2023年2月3日金曜日

13 異言の目的

 ここまで、異言で話す事の三つの主な目的に焦点を当ててきました。一つ目は、異言とは、神とコミュニケーションを取る為の神聖で超自然的な手段です。二つ目に、異言は我々を築き上げます。三つ目に、異言で祈る事によって、私たちは神の完全な御心の沿って祈れます。この三つの主な目的以外にも、私たちが聖霊に導かれるままに異言で祈るなら、様々な恩恵が私たちを待っています。


神を崇める手段


異言は私たちが神を崇める為の手段でもあります。コーネリアスと彼の家族がこの超​​自然的な経験をした時に何が起こったのかを読んでみましょう。


使徒 10:45-46「割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれた事に驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。」


46節の「異言を語り、神を賛美した」という言葉に注目して下さい。「賛美する」の語は、「大きくする」という意味です。しかし、既に大きい存在である神よりも大きくする事ができるでしょうか?もちろん、神の視点から見れば、答えはノーです。しかし、私たちの観点からは、神は私たちの評価において、より大きくされたりする可能性があります。異言を話す事は、神が私たちにとって大きくなる一つの手段です。私は宣教の早い段階で、この種の異言の目的に気づきました。御霊に満たされる前、私はまだ20歳でしたが、既に教会の牧師として奉仕していました。もちろん、若い人たちが経験する全ての試練と誘惑を受けました。しかし、聖霊に満たされ、毎日異言で祈り始めると変化に気づきました。同じ試練や誘惑に直面した時、私にはそれらを乗り越え、抵抗する力が追加されました。その後、それらの領域において、勝利者として生きる事がずっと楽になりました。何故なら、私が神をより信頼していたので、神は私の人生でより働かれたからです。


以前、私が牧師をしていた教会で聖霊を受けた後の2年間、私は聖霊を受けた事や、異言で話した事を誰にも話しませんでした。しかし、しばらくすると、教会の人々が私にこう言い始めました。「あなたに何かが起こった。あなたは以前よりも力を持っています。あなたが今説教すると、あなたの言葉はとても力強い!」私が異言で話し始めた後、イエスは私の説教の中で大きくなったのです。毎日異言で祈る事を決心し、あなたの生活の中で神がますます大いなる方となるようにして下さい。その結果、あなたはまだ見た事のない神の力の中で歩み始めるでしょう。


聖霊の臨在


異言で神を祈り、崇拝し続ける事は、神の内在の臨在を私たちに意識させるのに役立ちます。この一つの利点だけでも、私たちの生き方に影響を与える事は間違いありません。ヨハネ14章で、イエスは信者の生活において、聖霊の留まる臨在について語りました。 


ヨハネ 14:16-17「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


御霊はいつも私たちの中に住んでおられるので、私たちの生活の中で聖霊の聖なる存在を意識し続ける事は当然の事です。何年も前に、ある伝道者が次のような証言をしたのを聞きました。この伝道者は、教会で集会を開いている間、牧師とその家族と一緒に、牧師館に滞在していた時に起こった出来事について語ってくれました。「私は普通、昼食の後に少し運動する為に散歩したものでした。それから戻ってきて、夜の礼拝の準備をするのでした。でもこの日は、郵送しなければならない手紙が幾つかあったので、まず自分の部屋に行きました。後で散歩に行く時に手紙を郵送するつもりだったのです。」


