2022年9月26日月曜日

種々の異言 3

異言で話す事


聖霊が私たちの内に住むだけ事だけでなく、私たちの内から流れ出る為に聖霊が来られました。これが重要なポイントです。


使徒 2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなた方が目にし、耳にしている聖霊を注いで下さったのです。」


聖霊の中へ浸かる事(聖霊のバプテスマ)、異言の祈り、御霊の現れ(御霊の賜物)は、それぞれ成長の過程で経験するものです。それらは一度限りのイベントではなく、私たちの生活の一部であるべきです。それらは、神の子たちが正しい道を歩む中で経験する成長過程の一部です。


生まれ変わった時から、私たちは成熟に向かって進んでいるべきです。溢れるほど御霊に満たされる事(聖霊の中に深く浸かる事)は、その成熟の過程の一部です。又、思考の一新を通して、自身を罪から離れて清く保つ事も成長の一部です。


聖霊のバプテスマを待つ必要はない


ホーリネス運動では、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を第二の恵みと呼び、聖化の為には待つ必要があると教えていました。御父からの約束である御霊を受ける事は、御父の御心です。そして、約束の御霊の中に浸かる事も御父の御心です。従って、私たちがその体験をする為に、特別に待つ必要はありません。ちょうど、生まれ変わる為に何かを準備して待つ必要がないのと同じです。


重要なのは、単に御霊を求めて、聖霊のバプテスマを体験するだけです。実際、ただ心をオープンにして神を求めた人たちの中には、水の浸かり(水のバプテスマ)と同時に、聖霊に浸かってしまい、水から上がると異言を話し出した人たちもいました。


1916年までに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、「異言で話す事は、御霊のバプテスマを受ける事(聖霊の中へ浸かる事)の唯一の証拠である」という基準を確立しました。


確かに、聖霊の中へ十分深く浸かった場合、信者は異言を話します。浅く聖霊の中に浸かるなら、それは聖霊のバプテスマとは言えません。しかし、この教義の問題点は、異言を聖霊の中へ浸かる事の、唯一の証拠として扱っている所です。実際、聖霊派の信者の間では、聖霊の中へ浸かった時に異言を話した経験を持つ人は多いのですが、彼らは異言を日常で使う事はありません。彼らの多くは、過去に経験した出来事として異言を認識しているだけなのです。


キリストの証人となる為に与えられる神の力は、様々な形として現れているべきです。しかし、恵みの現れ(御霊の賜物)で奉仕する信者の全てが、聖霊の中へ浸かったという証拠にはなりません。そもそも、聖霊の中へ浸かった証拠を確かめようとして、異言やその他の何かを見ようとする考えもズレているのです。そうではなく、新生の体験から聖霊の中へ浸かる事へと進み、異言を体験し、様々な形で神の力を現して行くのが成長の過程なのです。


神ご自身が異言をしるしとして設定されました。異言は、マルコ16章で言及されている数少ないしるしの一つです。イエスは、信じる者は新しい言葉を語ると言われました。教会で祈る異言は、御霊の現れ(御霊の賜物)の一つであり、1コリントで言及されています。しかし、神ご自身が異言を設けた第一の理由は、私たちが常に御霊の中へ浸かる為、つまり、私たちが絶え間ない神との交わりを持つ為なのです。この「個人的な異言を通しての交わり」は、私たちを成長させます。御霊の中へ十分深く浸かるのなら、異言は自然と伴います。

*異言で祈り続ける事によって、御霊の中へ浸かり続ける事が可能。神は、私たちがそのようにして、より霊的な事柄を体験して、成長して行く事を望んでおられる。


異言が出ないという人がいますが、時には、誰かに促されたりする必要もあるでしょう。それは、按手という一つの手段を通してもなされます。

*或いは、自分で信仰によって一歩踏み出すという方法でもできる。しかし、信者自身が積極的に御霊を求め、御霊の中にもう少し深く浸かれば、自然と異言で話し始める事になり、この方法がベスト。何故なら、御霊の中により深く浸かる事こそが、聖霊のバプテスマであり、異言そのものよりも、より親密な御霊との交わりが重要であるから。


