2023年1月1日日曜日

18 霊の領域

この終わりの日に、神は私たちをより深い霊の領域へと招いておられます。つまり、神の御霊に委ねる事を学べるように、神の御霊に敏感になるように自分自身を訓練する必要があるという事です。そうする時、たとえ状況や関係者について何も知らなくても、状況が発生した時に、神は私たちが御心を祈り求めるのを助けて下さいます。私たちはひざまずいて、「聖霊様、私は何を祈るべきか分かりませんが、あなたは助けて下さいます」と言う事ができます。天国に着くまで、どれだけ多くの偉大な奇跡が行われ、信者たちが喜んでそうしてきた為に、数え切れないほどの命が救われてきたかは分かりません。祈るのが大変だと感じた時、彼らは従いました。そして、彼らが異言で祈っていると、聖霊が彼らと共におられ、神の御心に従って未知の状況を祈る為に、彼らに促しを与えました。


助かった命


ある日曜の夜、スミス夫妻が既に眠りについた後、妻の方は祈らなければならないという大きな重荷を感じました。彼女は異言と深いうめき声で祈っていたので、夫の邪魔をしないように努めましたが、彼女のうめき声があまりにも大きくなり、夫を起こしてしまいました。スミス兄弟が目を覚まし、妻のうめき声を聞いた時、最初は妻が病気だと思いました。「どうしたの?」彼は彼女に尋ねました。「私には祈る重荷があります。私たちの教会の人々の何人かは危険にさらされています」と彼の妻が言いました。」夫の方は、「誰の事ですか?」と尋ねました。「分かりません。しかし、誰かの命が危険にさらされています。」彼女は答えました。二人はそれが誰であるかを考えようとしましたが、彼らが思いついたのは、休暇中で家に帰る為に、一晩中運転していた4家族だけでした。それで彼らは祈り、全ての家族の為に神の守りを宣言しました.それからスミス兄弟は眠りに落ちました。彼の妻も眠ろうとしましたが、祈りの重荷はまだ残っていました。彼女は再び異言と深いうめき声で祈り始めました。彼女はスミス兄弟を再び起こしました。彼の妻は夫にこう言いました。「私たちの会衆の別の人です。」彼女は、教会に通っている誰かの命が危険にさらされているという霊的な識別力、霊的な感覚を持っていました。それで、二人は再び一緒に祈り、そして、彼らの霊に幾らかの安堵感を覚えました。スミス兄弟は眠りに戻り、その妻も眠ろうとしました。しかし、彼女は祈るという重荷を振り払う事ができませんでした。彼女は異言で祈り始め、またうめき始め、しばらくして夫を再び目覚めさせました。彼は「さあ、ベッドから出て祈りましょう」と言いました。スミス夫妻が異言で一緒に祈っていた時、妻の方はその霊の重苦しさから解放された様子がありませんでした。 ついに、スミス兄弟はこう言いました。「主がその人が誰であろうと、前途に迫る危険を示す、夢やビジョンを与えて下さるように祈りましょう。」二人は同意して異言で祈りました。ようやくベッドに戻ったのは朝の四時で、その結果、その朝遅くに電話が鳴った時、彼らはまだ寝ていました。それは彼らの教会の男性の一人でした。


その朝彼が職場に現れた時、彼の職長は、掘削塔で働いていた人がその日現れなかったと彼に言いました。職長はその教会の男性に、「今日は塔での仕事だ」と言いました。彼は塔へのはしごを登り始めましたが、途中まで登った後、方向を逆にして降りました。「塔での仕事はしない」と男性は言い、職長は、「どうしてだ?」と尋ねました。「今朝の4時に夢を見たんだ。夢で目が覚めたので、私は時間を覚えている。水を飲みにキッチンに行き、時計を見た。夢の中でビルは姿を現さなかったので、私がそこに登ってその塔で働いた。そしたら突然、でっかいケーブルが切れて頭を切ったんだよ。夢の中で頭が地面に落ちるのを実際に見たので、今日はそこに登るつもりはない!」と教会の男性は答えました。グループの別の労働者もそこにいました。彼は近くの教会の会員でした。この男は笑って「俺は迷信深くないから、俺がそれをやる」言いました。職長は同意し、男は掘削塔へのはしごを登っていきました。グループは作業を開始し、巨大なドリルパイプの一つを地面から引き抜きました。しかし、男は塔に10分も上って行かなかった時、教会の男性が夢で見たように、巨大なケーブルが壊れて頭を切り落とされたのです!


あなたは、「夢で亡くなった男性はクリスチャンの方だったのに、なぜ主は彼にも警告しなかったのですか?」と尋ねるかもしれません。異言の祈りでこの領域に入ると、あなたは別のより深い次元にいる事を忘れないで下さい。この領域では、祈る方法が分からない事を祈れます。聖霊は祈りを通して助けて下さいます。このクリスチャンの男性が通っていた教会は祈りを信じていましたが、彼らの祈り方は「主よ、助けが必要な人を助け、祝福が必要な人を祝福して下さい。あなたにできる事をして下さい、主よ。アーメン」というようなものでした。一方、異言で祈る人は、超自然的に神に話しかけ、祈る必要のある事を祈れます。聖霊は神の御心を知っており、神の計画と目的がこの地上にもたらされるように、信者が神の御心に従って祈るのを助けます。スミス姉妹が自分の教会で命の危険にさらされている誰かの為に祈った時、それが起こりました。彼女は状況が何であるか、誰が関与しているかを知りませんでした。しかし聖霊はそれを知っていたので、スミス姉妹がその男性に代わって状況を祈るのを助けました。最終的に、スミス姉妹がその重荷を負い、その男性が夢の中で神の警告に従って行動したので、その人の命は救われたのです。