牧師夫妻には、11歳の娘がいました。その日、この子は、私がいつものように午後の散歩をしていると思っており、まだ家にいる事を知りませんでした。そして、母親に腹を立てる事が何か起こった時、少女はかんしゃくを起こし、母親に醜い事を言いました。ちょうどそのタイミングで、伝道者が寝室から居間に出てきました。娘が見上げると、彼がそこに立っているのを見て、顔が真っ白になり、泣き始めて言いました。「許して、許して!私がこのように振る舞うのを見て、私がこのように話すのを聞いてしまって、本当にごめんなさい!」伝道者は少女の手を取り、彼女を椅子に連れて行ってひざまずかせました。それから彼は言いました。「私はあなたを赦します。しかし、あなたの内側にもあなたの声を聞いた偉大なお方がいます。あなたが悔い改めるなら、主もあなたを赦して下さいます。」それで少女は悔い改め、泣きながら祈り始めました。「主よ、赦して下さい。」しばらくすると、その少女は異言で神に祈り、礼拝し始め、御霊に入り込みました。それから伝道者は彼女に聞きました。「あなたはよく異言で祈り、そのように神を崇拝しますか?」「いいえ。頻繁には」と彼女は答えました。そこで伝道者は、「約束して下さい。今日から毎日、異言で祈って下さい。異言で幾つかの言葉を発するという事ではありません。神様の御前で待って、1日最低30分は異言で祈って下さい。そうすれば、あなたの内側にある聖霊の存在をより意識するようになり、あなたの生き方に影響を与えるでしょう。内在する御霊の存在を意識する時、あなたはコントロールを失って怒り狂う事はもうありません。」少女は涙ながらに、毎日異言で祈る事を約束しました。もちろん、私たちは言ってはいけない事を言ってしまう事がありますが、そうした事が起こる必要はありません。信者が肉において行動するのは、自分の内に留まっている聖霊の存在を意識していないからです。約2年後、伝道者はこの教会に戻って別の集会を開きました。その子は、その時には14歳くらいになっていました。礼拝の後、彼女は伝道者をわきに連れて尋ねました。「あなたが数年前にここに来た時、私に言った事を覚えていますか?」伝道者は言いました。「覚えていますよ。」彼女は言いました。「私はあなたが私に言った事をやりました。私は毎日、少なくとも30分間、異言で祈ります。そして聞いて下さい。それ以来、私は醜い事を言ったり、腹を立てたりした事は一度もありません!」


毎日異言で祈る事は、この少女が内在する聖霊の存在をより意識するのに役立ち、それは彼女の生き方に影響を与えました。異言で祈る毎日の練習をすると、同じ事が私たちにも起こります。私たちの内にある聖霊の存在をもっと意識すると、私たちの言動が清められるでしょう。


神を崇拝する助け


異言は、神を崇拝する時にも役立ちます。その過程で、あなたの霊は神に対してより敏感になります。自然のものに対するあなたの好みが、それ自体が必ずしも悪いものでなくても、影響されるでしょう。私は御霊によって神を礼拝し異言で祈った後、よく家に帰ったものでした。時々、ドアの中に入るとラジオから音楽が流れていて、それが私にどのような影響を与えたかを覚えています。しかし、私は異言で神に祈り、礼拝する事が私に与えた影響について、ある事を発見していました。神と親密な交わりをした後、神の臨在を意識しながら私が家に帰ると、妻が家の掃除をしていて、ラジオでゴスペル音楽を流していました。音楽が悪かったわけではありません。その音楽は、特に悪いものではありませんでした。でも私には、誰かがバケツを叩いているように聞こえました!幾つかの歌は聖書的でさえありませんでした。私はさっきまで聖なる聖霊の臨在にいて、私の内の御霊の臨在に意識を向けていたので、その音楽を聞く事さえできませんでした。理解して下さい。こうした娯楽が間違っているとは言ってはいません。しかし、異言で神を崇拝する事で、内在する聖霊の存在をより意識するようになるので、あなたは神を求めるようになり、世的なものに興味がなくなるのです。


ハワード・カーターは、英国のアッセンブリー・オブ・ゴッドの総監督を務め、ペンテコステ聖書学校の創設者でもあり、優れた教師として認められていました。カーターはかつて、異言の祈りのこの目的について言いました。「異言は、聖霊の満たしの最初の証拠であるだけでなく、残りの人生において、私たちが神を礼拝するのを助ける為の、絶え間ない経験である事を忘れてはなりません。異言は決して乾く事のない流れであり、人生を霊的に豊かにするものです。」異言で継続的に祈り、神を崇拝する私たちは、この超自然的な賜物によってもたらされる霊的な豊かさを経験します!


