑用をしていると、どういうわけか、異言で話す事から逃れる事ができませんでした。大声では祈りませんでしたが、立って掃除をしながら、異言で静かに祈っていました。それから私は隣の教会に行って、全てが整っている事を確認しました。その頃、人々はボランティアで教会を掃除していました。時々、彼らはきちんと仕事をしなかったので、私は全てをチェックし、きちんと掃除する為に行きました。そうしている間、私は異言で祈り続けました。教会が日曜礼拝の準備ができている事に満足した後、私は教会にさらに1時間留まりました。私は異言で祈りながら、教会の通路を行ったり来たりしました。私は祭壇にひざまずき、異言で祈りました。私は異言で祈る時間を割く為に、意図的にいつもより長く教会に留まりました。それから郵便局に郵便物を取りに行きました。暖かい日だったので、静かに異言で祈りながら、公園を通って郵便局まで歩く事にしました。郵便局で荷物を取ろうと待っている間もずっと小声で異言で祈り続けました。それが異言で祈る事の素晴らしい点です。他の人の周りにいれば、大声で祈る必要は全くありません。どんなに静かに主に話しかけても、主はあなたの言う事を聞いて下さいます。私は郵便物を受け取って、それから牧師館に戻るまでもずっと、私は異言で祈り続けました。朝の9時から午後2時まで、私は異言で祈っていました。私はしなければならない事をしながら祈っていました。異言で祈れば祈るほど、何か強いものを内に感じました。当時、私は異言の目的についてよく知りませんでしたが、自分自身を築き上げている事を感じました。私は霊的なバッテリーを充電していたのです。私は自分に言い聞かせました。「明日の礼拝に向けて、神様が準備を整えて下さっているに違いない。日曜日は本当に素晴らしい集会になるだろう。」しかし、その日の午後3時30分頃、妻と私には予期せぬ訪問者がありました。


ある女性が妹を家に連れて来ました。この二人には、もう一人の女性も同行していました。この姉妹は近くの精神病院の受刑者でした。彼女は独房に3年半も監禁されていましたが、それは彼女が自殺しようとした為であり、彼女は自分自身や他の人にとって危険であると考えられていたのです。この可哀想な女性は、3年以上の間、独房に閉じ込められていました。彼女の健康状態が悪化するまでは、運動も日光もありませんでした。その為、機関の当局は彼女の母親と父親に手紙を書きました。「あなたの娘さんが数週間の一時、帰宅するのは良い事だと思います。彼女は、もはや精神的に不安定ではありませんが、依然として危険で常に施設でのケアが必要です。しかし、私たちは助けが不足しています。日光と新鮮な空気の為に、彼女を外に連れ出すのに必要なスタッフがいません。数週間、彼女をあなたの家に連れて行ってくれませんか?彼女をよく見て下さい。ただし、公園に行って下さい。彼女を一日中日差しの中に置かないで下さい。環境の変化によって食欲が改善されなければ、彼女は長く生きられないので、彼女と一緒に歩く為に最善を尽くし、彼女に運動をさせて下さい。」


それで、この女性は施設に行き、その妹を迎えに行き、家に連れて帰りました。数日後、その女性は妹を私たちの牧師館に連れて来ました。私は今まで悪霊に強く影響された人に対処した事がありませんでした。


私のミニストリーで人々は癒されましたが、私はこの種の状況にどう対処したらよいか分かりませんでした。もちろん、体の病気になるのと同じように、精神の病気になる可能性がある事は知っていました。その場合、私はその人が癒されるように祈って油を注ぐ事を知っていました。しかし一方で、悪霊が人の思考をつかむ事があるという事も知っていました。その場合、その悪霊を追い出さなければなりません。私は、その人を導く為に神の御霊に頼らなければならないと思いました。その日の午後、二人の女性と彼女の友人が私たちの所に来て、私たちは彼ら全員を招待しました。その婦人は妹に言いました。


