2023年1月3日火曜日

16 異言の役割

多くのクリスチャンが霊的な事柄において成長しない理由の一つは、誤りや極端な考えに陥る事を恐れて、霊的な賜物において進歩するのを恐れているからです。聖書は「...御霊の賜物、特に預言する事を熱心に求めなさい」と言っています(1コリント 14:1)。信者は、聖書が実際に述べている事ではなく、自分の体験や教会で起きている事から聖書を解釈する為、神の祝福を逃す可能性があります。


教会では「様々な異言」という御霊の現れ(御霊の賜物)が信者の成長に役に立ちますが、各クリスチャンの場合は、自分自身が霊的に成長する為に異言で祈る必要があり、これは、個人の霊的な成長の異言であって、皆が祈る必要があります。しかし、聖霊が信者に異言で祈るように促しているのに、彼らはそれを無視して日常生活を続けると、神が意図されているような聖書的な成長を学ぶ事は決してありません。霊的に発達し、成長する上で、あなたの役割はなんでしょう?聖書はあなたの人生に絶対的に影響を与える、幾つかの事をするようにはっきりと言っています。ただ神に従い、自分の役割を果たせば、異言で祈る事がもたらす超自然的な力の深さ、高さ、範囲を発見するでしょう。神との神聖なコミュニケーションは、あなたを神の霊の中で大きく築き上げます!


霊の歌


1コリント 14:15「それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


パウロはこの聖句で、神と対話するのもう一つの聖書的な方法について言及しています。「異言で歌えそうにない」と思うかもしれません。しかし、パウロは、自分の霊と知性をもって、歌うように言いました。


コロサイ 3:16「キリストの言葉が、あなた方のうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」


誰に歌うのかというと、主にです。多くの教会の問題は、多くの場合、人々が主に向かって歌うのではなく、地域の集会で互いに歌い合っている事です。次の聖句は、なぜ私たちが主に向かって歌うべきかを教えてくれます。


エペソ 5:18-19「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」


「御霊に満たされなさい」という句の直後に、話り合う事と歌う事の2つのキーワードがあります。私たちは、自分自身と神に向かって話したり歌ったりする事によって、御霊に満たされます。そして、聖霊に満たされた後も、主に向かって話したり、霊から歌い続けたりする事で、満たされた状態を保ちます。神との交わりの一面は、御霊によって主に向かって歌う事です。使徒行伝16章には、その実践による霊的な価値の例が示されています。


使徒 16:25「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。他の囚人たちはそれに聞き入っていた。」


パウロとシラスは傷つき、足は縛られていました。しかし、周囲が真っ暗な真夜中の時間に、彼らが何をしたかに注意して下さい。彼らは囚人たちに祈り、賛美を歌いましたか?いいえ、彼らは神に祈り、賛美を歌い、強力な聖霊の力を現場にもたらしました!


使徒 16:26「すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、全ての囚人の鎖が外れてしまった。」


私たちの教会で歌う歌の多くは、コロサイ 3:16とエペソ 5:19に倣ったものではありません。詩、賛美歌、霊的な歌で自分自身に語りかける事について、私たちは本当に殆ど何も知りません。しかし、聖書的な異言については、聖霊の霊感によって主に向かって歌う事が含まれていなければなりません。これは真の新約聖書の礼拝であり、私たちの生活や教会で日常的に行われるべきものです。さて、一部の信者は、聖霊の霊感によって詩を歌う事よりも、異言で話す事に専念しています。 ただし、最終結果は同じです。神との個人的な歩みの中で、私はかなり頻繁に異言で詩にします。私は異言で詩を歌いながら、車で道を走ります。私は夜、ベッドに横になり、異言で詩を歌います。


時々、礼拝の中で、聖霊は私に異言で詩を歌うよう促します。何年にもわたって、私は別の霊的なパターンにも気付きました。敵が攻撃していて、私が大きなプレッシャーにさらされていた時はいつでも、聖霊に触発されて異言で歌うようになりました。ある夜、私は異言で詩を歌いながら眠りにつき、異言で歌いながら目覚めました。殆ど眠れない夜もあり、一晩中異言の歌を次から次へと歌えました!聖霊の霊感によって異言で歌う事は、あなたを築き上げます。それはあなたを聖霊の中にある超自然的な平和と喜びのより高い領域へと導きます!聖霊の霊感によって、詩、賛美歌、霊的な歌で自分自身と神に向かって語り、歌う事の実践を信者の生き方の一部として維持する必要があります。あなたの霊と知性の両方で、神を歌い、賛美して下さい。「そんな事した事もない」とあなたは言うかもしれませんが、この素晴らしい手段で自分自身を成長させる事を決意する必要があります。御霊の中に入るまで、異言で祈り続けて下さい。それから、聖霊の霊感を受けながら異言で詩を歌い始めましょう!異言で祈り続けると、霊感による言葉が湧き上がり、詩、賛美歌、霊的な歌があなたの霊から自由に流れ出します。ですから,聖霊に促されて発せられる所にたどり着くまで祈り続けて下さい。内なる聖霊に従う事を学びましょう。あなたの霊に触れて下さい!あなたの内側にあるものを異言で歌ったり話したりして下さい!いつでも好きな時に、異言を話すか歌うかを決める事ができます。しかし、あなたが異言で神に近づくと、インスピレーションは聖霊から来るでしょう。彼はあなたを導き、霊感を受けた言葉があなたから出てくるでしょう。詩、賛美歌、霊歌における超自然的な発言は、あなたの個人的な献身的な生活の中で日常的に行われるべきです。特定の状況では、詩や霊的な賛美歌を公の場で話したり歌ったりすることも聖書的です。ですから、あなたがこの超自然的な語りの分野でまだ発達していないのなら、異言で祈り続けて下さい。聖霊に促された祈りの言葉が、超自然的な成長の源である事をあなたは知るでしょう。


戦いの異言


1コリント 14:2でパウロが言った事を基盤として「異言による霊の戦い」を考えましょう。「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。」パウロはそこで、神はご自身とのコミュニケーションの神聖な超自然的な手段として、教会に異言を与えられたと言っています。従って私たちは、直接、悪魔に異言で話す事はしません。私たちが悪魔や悪霊に対して直接するべき事は、「そこまでだ!イエスの名において、そこでやめろ!」と命令する事です。大声を出す必要さえありません。悪魔は権威を認識します。


いわゆる「戦いの異言」の背後にある考えは、私たちを取り巻く悪の状況において、何らかの方法でそれを切り開かなければならないという事です。だからといって、私たちは悪魔と会話する事はしません。私たちは、異言で神と話します。悪のわざを打ち破る為に、御霊と共に、父なる神と作戦会議をするのです。そうする中で、私たちは大きな声で異言を話すかもしれませんが、私たちはあくまでも神に話し、神と共に働きます。或いは、神と共に戦いにおける勝利を宣言し、それが速やかに行われるのを宣言するのです。


思考の一新


2コリント 4:16「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」


あなたが疲れ果ててしまっているなら、あなたは思考を一新させていません。あなたが生まれ変わった瞬間に受け取ったものは全て、神の御霊によってもたらされました。もちろん、あなたは回心した時点ではまだ十分に発達していませんでした。しかし、新生で働く同じ聖霊は、あなたが霊的に成長するのを助ける方です。その霊的発達はどのように行われるのでしょう?あなたの思考が毎日更新されると、それは起こります!次の節は、これを行う方法を示しています。


イザヤ 40:28-31「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れる事なく、たゆむ事なく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上る事ができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」 


絶え間ない思考の一新は、神の前で祈りの時間を過ごす事によってもたらされます。神の前に立ち、御霊によって祈る事は、休息を得、思考の一新を促進するだけでなく、肉体にも良い影響を与えます。しかし、この種の一新は、神の前で待つ事によってもたらされる事に注意して下さい。「待つ」という言葉には、主との交わりを意味しています。私は集会を待つ事の大切さを信じています。それが個人的な信心において神の前で待つ時でも、信者の集団として集合的に神の前で待つ時でもです。しかし、多くの人は間違った結論に達しています。「私は信仰によって歩み、正しい宣言を維持しているのですから、それだけで十分です。」 神の言葉を糧とし、御言葉に従って宣言をやり続ける事は正しい事です。これらは重要なものですが、主との交わりの代わりにはなりません。聖書は、主を待ち望む者は、新しく力を得ると言っています!


注意したいのは、同じ「待つ」でも、聖霊のバプテスマを受ける時に、聖霊を待つという事ではありません。約束の御霊は、神の子が求めるなら、御父はすぐに与えて下さるのです。ペンテコステの日以降、信者は聖霊のバプテスマの為に「待つ」必要はありません。信仰によって、聖霊に満たされるのです。しかし、聖霊によって満たされた信者は、今度は、御霊の祈りを通して、神を待たなくてはなりません。それは、神との交わりの為です。


エペソ 3:16「どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなた方を強めて下さいますように。」 


異言で祈る主の前で待つ時間を通して、私たちは聖霊の力によって新たにされ、強められます。


休息


祈りのうちに神の前に待つことは、あなたの力を新たにするだけでなく、あなたの魂に大きな休息をもたらします。神の御前で祈り、御霊によって神を崇拝する時間を確保することで、私たちは継続的に休息の時間を過ごす事ができます。


何年も前、私は教会の夜の祈祷会で異言で祈っていました。私が椅子のそばにひざまずき、異言で祈っていると、主が私の霊に語りかけ始めました。人々が一致して一緒に祈ると、そうした聖霊の促しや働きがあります。御霊は私に、「カウンセリングをやめなさい。その方向へ行きなさいとは、私は言っていないからです。私が言ったのは、祈りと癒やしについてです。それに、殆どのクリスチャンはカウンセリングを必要としません。彼らがしなければならない事は、祈る事です」と言いました。あるペンテコステ派の牧師がかつて私に言った事を覚えています。この人は、彼の教団で最大の教会の1つの牧師でした。「私たちの教会は、人々を助ける為のカウンセリングを予定していました。しかし、彼らがただ神の前に来て交わりを持つなら、カウンセリングの必要がない事が分かりました。」牧師は正しかったのです。神の言葉は、聖霊が私たちのカウンセラーであり、私たちの内に住んでおられると教えています。私たちにはただ神の前で待ち、異言と知性をもって神を祈り、礼拝する時間が必要なだけです。私たちがそうする時、神は私たちに答えて下さり、霊、魂、体の絶え間ない更新を私たちに与えて下さいます。クリスチャンは、何をすべきかを教えてくれる誰かを探して走り回っています。しかし、殆どの人にとって本当に必要なのは、ひざまずいて祈る事だけです。


彼らが時間をかけて神の前で待つなら、彼らが必要とする天からの知恵を受け取るでしょう。もし私が別の教会を牧会することがあれば、定期的に「待つ」祈り会を開くだろうと、私はよく考えてきました。それから、カウンセリングを希望する全ての人に、「水曜日の夜に来て下さい。9時から真夜中まで、神の前で祈ります」と伝えるのです。もちろん、殆どの人は簡単なものを探しているので、来ないでしょう。残念ですが、助言を求める人の中には、自分の罪を容認し、自分が間違っているのに、正しいと言ってくれる人を探している人もいます。