祈りによって神が働く


私が話したような話を人々が聞くと、多くの場合、彼らは次のように尋ねます。「何故そうしなければならないのですか?誰かが祈らなければ、神はそのクリスチャンを救えなかったのですか?スミス姉妹が祈っていなかったらどうなってましたか?」あの状況で誰かが祈っていなかったら、その男の命は恐らく死んでいたでしょう。「でも、神がその人を救いたいと思っているなら、なぜ神が自らそうしなかったのですか?イエスが死からよみがえられた時、『全ての力と権威は天と地の両方で私に与えられている』と言わなかったでしょうか。それは、教会のかしらが自分のやりたい事を何でもする権限を地上で持っているという事ではありませんか?」


まず、イエスが「私には天においても地においても、全ての権威が与えられています。」と言った時、イエスは直ぐ「ですから、あなたがたは行って」と言って、地上でその権威を教会に委任したのです(マタイ 28:18-19)。新約聖書は、イエスと教会との関係を説明する為に、何度も人の体のたとえを使用しています。イエスはかしらであり、私たちはイエスの体であり、かしらは体から離れて行動しません。あなたの頭は、あなたの体を通してでなければ、いかなる権威も行使する事はできません。多くの場合、人々は次のように言って謙虚にしているようにします。「主は私を必要としませんが、私は主を必要としています。」それは、「私の頭は私の体を必要としないが、私の体は私の頭を必要としている」と言っているようなものです。頭と体が機能する為には、お互いが必要です。教会のかしらとキリストの体についても同じ事が言えます。イエスはこの世でご自分の御心を実行する為に、ご自身の体を必要としており、キリストの体はイエスを必要としています。


二つ目に、「神は私たちの祈りの生活によって制限されているようです。誰かが神に祈らない限り、神は人類の為に何もする事ができません」という事だと思います。これは、メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーの著書からの声明です。私はそれを読んだ時は、本当かどうか分かりませんでした。聖書を調べましたが、納得のいく答えが見つかりませんでした。しかし10年後、祈りと信仰をテーマにした別の著者を読んでいた時、彼は殆ど同じ事を述べていました。この著者は、「神は私たちの祈りの生活によって制限されているようです。誰かが神に求めない限り、神は人類の為に何もする事ができません」と述べています。その後、この著者は「何故そうなのかは分からない」と補足の考えを追加していました。その最後の発言は私を悩ませました。この著者の言う事が真実なら、その理由を知るべきです!答えを見つける唯一の方法が、聖書を調べる事にあると私は知っていました。私が学び、祈っていると、主は私の心に「始まりの書に戻りなさい」と言われました。私は主が創世記を意味している事を知っていました。それで私は創世記を学び始め、神が世界とその全てを造った事を知りました。それから神はアダムを作り、「アダム、私はあなたに、私の手の全ての事を支配させます」と言いました。アダムはある意味で「この世の神」になったと言えます。つまり、神はアダムをこの自然界を支配する立場に置いたのです(創世記 1:26-28、詩篇8)。しかしその後、アダムは神に背いてサタンに自分の身を売って、神に対して大きな罪を犯しました。アダムにはそれを行う道徳的権利はありませんでしたが、法的にはそうする権利がありました。その後、サタンがこの世界の神になったと聖書は述べています。つまり、サタンがこの堕落した世界体制の支配者になったのです(2コリント 4:4)。そしてエペソ 6:12で、パウロはサタンの堕落した王国について述べ、悪魔の勢力のサタンのヒエラルキーを列挙しています。


エペソ 6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」


また、使徒ヨハネは、サタンがこの世の神であると言いました。


1ヨハネ 5:19「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある事を、私たちは知っています。」


私たちをサタンの支配下に売り飛ばした最初のアダムは人でした。従って、義は、人間が人間の罪の代価を支払う事を要求しました。つまり、アダムがサタンに地上の法的な支配権を与えたので、霊的存在である神が来て、サタンを追い出す事ができなかったという事です。だからこそ、サタンはイエスにこう言う事ができたのです。「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての王国とその栄華を見せて、こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全てあなたにあげよう』」(マタイ 4:8-9)。それが、神がイエスを人として生まれるように遣わした理由です。サタンの捕らわれから人を贖う為です。イエスは神の神聖な子でもありますが、人間として生まれる為にその強大な力と栄光を置いたのです(ピリピ 2:7)。イエスがサタンを打ち負かし、敵の手から私たちを贖ったのは、人間としてでした。イエスはあらゆる点で私たちと同じように誘惑されましたが、罪を犯しませんでした(ヘブル 4:15)。イエスは神としてではなく、人として死にました。イエスは決して罪人にはなりませんでしたが、私たちがイエスにあって神の義とされる為に、私たちの罪がイエスに課された時、イエスは罪にされました。(2コリント 5:21)。アダムが罪を犯した時、肉の弱さを持つ事になりました。サタンはそれにつけこんで、この地上を支配するようになったのです。権威を持つ者として振る舞い始めたのです。