異言は信仰を促す


ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」


聖霊によって祈る事は、異言で祈る事を指しているます。ですから、異言で祈る時、私たちは自分自身の信仰を促す結論づける事ができます。しかし、異言は私たちに信仰そのものを与えません。ローマ 10:17が言うように、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。あなたが信者なら、あなたは既に信仰を持っています。しかし今、あなたは最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げなければなりません。信仰をもって自分を充電して下さい!聖霊によって祈る事を通して、それが可能です。私たちが御霊によって祈る時、聖霊は私たちが話す言葉を超自然的に導きます。異言で話す為には、信仰を働かなければなりません。私たちは、次の言葉が何であるかは分からないので、聖霊様が与えて下さる事を信頼し続けるしかありません。ある分野で神を信頼する事は、他の分野で神を信頼するのに役立ちます。そしてそれは、私たちの信仰を促すでしょう。ある人たちは、何年もの間、信仰の教えを聞いて来ました。彼らは、神が自分たちの必要を満たしてくれると信じ、そして何らかの結果を受け取ります。しかし、多くの場合、彼らは最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げる為に、聖霊によって祈る事に時間をかけていないので、本来あるべき結果を受け取れません。


あなたが体を健康に保ちたい時は、運動をします。その結果、体はより鋭敏になり、機敏になります。同じように、精神を鋭敏に保ちたいのであれば、それを行使する必要もあります。そして、異言で祈る事は、神の言葉であなたの精神を養う事と並んで、霊的な運動の最も効果的な方法の1つです。異言で祈る事は信仰を刺激するので、あらゆる分野で神をより完全に信頼する事を学ぶのに役立ちます。


私が田舎の小さな教会を牧師していた時、その教会に通っていた女性の一人が重度の胃潰瘍に苦しんでいました。彼女とその夫はある教団の教会に所属していた人たちでした。この女性の夫は私に言いました。「妻にはまだ話していませんが、医師から、妻は胃がんにかかっており、これ以上どうする事もできないと言われました。私は彼女を癒す為に、200,000ドル以上も既に費やしました。」彼は続けて言いました。「私たちは、車や家を売却して、妻の医療費を支払う必要がありました。今は、家具付きの小さなアパートに住んでいます。」この女性は、家族の為に食事を作りましたが、彼女自身はあまり食べる事ができませんでした。彼女は離乳食を少し食べていましたが、それでもよく嘔吐していました。その女性は皮と骨のように見えました。


その後、家族は別の教会に出席し始めましたが、私はしばらく会いませんでした。ある日、私は彼らに会いに行こうと決心しましたが、彼らの家に足を踏み入れた時、私が見たものは予想もしていませんでした。様々な食べ物を食べている女性がいて、彼女はそれを楽しんでいました!女性は顔を上げて微笑んで言いました。「私です!私は今は、食べたい物を何でも食べています。お腹はすっかり治りました!」私は以前、この女性に手を置いて彼女の治癒を祈りました。他の牧師たちもそうしたのを知っています。私は、その時私が知っていた範囲で彼女を教えようとしました。しかし、その時の私は、ただの若い説教者でした。彼女を助けられる術は何もないようでした。私はその女性に「どのように癒されましたか?」と尋ねました。「ある教会で聖霊のバプテスマを受けたんです!」彼女は答えました。「神の力が私に臨んだ時、私は祭壇で祈りました。私は目を閉じて神様を賛美し続けました。すると、突然、光のビームが天井から降りてきて、私の額に当たったのを見ました。それから私は、この異言で話し始めました — それ以来、私は元気です!」私は1年後にまたその女性に会いましたが、彼女はまだ完全に癒されていました!


私は、この女性のような証言を何度も聞きました。それから、私は聖霊のバプテスマを受け、自分自身も異言で話しました。その後の数年間、私はこの種の癒しが何度も起こるのを見ました。1つか2つのケースだけではありません。人が聖霊のバプテスマを受けると同時に、肉体的な癒しが頻繁に行われたのです!