ある男性が、私たちがまだカウンセリングの機会を設けていた時に来ました。彼はクリスチャンで、一人の夫、三人の子供の父親で、聖霊のバプテスマも経験した方でしたが、神が彼の妻を離れて、若い別の女性と一緒になるように、彼に言っていると主張しました。その人はカウンセリングを受ける必要はなく、神と正しい関係を持つ必要がありました。彼は悔い改めて正しい判断をする必要があったのです。主は、私が聖霊によって祈っていた時に言われました。「カウンセリングが必要な場合は、自分の牧師に助けを求める必要があります。あなたは自分の羊の世話をするだけです。」カウンセリングを受けたがっていた他の人々を教えるとしても、その時間だけでは無理があります。彼らが学ぶべき事は、祈って神の前に待つ事です。ただ1時間でも祈るだけで、殆どは解決されるのです。問題は、多くの信者が、時間を割いて自分で神の声を聞く代わりに、カウンセラーに神からの声を聞く事をしてもらいたいという事です。しかし、殆どの場合、カウンセリングは、信者が必要な答えを得る手段として、神が望んでおられる方法ではありません。彼らは神の前で待ち、祈りで交わる事で答えを得るのです。私は、相談相手を常に探しているクリスチャンを良く思っていません。彼らが誰かを探している間にも、真のカウンセラーを自分の中に抱えているからです!御霊は、私たちの素晴らしい教師であり、導き手です。彼らがひざまずいて異言で祈るだけで、内なるカウンセラーから知恵を受け取るでしょう。私はいつもひざまずいて天の御父に異言で祈りました。そして、私が自分の内側にいるカウンセラーに目を向けると、いつも導いてくれました。神の御前で祈りを待つ事の近道はありません。人々は、楽で手っ取り早いものを求めています。しかし、神に祈って答えを得る事は、時には、一晩中祈る必要があるものです。時には、断食も要するでしょう。神と二人きりになり、自分の成長の為に御霊によって祈って下さい。あなたの内側にある、幾つかのものを正しくして下さい。あなたが優先的にすべき事と、神があなたに望んでいる事を見つけて下さい。聖霊の助けを神に感謝します!御霊は私たちの助け主であり、必要な時の仲介者です。


内なる声


異言の祈りの中で主を待ち望み、頻繁に交わりを持つと、御霊の声をより識別し始めるようになります。異言を通して、神はあなたの霊に語りかけ、あらゆる分野で神の完全な御心を保つ方法を教えてくれます。真理の御霊である聖霊は導く方であり、あなたの中にいます。御霊は、あなたが従うべき確かな言葉を話します。


イザヤ 30:21「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳は後ろから「これが道だ。これに歩め」と言う言葉を聞く。」


私は、「聖霊の声を知る方法を教えて欲しい」とよく言われます。しかし、あなたは聖霊の声を自分で学ばなければなりません。聖霊があなたの内におられるので、あなたにはそれができます。もしあなたが時間をかけて主の御前で主を聞く事を学ばないなら、私や他の誰かがあなたに教えられるものは、全て無駄になるでしょう。「しかし、それが本当に私に話しかけているのが聖霊であるかどうか、どうすれば分かりますか?」と尋ねるかもしれません。その質問をするという事実は、その人が自分の中に住んでいるお方と知り合っていない事を意味します。ただ、神の前で祈り、神を待つ時間が必要なのです。もし十分神と時間を過ごすならば、聖霊の声を認識する方法を誰かに頼む必要はないでしょう。しかし、日常的に神の前で時間を過ごす事を拒否した場合、私が知っている事をその人に全て話しても、あまり効果がありません。その人は、御霊が言おうとしている事を見逃すでしょう。


神の計画


私の中には導いて下さる方がおられます。私は御霊の言う事に耳を傾けているので、神が私に伝えようとしている事を見逃しません。御霊は私の前に何があるかを知っていて、これから起こる事を忠実に教えてくれます(ヨハネ 16:13)。締め切りがある時、私からの回答を待つ事に、スタッフが私に苛立つ事があります。でも、神からの答えが私の霊に届くまで、私は動きません。私は詩篇 127:1に従って生きています。


詩篇 127:1「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」


私たちは様々な計画を立てるかもしれませんが、主がそこに介入していなければ、全て無駄です。ですから、聖霊の導きが私の霊に明確になるまで、私は動かない時もあります。あなたは多くの良い事や正しい事ができます。


しかしあなたの良い行いが、神の子としてのものでない場合、それらは、神があなたに望んでいるものではない場合もあります。その結果、あなたはトラブルに巻き込まれる可能性もあるのです。私たちが神の子としてやるべき良い行いとは、宣教命令に沿ったものが基準となるべきです。世的な考えや方法に基づく良い行いではありません。そのような方法であなたが人を助けたとしても、それは神があなたに望んでいた事ではないかもしれません。あなたは、神の子としてやるべき、具体的な神からのビジョンが何であるかを見つけなければなりません。全ての神からのビジョンは、宣教命令に沿うものですが、神があなたにして欲しいものがあります。 あなたが異言で祈りながら神の前で待つ時、聖霊はあなたを導いて下さいます。イエスが私たちに約束されたように、「聖霊はあなたに来るべき事を示します」(ヨハネ 16:13)。それに、神は「神の御霊に導かれる者はみな神の子です」という事も約束されました(ローマ8:14)。それはあなたが神の子として導かれる事を意味します。私はいつも勉強熱心でしたが、神と神の言葉について知っている事の殆どは、本を読んで得たものではありませんでした。私が聖書を学んだ主な方法は、異言の祈りを通してです。それが聖書の啓示が私にもたらされた方法です。時々、私が異言で祈っていると、神の御霊が聖書の幾つかの章を通して私を導き、その過程で私を変え、私のミニストリーを変えてくれました。私は内なるカウンセラーから啓示を受け、それによって私は別の方向に動き始めたのです。異言で祈っている時に、私は何度も、特定の方向への神の導きを受けました。多くの人が自分の人生に対する神からのビジョンを受けていないのはその為です。


人々は、異言で祈るのに十分な時間を費やしていません。彼らは神から答えを得る為に霊の深みに入る事は決してありません。その結果、彼らの全ての推論と計画は頭の中で練られ、最終的に彼らの人為的な計画は失敗に終わります。だからこそ、継続的な祈りの時間が必要なのです。神の臨在に入り、聖霊の中で祈れば、必要な全ての答えが得られるのです。そして、あなたが主を待ち望む時、休息と神聖な導きが得られます。神の言葉によって霊的成長の為に自分を養って下さい。御父との交わりに時間を費やし、異言で祈りをして下さい。あなたの霊が感じている事を学びましょう。毎日、聖霊はあなたの霊を通して、神の御心にあなたを導きます。覚えておいて下さい。神はあなたの霊を通してあなたを導きます。この聖霊の力の新しい領域を歩む事を学びましょう。全ては、毎日主の御前に出て、主があなたを導き、教え、あなたの魂を新たにするように委ねる事から始まります。


17 未知の事について祈る へ続く

2023年1月2日月曜日

17 未知の事について祈る

信者が異言で祈るべき理由の一つは、知らない事についても、祈る事ができるからです。異言の祈りは、私たちが気づいていない事や、自分では決して祈ろうとは思わない事の為に祈る方法を提供します。これが、異言で祈る事が最も重要な祈りの方法の一つである理由です。私たちは何を祈ればいいのか分からないとあります(ローマ 8:26)。従って、私たちの生まれつきの知性が知るよしもない人々や状況に関して、神の完全な御心によって祈るのを助ける為に聖霊が必要です。


1コリント 14:15「それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


この聖句には2つの用途があると思います。まず、それは文字通り「私は霊で祈り、知性でも祈る」という事です。異言で祈ったり歌ったりする時、あなたが言う全ての意味を知る必要はありませんが、必要に応じて、聖霊はあなたが異言で言った事を解き明かしして下さいます。私は過去に異言で祈った時によく解釈を受けましたが、いつもそうであるとは限りません。何度も異言で長々と祈りましたが、自分が何を祈ったのかは全く知りませんでした。それはイザヤ28:11-12の休息の事です。時には、休息の異言であるので、解き明かす必要はなく、ただ神に委ねていれば良いのです。しかし、御霊によって祈るとき、聖霊が解釈を与えて下さる時もあるので、何について祈ったかを知る事ができます。


1967年、妻と私はカリフォルニアで集会を開いていました。ある夜、ぐっすり眠っていると突然目が覚め、ベッドに座っていました。まるで誰かが私の肋骨をつついたかのようでした。すると誰かが入ってきたような音がしました。ドアを確認しましたが、全て閉まっていて施錠されていました。誰も入ってきませんでした。私は妻の邪魔をしたくなかったので、横になって祈りました。私は霊的なアンテナを伸ばしました。私の霊において、神に手を差し伸べ始めたという事です。その間、私は主に尋ね続けました。私は自分の中に重さを感じました。すると、啓示が来ました。私は尋ねました。「主よ、これは何ですか?」霊の領域に少し足を踏み入れると、それが私の親族の誰かに関係している事に気づきました。私は言いました。「それは私の親族の一人です。彼の命は危険にさらされています。彼は死にかけています。主よ、それは誰ですか?」その部分が分からなかったので、「聖霊様、誰の命が危険にさらされているか分かりませんが、あなたはご存知です。


親族の一人一人の為に、知性で祈る事はできますが、あなたが言葉を与え、私が祈るのを助けて下さる事を期待しています。」それで、スミス・ウィグルスワースがかつて「私は肉で始まり、霊で終わりました」と言ったように、私は異言で祈り始めました。つまり、私は御霊の導きなしで異言で祈り始めたのです。ベッドに横たわっていた私から、すぐに異言が流れ出しました。この間ずっと、隣で寝ていた妻の邪魔をする事はありませんでした。異言で1時間半祈ったに違いありません。私は終わりまで祈り続けました。祈り終えた事をどのようにして知るかというと、重苦しさが和らぎ、霊の内に勝利の気配を感じる時です。御霊の中で笑うか歌うかのどちらかです。あなたの霊が勝利を感じる所までたどり着けないのなら、異言で十分長く祈っていないのかもしれません!私はとても静かに独り言を歌い、御霊の中で笑い始めました。それが何であれ、それが誰であろうと、私は答えを得たと思いました。その人は大丈夫だと思って、私は寝ました。その夜にあった事は頻繁には起こりませんでした。