アダムの罪から人類は死に向かいました。そして、全てがサタンの支配下に陥ったのです。その全てから救う為に、神はイエス・キリストを人として地上に送りました。イエスの死、埋葬、復活によって贖いが完了すると、イエスは獲得した権威をサタンからご自身の体である教会に委任しました。人がこの人生に関する事柄について信仰をもって神に祈り、求める時、神は介入して地上でご自分の御心を実行します。イエスご自身が、人にそのような権威を与えたと宣言しました。


マタイ 16:19「私はあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐ事は天においてもつながれ、あなたが地上で解く事は天においても解かれます。」


天国で何かが行われる前に、まず地上で何かが行われる事に注意して下さい!別の訳では、「地上で禁止する事は天でも禁止され、地上で許可する事は天国でも許可されます」となっています。ですから、イエスはかしらであり、私たちはイエスの体です。神の権威は、私たちがこの地上で権威を取る時に、私たち、教会を通して与えられます。私たちのかしらが私たちの体から離れて経験をしないのと同じように、私たちのかしらであるイエスは、ご自身の体である教会から離れて、この地上で権威を行使しません。私たちは、主イエス・キリストの教会として、私たちの権威の範囲を十分に認識していません。時々、私たちはそれを垣間見る事ができ、御霊によってキリストにあって私たちが誰であるかについてのより大きな啓示に足を踏み入れますが、誰もまだ完全な権威の領域で一貫して歩いた事はありません。しかし、神はこの終わりの日に、まさにそれを行う信者の一団を立ち上げたいと望んでおられます。


御父に訴える


私たちの権威についてのこの理解を心に留めて、御霊によって祈る事に関するこの議論の重要な箇所を見てみましょう。イザヤ書の次の聖句に基づいて行動するのを学ぶ事は、霊と知性の両方で祈る私たちの祈りの生活の不可欠な部分であるべきです。


イザヤ 43:25-26「私、この私は、私自身の為にあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。私に思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かす為、あなたの方から述べたてよ。」


「共に論じ合おう」という言葉は、神が何を意味するのでしょうか。私たちは、私たちの罪に関して神が言われた事を思い出さなければなりません。悪魔は私たちを非難しようとしますが、私たちは悪魔を笑う事ができます。私たちは悪魔に、神が私たちの罪を赦し、私たちの罪を思い起こさせない事を宣言する事ができます。私たちが自分の罪を認め、考えを改めるなら、神は私たちがした悪い事について責められません。その自信があれば、大胆に神の臨在に入る事ができます。これと同じ原則が、あなたが祈っているもの全てに当てはまります。あなたの必要性について御言葉で神が言われた事を、祈りの中で神に思い出させて下さい。あなたが正当化されるあなたの理由を述べて、神にあなたの事について尋ねてみて下さい。それらの聖句をあなたの心に植えて、使って下さい。御言葉はあなたにとって益なのです。神は「共に論じ合おう」と言われました。そうするように招いておられるのは神です。あなたは神に自分の事を聞いてもらい、神はあなたにご自身の真理を教えます。もちろん、自分の事を話しても、いつも望む答えが得られるとは限りません。


ある時、自分の人生の困難な状況にこれらの聖句を当てはめた時がありました。それは、異言で祈る事と、私たちの知性が理解できる言葉を使って、御父に私たちの事を聞いてもらう事との関係を示しています。妻と私がワシントン州で伝道していると、姉から電話があり、70歳の母が危篤状態にある事を告げられました。妹は何をすべきか分からなかったので、私は母の牧師であるウッド兄弟に電話して状況について話しました。彼は私に言いました。「ケニー兄弟。あなたの母が呼んでいます。私があなたなら、家に帰ると思います。状況は深刻です。」集会を開いていた教会の牧師に相談したところ、集会を終えて、あなたの母の所へ行っても良いと言われました。それで、私はその夜の会議を閉じました。しかし、礼拝がまだ続いている間、私は講堂の横にあるホールでしばらく異言で祈って過ごしました。私は自分の最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げ、母の事について主に聞く心の準備をしていました。


ウッド兄弟の話から、母の状態は危篤で、死んでしまうかもしれないと思いました。それで、しばらく異言で祈った後、私は言いました。「主よ、私は母に関してあなたに聞いてもらいたいと思います。私は彼女をあきらめる事はできません、主よ。私が六歳のとき、母は私たちの為に沢山の事をしてくれました。父は私たちを見捨てました。彼女は私たちと一緒にいて、神経質、精神的、肉体的に完全に崩壊するまで、私たち四人の子供全員の為に生計を立てようとしました。その上、主よ、私は若い頃に病気で苦しんでいて、他の人のように走ったり遊んだりする事ができなかったので、他の子供たちよりも母の近くにいたのです。そして、父が私たちを去った後、私は彼女に私の全ての愛を息子として注ぐだけでした。主よ、母は子供たちの為に沢山の事をしてくれました。やっと彼女の為に何かできる場所にたどり着いたのです。主よ、それがわがままである事は分かっていますが、彼女を手放す事はできません。彼女はまだ68歳です。」異言で祈り続けている内に、私は御霊の領域に入りました。それから、聖霊が私が異言で祈った事を解釈する事を許して下さり、主は私に言いました。覚えておいて下さい。神は「共に論じ合おう」と言われました。主は私に言われました。「パウロは『死ぬ事は益、私の願いは、世を去ってキリストと共にいる事です。その方が、遥かに望ましい、私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住む方が良いと思っています』と言いました」それから主は言われました。「あなたが彼女を天に行かせてあげる方が、彼女には良いのです。彼女はあなたの説教を聞いた事がなく、信仰のメッセージを垣間見る事さえありません。彼女は信じる方法を知らない霊的な幼子であり、多くの苦しみを受けるでしょう。あなたが彼女を天に帰らせてあげる方が、彼女には良いのです。」主はご自身の主張を私に教えました。今度は私が自分の言い分を訴える番でした。