私は、この女性のように、長い間癒しを求め続けてきた人々に会いました。多くの人は、癒しの為に町に来てくれる伝道者に願いましたが、何らかの理由で彼らは癒されていないようでした。しかし、彼らが聖霊のバプテスマを受けた時、即座に癒されたのです!私はその事を良く理解できませんでした。それで私は勉強し、瞑想し、人々に質問し続けました。ついに、私はユダ20についての啓示を得ました。「あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって...」異言は信仰を促すのです。ある分野で神を信じる事は、別の分野で神を信じるのに役立ちます。それが、癒しを必要としていた人々に起こった事です。彼らが聖霊に満たされ、異言を話し始めた時、それは彼らの信仰を促したのです。既に持っていた彼らの信仰が、かき立てられ、以前には受けられなかった癒しを受ける事ができたのです。


休息を与える


異言から得られるもう一つの素晴らしい事は、休息を得られるというものです。


イザヤ 28:11-12「まことに主は、もつれた舌で、異国の言葉でこの民に語られる。主は彼らに、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある」と言われたのに、彼らは聞こうとしなかった。」


「憩い」と「休息」という2つの言葉に注目して下さい。良い響きだと思いませんか?しかし、聖書のこの箇所が言及している憩いと休息とは何でしょう?「もつれた舌」と「異国の言葉」のフレーズの中にヒントがあります。しかし、その答えは新約聖書に完全に示されています。御霊に満たされ、異言で話す時、私たちは神の憩いと休息を経験します(使徒 2:4)。医師は、ケアを受けている人に安静療法を勧める事があります。しかし、私は最も優れた休養療法を知っています。これは毎日受けられますし、費用もかかりません!「もつれた舌」と「異国の言葉」が疲れた人を休ませるのです。神の休息を日常的に活用する人は、決して神経が衰弱になる事はありません。混乱、困惑、不安に満ちた今日、私たちはこれまでになく神の休息を必要としています。そして神は、その休息を受け取る手段を与えて下さいました。それは、私たちが異言で話す事によって得られます。私たちは、必要な時にいつでも、聖霊によって祈る事で、休息を取る事ができるのです。


感謝を伝える


1コリント 14:14-17「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っている事が分からないのですから。あなたが感謝するのは結構ですが、その事で他の人が育てられるわけではありません。」


パウロが、「救われていない者の席」ではなく、「初心者の席に着いている人」と言った事に注意して下さい。霊的な事を学んでいない人々の事です。


パウロは、霊的な事を知らない人があなたと一緒にいる場合、あなたは異言で感謝を捧げる事はできないと言っています。例えば、あなたが夕食の為に人々を招待したとします。夕食の席で、私が異言の祈りで感謝を捧げるとします。ところが、同席していた他の人々が、聖霊によるバプテスマや異言に関して無知だった場合、私の感謝の祈りに「アーメン」と言えません。彼らは私が言った事を理解しないからです。ですから、この場では私の知性による感謝の祈りを捧げた方が良いのです。そうすれば、テーブルで私の周りに座っている人々は、私の感謝の祈りを理解し、私の言う事に同意する事ができます。


もちろん、異言によって神に感謝する事は、私たちにとって良い事です。実際、17節は、「あなたが感謝するのはけっこうですが、」と言っています。霊的な事を学んだ人々は、彼らは私たちが言っている事を理解しないかもしれませんが、彼らは霊的な事については、理解しています。少なくとも、彼らは霊で感謝している事を知っているのです!しかし、霊的な事柄に無知な人々の前では、私たちの言葉で理解し、感謝を捧げるのが最善でしょう。そうすれば、彼らは私たちの言う事を理解し、異言について学ぶ事ができます。クリスチャンとして、私たちは愛の内に歩むように命じられています。愛は常に相手の事を考え、他の人を教える方法を探します。