眠りについた時、霊的な夢を見ました。夢の中で神様が話しかけてくる事もあります。この夢から覚めた瞬間、私はそれが何を意味するのかを正確に理解しました。霊的な夢だと思っても、それが何を意味するのか分からない場合は、忘れて下さい。神はその夢を通してあなたに話しかけたのではありません。頭から何か意味を考え出そうとしないで下さい。これは多くの人が犯す過ちであり、その結果、彼らは神との歩みを逸れてしまいます。夢の中で私はホテルの向かいに立っていました。私は、神を知っていたが、交わりがなかった弟のピーターがそのホテルに滞在していて、夜間に病気になった事を知りました。それから私は弟が部屋にいるのを見ました。彼が電話を取り、ホテルのオペレーターに電話をかけようとしていて、それから彼は倒れてしました。夢の中でそこに立っていた時、救急車が見え、救急隊員が弟を病院に連れて行くのを見ました。それから私は病院の廊下に立って、ホールの向こう側の閉ざされたドアを見ていました。私はピーターがそのドアの後ろの部屋にいる事を知っていました。立っていると、医者が出て来て、ドアを閉めてから私の所へ来ました。医者は「彼は亡くなりました」と言いました。私は、「いいえ、先生。彼は亡くなっていません」と言いました。「分からないのですか?彼は死んだのです。」私は、「いいえ、死んでいません」と言いました。「何故そう言うのか?」医者は尋ねた。「イエスは彼が死んでないと私に言いました。」医者はドアを開けて言いました。「ここに来なさい。見せてあげます。」それで私たちは部屋に入りました。シーツが頭の上に引っ張られてベッドに横たわっている死体がそこにありました。医者はシーツを引き下げて、「見なさい」と私に言いました。ピーターを見下ろすと、彼は目を開けて数回まばたきをしました。医者は私を見ました。それから彼は私の弟を見て、「あなたは私が知らなかった事を知っていたに違いない」と言いました。それから目が覚めた時、私は弟の為に祈っていた事に気づきました。


その事は、4月に起きた事でした。7月に私たちは家に帰りました。そこへ、ピーターがやって来ました。しばらく話した後、ピーターは「皆がいない間に、私は死にそうになったんだ」と言いました。私は「ええ、知っています。あなたは夜中に病気になり、救急隊員が病院に連れて行きました。医者は、もうだめだと思っていましたよ」と言いました。「そうなんだ」と彼は言いました。「誰が話したの?」それから私は彼に、4月に起きた私の経験について話しました。ピーターは言いました。「まさにその通りの事が起きました。」神の御霊に感謝です。何年も前には、私は家族のほぼ全員の為にそうやって祈っていました。しばらくすると、神は彼らが自分自身の信仰によって歩むように促されました。また、聖霊が事前に祈るよう警告してくれなければ、私の家族の一人に危機が起こる事はありませんでした。それから、私が祈りたいという促しに委ねると、神は私が何について祈っているかを異言で知らせてくれました。


聖徒の為に御霊によって祈る


御霊には命があり、御霊には祈りの領域があります。全ての聖徒の為の権威と嘆願の領域の事で、大半のクリスチャンは知らず、少し触れた人がいるだけです。私たちが神の命令を果たす事ができるのは、この御霊の領域においてだけです。


エペソ 6:18「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。その為に、目を覚ましていて、全ての聖徒の為に、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」


私たちは全ての聖人を知っているわけではないので、御霊によって祈らなければ、全ての聖人の為に祈る事はできません。ある出来事が何年か前にありました。それは、私たちが祈り会を持った時の事でした。ある日、御言葉を教えていると、突然、緊急に祈らなければならない重荷に襲われました。しかし、何について祈ればいいのか分かりませんでした。私は「主よ。何でしょうか?」と尋ねました。その時、誰かの命が危険にさらされている事に気づきました。病気やわずらいの為ではなく、ある事故の為に、誰かが死にかけていました。私は会衆に、「皆さん、私は祈らなければいけません。今です。一緒にお祈り下さい。誰か分かりませんが、誰かの命が危険にさらされています。」私はひざまずいて祈り始めました。45分間、力強く、早くうめきながら異言で祈りました。それから、私が祈り終わった事を知らせる勝利のしるしがありました。私は歌い、霊で歌いました。祈りの重荷は引き上げられました。私は言いました。「誰だか分かりません。時々、聖霊は私が祈っている人を見せてくれます。今回はそうしませんでした。でもそれが誰であれ、私は答えを得ました。神に栄光がありますように。」 


その夜、私は教会の数人を私の家へ招待しました。ある事について話す為でした。すると突然電話が鳴り、妻が応答しました。ある女性から、祈ってくれるようにとの事でした。その祈りのリクエストは、ある事故についてのもので、彼女の親戚の為の祈りでした。後で分かった事ですが、その事故が起こったちょうどその時、私は危険にさらされている誰かの為に御霊で祈る重荷を負ったのでした。その事故で17人が巻き込まれたとの事ですが、負傷者の数は分かりませんでした。私は妻に、「私たちは既に答えを得ていると彼女に伝えて下さい。彼女の叔父は大丈夫です。今日の午後、神の御霊が私たちに祈るよう警告して下さいました。私たちがそれについて祈り、彼が無事である事を彼女に伝えて下さい。」


どうしてその人が無事であるか分かったかというと、私が何が起こったのかを聞くやいなや、聖霊は内なる確信を通して私に知らせて下さったからです。それから、私たちが寝ようとした時、午前1時30分でしたが、電話が鳴りました。同じ女性からでした。その事故で、誰もけが人が出なかったという知らせでした。一人一人の命が助かり、彼女の叔父も無事でした!神に感謝します。聖霊は私たちが何を祈るべきかをご存知であり、未知のものの為に祈るのを助けて下さいます!御霊には距離がありません。聖霊は、どこでも、誰についてでも祈るのを助けてくれます!


神は祈る人を探しておられる


聖霊は、異言で特定の必要や状況について祈るようにあなたに警告する事がよくあります。しかし、あなたが神に身を委ね、御霊の領域に入ると、神はあなたに祈るべき他のものを与えてくれるかもしれません。ある時、私は知り合いの牧師について祈りました。私が知っている牧師の顔が私の前に現れ続けたのです。彼は、1,200マイル離れた所に住んでいました。その瞬間、私は彼の為に祈っていたと思いました。異言で祈っていると、自分が英語で何度も何度も言っているのが聞こえました。「まだ去ってはいけない。もう少し留まれ。」それから私はすぐに異言の祈りに戻りました。この牧師は自分の教会を離れる事を考えているのだろうと思いました。しかし、私はその状況については何も知りませんでした。数日後、この牧師と電話で話しているスタッフのオフィスにたまたま行きました。私は、「電話を切る前に、彼と話させて下さい」と言いました。私は電話に出て、この牧師に言いました。「これがあなたにとって意味があるかどうかは分かりません。意味がない場合は、忘れて下さい。」誰かが言ったという事で、決して「主からの言葉」を受け入れないで下さい。人は間違いを犯すからです。聖霊は完全ですが、不完全な人を通して現します。私は続けて、「先日、御霊の中で祈っていたら、あなたの顔がずっと私の前に出てきました。すると、私の口から単語が幾つか出てきました。まだ去るな。もう少し滞在しなさい。」その牧師は、「その事について、祈ります」と言いました。後になって、この牧師がその教会に更に3か月滞在した事を知りました。彼は再び取締役会と会合し、取締役会のメンバーは彼の辞任を遅らせる事に同意したのです。 その後、ある集会でこの牧師が私の所に来て、こう言いました。「聖霊を神に感謝します!辞任して取締役会に退職を告げた時、私は2週間以内に退職する事になっていました。しかし、私はお金もなく、私の妻にどこに行くかも分からないと言いました。


しかし、次の3ヶ月留まった事によって、次に教会を出ようとするまでには、$3,000も貯金する事ができました」私は答えました。「良かったですね!」私は、「まだ去るな。もう少し滞在しなさい」の言葉が分かりませんでしたが、聖霊は知っていました。御霊は、その牧師の益の為に、私が知らなかった事について祈るように私を促しました。何について祈るべきか、どのように祈るべきかを頭の中で理解しようとするかもしれませんが、決してそれはできません!神に感謝します、聖霊はあらゆる状況に関する神の完全な御心を知っています。あなたが神に委ねて異言で祈る時、神はあなたを用いて、特定の状況や人々の生活に神の御心をもたらすでしょう。


伝道先での解放


ずっと何年も前に、宣教師の友人が証しを分かち合いました。彼と彼の奥さんはアフリカへの宣教師でした。もちろん、当時は現在のような迅速なコミュニケーション手段はありませんでした。アメリカにいる彼らの両親が彼らから手紙を受け取るのに一ヶ月かかったのでした。その奥さんの両親は、聖霊派の人々でした。ある日、このお父さんがいつものように夜明けに起き、牛の乳搾りをしに牛舎へと向うと、何かがおかしいという強い印象を彼の霊の内に受けました。どういうわけか、この人は、それが彼の娘についてである事を知りました。彼の妻は朝食を作ろうとしていた所でした。彼は妻に、自分たちの娘の命が危険におかされている事を話しました。「彼女の生命は危険にさらされています。私たちは祈らなければなりません!」「どうして分かるの?」彼の妻が尋ねました。「分からない。でも、彼女が危険なんだ。私の内でそれが分かるんだ。」それは、この男性に未知のものについて何かを知らせる神の御霊でした!それで、二人はキッチンで祈り始め、彼は言いました。「私たちは何を祈るべきか分かりませんが、聖霊よ、あなたはそうして下さいます。ですから、私たちの娘の為に執り成しをするのを手伝って下さい。」


それから彼らは異言で祈り始めました。それは朝の5時半くらいのことでした。何時間も経ち、正午が過ぎました。それでもなお、二人は、娘のために異言で祈り続けました。その後、午後2時頃、夫の方が笑い始め、異言で歌い始めました。彼は妻に言いました。「私たちの娘は大丈夫だ」このように祈り始めたら、勝利のしるしを得るまで祈り続けて下さい。あなたが祈っているものが何であれ、あなたはあなたの霊でその答えを知るでしょう。そして、笑いたい、礼拝したい、異言で歌いたいという衝動にかられるでしょう。そうなると、あなたは祈りきって重荷を下ろした事が分かります。それから、その娘の両親が義理の息子から手紙を受け取ったのは、5週間後の事でした。宣教師であるその義理の息子は、その手紙の中で、次のように説明しました。「数週間前、あなたの娘はここでよく見られる致命的な熱病の1つに感染しました。人々は、彼女の治療法はないと私たちに言いました。」この事が起きた時、アフリカのこの地域の医療行為は非常に原始的でした。当時、アフリカで、人がこのひどい熱に感染すると、その人は死亡したのです。義理の息子は次のように書いています。「彼女は死の淵に沈みました。実際、私たちが知る限り、彼女は亡くなったと思いました。私たちは彼女に命を見る事ができませんでした。しかし、突然、元気になって立ち上がったのです。」


両親は返事を書き、「娘が元気に起きたのはいつの、何曜日ですか?」と尋ねました。彼らは、なぜ尋ねているのかを話しませんでした。返信の手紙を受け取った時、彼らはメモと彼らの娘の為に祈った日時を比較しました。二人は、彼女が死にそうになった時間は、まさに彼らが彼女の為に祈っていた時間だったと分かりました。時間帯の違いを考えてみると、娘がアフリカで癒されて起き上がった瞬間、つまり父親が御霊によって笑い、異言を歌っているのと同じ瞬間である事が分かりました。この二人は、聖霊によって祈る事についてよく知っていました!何年にもわたって、ペンテコステ派の出版物で、私が今述べたものと同様の多くの証言を読みました。外国にいる宣教者たちは危機に瀕していましたが、家の誰かが、異言で祈りたいという突然の衝動に従いました。その結果、宣教師が引き渡されました。多くの場合、祈った人は宣教師を知らなかったのです。しかし、聖霊は知っておられました!