私は涙ながらに言いました。「主よ、利己的である事は分かっていますが、そうする事ができません。私は母をとても愛しています。もし、母が今死んだら、私はあなたに腹を立てるつもりはない事をあなたに知ってもらいたいのですが、私もそれについて良く思う事はありません。私はあなたに仕え続け、あなたの御心を実行します。しかし、私が生きている最も長い日、私はそれを考えるたびに、あなたが母を早く天に帰らせた事をあなたに思い出させるつもりです。天国に行った時、その事を思い出すたびに、あなたにそれを思い出させるでしょう。」


その時、主は言われました。「私はあなたが言う事を何でもしよう。」私は言いました。「母に少なくとも80年与えて下さい。」主はそれに答えてくれました。母が80歳になった時、次の2週間以内に、彼女は天に帰りました。しかし、彼女は聖霊に満たされ、異言で話すのを私たちが見る事ができるほど長く生きました。そして、良い形で天に帰ったのです。信者の権威を神に感謝します!私たちはその権威を持って前進する方法を学んでいますが、それは御言葉によれば、御霊によって祈る方法を学ぶ事から始まるのです!私たちの多くが知らない祈りの奥深さがあるのです。殆どの人が到達していない祈りの場所があります。しかし、私たちが助け主に耳を傾けて従うなら、御霊は忠実に私たちをより高い次元の祈りへと導いてくれるでしょう。私は、この祈りの領域において、キリストの体としての私たちの現状に満足していません。私たちは、本来あるべき場所から遠く離れています。しかし、ありがたい事に、多くの人が大きな一歩を踏み出していると信じています。私たちは内なる聖霊の助けを借りて、祈りと執り成しのより深い領域へと進み始めています。


神は私を用いない


私が異言で祈るように神に導かれた多くの素晴らしい経験は、皆さんにも起こるべきです。クリスチャンが祈りの中で主にもっと時間を割くなら、それは真実でしょう。「神は決して私を用いない」とあなたは言うかもしれません。第一に、もしあなたが神に用いられたいと思うなら、あなたは自分自身を神に用いられるようにしなければなりません。第二に、御霊によって祈るようにという聖霊の促しを感じたら、聖霊に従わなければなりません。あなたは、「神が私に話しかけた事はないと思う」と言うかもしれません。


聖霊は絶えずあなたの霊とコミュニケーションを取っていますが、あなたは御霊が話す時、その声を認識できないかもしれません。恐らく、あなたは主との交わりを十分に深めていないので、主の言っている事を理解する事ができません。しかし、異言で祈るという神から与えられた超自然的なコミュニケーションの手段を通じて、神をよく知るようになるにつれ、神が語る言葉をより良く聞く事ができるようになります。聖霊はあなたに何かを強制するつもりはありません。あなたに重荷を感じさせ、促し、または内において、祈りたいという思いを与えるでしょう。しかし、これらの内なる促しや衝動を無視し続けると、ある時点でそれらを経験しなくなります。


多くの御霊に満たされたクリスチャンの問題は、彼らが異言で少し話すと、それで終わってしまう事です。彼らは祈りの場所を離れ、日々を過ごします。しかし、信者が異言で十分祈るなら、神は彼らを用いる事ができます。ですから、主との交わりにもっと時間を費やして下さい。主をたたえ、主を崇め、あなたの霊と知性をもって主を礼拝して下さい。そうする事で、あなたはますます神に用いられるようになります。そうすれば、神が特定の人や状況について祈る為に誰かを探している時、神はあなたを選びます!


啓示は御霊によって


神は、私たちの益と悟りの為に私たちが受け取れるように、沢山の知恵を用意して下さいました。しかし、御霊の中を歩まなければ、その神聖な知恵を逃してしまいます。


1コリント 2:9「しかし、この事は、「目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、人の心に思い浮かんだ事がないものを、神は、神を愛する者たちに備えて下さった」と書いてある通りでした。」


人々は、「私たち全員が天国に着いたら、それはとても素晴らしい事です。神が神を愛する私たちの為に準備しておられる事は、目も耳も聞いた事もありません!」とよく言います。いつの日か、神が天国で私たちの為に用意して下さったものを楽しむ日が来るのは事実です。しかし、それはこの箇所が言っている事ではありません。


1コリント 2:10「それを、神は私たちに御霊によって啓示して下さいました。御霊は全ての事を、神の深みさえも探られるからです。」


パウロは、私たちが自然な感覚で神について知る事はできないと言っています。私たちの目は、神が神を愛する私たちの為に用意されたものを見た事がなく、耳も聞いていません。しかし、祈りを通して交わりを育む私たちには、聖霊によって神について深い事柄の啓示が与えられます。偉大な贖いの計画についてパウロに啓示を与えたのは聖霊でした。隠されていた奥義をパウロに明らかにしたのは聖霊でした(エペソ 3:3-6)。あなたは神の言葉を研究し、それが何を言っているのかについての知識を得る事ができます。しかし、御言葉を引用できるからといって、それらが現実のものになったわけではありません。あなたが真理を現実化させる為には、思考の一新や聖霊の助けなどが必要です。