「スミス夫妻です。これが私があなたに話した牧師です。」彼女が「スミス夫妻です...」と言った直後、正気でない妹の方は聖句を引用し始めました。蛇口から水が出るのと同じように、この女性の口から御言葉の全文が流れ出ました!私はどうすればいいのか分かりませんでした。そのような人の周りでは、どのように振る舞うべきだったのでしょう?それから私は口を開いて、間違った事を言ってしまいました。(口を開いて、間違った事を言った事のない人なら、最初に私に石を投げても結構です!)私は言いました。「そのように聖書を知っている人は、神を本当に知っているに違いありません。」女性は直ぐに手を伸ばして髪を引っ張り始めました。彼女の目は燃え、彼女が叫びながら言いました。「いや、いや、いや!私は神を知る事ができません。いいえ、いいえ。私は神を知る事ができません。赦しがたい罪を犯してしまったからです!」もう一人の女性は妹の肩をつかみ、揺さぶり、最後に顔を平手打ちしました。後でその女性は言いました。「私は嫌いでしたが、妹をその発作から解放する為に、医者が私にそうするように言ったのです。」


その後、その女性は落ち着き、居間の椅子に座らせる事ができました。そこに彼女は彫像のように座り、まばたきもせず、まっ直ぐ前を見つめて動く事はありませんでした。私たちは何か助けが必要だと気づいたので、私は彼女の妹に言いました。「あなたはここにいて下さい。妻と私はメアリー姉妹を連れてきます。」メアリー姉妹は私たちの教会の女性で、神と共に歩み、物事を変える方法を知っていました。それができる人は多くありませんが、彼女はできる人でした。妻と私はメアリー姉妹の家に行き、私は妻に言いました。「メアリー姉妹に、何故彼女が必要なのかを話して下さい。私は車の中で待っています。」そこに座って待っている間、私は新約聖書を取り出して少し読み、それから私は祈りました。「主よ、あなたに頼るしかありません。」当時の私たちは、悪霊に対する方法をあまり理解していなかったので、神に頼らなければならないと思っていました。しかし、神に感謝します。私たちの内に住んでいる聖霊は、私たちに来るべき事への備えをさせて下さいます。神がこれを行う一つの手段は、私たちが異言で祈る時です!それで私は主に祈りました。「この女性がただ癒しを必要としているだけなら、私は彼女に油を注ぎ、彼女に手を置いて、あなたが彼女を癒してくれる事を期待する事ができます。しかし、ここに悪霊が関わっているのなら、あなたは私がそれに対処するのを助けて下さらなければなりません。あなたが示して下さらなければ、どうしたらいいのか分かりません。」



妻はメアリー姉妹と一緒に車に戻り、私たち3人は牧師館に戻りました。正気を失った女は、居間の中央にあるまっ直ぐな椅子に座ったままでした。私の妻と私が去ってから、彼女は1インチも動きませんでした。彼女は彫像のようにそこに座って、まっ直ぐ前を見つめていました。私の妻、メアリー姉妹、正気でない女性の妹、そして二人の女性に付き添っていたもう一人の女性は皆、ひざまずきました。私は部屋の隅にひざまずき、皆で祈り始めました。私たちがかなりの時間祈った後、神の御霊が私に言いました。「彼女の前に立って、『出て行きなさい。汚れた霊よ。イエスの御名によって!』と言いなさい。」私は人生でそのような事をした事がありませんでした。私はそれについて、しばらく主と議論しましたが、最終的には従いました。私はその女性に近づき、彼女の前に立って言いました。「出てきなさい。汚れた霊よ。イエスの御名によって!」何も起こらなかったようでした。その女性は、以前と同じように精神的におかしいように見え、そのように行動していました。