私は、あるアフリカに派遣された英国人宣教師が癌を発症したという記事を読みました。この宣教師は、その地域でペンテコステ派のメッセージを開拓した年配の男性でした。彼の同僚は、彼の手術の為に南アフリカの近代的な病院に搬送しました。しかし、医者が彼を開いた時、癌は彼の体の至る所に広がっていたので、彼らは彼を縫って元に戻し、手術を中止しました。ケースは絶望的でした。男は死にかけていました。それについて医師ができる事は何もありませんでした。しかしこの頃、数千マイル離れたオーストラリアのある女性が、イギリスからの宣教師として掲載されていたこの男性の写真を、ペンテコステ派の出版物で目にしました。突然、この年配の女性は、祈るという大きな負担を感じ、夜の大部分を異言で祈る事に費やしました。そして神はビジョンの中で、この女性が何について祈っていたのかを示しました。彼女はこの男が病気でベッドに横たわっているのを見ました。彼女は彼が誰であるかを知っており、彼が癌である事も知っていました。ビジョンの中で、彼女は彼が元気に立ち上がるのを見ました。時が経って、この宣教師はこの女性が住んでいた都市のゲストスピーカーとして来ました。彼女は集会に出席し、礼拝の後に、自分の祈りの経験を宣教師に話しました。日付を比較し、時差を考慮した後、宣教師は彼女にこう言いました。「その瞬間、私は病院のベッドで死にかけていました。手術後、医者は私を見捨てました。私はあまりにも遠く離れていて、自分では何もできませんでした」しかし、突然、元気に起き上がりました!医師たちは考えられるあらゆる種類の検査を行ったのですが、がんの痕跡は全て消えていたのです!」


もう二つ証しをお分かちしたいと思います。ボーリー兄弟というアフリカの宣教師の体験した話です。当時私は、まだ若い牧師でしたが、ボーリー兄弟がこの2つの経験について語った集会に出席しました。ある時、対立する敵対的な部族が、ボーリー兄弟が説教していた村から6歳の少女を盗み、ほぼ全員が救われたという事がありました。ボーリー兄弟は言いました。「夜が明ける前に少女を取り戻さなければ、彼女は決して回復しない事を経験から知っていました」この2つの部族は異なる方言を話していたので、ボーリー兄弟は、彼らの方言を話せる先住民の1人であるクリスチャンを連れて、対立する部族の村に向かいました。ボーリーは首長と物々交換し、子供をビーズや装身具と交換することを望んでいました。二人が村に着く何マイルも前に、彼らは腐敗した腐った肉のにおいに気づきました。


この特定の部族は、3人か4人の女性を選び、動物を準備して調理し、村のすぐ外の柱に吊るしました。動物は何日も何週間もそこにぶら下がり、太陽の下で腐っていました。村に来た人は皆、死んだつもりで食べなければなりませんでした。ボーリー兄弟とその仲間もそうでした。ボーリー兄弟はこう言いました。「あなたは自分が神を信じていると思うかもしれませんが、実際に神を信じているかどうかは、伝道地の極端な場所に行くと分かります!この場合、私たち一人一人がその腐った大きな肉の塊を切り落として食べなければなりませんでした。しかし、ありがたい事に、それは私たちに影響を与える事はありませんでした!」ボーリー兄弟と彼の仲間はついに首長にたどり着き、たくさんの装身具とビーズを少女と交換しました。しかし、その時点で夜が来て、夜の密林を移動できなかった事が問題でした。二人の男は、村の「客間」に案内されました。原始的なかやぶき屋根の小屋です。闇が落ち、固い地面に横になって眠るしかありませんでした。数時間後、真夜中近くになると、彼らは太鼓の音で目が覚めました。ボーリー兄弟は仲間に「あの太鼓の音はどういう意味ですか?」と尋ねました。


彼のネイティブの仲間は、「それは彼らが私たちに下した死刑判決です。族長は既に私たちの装身具を手に入れている事に気づき、私たちを殺して女の子を引き留める事を考えたのでした。太鼓の音は、部族が来て私たちを殺すつもりである事を示しています。彼らはナイフを持ってやって来て、一切れで私たちの頭を切り落とす事ができます!」と答えました。ボリー兄弟と現地の通訳者は、かやぶき屋根の小屋の外で近づいてくる敵のざわめきを聞きました。ボリー兄弟は、『ひざまずいて、神の手に委ねましょう。そうすれば、彼らが入って来て私たちを捕まえるのを待つ事はありません。まずは出ましょう。私が先導します。』と言い、祈りを終えて目を閉じ、小屋を出ました。ほんの数秒かもしれませんが、私は長い間小屋の前に立っていました。突然、誰も頭を切り落としていないことに気づきました!これらの戦士の何かを言う音が聞こえたので、目を開けて、私を取り囲む部族の戦士の輪を見回しました。彼らは皆、ひざまずいて顔を地面に伏せ、ナイフを横に置いていたのです!ちょうどその時、通訳が小屋から出てきました。彼らは私を神として崇拝していました。」ボーリー兄弟は通訳に何が起きたのか調べてくれるように頼みました。村の戦士たちは通訳にこう言いました。「この外国人が小屋から出て来た時、輝く白い衣服を着た、身長2.7メートルで巨大な剣を持った男二人が彼の両側から出てきました!」それで、戦士たちは宣教師の前にひれ伏し、彼を崇拝し続けたのです。ボーリー兄弟は少女を取り戻し、家に連れ帰り、無事に両親と部族に返しました。


2週間後、ボーリー兄弟は別の伝道の旅を計画していましたが、伝道所のスタッフが不足している事に気づきました。誰かが彼に言いました。「伝道所に若い女性がいます。私は彼女の様子を数週間ごとにチェックしていますが、彼女はいつも元気にやっているようです。」そこでボーリー兄弟は、伝道所を一人で運営しているこの若い女性に会いに行きました。彼がそこにいる間、彼女は彼に尋ねました。「ボーリー兄弟、月曜日の夜の真夜中頃に何かあったんですか?命が危なかったのですか?」「どうしてそう聞くのですか?」「私はここで 1日12時間ほど働きます。ある夜、私はとても疲れていて、就寝後すぐに眠りについたのですが、夜10時30分、私は祈りの重荷を背負って目覚めました。それで私はベッドから起き上がり、ひざまずいて、異言で祈り始めました。」女性は10時30分から真夜中まで祈り続けました。彼女は言いました。「私が祈っている間、あなたの顔が私の前で点滅し続けているように見えました。それから私は勝利のしるしを得て、異言で歌い、聖霊によって笑い始めました。」ボーリー兄弟は言いました。「姉妹、あなたが笑い始めたのはちょうど、敵対的な戦士のグループに会う為、私がかやぶき屋根の小屋から出た時です。彼らは私に対する攻撃は、私のそばにいた巨人によって止められました。」ここに真剣に考えるべき問題があります。もしこの若い女性が聖霊の祈りの導きに委ねていなかったらどうなっていたでしょうか?


ボーリー兄弟はもう1つ驚くべき証しをしました。アフリカの西海岸沖に島があり、その島の住民はまだイエスの事を聞いた事がない人達でした。そこでボーリー兄弟は地元の帆船を借り、乗組員を乗せ、御霊に満ちた地元の通訳を毎週島に連れて行き、福音を説き人々に仕えました。それから、ある月曜日の午後遅く、ボーリー兄弟とその仲間たちが島への毎週の訪問を終えて本土に戻っていた時、突然の嵐が起こりました。彼らのボートにはライトも航海計器もなかったので、彼らは暗くなる前に家に帰ろうとしていました。時が経ち、嵐は夜の黒い闇の中で荒れ狂い続けました。ついに真夜中ごろ、船長はボーリー兄弟に、「入港しなければならない港が、どこにあるのか分かりません。港内に安全な狭いスペースが1つだけあります。残りはサンゴ礁の為非常に危険です。逃げれば、岩の上で粉々に砕かれ、このまま海にいたら沈んでしまい、みんなの命は確実に失われてしまいます」 と言いました。ボーリー兄弟は、「ナビゲーションについては何も知りません。あなたは船長です。私たちは何をすべきだと思いますか?」尋ねました。船長は、「私たちの唯一のチャンスは、それを実行しようとする事です」と答えました。ボーリー兄弟は、「そうする前に祈りましょう」と言いました。


船長と乗組員はクリスチャンではありませんでしたが、人々が死に直面すると、誰もが急いで敬虔になります!それで彼らは皆、ボーリー兄弟と通訳と共にひざまずき、自​​分たちの命を神の手に委ねました。それからボーリー兄弟は立ち上がって、「ボートを放しなさい!」と言いました。船長がそのヨットを港に向けて離した瞬間、飛行機のように空中に離陸し、サンゴ礁の上を航行し、水が穏やかで平和な港に着陸したのです!もちろん、彼らの奇跡的な救出をめぐって、その船の中では大きな喜びがありました。数日後,ボーリー兄弟は自分が監督していた伝道所の一つを訪問しました。この時、別の一人の女性がこの伝道所に一人で滞在していました。ボーリー兄弟の訪問中に、その女性は彼に尋ねました。「ボーリー兄弟、先週の月曜日の夜、特にあなたに何か起こりましたか?」ボーリー兄弟は尋ねました。「どういう事ですか?」彼女は言いました。「私はその夜早く寝て、数時間眠っていました。10時頃、私は突然目が覚め、ベッドで起き上がりました。主に何があったのか聞きました。そして、祈り始めました。しかし、私はとても疲れていたので、何度も眠りについてしまいました。それで私はベッドから起き上がり、膝をついて私は祈りました。『主よ、それが何か分かりません。しかし、それが何であれ、聖霊は知っています。私は御霊が私を助けてくれる事を信頼します。それで私は異言で祈り始め、聖霊が私を助け始めました。10時から真夜中まで異言で祈りました。何について祈っているのか、誰の為に祈っているのか分かりませんでした。しかし、その時の終わりに、それが何であれ、その重荷が取り除かれ、軽さを感じたので、私は勝利を手にした事を知りました。その時、あなたの顔が私の前にひらめいたので、私はあなたの為に祈っているのではないかと思いました。先週の月曜日の夜、真夜中に何かありましたか?」「姉妹、月曜日の夜の真夜中は、私たちが奇跡的にある死の体験から解放された、まさにその瞬間でした!」ボリー兄弟は叫びました。その宣教師の女性が笑って、御霊によって神を賛美している間、その帆船はちょうど離陸し、サンゴ礁のすぐ上を航行し、全員が無事に乗船して港に着陸したのです!