かつて、私は新約聖書の大部分を引用できました。最初に説教を始めた時、私はただ聖書をできるだけ速く、一生懸命に喋っていました。会衆は私に「もっとゆっくりと話して下さい。何を言っているか分かりません」と言いました。そのようにして四年間奉仕した後、私は聖霊のバプテスマを受け、私は毎日、異言で祈り始めました。私が異言で祈り、祈りの中で御父と交わると、直ぐに聖書は私にとって新しい本のようになりました。全てのページと全ての行が異なって見えました。私が読んでいると、御言葉の超自然的な啓示がページから飛び出しました。パウロは、聖霊がどのように神の深い所を調べ、神が人間に真実を明らかにする事ができるかを示しています。


1コリント 2:10-13「それを、神は私たちに御霊によって啓示して下さいました。御霊は全ての事を、神の深みさえも探られるからです。人間の事は、その人の内にある人間の霊の他に、一体誰が知っているでしょう。同じように、神の事は、神の霊の他には誰も知りません。しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えて下さったものを知るのです。それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられた言葉ではなく、御霊に教えられた言葉を用います。その御霊の言葉によって御霊の事を説明するのです。」


聖書のこの箇所は、私自身の人生で何度も成就しました。私が主を待ち望み、異言で祈っていた時、聖霊は私を聖書の二、三章を一節ずつ導いて下さいました。ひざまずいて立ち上がる頃には、その間に聖霊が私に明らかにした全ての啓示のおかげで、それらの章が全く異なる光の中で見えていました。私はひざまずいて異言で祈りながら、神の言葉のより深い事柄を学びました。実際、神との歩みの中で私に起こった最大の出来事は、異言で祈った結果としてもたらされました。


例えば、私が結婚しているという啓示を受けたのは、若い説教者として異言で祈っていた時でした。また、同じ内なる啓示によって、私には二人の子供が生まれる事も知っていました。一番上の子は男の子で、二番目の子は女の子です。 後で妻に会って結婚した時、私は神が私たちの子供たちについて私に言われた事を彼女に話しました。彼女が私たちの最初の子供を妊娠していた時、私たちは男の子の名前だけを選びました。二人目は女の子の名前しか選びませんでした。私は家族に「この第一子は男の子です」と言い続けました。「でも、もしその子が男の子でなかったら、仮に…」彼らは言いました。「私は『仮定』に基づいて生きてはいません」と答えました。頭の中で全てを理解しようとするのをやめて、あなたの人生の為の神の計画を異言で祈る時間を取って下さい。私が御霊の中で祈り、御父と交わる時間を取ると、聖霊は私の人生とミニストリーに対する神の計画の様々な段階を明らかにして下さいました。


ロバート兄弟と私はお互いに大きな敬意を払っており、何度も一緒に素晴らしい交わりを楽しんできました。その人は神の前に出る方法を知っていました。私は何度も彼と一緒にいましたが、それらの経験から多大な恩恵を受けてきました。交わりの期間中、ロバート兄弟と私は様々な話題について話しました。異言の祈りの領域に関して言えば、私たちには多くの共通点がある事が分かりました。


私たちのミニストリーが何年にもわたって取ってきた方向性が、同じ方法で同じ御霊によって私たちにもたらされた事に気づきました。私たちは長い間、異言で祈っていましたが、それから私たちが祈っていた事を御霊によって解釈し始めました。神の御言葉の啓示も、私が長い間御霊の中で祈っていた時にもたらされました。私はおよそ十五年間牧師を務めていましたが、私が尊敬する他の牧師を本で読んで、かなり順調に進んでいました。しかし、アーカンソー州の西部で最後に牧師を務めた教会にいる間に、何かが変わりました。通常の観点から言えば、私たちは満足すべきあらゆる理由がありました。当時、教会は毎年牧師を投票するのが慣習でした。しかし、会衆は私に、「ケニー兄弟、あなたが望むなら、私たちはあなたを無期限に投票します。あなたが望む限り滞在して下さい」と言いました。


当時は前例のない事でした。しかし、私は何故か不満がありました。「主よ、私はどうしたのですか。ここは全てとても良いのですが、内面の不満を振り払う事ができません!」と私は祈りました。ついに、私はこの問題について真剣に神を待つ事にしました。私は妻に、「もし教会の人が立ち寄ったら、緊急時以外は邪魔されたくない事を伝えて下さい」と言いました。その間、私は断食をよくしました。時々、一日中断食する事もありましたが、殆どの場合、一~二食抜いて、その時間を神を待つ事に費やしていました。また、多くの時間を御霊によって祈りました。又、エペソの聖句を声に出して読んでいました(エペソ 1:15-23、3:14-21)。