舌の制御


異言によって、自分の舌を制御する事ができます。


ヤコブ 3:8「しかし、舌を制する事ができる人は、誰もいません。舌は休む事のない悪であり、死の毒で満ちています。」


舌は、私たちの体の中で最も制御するのが難しい部分だと思いますが、ヤコブはここで、舌を制御する事ができる人はいないと言っているのです。しかし、神はできます!ですから、あなたが自分の舌を聖霊に委ね、異言で話す時、あなたは全ての体を完全に神に委ねる為の大きな一歩を踏み出します。最も手に負えない部分を神に明け渡す事ができれば、あなたの体のどの部分も神に明け渡す事ができるようになります。考えてみて下さい。ヤコブは異言を「舌は休む事のない悪」、「死の毒」と呼んでいます。多くのクリスチャンは、体の性的な部分が最もコントロールしにくいと考えています。そして、性的欲求を抑えられずに罪を犯している他のクリスチャンを非難するでしょう。一方で、彼らは自分たちの制御されていない舌で、もっと悪い罪を犯します。ある人々は、いつも仲間のクリスチャンについて話し、追い詰めています。例えば、ある説教者が不道徳に陥ると、教会の全員がそれについて話し始めるかもしれません。「あの説教者が何をしたか聞きましたか。恐ろしい詳細の全てをお話しましょう!」しかし、相手を突き落としても、あなたは高く上げられる事はありません!他人を批判したり、うわさ話をしたりする事も重大な罪です。聖書は、舌の罪は神にとって忌むべきものであると言っています。


箴言 6:16「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。」


箴言 6:19「まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。」


体の他のどの部分よりも、舌によって、より多くの罪を犯す可能性があるのです。しかし、異言で祈れば祈るほど、自分の舌を聖霊に委ねる事を学ぶでしょう。そして、あらゆる状況で、他の人を教える言葉だけを話すようになるでしょう。 


世の汚れからの守り


異言は、職場であろうと様々な公共の場であろうと、私たちを取り巻く不敬虔で、冒涜的な、全ての汚れや下品な話から守る手段でもあります。異言で祈ると、どのように私たちを世の汚れから霊的に清く保つ事ができるでしょう?パウロは言います。信者は「解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。」(1コリント 14:28)。この原則は、あらゆる公共の場に適用できます。異言で話す時、あなたは自分自身と神に話しているのです。ですから、教会の礼拝で自分自身や神に静かに話しかける事ができるのと同じように、他の公共の場でもそうする事ができます。あなたは職場や地下鉄、バス、または飛行機に乗っている時、御霊によって祈る事ができます。あなたは自分自身と神に静かに話し、自身を築き上げて、同時に世の汚れから自分を清く保っていて、誰の邪魔にもなりません。


ある時、私がスーパーに買い物の為にレジで並んで待っていると、若い男性たちの会話が聞こえてきました。その多くは下品な冗談や冒涜的な言葉が含まれていました。私はただそこに立って待っている間、小声で自分自身と神に異言で話していました。彼らがいなくなるまで、私は異言を話すのをやめませんでした。その結果、私を取り巻く肉欲と下品な話は全て、私の心に残りませんでした。異言で祈る事により、私は自分の清さを保ったのです。あなたも同じ事ができます。一日中、どこへ行っても、異言で自分自身と神に静かに話す事ができます。そうする事で、あなたは聖霊の力によって強められ、世の汚れから自分を清く保つ事ができます。


御霊の賜物


聖霊に満たされ、異言で話す事は、その他の御霊の賜物(聖霊の様々な働き)へと繋がります(1コリント 12:1-11)。異言で話す事は、神の超自然的な領域への入り口となっているのです。聖霊の満たしと異言で定期的に祈る事は、他の全ての霊的な恩恵へと続くのです。ただし、異言は霊の実を結ぶ事とは、直接には関係していません(ガラテヤ 5:22-23)。特に、御言葉を自分の心に刻み込まずに、ただ異言で祈るだけなら、成長がない為に御霊の実を結ぶ事にはならないのです。ある人々はよく私にこう言いました。「私は、異言を話すが、「御霊の実」を結んでいない聖霊派の人々をたくさん知っています。」


ところで、ガラテヤ 5:22-23で語られたのは、聖霊が結ぶ実ではありません。聖霊は実を結びません。イエスは「私はぶどうの木であり、あなた方は枝です」と言いました(ヨハネ 15:1-8)。従って、イエスの枝である私たちが結ぶ実であり、それは、内なるキリストの命によって私たちの生活の中で現される実を指します。