では、このような超自然的な証言がもっと起こらないのは何故でしょうか?理由は、異言で祈る人が少ないからです。彼らは、神との基本的な交わりを維持する為に、異言で少し祈るかもしれません。しかし、彼らは神の臨在の中で、1時間か2時間、あるいはそれ以上の長い時間は待ちません。その時、どうしても祈らなければならない事柄について、聖霊が彼らと共に祈る事ができます。聖霊が、祈りで用いる事ができる人を探し続けている事は間違いありません。神は、喜んで神に委ね、必要な限り異言で祈る信者を見つけると、彼らと手を取り合い、彼らがしばしば何も知らない事柄について神の完全な御心を祈るのを助けます。私は今お話ししたような報告を他にもたくさん読んできましたし、多くの宣教師が、誰かが御霊によって祈った結果、超自然的に解放されたという証しを個人的に聞いた事があります。それでも、聖霊に満たされたクリスチャンの大多数は、この種の祈りの深い効果をまだ認識していないでしょう。もし祈っていたなら、彼らはそれをもっとやっていたでしょう。


聖霊は、私たちが何を祈るべきかをご存知ですが、私たちはそうではありません。 しかし、私たちは重荷得ても異言で祈らずに、日々の仕事をそのまま続けてしまう事がよくあります。何について祈っているのか分からなくても、もっと聖霊に委ね、他の言語で祈る事ができるようになれば、私たち自身の生活にもっと多くの勝利が見られるでしょう。私たちはまた、私たちが祈る人々の生活の中で、更に多くの劇的な解放を見るでしょう。聖霊が私たちの祈りの生活を助けて下さる事は、助け主としての最も大きな役割の一つです。もちろん、御霊は人生のあらゆる領域で私たちを助けて下さいます。しかし、最も実りが多く、最も際立っていて、最も奇跡的な分野の一つは、私たちの普通の知性では知る事がないものに対して、神の完全な御心に沿って祈る事です。


18 霊の領域 へ続く

2023年1月1日日曜日

18 霊の領域

この終わりの日に、神は私たちをより深い霊の領域へと招いておられます。つまり、神の御霊に委ねる事を学べるように、神の御霊に敏感になるように自分自身を訓練する必要があるという事です。そうする時、たとえ状況や関係者について何も知らなくても、状況が発生した時に、神は私たちが御心を祈り求めるのを助けて下さいます。私たちはひざまずいて、「聖霊様、私は何を祈るべきか分かりませんが、あなたは助けて下さいます」と言う事ができます。天国に着くまで、どれだけ多くの偉大な奇跡が行われ、信者たちが喜んでそうしてきた為に、数え切れないほどの命が救われてきたかは分かりません。祈るのが大変だと感じた時、彼らは従いました。そして、彼らが異言で祈っていると、聖霊が彼らと共におられ、神の御心に従って未知の状況を祈る為に、彼らに促しを与えました。


助かった命


ある日曜の夜、スミス夫妻が既に眠りについた後、妻の方は祈らなければならないという大きな重荷を感じました。彼女は異言と深いうめき声で祈っていたので、夫の邪魔をしないように努めましたが、彼女のうめき声があまりにも大きくなり、夫を起こしてしまいました。スミス兄弟が目を覚まし、妻のうめき声を聞いた時、最初は妻が病気だと思いました。「どうしたの?」彼は彼女に尋ねました。「私には祈る重荷があります。私たちの教会の人々の何人かは危険にさらされています」と彼の妻が言いました。」夫の方は、「誰の事ですか?」と尋ねました。「分かりません。しかし、誰かの命が危険にさらされています。」彼女は答えました。二人はそれが誰であるかを考えようとしましたが、彼らが思いついたのは、休暇中で家に帰る為に、一晩中運転していた4家族だけでした。それで彼らは祈り、全ての家族の為に神の守りを宣言しました.それからスミス兄弟は眠りに落ちました。彼の妻も眠ろうとしましたが、祈りの重荷はまだ残っていました。彼女は再び異言と深いうめき声で祈り始めました。彼女はスミス兄弟を再び起こしました。彼の妻は夫にこう言いました。「私たちの会衆の別の人です。」彼女は、教会に通っている誰かの命が危険にさらされているという霊的な識別力、霊的な感覚を持っていました。それで、二人は再び一緒に祈り、そして、彼らの霊に幾らかの安堵感を覚えました。スミス兄弟は眠りに戻り、その妻も眠ろうとしました。しかし、彼女は祈るという重荷を振り払う事ができませんでした。彼女は異言で祈り始め、またうめき始め、しばらくして夫を再び目覚めさせました。彼は「さあ、ベッドから出て祈りましょう」と言いました。スミス夫妻が異言で一緒に祈っていた時、妻の方はその霊の重苦しさから解放された様子がありませんでした。 ついに、スミス兄弟はこう言いました。「主がその人が誰であろうと、前途に迫る危険を示す、夢やビジョンを与えて下さるように祈りましょう。」二人は同意して異言で祈りました。ようやくベッドに戻ったのは朝の四時で、その結果、その朝遅くに電話が鳴った時、彼らはまだ寝ていました。それは彼らの教会の男性の一人でした。


その朝彼が職場に現れた時、彼の職長は、掘削塔で働いていた人がその日現れなかったと彼に言いました。職長はその教会の男性に、「今日は塔での仕事だ」と言いました。彼は塔へのはしごを登り始めましたが、途中まで登った後、方向を逆にして降りました。「塔での仕事はしない」と男性は言い、職長は、「どうしてだ?」と尋ねました。「今朝の4時に夢を見たんだ。夢で目が覚めたので、私は時間を覚えている。水を飲みにキッチンに行き、時計を見た。夢の中でビルは姿を現さなかったので、私がそこに登ってその塔で働いた。そしたら突然、でっかいケーブルが切れて頭を切ったんだよ。夢の中で頭が地面に落ちるのを実際に見たので、今日はそこに登るつもりはない!」と教会の男性は答えました。グループの別の労働者もそこにいました。彼は近くの教会の会員でした。この男は笑って「俺は迷信深くないから、俺がそれをやる」言いました。職長は同意し、男は掘削塔へのはしごを登っていきました。グループは作業を開始し、巨大なドリルパイプの一つを地面から引き抜きました。しかし、男は塔に10分も上って行かなかった時、教会の男性が夢で見たように、巨大なケーブルが壊れて頭を切り落とされたのです!


あなたは、「夢で亡くなった男性はクリスチャンの方だったのに、なぜ主は彼にも警告しなかったのですか?」と尋ねるかもしれません。異言の祈りでこの領域に入ると、あなたは別のより深い次元にいる事を忘れないで下さい。この領域では、祈る方法が分からない事を祈れます。聖霊は祈りを通して助けて下さいます。このクリスチャンの男性が通っていた教会は祈りを信じていましたが、彼らの祈り方は「主よ、助けが必要な人を助け、祝福が必要な人を祝福して下さい。あなたにできる事をして下さい、主よ。アーメン」というようなものでした。一方、異言で祈る人は、超自然的に神に話しかけ、祈る必要のある事を祈れます。聖霊は神の御心を知っており、神の計画と目的がこの地上にもたらされるように、信者が神の御心に従って祈るのを助けます。スミス姉妹が自分の教会で命の危険にさらされている誰かの為に祈った時、それが起こりました。彼女は状況が何であるか、誰が関与しているかを知りませんでした。しかし聖霊はそれを知っていたので、スミス姉妹がその男性に代わって状況を祈るのを助けました。最終的に、スミス姉妹がその重荷を負い、その男性が夢の中で神の警告に従って行動したので、その人の命は救われたのです。


祈りによって神が働く


私が話したような話を人々が聞くと、多くの場合、彼らは次のように尋ねます。「何故そうしなければならないのですか?誰かが祈らなければ、神はそのクリスチャンを救えなかったのですか?スミス姉妹が祈っていなかったらどうなってましたか?」あの状況で誰かが祈っていなかったら、その男の命は恐らく死んでいたでしょう。「でも、神がその人を救いたいと思っているなら、なぜ神が自らそうしなかったのですか?イエスが死からよみがえられた時、『全ての力と権威は天と地の両方で私に与えられている』と言わなかったでしょうか。それは、教会のかしらが自分のやりたい事を何でもする権限を地上で持っているという事ではありませんか?」


まず、イエスが「私には天においても地においても、全ての権威が与えられています。」と言った時、イエスは直ぐ「ですから、あなたがたは行って」と言って、地上でその権威を教会に委任したのです(マタイ 28:18-19)。新約聖書は、イエスと教会との関係を説明する為に、何度も人の体のたとえを使用しています。イエスはかしらであり、私たちはイエスの体であり、かしらは体から離れて行動しません。あなたの頭は、あなたの体を通してでなければ、いかなる権威も行使する事はできません。多くの場合、人々は次のように言って謙虚にしているようにします。「主は私を必要としませんが、私は主を必要としています。」それは、「私の頭は私の体を必要としないが、私の体は私の頭を必要としている」と言っているようなものです。頭と体が機能する為には、お互いが必要です。教会のかしらとキリストの体についても同じ事が言えます。イエスはこの世でご自分の御心を実行する為に、ご自身の体を必要としており、キリストの体はイエスを必要としています。


二つ目に、「神は私たちの祈りの生活によって制限されているようです。誰かが神に祈らない限り、神は人類の為に何もする事ができません」という事だと思います。これは、メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーの著書からの声明です。私はそれを読んだ時は、本当かどうか分かりませんでした。聖書を調べましたが、納得のいく答えが見つかりませんでした。しかし10年後、祈りと信仰をテーマにした別の著者を読んでいた時、彼は殆ど同じ事を述べていました。この著者は、「神は私たちの祈りの生活によって制限されているようです。誰かが神に求めない限り、神は人類の為に何もする事ができません」と述べています。その後、この著者は「何故そうなのかは分からない」と補足の考えを追加していました。その最後の発言は私を悩ませました。この著者の言う事が真実なら、その理由を知るべきです!答えを見つける唯一の方法が、聖書を調べる事にあると私は知っていました。私が学び、祈っていると、主は私の心に「始まりの書に戻りなさい」と言われました。私は主が創世記を意味している事を知っていました。それで私は創世記を学び始め、神が世界とその全てを造った事を知りました。それから神はアダムを作り、「アダム、私はあなたに、私の手の全ての事を支配させます」と言いました。アダムはある意味で「この世の神」になったと言えます。つまり、神はアダムをこの自然界を支配する立場に置いたのです(創世記 1:26-28、詩篇8)。しかしその後、アダムは神に背いてサタンに自分の身を売って、神に対して大きな罪を犯しました。アダムにはそれを行う道徳的権利はありませんでしたが、法的にはそうする権利がありました。その後、サタンがこの世界の神になったと聖書は述べています。つまり、サタンがこの堕落した世界体制の支配者になったのです(2コリント 4:4)。そしてエペソ 6:12で、パウロはサタンの堕落した王国について述べ、悪魔の勢力のサタンのヒエラルキーを列挙しています。