しかし、私がそれらの言葉を言った時、神の力が私に来て、信仰の言葉を語った事を知っていました。月曜日の午後、精神的に不安定な女性と彼女の妹に同行していた別の女性が私たちの家に来て、動揺して言いました。「スミス兄妹、また祈って下さい!」私は「どうしてですか?」と尋ねました。「あの女性は、最初に正気を失った時と同じように、また発作を起こしています!」私は別の事を言おうと口を開いたのですが、驚いた事に、代わりに次の言葉が口から出ました。「それがどうかしましたか?イエスが悪霊に若者から離れるように言った時に何が起こったのか、聖書で読んだ事がありませんか?聖書は、霊が去る前に少年を投げ倒し、引きつけさせて出て行ったと言っています。」(マルコ 9:17-29)それから私は宣言しました。「それが彼女の最後の攻撃になるでしょう!私は土曜の午後、その悪霊を去らせる信仰の命令をしました。そして悪霊は、それに従わなければならないのです!」そして、まさにそれが起こりました!精神的におかしかった女性はその日、完全に解放されました。医師たちは全ての検査を行い、彼女の健康状態が良好である事を確認し、彼女を家に帰したのです!15年後、妻と私はある町で伝道していました。そこには、以前は正気ではなかったこの女性の姉妹が住んでいたので、一緒に昼食を食べる為に出かけました。私たちは、彼女の姉が過去15年間どのように暮らしてきたかを尋ねました。彼女は言いました。「妹は元気です!彼女の知性は完全に正常で、この15年間ずっとそうです。彼女は会社で働き、教会で日曜学校のクラスを教えており、神の為に燃えています!」


この話で言いたかった事は、聖霊はいつもより多めに異言で祈るよう私を促し、この精神疾患の女性との出会いの準備をさせてくれたという事です。当時の私には何が起こっているのか本当に理解できませんでした。しかし今振り返ってみると、御霊が来るべき事の為に私を準備していた事に気付きました。私が知らなかったとしても、聖霊は何が起こるかを知っていました。


御霊は、私が異言で祈る事が、私の成長を助けになる事を知っておられました!先に述べたように、神との歩みの中で私に起こった最大の出来事、最大の癒しの奇跡、大きな経済的な突破は、私が長い間異言で祈った後にもたらされました。私は御霊によって祈る特権を神に感謝します。私たちの最も聖い信仰の上に私たち自身を築き上げる、この超自然的な手段を神に感謝します!そうです。私たちは聖書を読む事によって築き上げられます。異言の祈りによっても助けられます。これは神が私たちの成長を促す為に与えて下さった方法の一つなのです!


内にある力を出す


異言の祈りは、私たちの魂と知性に対する成長にも効果的です。使徒パウロは次の聖書箇所で、御霊によって神の力によって強められる事について書いています。


エペソ 3:14-16「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にある全ての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなた方を強めて下さいますように。」


パウロは、霊に満ちた信者に向けて手紙を書いている事に注目して下さい。エペソにいた信者たちについて、使徒行伝19章で既に読んだ事を思い出して下さい。パウロは彼らに言いました。「信じた時に聖霊を受けましたか?」(使徒 19:2)。6節では、「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした」とあります。ですから、エペソのこれらの信者たちは、新しく生まれ、イエスの罪の赦しと聖霊のバプテスマも受けていました。それにも関わらず、パウロはエペソ 3:16で彼らの為に、神の霊によって強められるようにと祈ったのです。あなたが新生して聖霊のバプテスマを受けたからといっても、あなたが「頂点に辿り着いた」わけではなく、それ以上神との歩みに他に何も必要ないという事ではありません!あなたはまだ、神の霊と共に歩み、御霊によって励まされて、与えられた力を発揮する事を学ぶ必要があります。御言葉を知り、聖句を引用し、神の約束に沿って告白する必要があるのは事実です。これらは全て重要です。しかし、あなたはまた、神の霊の中の深みに入って、神の力にあって歩む必要があります。その為の一つの方法は、異言で祈る事です。敵はあなたの信仰とあなたの人生に対して攻撃する事を決して止めないので、神の力の出し方を学習する必要があるのです。


あなたが聖霊と共に歩む時、与えられた力を発揮して敵を撃退する事ができます!私たちの内におられる方は、この世にいる者よりも偉大(1ヨハネ 4:4)なのですが、私たちが持っている強力な内なる強さが発揮されるには、御霊と共に歩む事、霊的に成長して行く事が必要です。その為には、異言で多く祈る事が最も効果的なのです!