それから私は、時には黙って、時には異言で祈って、神の前で待っていました。その教会の祭壇で神を待っていた時、私は時々御霊の領域に入り、現実の状況に対する意識を殆ど失う事もありました。私はトランス状態、つまり、人の身体感覚が一時的に停止し、自分が身体を持っている事さえ意識しない事について話しているのではありません。私が神を待っていた時、私は御霊の領域に入る事を意味しています。自分の霊の奥深くに手を伸ばして物を引き出し、祭壇に置くのが見えるように思えました。私はその質問を祭壇に置き、再び自分の霊に手を伸ばしました。すると答えが来ました。私が満足していない理由は、他にやるべき事があるからです。私はその啓示を祭壇に置き、再び手を霊の内に伸ばしました。


やっと霊の底まで落ちたようで、何かを引っ張り出した感じがしました。私は、タコのように触手が突き出ているものを見ました。私はそれを持ち上げて尋ねました。「主よ、一体これは何ですか?」主は言われました。「古い伝統の教えです。」私は言いました。「私はずっと前にそれを取り除いたと思っていました!」私はそれを祭壇の上に置いたのではなく、捨てたのでした!神に明け渡す為に祭壇に置くべきものもあれば、永遠に取り除くべきものもあります。祈りの時に捨てなければならなかったのはそれだけではありませんでした。私はまた、見た目は悪くないが、完全に正しくもない何かを自分の霊から引き出しました。私は神に尋ねました。「これは何ですか?」 「それは、あなたが聖霊派に属して以来、自分自身のものとして採用してきた聖霊派の伝統の一部です」と主は言われました。明らかに、それも必要のないものでした。


ある日、教会の祭壇にひざまずいて異言で祈っていると、主は私に言われました。「私はあなたに啓示と幻を教えます。」六か月後、神の言葉に関する啓示が私の心に波のように押し寄せ始めたので、私は妻に「一体、私は何を今まで説教してきたのか」と言いました。私はとても無知でした。その頃、それまでの十五間のミニストリーで学んだ事を合わせた長さよりも、私は聖書と神のより深い事柄についてより多くを学びました。その次の年に、ビジョンが与えられました。十年の間に、主イエスご自身が七回私に現れました。そのうちの二回、私に一時間半も話をしてくれました。しかし、肉がやりたい事を何でもして時間を過ごした後で、起こったのではありません。啓示とビジョンは、私が神の御前で何時間も異言で祈りながら、交わりを待っていた時に、御霊によってもたらされました。御言葉を食べれば、幾らかの啓示を受け取る事ができます。御言葉を心の奥深くに植え付ける為には、継続的に御言葉を食べ続ける事が重要です。しかし、来るべき事の啓示、あなた自身の人生に対する神の計画と目的の啓示、そして御言葉のより深い事柄の啓示は全て、異言という超自然的なコミュニケーションを通して、神と交わる事によってもたらされます。


将来の動きに関する啓示


私はミニストリーの早い段階で、異言で祈る事によって、聖霊が私を準備してくれる事を知りました。例えば、自分の家で勉強していた時、私は異言で一時間祈る事にしました。それから、悪魔は私が時間を無駄にしていると言い続けたので、私は更に二時間、更に四時間祈る事にしました。しかし、異言で祈ってから五時間目に近づくと、聖霊の強い助けの下で祈り始めました。殆どの人は異言で十分長く祈って、御霊の力強い助けを得る事はありません。彼らは地表の直ぐ下を掘り下げ、できるだけ少ない時間と労力で「石油」を見つけたいと考えています。


1943年に私が異言で祈り、聖霊の助けが強くなった時、私から突然、これから来る啓示が流れ始めました。主は、「第二次世界大戦の終わりに、アメリカに神の癒しが復活するだろう」と言われました。私はそれらの言葉を書き留め、紙に日付を付けました。一年半後、私はテキサスの聖霊派の集会で説教をしていましたが、説教の途中で、主が私に語られた言葉を書き留めた聖書の紙を見ました。それで私は人々に言いました。「少し前に私が祈っていた時に、神の御霊が私に言われた事を読ませて下さい。」


それから、私はその言葉を読みました。「第二次世界大戦の終わりに、アメリカに神の癒しが復活するだろう」私がその言葉を読んだ瞬間、神の力がその群衆に降りました!神の御霊が風のように流れ込み、部屋にいた全ての牧師が通路を駆け下り、祭壇に倒れました。他の全員が床に倒れ、全員が異言で祈り始めました。私は説教の真っ最中でした!私たちには、説教者が説教している間にも、神の力が現れるようなミニストリーがもっと必要です。もし今日の聖霊に満たされた信者が、聖霊の動きについて神を信じ始め、当時の聖霊派の信者のように御霊によって祈るなら、当時と同じ強大な力が今日も現れるでしょう。


神の癒し


神の癒しの復活は1947年に始まり、神の癒しの力で国中を席巻し、1958年まで続きました。この地上での神の動きは、岸に打ち寄せる海の波のようなものです。そして、それらの波が聖霊の風に吹かれ始めると、誰もがそれらに飛び乗る事ができます。


例えば、ある聖霊派の牧師は私にこう言いました。「このリバイバルが始まる前、妻と私は三十五年間一緒にミニストリーをしていましたが、病人の為に祈ったり、癒しのミニストリーを行ったりした事はありませんでした。私たちは歌で奉仕を行い、妻は御言葉からの短いメッセージをしました。それから、罪人に救われるように勧め、祭壇に呼びかけると、人々は救われました。しかし、その神の癒しの波が来た時、私たちはその波に乗りました!私たちは病人の為に祈り始めました。そして驚いた事に、人々は至る所で癒され始めました!ある全盲の女性は、私たちの奉仕の下で即座に癒されました。」他の人々も同じ事を私に話ました。彼らも波に乗りました。さて、それは良い事ですが、人々は、御父との個人的な交わりの時間をおろそかにしてまで、神の霊が動いている時に波に乗らないように注意する必要があります。