ガラテヤ 5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」


少し細かい解説になりますが、 22節では、ギリシャ語の「霊」という語だけがあって、「聖なる」という言葉が前にありません。その場合、どういう「霊」であるかを文脈で判断する必要があります。パウロは、聖霊という意味で言ったかもしれませんし、新生したクリスチャンの霊と言ったかもしれません。9つの実は、神の性質の事なので、御霊の実と呼ばれてもおかしくありません。私は、再創造された新しい人の霊が結ぶ実という点を強調したいので、新生したクリスチャンの霊の実と捉えています。いずれにしても、聖霊とクリスチャンの霊は一つになっているので、問題はないでしょう(1コリント 6:17)。しかし、覚えておいて下さい。御霊の実を結ぶ事は、様々な御霊の賜物(様々な聖霊の力の現れ)を体験する事とは別のものです。


御霊の実は、信者の聖さと性格の為に与えられます。御霊の賜物(聖霊の力の現れ)はイエスを証しする為の力として与えられます。あなたは聖くあっても力を持たない事もあるし、強くても聖くない事もあります。もちろん、あなたに対する神の理想は、あなたが聖く強くある事です!これは、愛の内に歩む事について、パウロがコリントの人々に語った事です。


1コリント 13:1「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」


パウロは本質的に、「あなたには霊的な賜物がありますが、その賜物は力の為のものであり、実は聖さと品性の為のものです」と言っていたのです。私は何人かの献身したクリスチャンを知っています。彼らは御霊の実を現していましたが、彼らの証しには全く力がありませんでした。超自然的な賜物が彼らの人生に現れる事はありませんでした。その一方で、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)にあって歩んでいた人々を知っています。しかし、彼らは霊的成長に関しては失敗していました。霊的幼子でも御霊の賜物(聖霊の力の現れ)を体験する事はできます。神は、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)を通して、まだ未熟な信者でも奉仕の働きをさせる事があります。実際、パウロはコリントの信者は、何の賜物も欠けていないと言いました(1コリント 1:7)。しかし後に、パウロはこれらの同じクリスチャンを霊的な幼子と呼びました(1コリント 3:1)。考えてみて下さい。私たちは霊的な幼子が豊かに御霊の実を結ぶとは考えません。実を結ぶのには時間がかかる事を私たちは知っています。同じ事が幼いクリスチャンにも当てはまります。幼いクリスチャンが御霊の実を十分に現し始めるには、しばらく時間がかかるのです。しかし、幼いクリスチャンであっても聖霊に満たされ、生活の中で御霊の賜物(聖霊の力の現れ)を体験する事ができます!そのようにして、聖霊が幼子に奉仕の働きをさせ、教えているのです。また、どれほど主と共に長く歩んで来た人でも、完全に成熟してはいません。私たちは何年もの間、良いクリスチャンであったかもしれませんが、そろそろ本気で考えるべき時です!私たちは、魂や思考の領域では、自分が思っているほど、まだ聖化されていない事に気づく必要があります。そうした時、私たちはまだ肉体を持って生きていて、闘わなければならない肉の体を持っている事に改めて気づくのです。


1コリント 9:27「むしろ、私は自分の体を打ちたたいて服従させます。他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにする為です。」


魂や思考の聖化は過程です。私たちは肉体を制御する事を学ばなければなりません。パウロが、「体を打ちたたいて服従させます」と言った時、彼は自分の体を自分の霊に服従させる事について言及したのです。つまり、パウロは「私の肉が私を支配するのではなく、私の霊が私の肉を支配しなければならない」と言っていたのです。一方、霊が肉体を支配させていない肉的なクリスチャンは、依然として聖霊に満たされる事ができます。彼らはもっと御霊に満たされる必要があります!異言は全ての始まりであり、神との歩みにおける新しい力の領域への入り口です。しかし、あなたは、その入り口超えて神の超自然的な力にもっと入り、御霊の事柄において成長して行くか、それとも、多くの人がそうしているように、入り口に入らず立ち止まり、あなたの霊的成長を止めてしまうか、全てはあなた次第です。私は、私自身の人生とミニストリーにおいて、異言で祈り神を崇拝すればするほど、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)をより頻繁に体験しました。そして、逆もまた真である事を発見しました。異言を話さなければ話すほど、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)は少なくなったのです。パウロは信者に、御霊の賜物を切望し、より優れた賜物を熱心に切望するよう教えています(1コリント 12:31)。しかし、これらの言葉は、既に異言を話す人々に向けて書かれたものです。結論として、異言は、神があなたの為に用意された全ての御霊の賜物(聖霊の力の現れ)へと導き、超自然的な備えへの入り口となります。