12 神の御心に沿って祈る へ続く

2023年3月1日水曜日

12 神の御心に沿って祈る

異言で祈るとは、神の完全な御心に沿って祈る事です。聖霊は神の御心が何であるかを知っているだけでなく、私たちを御言葉に導きます。パウロは、私たちが神の完全な御心に沿って祈るのを助ける為に、私たちの生活における聖霊のこの役割について語っています。


ローマ 8:26-27「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


26節の「弱い私たちを助ける」という言葉に注目して下さい。多くの人は、この「弱さ」という言葉の意味を、いつも肉体的な患いや病気を意味していると誤解しています。しかし、この場合の「弱さ」は、「私たちが、何をどう祈ったらよいか分からない」という弱さを意味します。私たちの祈りの「弱点」は、何について祈るべきかを常に知っているとは限らない事です!信仰によって、悪霊に命じて追い出したり、問題に命じたりして山を動かす事は、私たちの基本の祈りとして知っているべきです。しかし、どうやって祈っていいか分からない時、知っている限りの祈りを終えたら、聖霊の助けを借りて祈るというオプションを思い出すべきです。


私たちが祈っている人々が本当に必要なものは、何かを別な事であるかもしれません。あなたは、自分の為に祈る事さえ、その全てを知りません。もちろん、お腹がすいたら、何か食べられるように祈る事は知っています。


家賃の支払いが遅れている場合は、財政の為に祈る事を知っています。しかし、あなたは未来を知りません。又、問題の原因が思いもよらない所にある場合もあります。そして、神があなたに示さない限り、あなたは霊の領域を見る事ができず、あなたに立ち向かおうとしている悪霊に対して効果的に祈る事もできません。


エペソ 6:12 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。」


 私たちに対して舞台裏で働こうとしている邪悪な勢力がいます。ですから、特に悪霊の策略に対して効果的である為には、異言の祈りで対処しなければなりません。


私自身の体験から例を挙げましょう。ある時、私はフロリダで集会を開いていました。妻と私は、その頃の経済情勢の為に非常に心配していました。集会を開いて祈っていた人々の教会で、私はひざまずいて祈っていた事を覚えています。「主よ、経済の情勢が悪化していて心配です。神の霊よ、どう祈ったらいいのか分からないので助けて下さい。」それから私はそれを異言で祈り始めました。間もなく神の御霊が私の心に語りかけ、「気にしないで良いのです。すぐに情勢が良い方向に向かいます。全てが上手く行くでしょう。」そして、全てが上手く行ったのでした。神を賛美します!私たちは、「聖霊様、私はこの状況に関してどう祈るべきか分かりませんが、あなたはご存じです。ですから、私が祈るのを助けて下さい」と言う事ができます。そして、御霊はまさにそれを忠実にして下さいます!


聖霊は私たちを助ける


ローマ 8:26-27「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


私がミニストリーを初めて間もない頃、ジョンソン氏という、ギリシャ語に詳しい年配の方がいました。私は彼の説教を何度も聞いて学びました。彼はこの聖句について、次のようにコメントしていました。「ギリシャ語は文字通り、聖霊は明確な言葉では発する事のできないうめき声で、私たちの為に執り成しをして下さいます。明確な言葉とは、私たちの通常の言葉を指します。」ジョンソン氏は、これらの「うめき声」には、異言で祈る事も含まれていると指摘しました。パウロは祈りの中で「明瞭には言い表せない言葉やうめき声」について語っています。ジョンソン氏は、うめき声は、聖霊があなたから離れて行うものではない事を強調しました。むしろ、聖霊はあなたのうめきの祈りを助けます。ある聖書では、1コリント 14:14を次のように訳しています。「私が異言で祈れば、私の霊は、私の中におられる聖霊によって祈ります...」