大いなる神の癒しの力の働きの中で、「癒しの声」と呼ばれる癒しの伝道者たちの組織が結成され、私はその組織の牧師の一人でした。ある日、仲間の「癒しの声」牧師が私に尋ねました。「あなたのミニストリーはどのようにして突然開花したのですか?それを実現する為にあなたは何をしましたか?」目標を達成したり成功したりする為に「自分」ができる事を常に探している人もいます。しかし、その答えは、人間の生まれ持った力や考える力にはありません。私はただこう答えました。「私が何をしたかお話ししましょう。それは神を待ち望み、聖霊の中で何時間も祈る事でした。そのようにして、私はミニストリーの全ての歩みと、全ての段階で指示と啓示を受けてきました。」


1958年、私はダラスの教会で説教をしていた時、突然啓示によって、「次のリバイバルは教会にあります!」と言いました。会衆は、私が聖霊派の教会を意味していると考えていました。しかし、私は全くそのつもりはありませんでした。実際、神の御霊の次の波は、聖霊派の教会を完全に見逃す所でした。私は、次のリバイバルは教団に属する教会の中で行われると言ったのです。その後、間もなくカリスマ運動が始まりました。私たちはかなりの数年間、その素晴らしい波に乗り、多くの教会の人々の生活は、聖霊の満たしを受けて劇的に変化しました。その後、そのリバイバルは一筋縄ではいかず、事実上沈静化しました。


特定の教派の教会の中には、聖霊を受け続けて異言を話し続けている人々が確かにいます。その後、私たちは神の言葉を教える大きなリバイバルを経験しました。それは一部の人々が「信仰のメッセージ」と呼んでいるものです。私はその言葉が好きではありません。私はそれを単に「神の言葉への信仰」と呼んでいます。私たちは、関係のない何かを信じようとする事について話しているのではありません。私たちは、神が御言葉で言われた事をただ受け入れて信じるのです。この教えのリバイバルは、主が私に「行って、私の民に信仰を教えなさい」と言われ、何年も前に私に与えられた命令に始まりました。御言葉を神の民に蒔いた結果、大きな収穫が得られました。私は何年にも渡ってそのメッセージに忠実であろうと努めましたが、主が私に「今日、私の体には信仰の良い教師が他にも沢山います」と言われた日が来ました。長い間、そこにいるのは私の声だけのようでした。


主は続けて言われました。「今、あなたは行って私の民に聖霊について教えなければなりません。カリスマの信者は私を賛美する方法を知っていますが、彼らが全く知らない御霊の動きがあります。私が来るのが遅くなり、あなたが教えなければ、その理解は将来の世代に失われます。」もちろん、私たちは神の言葉の教えを決して置き去りにする事はありません。しかし、神は、過去数十年にわたってキリストの体の中に築かれた聖書の教えの確固たる基盤と、御霊の動きを結び付けたいと望んでおられます。この組み合わせにより、聖霊の次の動きはこれまでで最大のものになります!


私は自分の霊でそれを感じる事ができます。次の波が来ています。準備をして下さい。神が来ると言ったからといって来るのではありません。私たちは、これまで話してきたより深い祈りの領域に入り、神が望まれる事を生まなければなりません。海に行って波が打ち寄せるのを見た事があるなら、波が岸で砕ける前に、海の深い海域で波が始まる事を知っているでしょう。波のエネルギーは、岸に打ち上げられるのを見るずっと前に始まります。それが異言で祈る事が霊的領域で達成する事です。あなたが異言で祈る時、その霊的な「波」があなたの肉眼で見られる前に、あなたは神の霊の次の動きに勢いをつけます。私たちは時間をとって、御父と交わり、聖霊によって祈る事に専念する必要があります。しかし、この終わりの日に神の霊の次の強力な動きを先導しようとするなら、裁きは神の家から始めなければなりません。神がご自分の民の為にしたい事は他にも沢山あります。しかし、クリスチャンが自分自身を謙虚にし、ささいな違いを忘れ、団結して祈りの中で御霊の領域に入らない限り、神はご自分のやりたい事ができません。神は、この終わりの日に祈るようにとの呼びかけに答えるよう、私たちに呼びかけておられます。イエスはもう直ぐ来られますが、来る前に、イエスがしたい事があるのです。そして、イエスがこの地で行う事は、私たち、キリストの体を通して行われるのです。メンバーの半分が一方の方向に進み、残りの半分が別の方向に進むなら、キリストの体は調和がありません。だから神は私たちに準備をさせています。


神は私たちに共通の目標を求めています。異言で祈るようにという聖霊の促しに従う事です。次の波は、その栄光の全てで私たちに押し寄せようとしています。見逃してはいけません。私たちはヒーリング・リバイバルと呼ばれる波を見てきました。私たちはカリスマ運動と呼ばれる波を見てきました。私たちは信仰の波と神の言葉の教えを見てきました。しかし今、別の波が来ています!聖霊の波です!私たちは限られた形で聖霊の力を見てきましたが、神の力をより高いレベルに、そして私たちがこれまでに見た事がないほど、大きい波が来ています。古い御霊の波に留まらないで下さい。聖霊の中で祈る事によって、霊の領域の深海に泳ぎ出して、この時間の神の目的の次の波に乗って下さい。それから、神の力と栄光を築き上げていく新しい波にあなたが乗れるように祈り続けて下さい。