エペソ 6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」


また、使徒ヨハネは、サタンがこの世の神であると言いました。


1ヨハネ 5:19「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある事を、私たちは知っています。」


私たちをサタンの支配下に売り飛ばした最初のアダムは人でした。従って、義は、人間が人間の罪の代価を支払う事を要求しました。つまり、アダムがサタンに地上の法的な支配権を与えたので、霊的存在である神が来て、サタンを追い出す事ができなかったという事です。だからこそ、サタンはイエスにこう言う事ができたのです。「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての王国とその栄華を見せて、こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全てあなたにあげよう』」(マタイ 4:8-9)。それが、神がイエスを人として生まれるように遣わした理由です。サタンの捕らわれから人を贖う為です。イエスは神の神聖な子でもありますが、人間として生まれる為にその強大な力と栄光を置いたのです(ピリピ 2:7)。イエスがサタンを打ち負かし、敵の手から私たちを贖ったのは、人間としてでした。イエスはあらゆる点で私たちと同じように誘惑されましたが、罪を犯しませんでした(ヘブル 4:15)。イエスは神としてではなく、人として死にました。イエスは決して罪人にはなりませんでしたが、私たちがイエスにあって神の義とされる為に、私たちの罪がイエスに課された時、イエスは罪にされました。(2コリント 5:21)。アダムが罪を犯した時、肉の弱さを持つ事になりました。サタンはそれにつけこんで、この地上を支配するようになったのです。権威を持つ者として振る舞い始めたのです。


アダムの罪から人類は死に向かいました。そして、全てがサタンの支配下に陥ったのです。その全てから救う為に、神はイエス・キリストを人として地上に送りました。イエスの死、埋葬、復活によって贖いが完了すると、イエスは獲得した権威をサタンからご自身の体である教会に委任しました。人がこの人生に関する事柄について信仰をもって神に祈り、求める時、神は介入して地上でご自分の御心を実行します。イエスご自身が、人にそのような権威を与えたと宣言しました。


マタイ 16:19「私はあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐ事は天においてもつながれ、あなたが地上で解く事は天においても解かれます。」


天国で何かが行われる前に、まず地上で何かが行われる事に注意して下さい!別の訳では、「地上で禁止する事は天でも禁止され、地上で許可する事は天国でも許可されます」となっています。ですから、イエスはかしらであり、私たちはイエスの体です。神の権威は、私たちがこの地上で権威を取る時に、私たち、教会を通して与えられます。私たちのかしらが私たちの体から離れて経験をしないのと同じように、私たちのかしらであるイエスは、ご自身の体である教会から離れて、この地上で権威を行使しません。私たちは、主イエス・キリストの教会として、私たちの権威の範囲を十分に認識していません。時々、私たちはそれを垣間見る事ができ、御霊によってキリストにあって私たちが誰であるかについてのより大きな啓示に足を踏み入れますが、誰もまだ完全な権威の領域で一貫して歩いた事はありません。しかし、神はこの終わりの日に、まさにそれを行う信者の一団を立ち上げたいと望んでおられます。


御父に訴える


私たちの権威についてのこの理解を心に留めて、御霊によって祈る事に関するこの議論の重要な箇所を見てみましょう。イザヤ書の次の聖句に基づいて行動するのを学ぶ事は、霊と知性の両方で祈る私たちの祈りの生活の不可欠な部分であるべきです。


イザヤ 43:25-26「私、この私は、私自身の為にあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。私に思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かす為、あなたの方から述べたてよ。」


「共に論じ合おう」という言葉は、神が何を意味するのでしょうか。私たちは、私たちの罪に関して神が言われた事を思い出さなければなりません。悪魔は私たちを非難しようとしますが、私たちは悪魔を笑う事ができます。私たちは悪魔に、神が私たちの罪を赦し、私たちの罪を思い起こさせない事を宣言する事ができます。私たちが自分の罪を認め、考えを改めるなら、神は私たちがした悪い事について責められません。その自信があれば、大胆に神の臨在に入る事ができます。これと同じ原則が、あなたが祈っているもの全てに当てはまります。あなたの必要性について御言葉で神が言われた事を、祈りの中で神に思い出させて下さい。あなたが正当化されるあなたの理由を述べて、神にあなたの事について尋ねてみて下さい。それらの聖句をあなたの心に植えて、使って下さい。御言葉はあなたにとって益なのです。神は「共に論じ合おう」と言われました。そうするように招いておられるのは神です。あなたは神に自分の事を聞いてもらい、神はあなたにご自身の真理を教えます。もちろん、自分の事を話しても、いつも望む答えが得られるとは限りません。


ある時、自分の人生の困難な状況にこれらの聖句を当てはめた時がありました。それは、異言で祈る事と、私たちの知性が理解できる言葉を使って、御父に私たちの事を聞いてもらう事との関係を示しています。妻と私がワシントン州で伝道していると、姉から電話があり、70歳の母が危篤状態にある事を告げられました。妹は何をすべきか分からなかったので、私は母の牧師であるウッド兄弟に電話して状況について話しました。彼は私に言いました。「ケニー兄弟。あなたの母が呼んでいます。私があなたなら、家に帰ると思います。状況は深刻です。」集会を開いていた教会の牧師に相談したところ、集会を終えて、あなたの母の所へ行っても良いと言われました。それで、私はその夜の会議を閉じました。しかし、礼拝がまだ続いている間、私は講堂の横にあるホールでしばらく異言で祈って過ごしました。私は自分の最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げ、母の事について主に聞く心の準備をしていました。


ウッド兄弟の話から、母の状態は危篤で、死んでしまうかもしれないと思いました。それで、しばらく異言で祈った後、私は言いました。「主よ、私は母に関してあなたに聞いてもらいたいと思います。私は彼女をあきらめる事はできません、主よ。私が六歳のとき、母は私たちの為に沢山の事をしてくれました。父は私たちを見捨てました。彼女は私たちと一緒にいて、神経質、精神的、肉体的に完全に崩壊するまで、私たち四人の子供全員の為に生計を立てようとしました。その上、主よ、私は若い頃に病気で苦しんでいて、他の人のように走ったり遊んだりする事ができなかったので、他の子供たちよりも母の近くにいたのです。そして、父が私たちを去った後、私は彼女に私の全ての愛を息子として注ぐだけでした。主よ、母は子供たちの為に沢山の事をしてくれました。やっと彼女の為に何かできる場所にたどり着いたのです。主よ、それがわがままである事は分かっていますが、彼女を手放す事はできません。彼女はまだ68歳です。」異言で祈り続けている内に、私は御霊の領域に入りました。それから、聖霊が私が異言で祈った事を解釈する事を許して下さり、主は私に言いました。覚えておいて下さい。神は「共に論じ合おう」と言われました。主は私に言われました。「パウロは『死ぬ事は益、私の願いは、世を去ってキリストと共にいる事です。その方が、遥かに望ましい、私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住む方が良いと思っています』と言いました」それから主は言われました。「あなたが彼女を天に行かせてあげる方が、彼女には良いのです。彼女はあなたの説教を聞いた事がなく、信仰のメッセージを垣間見る事さえありません。彼女は信じる方法を知らない霊的な幼子であり、多くの苦しみを受けるでしょう。あなたが彼女を天に帰らせてあげる方が、彼女には良いのです。」主はご自身の主張を私に教えました。今度は私が自分の言い分を訴える番でした。


私は涙ながらに言いました。「主よ、利己的である事は分かっていますが、そうする事ができません。私は母をとても愛しています。もし、母が今死んだら、私はあなたに腹を立てるつもりはない事をあなたに知ってもらいたいのですが、私もそれについて良く思う事はありません。私はあなたに仕え続け、あなたの御心を実行します。しかし、私が生きている最も長い日、私はそれを考えるたびに、あなたが母を早く天に帰らせた事をあなたに思い出させるつもりです。天国に行った時、その事を思い出すたびに、あなたにそれを思い出させるでしょう。」


その時、主は言われました。「私はあなたが言う事を何でもしよう。」私は言いました。「母に少なくとも80年与えて下さい。」主はそれに答えてくれました。母が80歳になった時、次の2週間以内に、彼女は天に帰りました。しかし、彼女は聖霊に満たされ、異言で話すのを私たちが見る事ができるほど長く生きました。そして、良い形で天に帰ったのです。信者の権威を神に感謝します!私たちはその権威を持って前進する方法を学んでいますが、それは御言葉によれば、御霊によって祈る方法を学ぶ事から始まるのです!私たちの多くが知らない祈りの奥深さがあるのです。殆どの人が到達していない祈りの場所があります。しかし、私たちが助け主に耳を傾けて従うなら、御霊は忠実に私たちをより高い次元の祈りへと導いてくれるでしょう。私は、この祈りの領域において、キリストの体としての私たちの現状に満足していません。私たちは、本来あるべき場所から遠く離れています。しかし、ありがたい事に、多くの人が大きな一歩を踏み出していると信じています。私たちは内なる聖霊の助けを借りて、祈りと執り成しのより深い領域へと進み始めています。


神は私を用いない


私が異言で祈るように神に導かれた多くの素晴らしい経験は、皆さんにも起こるべきです。クリスチャンが祈りの中で主にもっと時間を割くなら、それは真実でしょう。「神は決して私を用いない」とあなたは言うかもしれません。第一に、もしあなたが神に用いられたいと思うなら、あなたは自分自身を神に用いられるようにしなければなりません。第二に、御霊によって祈るようにという聖霊の促しを感じたら、聖霊に従わなければなりません。あなたは、「神が私に話しかけた事はないと思う」と言うかもしれません。


聖霊は絶えずあなたの霊とコミュニケーションを取っていますが、あなたは御霊が話す時、その声を認識できないかもしれません。恐らく、あなたは主との交わりを十分に深めていないので、主の言っている事を理解する事ができません。しかし、異言で祈るという神から与えられた超自然的なコミュニケーションの手段を通じて、神をよく知るようになるにつれ、神が語る言葉をより良く聞く事ができるようになります。聖霊はあなたに何かを強制するつもりはありません。あなたに重荷を感じさせ、促し、または内において、祈りたいという思いを与えるでしょう。しかし、これらの内なる促しや衝動を無視し続けると、ある時点でそれらを経験しなくなります。


多くの御霊に満たされたクリスチャンの問題は、彼らが異言で少し話すと、それで終わってしまう事です。彼らは祈りの場所を離れ、日々を過ごします。しかし、信者が異言で十分祈るなら、神は彼らを用いる事ができます。ですから、主との交わりにもっと時間を費やして下さい。主をたたえ、主を崇め、あなたの霊と知性をもって主を礼拝して下さい。そうする事で、あなたはますます神に用いられるようになります。そうすれば、神が特定の人や状況について祈る為に誰かを探している時、神はあなたを選びます!