繰り返しますが、あなたが異言で祈る時、それはあなたの内なる聖霊によって、あなたの霊が祈っているのです。内なる聖霊があなたに言葉を与え、あなたはそれをあなたの霊から発しているのです。御霊は言葉を与え、あなたは異言で祈ります。この方法によって、聖霊はあなたが神の完全な御心に従って祈るのを助けます。


ローマ 8:27 「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


うめきながら御霊による祈りも、聖霊があなたから離れて行う事はありません。それらのうめき声は、あなたの奥深くから来る聖霊によって促されます。しかし、あなたが口を開いて祈る時、あなたはそれらがあなたの唇から出るのを許しているのです。何年も前、私たちが開催していたセミナーで、私が礼拝の終わりに壇を降りた時、一人の女性が話しかけてきました。彼女は、最近聖霊に満たされた教団の信徒でした。彼女は言いました。「ケニー兄弟、ローマ 8:26-27に、聖霊が私の為に祈って下さると書かれている事を知って以来、私はもうあまり祈る事はありません。聖霊が私の為に祈っているなら、きちんと仕事を成し遂げる方法を知っているので、私が祈る必要はありません。」この女性のように、ローマ8章の1つの聖句を基に、教義を作り上げ、パウロが意味していない事を主張する人もいます。しかし、聖書は常に私たちに祈るよう勧めているので、この発言が非聖書的である事はすぐに分かります。そして、ローマ 8:26は、聖霊が私たちの為に祈って下さるとは言っていません。神の完全な御心に従って、うめきを通して私たちの祈りを助けて下さるのです。


ローマ 8:26 「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。」


パウロは、聖霊が私たちが祈るのを助けて下さると言い、その一つの方法を示しました。


それは、うめきを通してです! 神の御霊はあなたに祈るように促しますが、あなたはそれに応えなければなりません。御霊はあなたを強制的に祈らせません。御霊が祈りの責任を負うのではなく、あなたに祈る責任があるのです。聖霊は、あなたのとりなし手、祈りの助け手として、あなたのうめきを通して、とりなしして下さるのです。この御霊の働きにあなが協力して、この種の御霊による祈りをするかどうかは、あなた次第なのです!


祈りの重荷


聖霊が私たちの祈りの助け主である事について、次の点を説明しましょう。その事は、聖霊に満たされてペンテコステ派のグループにやって来た、ある教団の牧師によって語られました。私と彼は二人とも、幾つかの異なる聖会でゲストでした。ある日、この牧師は私に言いました。「ケニー兄弟、あなたが異言を教えている時に、私が以前に理解していなかったものが分かりました。妻と私はまだこの御霊に満ちた人生を歩んだばかりですが、私たち二人が聖霊に満たされて異言で話した直後、私たちの教会に来る、3人の幼い子供の若い母親が心臓手術が必要になりました。」そのような重大な手術は、今日ほど成功してはいませんでした。この手術の過程において、何らかの形で、この若い女性の心臓は停止しました。医師たちはやっと彼女の心臓を再び動かしたのですが、女性は意識不明のままでした。その牧師は私に話しました。「医師は、この女性の脳は酸素を十分に得ていなかったと私たちに告げました。意識が戻ったとしても、ただの植物人間で何も分からないだろう。彼女を死なせた方がいいだろうと彼らは言いました。」