祈りへの呼びかけ


主は私に、祈りの経験を積んだ私たちが、現在の信者の世代にそれらの真理をどうにかして伝えない限り、深い祈りと御霊の執り成しが失われるだろうと言われました。私は何年にもわたって、偉大な仲介者であり、聖霊によって祈るというこのより深い領域の専門家になった何人かの人々を知っています。しかし、神は、それらの少数のように祈る事ができる人をもっと望んでおられます。この終わりの日に成し遂げなければならない仕事があるので、神はより深い領域で祈る方法を知っているより多くの信者を持っているに違いありません。この終わりの時に、神の計画と目的が達成される為には、ますます多くの神の民が自分の肉に対して「いいえ」と言い、神の奥義を神に祈る事に時間を費やさなければなりません。


数十年前、ロシア人が最初の衛星を宇宙に打ち上げた時、私たちは皆心配しました。宇宙競争で彼らに先んじて最初の宇宙飛行士を宇宙に送り込む為に、数十億ドルが費やされました。しかし、最初の宇宙飛行士が宇宙に行った時、彼らはそれほど遠くまで行きませんでした。彼らが先に進まなかったのは、以前に、そこにいた事がなかったからです。彼らは宇宙での操縦方法を知りませんでした。同じように、私たちの何人かは、祈りによってのみ、霊の領域の端に到達しました。霊の領域での操作方法が分からないので、少しずつ対処する必要があります。しかし、私たちが異言で祈りながら、神に自分自身を委ね続ける時、神はより深い祈りの領域へと私たちを導きます。正直に言います。私は何度か遠くに行った事がありますが、聖なる恐れを経験しました。私は戻ってこられないと思いました。それがエノクに起こった事かもしれないと私は信じています。彼は霊の領域から遠く離れてしまい、元に戻れなくなってしまいました。描写する事ができない、時間と空間を超える霊の領域への動きがあります。中には、足が濡れるほどしか、祈りの領域に足を踏み入れていない人もいます。水の中を歩く子供たちのように、彼らは自分が経験した事を話します。「それはとても素晴らしかったです!それは御霊による究極の祈りでした。」しかし実際には、彼らの祈りの経験はほんの始まりに過ぎませんでした。これらの人々は、霊の領域に触れただけです。彼らは、それが膝や腰の深さだけでなく、海の底に触れる事ができないほど深くなるまで、霊の深海に足を踏み入れる必要があります!それから彼らは泳ぎ出して、神が祈りの中で彼らの為に持っているものを十分に楽しむ事ができます(エゼキエル 47)。


ただし、これらの事は必ずしも容易ではない事を理解する事が重要です。一つには、肉は私たちを引き留める為にあらゆる事をします。それが、神の言葉が私たちに肉を十字架につけるように教えている理由です。思考も私たちを引き止め、私たちを物理的な感覚の領域と目に見えるものに集中させようとします。それが、神が私たちに御言葉で思考を新たにするように言われる理由の一つです(ローマ 12:1-2)。私たちの思考が一新されると、祈りを通して神の霊の領域にさらに入る事ができます。しかし、祈りを求める神の呼びかけに応える人が増えるにつれて、神の力と栄光がこの地上でますます大きく現れ始めるでしょう。神の御霊の顕現と証明は、私たちにとって日常の自然と同じように、ありふれたものとなるでしょう。これこそが、私たちの心が切望してきた事であり、執り成しが何年もの間祈ってきた事です。御霊の領域は、実際には、御霊から生まれた私たちにとって自然な領域なのです。もちろん、私たちの体は自然な機能を持っているので、ある程度、自然界を歩き、その中で生きる必要があります。しかし一方で、私たちは自分の霊に、霊の父と意思疎通するという継続的な特権を持たせる事ができます。私たちは、日常的に自然を超えて霊を動かす事ができます。ですから、自然な、日常的な事に時間を割かないで下さい。それらの幾らかは悪ではなく、それらを追求するのにある程度の時間をかける事は問題ありません。しかし、自分の霊に注意を払うように気をつけて下さい。


あなたの霊が御言葉を食べ、天の御父と交わる機会を与えて下さい。異言で祈る実践をする事で、あなたの最も聖い信仰の上にあなたを築き上げて下さい。それほど時間はかかりません。そうする事で、あなた自身の人生は変化し、力を与えられ、あなたの祈りの生活は強力な力となり、この終わりの日に神の目的を達成するのに役立ちます。神は私たちが御霊の中でさらに前進し、より大きな祈りの領域で、どのように行動するかを学ぶのを望んでおられます。私たちが祈りの呼びかけに忠実に従う時、より深い霊の領域へ達し、神の栄光の充満に達するでしょう。主は私たちに祈りを呼びかけておられます。私はその呼びかけに応えようと決心しています。超自然的なものへの入り口を通り抜け、御霊の中で全く新しい祈りの領域に入って下さい。それは、啓示、指示、神との超自然的なコミュニケーションが継続的に提供され、神があなたに召された全ての事を成し遂げるのを助ける領域です。

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