啓示は御霊によって


神は、私たちの益と悟りの為に私たちが受け取れるように、沢山の知恵を用意して下さいました。しかし、御霊の中を歩まなければ、その神聖な知恵を逃してしまいます。


1コリント 2:9「しかし、この事は、「目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、人の心に思い浮かんだ事がないものを、神は、神を愛する者たちに備えて下さった」と書いてある通りでした。」


人々は、「私たち全員が天国に着いたら、それはとても素晴らしい事です。神が神を愛する私たちの為に準備しておられる事は、目も耳も聞いた事もありません!」とよく言います。いつの日か、神が天国で私たちの為に用意して下さったものを楽しむ日が来るのは事実です。しかし、それはこの箇所が言っている事ではありません。


1コリント 2:10「それを、神は私たちに御霊によって啓示して下さいました。御霊は全ての事を、神の深みさえも探られるからです。」


パウロは、私たちが自然な感覚で神について知る事はできないと言っています。私たちの目は、神が神を愛する私たちの為に用意されたものを見た事がなく、耳も聞いていません。しかし、祈りを通して交わりを育む私たちには、聖霊によって神について深い事柄の啓示が与えられます。偉大な贖いの計画についてパウロに啓示を与えたのは聖霊でした。隠されていた奥義をパウロに明らかにしたのは聖霊でした(エペソ 3:3-6)。あなたは神の言葉を研究し、それが何を言っているのかについての知識を得る事ができます。しかし、御言葉を引用できるからといって、それらが現実のものになったわけではありません。あなたが真理を現実化させる為には、思考の一新や聖霊の助けなどが必要です。


かつて、私は新約聖書の大部分を引用できました。最初に説教を始めた時、私はただ聖書をできるだけ速く、一生懸命に喋っていました。会衆は私に「もっとゆっくりと話して下さい。何を言っているか分かりません」と言いました。そのようにして四年間奉仕した後、私は聖霊のバプテスマを受け、私は毎日、異言で祈り始めました。私が異言で祈り、祈りの中で御父と交わると、直ぐに聖書は私にとって新しい本のようになりました。全てのページと全ての行が異なって見えました。私が読んでいると、御言葉の超自然的な啓示がページから飛び出しました。パウロは、聖霊がどのように神の深い所を調べ、神が人間に真実を明らかにする事ができるかを示しています。


1コリント 2:10-13「それを、神は私たちに御霊によって啓示して下さいました。御霊は全ての事を、神の深みさえも探られるからです。人間の事は、その人の内にある人間の霊の他に、一体誰が知っているでしょう。同じように、神の事は、神の霊の他には誰も知りません。しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えて下さったものを知るのです。それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられた言葉ではなく、御霊に教えられた言葉を用います。その御霊の言葉によって御霊の事を説明するのです。」


聖書のこの箇所は、私自身の人生で何度も成就しました。私が主を待ち望み、異言で祈っていた時、聖霊は私を聖書の二、三章を一節ずつ導いて下さいました。ひざまずいて立ち上がる頃には、その間に聖霊が私に明らかにした全ての啓示のおかげで、それらの章が全く異なる光の中で見えていました。私はひざまずいて異言で祈りながら、神の言葉のより深い事柄を学びました。実際、神との歩みの中で私に起こった最大の出来事は、異言で祈った結果としてもたらされました。


例えば、私が結婚しているという啓示を受けたのは、若い説教者として異言で祈っていた時でした。また、同じ内なる啓示によって、私には二人の子供が生まれる事も知っていました。一番上の子は男の子で、二番目の子は女の子です。 後で妻に会って結婚した時、私は神が私たちの子供たちについて私に言われた事を彼女に話しました。彼女が私たちの最初の子供を妊娠していた時、私たちは男の子の名前だけを選びました。二人目は女の子の名前しか選びませんでした。私は家族に「この第一子は男の子です」と言い続けました。「でも、もしその子が男の子でなかったら、仮に…」彼らは言いました。「私は『仮定』に基づいて生きてはいません」と答えました。頭の中で全てを理解しようとするのをやめて、あなたの人生の為の神の計画を異言で祈る時間を取って下さい。私が御霊の中で祈り、御父と交わる時間を取ると、聖霊は私の人生とミニストリーに対する神の計画の様々な段階を明らかにして下さいました。


ロバート兄弟と私はお互いに大きな敬意を払っており、何度も一緒に素晴らしい交わりを楽しんできました。その人は神の前に出る方法を知っていました。私は何度も彼と一緒にいましたが、それらの経験から多大な恩恵を受けてきました。交わりの期間中、ロバート兄弟と私は様々な話題について話しました。異言の祈りの領域に関して言えば、私たちには多くの共通点がある事が分かりました。


私たちのミニストリーが何年にもわたって取ってきた方向性が、同じ方法で同じ御霊によって私たちにもたらされた事に気づきました。私たちは長い間、異言で祈っていましたが、それから私たちが祈っていた事を御霊によって解釈し始めました。神の御言葉の啓示も、私が長い間御霊の中で祈っていた時にもたらされました。私はおよそ十五年間牧師を務めていましたが、私が尊敬する他の牧師を本で読んで、かなり順調に進んでいました。しかし、アーカンソー州の西部で最後に牧師を務めた教会にいる間に、何かが変わりました。通常の観点から言えば、私たちは満足すべきあらゆる理由がありました。当時、教会は毎年牧師を投票するのが慣習でした。しかし、会衆は私に、「ケニー兄弟、あなたが望むなら、私たちはあなたを無期限に投票します。あなたが望む限り滞在して下さい」と言いました。


当時は前例のない事でした。しかし、私は何故か不満がありました。「主よ、私はどうしたのですか。ここは全てとても良いのですが、内面の不満を振り払う事ができません!」と私は祈りました。ついに、私はこの問題について真剣に神を待つ事にしました。私は妻に、「もし教会の人が立ち寄ったら、緊急時以外は邪魔されたくない事を伝えて下さい」と言いました。その間、私は断食をよくしました。時々、一日中断食する事もありましたが、殆どの場合、一~二食抜いて、その時間を神を待つ事に費やしていました。また、多くの時間を御霊によって祈りました。又、エペソの聖句を声に出して読んでいました(エペソ 1:15-23、3:14-21)。


それから私は、時には黙って、時には異言で祈って、神の前で待っていました。その教会の祭壇で神を待っていた時、私は時々御霊の領域に入り、現実の状況に対する意識を殆ど失う事もありました。私はトランス状態、つまり、人の身体感覚が一時的に停止し、自分が身体を持っている事さえ意識しない事について話しているのではありません。私が神を待っていた時、私は御霊の領域に入る事を意味しています。自分の霊の奥深くに手を伸ばして物を引き出し、祭壇に置くのが見えるように思えました。私はその質問を祭壇に置き、再び自分の霊に手を伸ばしました。すると答えが来ました。私が満足していない理由は、他にやるべき事があるからです。私はその啓示を祭壇に置き、再び手を霊の内に伸ばしました。


やっと霊の底まで落ちたようで、何かを引っ張り出した感じがしました。私は、タコのように触手が突き出ているものを見ました。私はそれを持ち上げて尋ねました。「主よ、一体これは何ですか?」主は言われました。「古い伝統の教えです。」私は言いました。「私はずっと前にそれを取り除いたと思っていました!」私はそれを祭壇の上に置いたのではなく、捨てたのでした!神に明け渡す為に祭壇に置くべきものもあれば、永遠に取り除くべきものもあります。祈りの時に捨てなければならなかったのはそれだけではありませんでした。私はまた、見た目は悪くないが、完全に正しくもない何かを自分の霊から引き出しました。私は神に尋ねました。「これは何ですか?」 「それは、あなたが聖霊派に属して以来、自分自身のものとして採用してきた聖霊派の伝統の一部です」と主は言われました。明らかに、それも必要のないものでした。


ある日、教会の祭壇にひざまずいて異言で祈っていると、主は私に言われました。「私はあなたに啓示と幻を教えます。」六か月後、神の言葉に関する啓示が私の心に波のように押し寄せ始めたので、私は妻に「一体、私は何を今まで説教してきたのか」と言いました。私はとても無知でした。その頃、それまでの十五間のミニストリーで学んだ事を合わせた長さよりも、私は聖書と神のより深い事柄についてより多くを学びました。その次の年に、ビジョンが与えられました。十年の間に、主イエスご自身が七回私に現れました。そのうちの二回、私に一時間半も話をしてくれました。しかし、肉がやりたい事を何でもして時間を過ごした後で、起こったのではありません。啓示とビジョンは、私が神の御前で何時間も異言で祈りながら、交わりを待っていた時に、御霊によってもたらされました。御言葉を食べれば、幾らかの啓示を受け取る事ができます。御言葉を心の奥深くに植え付ける為には、継続的に御言葉を食べ続ける事が重要です。しかし、来るべき事の啓示、あなた自身の人生に対する神の計画と目的の啓示、そして御言葉のより深い事柄の啓示は全て、異言という超自然的なコミュニケーションを通して、神と交わる事によってもたらされます。


将来の動きに関する啓示


私はミニストリーの早い段階で、異言で祈る事によって、聖霊が私を準備してくれる事を知りました。例えば、自分の家で勉強していた時、私は異言で一時間祈る事にしました。それから、悪魔は私が時間を無駄にしていると言い続けたので、私は更に二時間、更に四時間祈る事にしました。しかし、異言で祈ってから五時間目に近づくと、聖霊の強い助けの下で祈り始めました。殆どの人は異言で十分長く祈って、御霊の力強い助けを得る事はありません。彼らは地表の直ぐ下を掘り下げ、できるだけ少ない時間と労力で「石油」を見つけたいと考えています。


1943年に私が異言で祈り、聖霊の助けが強くなった時、私から突然、これから来る啓示が流れ始めました。主は、「第二次世界大戦の終わりに、アメリカに神の癒しが復活するだろう」と言われました。私はそれらの言葉を書き留め、紙に日付を付けました。一年半後、私はテキサスの聖霊派の集会で説教をしていましたが、説教の途中で、主が私に語られた言葉を書き留めた聖書の紙を見ました。それで私は人々に言いました。「少し前に私が祈っていた時に、神の御霊が私に言われた事を読ませて下さい。」


それから、私はその言葉を読みました。「第二次世界大戦の終わりに、アメリカに神の癒しが復活するだろう」私がその言葉を読んだ瞬間、神の力がその群衆に降りました!神の御霊が風のように流れ込み、部屋にいた全ての牧師が通路を駆け下り、祭壇に倒れました。他の全員が床に倒れ、全員が異言で祈り始めました。私は説教の真っ最中でした!私たちには、説教者が説教している間にも、神の力が現れるようなミニストリーがもっと必要です。もし今日の聖霊に満たされた信者が、聖霊の動きについて神を信じ始め、当時の聖霊派の信者のように御霊によって祈るなら、当時と同じ強大な力が今日も現れるでしょう。


神の癒し


神の癒しの復活は1947年に始まり、神の癒しの力で国中を席巻し、1958年まで続きました。この地上での神の動きは、岸に打ち寄せる海の波のようなものです。そして、それらの波が聖霊の風に吹かれ始めると、誰もがそれらに飛び乗る事ができます。