その夜、牧師はうめき声を聞いて目覚めました。彼がベッドの反対側に手を伸ばすと、妻がそこにいない事に気づきました。居間から聞こえるのは、彼女のうめき声だとやっと分かりました。最初、牧師は妻が病気だと思いました。彼はベッドから起き上がり、居間に向かいました。彼は尋ねました。「大丈夫?病気なの?」彼女は言いました。「いいえ。あの若い母親と彼女の3人の子供たちの為に祈るのがとても重く、重荷になっています。彼女は死ぬにはまだ若過ぎます!その子供たちは母親を必要としています。」牧師は続けて話しました。「妻ができる事は、うめき声​​を上げて異言で祈る事だけでした。私には分かりませんでした。そのように誰かが祈るのを見た事がありませんでした。私は聖霊に満たされ、異言を話しましたが、妻がその夜の祈りの中で体験した事は違っていました。御霊に満たされた時、私は喜びを感じました。しかし、この夜、妻は祈るという強い重荷を霊に感じていたので、祈りの中で深くうめき声を上げていました。だから、私は何が起こっているのか分からないので、彼女を放っておく事にしました。ケニー兄弟、今日の集会であなたが教えてくれるまで、その夜、妻に何が起こったのか本当に理解できませんでした。しかし妻は、そのように1時間半ほど祈り続け、ようやく彼女は立ち上がって床につきました。彼女は私に言いました。『負担がなくなりました。解放されました。』


翌朝、私たちがお見舞いに行くと、その若い女性はベッドで起き上がって微笑み、完全に治っていました!数年経ちましたが、その女性はまだ元気で、家族と一緒に教会に通っています。」聖霊は、この牧師の妻がその夜、効果的に祈るのを助けました。彼女はその女性の為に、どうやって祈ったら良いかを知りませんでした。しかし、聖霊が助けに来て、彼女が神の御心に沿った祈りをやり遂げるのを助けてくれたのです!うめき声による御霊の祈りの中で、彼女は神の完全な御心に沿って祈ったのです。聖霊は私たちのとりなし手です。御霊は私たちの生活のあらゆる面で私たちを助けて下さいますが、特に、祈りにおいて私たちを助けて下さいます。


私たちの助け主


イエスはあなたを助ける為に聖霊を送って下さると約束されました。「助け主」とは、あなたをサポートしてくれるお方です!


ヨハネ 14:16 「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。」


私たちの生活における聖霊の役割を定義するギリシャ語の「パラクレート」は、七つの意味を示します。すなわち、聖霊が私たちの「慰め主、カウンセラー、助け主、仲介者、擁護者、力を与えるお方、そばにいるお方」として送られた事を意味するのです。聖霊はそれらの全てであり、私たちの中に住んでおられます!聖霊は、祈りの分野で私たちの「パラクレート」、助け主として送られました。それは、私たちが異言で祈る時、勝利に至るまで助けて下さるという事です。御霊は私たちの仕事をサポートをしてくれますが、私たちの為に仕事をして下さいません。聖書のどこにも、聖霊があなたから離れて、何かをして下さるとは書いていないのです。あなたの人生の全てにおいて、聖霊はあなたがそれをするのを助けて下さいます。聖霊が路上で誰かに会い、その人を救った事はありません。人が救われるのは、常に聖霊によって働いた人たちです。私たちとは関係なしに、聖霊が人を救って下さるなら、宣教師を伝道地に派遣する必要はありません。私たちはただ聖霊にお願いして、救われていない人々に福音を伝えてもらい、彼らを救ってもらうように働きかける事はできないのです。しかし、イエスは神の民に、全世界に出て、全ての被造物に福音を宣べ伝えるように言われました(マタイ 28:19)。


イエスは聖霊にそうするように言いませんでした。また、使徒言行録のどこにも、聖霊が路上で誰かに会い、人を癒したという記述がないのです。しかし、聖霊に満たされた信者が彼らを通して聖霊が働くようにさせ、彼らのミニストリーを通して、人々が癒された事は書かれてあります。また、聖霊がどこかへ行って、信者を聖霊で満たした箇所はありません。しかし、聖霊に満たされた人々が福音を伝え、彼らの働きによって聖霊が人々の上に望んだ箇所はあります。他の人が信者に手を置き、聖霊が彼らを満たした所を読む事ができます。御霊は神の霊的な法則に従って働きます。その法則を理解するなら、私たちは神と共に働く事ができるのです。それが聖書が私たちを共同相続人、またはキリストとの協力者と呼んでいるものです(ローマ 8:17)。私たちは神と共に働く者です。(2コリント 6:1)イエスは、私たちが彼と協力する方法を一つ教えて下さいました。


