2022年9月28日水曜日

種々の異言 1

聖霊のバプテスマ


「父の約束」とは、聖霊のバプテスマを受ける事です。聖霊のバプテスマとは、聖霊の中に浸かる事であり、それは御霊の満たしも意味します。御父は、神の子が常に聖霊に満たされる事を望んでおられます。その理由は、それが神の子の歩みと深く関わるからです。


御父は人がイエスを信じて、ご自分の所に戻って来て、神の子となり、聖霊を受け、聖霊で満たしたいと望んでおられます。未信者は最初にイエスを信じて神の子となり、水によるバプテスマを受け、聖霊を受けます。そこからさらに、信者である神の子が御父に求めると、イエスが御父の霊で私たちを満たして下います。この聖霊の満たしに関して私たちがしなければいけない事は、単純に、聖霊を父に求めるという事だけです。


ヨハネ 7:38「私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」


聖霊が信者の最も深い所から流れ出すのは、聖霊が私たちの中に入る事になるからです。信者は御言葉という御霊の剣を用いて、様々な戦いにおいて勝つ事が可能ですが、通常、そこにはある種の限界があります。しかし、御霊の力によるなら、イエスの証人として歩める事がより楽にできます。御霊の力にあって歩むには、聖霊のバプテスマ、つまり、聖霊の中に浸かる事が必須です。聖霊の中に浸かっていれば、聖霊に満たされる事になります。私たちが聖霊に満たされ続けて歩むのなら、御霊の助けを大いに得る事ができます。 


使徒1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」


「lambanō」は手に入れるという意味から、所有者になるという意味も含みます。信じて所有するという事です。


私たちが神の御霊によって人々に仕え始めると、御霊とその力は私たちの内(霊)から出て来きます。そこ以外の場所から、注ぎ出される事はありません。私たちの腹の奥底から生ける水の川が流れ出るのです。水や川は聖霊を表しますが、ここでの川は複数形です。

聖書は神の声について言及している箇所がありますが、神の声の音は、多くの水の音と関係しています。

私たちから出る聖霊の働きには、多くの目的があり、それらは一般に言う、御霊の賜物の事です。御霊の賜物とは、恵みの現れ、御霊の現れの事です。



ヨハネ14:10「私が父の内にいて、父が私の内におられる事を、信じていないのですか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではありません。私の内におられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」


イエスは「私の内におられる父が、ご自分のわざを行う」と言われました。イエス自身のわざではありません。御父が私たちを通して、御霊の力で行われるのであり、その栄光を主張する事はできません。しかし、私たちを通して働かれるので、その栄光を共有して下さっている事になります。


ヨハネ14:11-12「私が父の内にいて、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。まことに、まことに、あなた方に言います。私を信じる者は、私が行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。私が父の元に行くからです。」


イエスが行ったのと同じ働き(病人を癒し、死者を蘇らせ、悪魔を追い出し、福音を説き、食物を増やし、嵐を静めるなど)を私たちができる唯一の理由は、イエスが御父の元に行かれて、御霊を送って下さったからです。従って、神の恵みによって、これらが可能なのです。しかし、私たちが信仰によって一歩踏み出し、病人に手を差し伸べなければ何も起こらないでしょう。私たちが人々に福音を伝え、嵐に命じて、地を治めなければならないのです。


ヨハネ14:15「もし私を愛しているなら、あなた方は私の戒めを守るはずです。」


イエスは十戒を守れとさえ言わませんでしたが、私たちが神を心、知性、魂、力を尽くして愛し、隣人を自分自身のように愛しているなら、自動的にモーセの律法を守っている事になります。


ヨハネ 14:16「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。」


御霊(paraklētos)は私たちと共にいて、敵に抵抗し、助け下さいます。


ヨハネ14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


世は御霊を受ける事ができません。人は最初に生まれ変わる必要があり、それから聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けるのです。


聖霊はイエスが言われた事だけを伝え、イエスが言われた事を思い出させて下さいます。これは慰め者、助け主の第一義的な役割です。聖霊は、何よりもまず、全ての真理へと導き、イエスへと、イエスの教えへと導かれます。聖霊のバプテスマは「父の約束」です。御霊は私たちの中に住まわれ、私たちを力で満たし、神の子として地を治める事ができるように助けて下さるお方です。


神格の第三位格である聖霊なる神が、人間の中に生きるという事は驚くべき事です。古い契約の下では、それは決して起こらなかった事でした。それはなんと光栄な事でしょうか。


私たちが生まれ変わった、聖霊に満たされたクリスチャンであるなら、私たちは、イエスが十字架にかかる前には、他に存在していなかった者になるのです。それは、以前の私たちとは根本的に異なります。時々、私たちは今の状況に慣れてしまい、その違いについて考えたり、十分に感謝していません。


古い契約の時代とは事なり、聖霊は私たちの中に留まり、私たちと共におられます。聖霊から去って行く事はありません。


私たちの中に留まっている御霊の存在を、真に意識する事は重要です。これは、私たちが無力ではない事を意味します。パウロは、「私を強めて下さるキリストを通して、私は全ての事ができるのです」と言いました。神と共にいれば全てが可能であり、不可能な事はありません。この考えができるのは、私たちの中に住んでいる聖霊のおかげです。


神の御霊に燃え立って下さい。テモテでさえ、何となく神の働きをし、いつの間にか情熱を失い、再び燃え立たせる必要がありました。聖霊は常に準備ができており、燃えていますが、霊的に目覚める必要があるのは私たちです。異言によって、私たちは聖霊、その結果、自分の霊を再燃させる事ができます。


*異言が与えられている理由の一つは、私たちが再び聖霊を燃え立たせる必要があるから。


御霊を再燃させて下さい。私たちは、人生のあらゆる面、24時間ずっと、実際に浸透する神の御霊をもっと持つべきです。神の存在をさらに意識するという意味で、私たちの一日の全てが神とより密接に接触している必要があります。


*御霊の存在をもっと意識しなければならない。御霊は常に私たちの中におられ、いつでもその交わりを望んでおられ、いつでも助けて下さる準備ができている。私たちが注意を払っていないだけ。私たちが御霊にもっと自由を与えるほど、御霊は私たちを通して、よりスムーズに助けて下さる。 


私たちはいつも異言で話すべきです。大声で、小声で、声に出さずに御霊の中で祈るのです。絶え間ない神とのコミュニケーションが必要です。御霊にあって燃え、それが普通になってくるレベルに上げて行くのです。


運転中、異言で祈る事さえ考えなくても、自然と異言が出るくらい異言で祈るのです。神は私たちをコントロールしません。私たちは、御霊の導きにただ委ね、神が語られるのを望むのです。


異言で祈る時はいつでも、神に祈っており、神は私たちを通して話しておられ、同時に、私たちは神と一つになっています。この完璧な交わりが、そこにあるのです。

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