例えば、ある聖霊派の牧師は私にこう言いました。「このリバイバルが始まる前、妻と私は三十五年間一緒にミニストリーをしていましたが、病人の為に祈ったり、癒しのミニストリーを行ったりした事はありませんでした。私たちは歌で奉仕を行い、妻は御言葉からの短いメッセージをしました。それから、罪人に救われるように勧め、祭壇に呼びかけると、人々は救われました。しかし、その神の癒しの波が来た時、私たちはその波に乗りました!私たちは病人の為に祈り始めました。そして驚いた事に、人々は至る所で癒され始めました!ある全盲の女性は、私たちの奉仕の下で即座に癒されました。」他の人々も同じ事を私に話ました。彼らも波に乗りました。さて、それは良い事ですが、人々は、御父との個人的な交わりの時間をおろそかにしてまで、神の霊が動いている時に波に乗らないように注意する必要があります。


大いなる神の癒しの力の働きの中で、「癒しの声」と呼ばれる癒しの伝道者たちの組織が結成され、私はその組織の牧師の一人でした。ある日、仲間の「癒しの声」牧師が私に尋ねました。「あなたのミニストリーはどのようにして突然開花したのですか?それを実現する為にあなたは何をしましたか?」目標を達成したり成功したりする為に「自分」ができる事を常に探している人もいます。しかし、その答えは、人間の生まれ持った力や考える力にはありません。私はただこう答えました。「私が何をしたかお話ししましょう。それは神を待ち望み、聖霊の中で何時間も祈る事でした。そのようにして、私はミニストリーの全ての歩みと、全ての段階で指示と啓示を受けてきました。」


1958年、私はダラスの教会で説教をしていた時、突然啓示によって、「次のリバイバルは教会にあります!」と言いました。会衆は、私が聖霊派の教会を意味していると考えていました。しかし、私は全くそのつもりはありませんでした。実際、神の御霊の次の波は、聖霊派の教会を完全に見逃す所でした。私は、次のリバイバルは教団に属する教会の中で行われると言ったのです。その後、間もなくカリスマ運動が始まりました。私たちはかなりの数年間、その素晴らしい波に乗り、多くの教会の人々の生活は、聖霊の満たしを受けて劇的に変化しました。その後、そのリバイバルは一筋縄ではいかず、事実上沈静化しました。


特定の教派の教会の中には、聖霊を受け続けて異言を話し続けている人々が確かにいます。その後、私たちは神の言葉を教える大きなリバイバルを経験しました。それは一部の人々が「信仰のメッセージ」と呼んでいるものです。私はその言葉が好きではありません。私はそれを単に「神の言葉への信仰」と呼んでいます。私たちは、関係のない何かを信じようとする事について話しているのではありません。私たちは、神が御言葉で言われた事をただ受け入れて信じるのです。この教えのリバイバルは、主が私に「行って、私の民に信仰を教えなさい」と言われ、何年も前に私に与えられた命令に始まりました。御言葉を神の民に蒔いた結果、大きな収穫が得られました。私は何年にも渡ってそのメッセージに忠実であろうと努めましたが、主が私に「今日、私の体には信仰の良い教師が他にも沢山います」と言われた日が来ました。長い間、そこにいるのは私の声だけのようでした。


主は続けて言われました。「今、あなたは行って私の民に聖霊について教えなければなりません。カリスマの信者は私を賛美する方法を知っていますが、彼らが全く知らない御霊の動きがあります。私が来るのが遅くなり、あなたが教えなければ、その理解は将来の世代に失われます。」もちろん、私たちは神の言葉の教えを決して置き去りにする事はありません。しかし、神は、過去数十年にわたってキリストの体の中に築かれた聖書の教えの確固たる基盤と、御霊の動きを結び付けたいと望んでおられます。この組み合わせにより、聖霊の次の動きはこれまでで最大のものになります!


私は自分の霊でそれを感じる事ができます。次の波が来ています。準備をして下さい。神が来ると言ったからといって来るのではありません。私たちは、これまで話してきたより深い祈りの領域に入り、神が望まれる事を生まなければなりません。海に行って波が打ち寄せるのを見た事があるなら、波が岸で砕ける前に、海の深い海域で波が始まる事を知っているでしょう。波のエネルギーは、岸に打ち上げられるのを見るずっと前に始まります。それが異言で祈る事が霊的領域で達成する事です。あなたが異言で祈る時、その霊的な「波」があなたの肉眼で見られる前に、あなたは神の霊の次の動きに勢いをつけます。私たちは時間をとって、御父と交わり、聖霊によって祈る事に専念する必要があります。しかし、この終わりの日に神の霊の次の強力な動きを先導しようとするなら、裁きは神の家から始めなければなりません。神がご自分の民の為にしたい事は他にも沢山あります。しかし、クリスチャンが自分自身を謙虚にし、ささいな違いを忘れ、団結して祈りの中で御霊の領域に入らない限り、神はご自分のやりたい事ができません。神は、この終わりの日に祈るようにとの呼びかけに答えるよう、私たちに呼びかけておられます。イエスはもう直ぐ来られますが、来る前に、イエスがしたい事があるのです。そして、イエスがこの地で行う事は、私たち、キリストの体を通して行われるのです。メンバーの半分が一方の方向に進み、残りの半分が別の方向に進むなら、キリストの体は調和がありません。だから神は私たちに準備をさせています。


神は私たちに共通の目標を求めています。異言で祈るようにという聖霊の促しに従う事です。次の波は、その栄光の全てで私たちに押し寄せようとしています。見逃してはいけません。私たちはヒーリング・リバイバルと呼ばれる波を見てきました。私たちはカリスマ運動と呼ばれる波を見てきました。私たちは信仰の波と神の言葉の教えを見てきました。しかし今、別の波が来ています!聖霊の波です!私たちは限られた形で聖霊の力を見てきましたが、神の力をより高いレベルに、そして私たちがこれまでに見た事がないほど、大きい波が来ています。古い御霊の波に留まらないで下さい。聖霊の中で祈る事によって、霊の領域の深海に泳ぎ出して、この時間の神の目的の次の波に乗って下さい。それから、神の力と栄光を築き上げていく新しい波にあなたが乗れるように祈り続けて下さい。


祈りへの呼びかけ


主は私に、祈りの経験を積んだ私たちが、現在の信者の世代にそれらの真理をどうにかして伝えない限り、深い祈りと御霊の執り成しが失われるだろうと言われました。私は何年にもわたって、偉大な仲介者であり、聖霊によって祈るというこのより深い領域の専門家になった何人かの人々を知っています。しかし、神は、それらの少数のように祈る事ができる人をもっと望んでおられます。この終わりの日に成し遂げなければならない仕事があるので、神はより深い領域で祈る方法を知っているより多くの信者を持っているに違いありません。この終わりの時に、神の計画と目的が達成される為には、ますます多くの神の民が自分の肉に対して「いいえ」と言い、神の奥義を神に祈る事に時間を費やさなければなりません。


数十年前、ロシア人が最初の衛星を宇宙に打ち上げた時、私たちは皆心配しました。宇宙競争で彼らに先んじて最初の宇宙飛行士を宇宙に送り込む為に、数十億ドルが費やされました。しかし、最初の宇宙飛行士が宇宙に行った時、彼らはそれほど遠くまで行きませんでした。彼らが先に進まなかったのは、以前に、そこにいた事がなかったからです。彼らは宇宙での操縦方法を知りませんでした。同じように、私たちの何人かは、祈りによってのみ、霊の領域の端に到達しました。霊の領域での操作方法が分からないので、少しずつ対処する必要があります。しかし、私たちが異言で祈りながら、神に自分自身を委ね続ける時、神はより深い祈りの領域へと私たちを導きます。正直に言います。私は何度か遠くに行った事がありますが、聖なる恐れを経験しました。私は戻ってこられないと思いました。それがエノクに起こった事かもしれないと私は信じています。彼は霊の領域から遠く離れてしまい、元に戻れなくなってしまいました。描写する事ができない、時間と空間を超える霊の領域への動きがあります。中には、足が濡れるほどしか、祈りの領域に足を踏み入れていない人もいます。水の中を歩く子供たちのように、彼らは自分が経験した事を話します。「それはとても素晴らしかったです!それは御霊による究極の祈りでした。」しかし実際には、彼らの祈りの経験はほんの始まりに過ぎませんでした。これらの人々は、霊の領域に触れただけです。彼らは、それが膝や腰の深さだけでなく、海の底に触れる事ができないほど深くなるまで、霊の深海に足を踏み入れる必要があります!それから彼らは泳ぎ出して、神が祈りの中で彼らの為に持っているものを十分に楽しむ事ができます(エゼキエル 47)。


ただし、これらの事は必ずしも容易ではない事を理解する事が重要です。一つには、肉は私たちを引き留める為にあらゆる事をします。それが、神の言葉が私たちに肉を十字架につけるように教えている理由です。思考も私たちを引き止め、私たちを物理的な感覚の領域と目に見えるものに集中させようとします。それが、神が私たちに御言葉で思考を新たにするように言われる理由の一つです(ローマ 12:1-2)。私たちの思考が一新されると、祈りを通して神の霊の領域にさらに入る事ができます。しかし、祈りを求める神の呼びかけに応える人が増えるにつれて、神の力と栄光がこの地上でますます大きく現れ始めるでしょう。神の御霊の顕現と証明は、私たちにとって日常の自然と同じように、ありふれたものとなるでしょう。これこそが、私たちの心が切望してきた事であり、執り成しが何年もの間祈ってきた事です。御霊の領域は、実際には、御霊から生まれた私たちにとって自然な領域なのです。もちろん、私たちの体は自然な機能を持っているので、ある程度、自然界を歩き、その中で生きる必要があります。しかし一方で、私たちは自分の霊に、霊の父と意思疎通するという継続的な特権を持たせる事ができます。私たちは、日常的に自然を超えて霊を動かす事ができます。ですから、自然な、日常的な事に時間を割かないで下さい。それらの幾らかは悪ではなく、それらを追求するのにある程度の時間をかける事は問題ありません。しかし、自分の霊に注意を払うように気をつけて下さい。


あなたの霊が御言葉を食べ、天の御父と交わる機会を与えて下さい。異言で祈る実践をする事で、あなたの最も聖い信仰の上にあなたを築き上げて下さい。それほど時間はかかりません。そうする事で、あなた自身の人生は変化し、力を与えられ、あなたの祈りの生活は強力な力となり、この終わりの日に神の目的を達成するのに役立ちます。神は私たちが御霊の中でさらに前進し、より大きな祈りの領域で、どのように行動するかを学ぶのを望んでおられます。私たちが祈りの呼びかけに忠実に従う時、より深い霊の領域へ達し、神の栄光の充満に達するでしょう。主は私たちに祈りを呼びかけておられます。私はその呼びかけに応えようと決心しています。超自然的なものへの入り口を通り抜け、御霊の中で全く新しい祈りの領域に入って下さい。それは、啓示、指示、神との超自然的なコミュニケーションが継続的に提供され、神があなたに召された全ての事を成し遂げるのを助ける領域です。

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...