マルコ 16:20「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らと共に働き、御言葉を、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」


弟子たちは説教しに行きました。主は彼らと一緒に働き、それに伴うしるしで彼らの言った事を確かなものとしました。私たちは主と一緒に働きます、そして主は私たちと一緒に働いてくれます!これは、私たちの生活のあらゆる分野に当てはまります。特に祈りではそうです。


共に祈る


あるギリシャ語の学者は、「同様に御霊も私たちの弱さを助ける」の中の「助ける」という言葉は、三つのギリシャ語の語根に由来している事を指摘しています。


その三つは、「一緒に保持する」、「共に」、「対抗して」という意味を持ちます。ですから、この「助ける」は文字通り、「御霊も私たちと一緒に対抗する」と読む事ができます。それは、私たちが人生で遭遇する障害や妨げに対して、聖霊が祈りの中で私たちと一緒にいる事を意味します。それがローマ8章26節で言っている「助ける」という語の意味です。聖霊は私たちの弱さや祈りの欠点を助けて下さいます。ですから、もし私たちが祈らなければ、聖霊には私たちと一緒になって反対するものは何もないのです。御霊の役割は、私たちが障害物を動かすのを助ける事だからです。


利己心を取り除く


クリスチャンが時間をかけて自分の理解で祈る祈りを分析すれば、それらの祈りの大部分が利己的である事に気付くでしょう。多くの場合、彼らの祈りは、同じ祈りをして来た人のようです。「神よ、私と妻と子供たちを祝福して下さい。私たち四人です!」このように全く同じ言葉を言わないかもしれませんが、彼らの祈りの時間の殆どは、自分自身と愛する人たちだけに費やされているという事です。しかし、異言の祈りは御霊に導かれた祈りである為、私たちの祈りに利己心が入る可能性を排除します。知性で祈る時、あなたの祈りは非聖書的または利己的になる事があります。


神の完全な御心ではない祈りの結果がもたらした例を、聖書から見てみましょう。それは、1サムエル記8章にあります。神はイスラエル人が周囲の国々のように王を持つ事を望まれませんでした。神は彼らの王になりたいと思っていましたが、イスラエルの子供たちは他の全ての国と同じようになりたいと思っていました。


そして彼らは、自分たちの王をしつこく求め続けたのです。神は、「では、あなた方が王を持つ事を許可する」と言われました。しかし、その時点から、イスラエル人は再び神の完全な御心の中に留まる事はありませんでした。これは、多くの人が見逃している所です。神は何度も彼らに対処し、彼らの人生に対するご自身の御心が何であるかを彼らに伝えました。しかし、彼らは肉で望むものを祈り、神に求め続けました。ついに神は、「では、あなた方が望むものを持つがよい」とされたのです。


同様な例を、もう一つ挙げましょう。ある若い女性の事です。彼女はその過ちの為に、その後、大変な苦しみに会いました。彼女は、私がコロラド州で牧師をしていた時、私の教会に来ている方でした。彼女は美しい方で、伝道に燃えていた人でした。しかし、この若い女性は、未信者の男と付き合っていたのです。彼はクリスチャンであると主張しましたが、時々教会に行くだけで、信者でない事は明らかでした。彼女は、二人の関係が神の御心ではない事をずっと知っていたにも関わらず、ついにこの若い男と婚約しました。ある夜、私たちが教会で祈っていると、この若い女性が来て、二人の婚約の件について祈りました。神ははっきりと彼女に語りかけ、その男と結婚しないようにと告げました。その後、彼女は起き上がり、教会の人々に軽く挨拶を交わして言いました。「これで決まりました。私は彼と別れます。」彼女はこの男と別れる事になりました。しかし、結局、彼と復縁して結婚してしまいました。どうして彼女はそうしたのかというと、主が彼らの結婚を認めるまでずっと頑固に祈っていたからです。もっとも、神の御心に逆らっている事を知りながら、肉にあって歩んでいる人が神の声を正確に聞こえるという事はありません。従って、彼女が聞いた声が神からものだったとは限らないのです。