異言は一度限りの体験ではなく、信者の生活の中で継続的に行われなければなりません。


*異言の祈りを通して、継続的に神との交わりをする事が、神の子としての歩みを安定させる。何故なら、御霊との歩調が合うほど、神の力と品性によって歩む事が可能になるから。逆に言えば、聖霊体験のある信者でも、神の力を常に発揮できていないのは、常に御霊の中に浸かっていない、常に親密な交わりがないから。パウロは、御霊の中に浸かって神の力を発揮できるように、聖霊を再燃させるようにテモテに言った。そしてこの交わりは、神を求める私たちの情熱次第で、より深いものとなる。


さて、異言には様々な目的がありますが、個人的成長の為に異言が与えられた事をまず知らなければなりません。毎日異言で祈るだけでも多くの問題を避ける事ができ、神の知恵が発揮され、気づかないうちに、私たちは正しい決断を下す事ができます。何故なら、私たちが前もって異言で十分に祈ったからです。


2つの異なる状況で使用される異言:

(1) 個人的な異言  

(2) 教会: 異言と異言の解き明かし


2テモテ1:6「そういうわけで、私はあなたに思い起こして欲しいのです。私の按手によってあなたの内に与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい。」


ここでの「神の賜物」とは、御霊の賜物(御霊の現れ)のどれか一つではなく、聖霊の事を指してパウロは言っています。パウロは「再び燃え立たせて下さい」と言っているので、私たち次第であるという事です。神からの賜物である聖霊が私たちの中で燃やされていないのは、神の責任ではなく私たちの責任です。私たちの異言によって、聖霊が再燃されるなら、私たちの霊も燃えてきます。


ガラテヤ 4:19「私の子供たち。あなた方の内にキリストが形造られるまで、私は再びあなた方の為に産みの苦しみをしています。」


パウロは、彼らの内にキリストが形造られるよう祈っていました。御霊による祈りは、私たちの中にキリストが形造られるのを助けてくれます。しかし、キリストが形造られる為には、御言葉による思考の一新が最も重要です。真理を正しく理解し、それによって思考を一新させながら、異言で祈るなら、キリストが形造られるプロセスが最速になります。新しい契約までは、聖霊が人々の霊の中に宿らなかったので、誰も異言を語りませんでした。古い時代には、異言による恩恵は全くなかったのです。


異言で祈ると、レンガを積み上げるように自分自身を築き上げる事になります。今日、異言で祈ると、昨日異言で祈って築いたレンガの上に、さらにレンガを重ねる事になります。異言で祈れば祈るほど、強くなり、敵が隙を突く事ができなくなるでしょう。それほど異言の祈りは重要なのです。異言で祈るほど真理の理解が深まります。聖書を読んでいると分からない事が出て来ますが、異言で祈る事で全てが解決するでしょう。


異言で神を礼拝する


ペンテコステで異言を話した人々は、イスラエル以外から来ていた外国人の言葉で神に栄光を帰し、神を礼拝していました。この時、人々は、信者が聖霊の中へ浸かったかどうかを、別の信者が確認する為のしるしとして、異言を捉えていたのではなく、未信者の為のしるしとして捉えていました。聖霊のバプテスマの証拠として、異言を見るのではありません。信者はしるしを必要とせず、信じるがゆえに、しるしが伴うものなのです。ただし、聖霊に深く浸かるなら、自然と異言が伴うのも事実です。


執り成しによる突破


異言による執り成しの祈りは、状況などを変える事があります。言葉にならないうめき声を発したり、それが笑いに変わったり、踊ったりする事もあります。笑いや踊りは、執り成しの祈りが終わって、勝利を得た事のしるしとなります。


御霊を得るには、生まれ変わらなければならないのですが、重要なのは御霊です。教会では、生まれ変わる事、救いに重きを置いており、救われた後はイエスの再臨を待つだけとしています。神が私たちに聖霊を受け取って欲しいと望んでおられる理由は、私たちがこの地上を神の子として治める事が、御霊と歩む事で可能になるからです。それが神の大いなる計画なのです。


異言で祈るほど、御霊の力が見られるようになるでしょう。異言で祈れば祈るほど、私たちはより霊的になります。異言で祈ると、私たちの肉はなくなり始めます。私たちは御霊と密接に歩み始めるでしょう。そうすれば,私たちが神の子として霊的な事柄を行ない始め、御霊は私たちを効果的に助ける事ができるようになります。

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