イスラエル人がしたように、またこの若い女性がしたように、あなたが神の御心を知っておきながら、尚も違う事を追い求め続けるなら、あなたは自分の好きな事をするでしょう。何故なら、あなたには自由意志があるからです。そして、神はあなたがやりたいままにさせます。それは、神がそうするように許可しているのではなく、あなたの自由意志を尊重しているという事です。私たちには、あらゆる事に対して自由が与えられていますが、その責任もあるのです。主の教えに従うか、それとも、悪い種を蒔いて悪いものを刈り取るかは全て私たちの選択によるのです。


神は本当にその女性に、その男性と結婚しないように言われたので、彼女はそれについてこれ以上祈るべきではありませんでした。彼女は神に従うべきだったのです。しかし、彼女は自分の願いを主張し続け、ついに、「あなたが望むようにしなさい」と言う声を聞いたのです。その後、その女性はこの男と結婚しましたが、あっという間に町で最も惨めな人になりました。私たちはしばらく彼女に会いませんでした。彼女はすぐそこに住んでいたのですが、教会にさえ来ませんでした。しかし、ある時彼女は、私たちの教会のある年配の姉妹に手紙を出しました。その女性は手紙の中で、「私は4か月間も家に閉じ込められていました。夫は私にとても嫉妬していて、仕事に行く時は私が家から出ないようにします。鍵も無いし、一人で外へ出かける勇気もありません。私は彼なしではどこにも行きけなくしてしまいました。」神がこの女性にその男性と結婚しないように言われたのも当然でした。手紙は、「私は自分の家に4か月間、囚人のようでした」と続きました。彼女はこの手紙を家からこっそりと出す方法をやっと見つけ、友人に郵送するように頼んだのでした。なんと悲惨な状況でしょうか。この若い女性は、「どうして神は私を守って下さらなかったのだろう?」と思ったかもしれません。神はいつも私たちを守って下さるお方です。しかし、私たちは神の守りの中に留まる必要があるのです。神はその女性にご自身の御心を教え、どうするべきかを示して、祝福を受けるように導こうとしました。


こういうわけで、私たちが祈る時、その事について、神の御心に沿っているかが分からないのなら、イエスの教えた事聖書から読んで、自分の中に入れなければなりません。イエスの教えの言葉があなたの中に留まっている事を確認して下さい。イエスが言ったように、「あなた方が私に留まり、私の言葉があなた方に留まっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それは叶えられます。」(ヨハネ 15:7)それから、毎日異言で祈る時間を持つようにして下さい。主の言葉があなたの中に留まり、異言で祈る事によってあなたの霊が築き上げられる時、あなたはあらゆる状況について神の御心に沿って祈っている事を知るでしょう!祈る時は、決して神の言葉から離れてはなりません。あなたの祈りの生活の中で、御言葉の強固な土台を築いて下さい。その土台がなければ、神の御心ではない欲望に駆られてしまうかもしれません。そして最終的には、神がイスラエルに答えたように、あなたにも「そのようにしなさい」と答えられるかもしれません。イスラエルが王を持つ事は神のベストの御心ではありませんでしたが、彼らは王を望んでいたので、王を得たのです。そしてその時点から、彼らは二度と神の完全な御心の中にいませんでした。神が彼らを祝福しなかったという意味ではありませんが、神が望んでいた全てで彼らを祝福する事はできませんでした。


私たちは神の完全な御心を求めるべきでしょう。だからこそ、私は異言で祈るという賜物に注目しています。異言の祈りの中では、利己的な祈りを可能な限り回避できるからです。私が異言で祈る時、私は肉によってではなく、霊によって御父と語り、神との交わりの中で祈れます。思考を一新する事で、神の完全な御心に沿って祈れます。又、御霊によって祈る事も、神の完全な御心に沿った祈りを可能にするのです。何故なら、御霊と共に祈る時、私たちは聖霊の助けを得るからです。


13 異言の目的 へ続く

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...