計り知れない価値


聖書に記されている異言について、これら全ての目的に照らすと、それぞれが私たちの益の為にある事が分かります。人々は私によく尋ねます。「超自然的に神と話す事に価値はありますか?」もちろんです!でなければ、神はその手段を提供しなかったでしょう!神が、異言は神とのコミュニケーションの超自然的な手段であると言うなら、私たちはそれを必要としているのです!異言は、それを話す者を築き上げると神が言うなら、それは全ての信者にとって必要です。信者が何かを感じても、感じなくても、異言を話す時、その人は築き上げられるのです。神が異言に価値があると言うのなら、たとえ私たちがその価値の全てを理解せずとも、価値があるのです。


14 誤解 へ続く

2023年2月2日木曜日

14 誤解

御霊に満たされ、異言を話す信者でさえ、異言の価値、目的や用途などに関しては無知な人が多いものです。一部の信者は、異言について聖書が何と言っているかを知りません。その結果、彼らは、神がこの超自然的な賜物を通して与えようとしている恩恵を得ていません。この事について、聖書から見て行こうと思いますが、その前に、この異言の主題に関して、多くの信者が何年にも渡って真実として誤って受け入れてきた幾つかのものと、非聖書的で極端な考えについて見ていこうと思います。まず誤解について取り扱いたいと思います。


 誤解#1 「聖霊のバプテスマを受けて異言を話さないと、救われない」


教会の世界の全体では、聖霊のバプテスマを受けて異言で話さなければ、誰も本当に救われないと言う人がいます。これらの人々はまた、通常、人は特定の洗礼式によって洗礼を受けなければならないと強く信じています。しかし、聖霊を受けて異言で話すまでは、誰も救われないとするのなら、イエスは嘘をついた事になります。何故なら、イエスは救われていない人は、聖霊を受ける事ができないと宣言したからです!


ヨハネ 14:16-17「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


「世はこの方を見る事も知る事もない」と言っています。イエスは、この世、つまり、救われていない人々は、聖霊を受け入れる事ができないと言いました。どうしてでしょう?救われていない人は、イエスを受け入れた時に、新生において聖霊によって再創造されます。しかし、救われていない世の人々は、イエスを知らないので、聖霊を受ける事ができません。救われていない人が、まずイエスを受け入れずに、聖霊の満たしを求めて祈る場合、別の種類の霊を受けるかもしれないのです!何故なら、霊の領域には悪霊もいるからです。罪人に聖霊のバプテスマを求めるように促すとどうなるでしょう?罪人は、霊と違いを知りません。イエスをまず受け入れずにいると、彼らは間違った霊に委ねるかもしれません。


何年にも渡って、私は、これが実際に何人かの人々に起こるのを目撃してきました。彼らは最初にイエスを受け入れて新生しなかったので、悪霊を受けました。私はその悪霊を追い出さなければなりませんでした。その後、私は彼らを主に導きました。彼らは新たに生まれ変わり、聖霊に満たされました!例えば、ある集会で何人かの人々が聖霊に満たされる為に前に出てきたのですが、祈りの列に並んでいた、1人の女性に悪霊が宿っている事を私は霊で感じました。私は彼女に手を置きながら、「あなたはクリスチャンですか?」と尋ねました。 彼女は言いました。「そうです。私には聖霊さえあります。私が異言で話すのを聞きたいですか?」


私が何かを言う前に、彼女は何かをガタガタ言い始めましたが、それはただ意味不明なものでした。私は、それが異言ではない事が分かりました。ご存知のように、悪魔や悪霊について話すと怖がる人もいます。しかし、信者は恐れる必要はありません。聖書は、悪霊を見分ける方法を次のように教えています。


1ヨハネ 4:3「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です...」


私は彼女に言いました。「姉妹、このように祈って下さい。天の父よ、私はあなたが神である事を認めます。主イエス・キリストはあなたの御子です。」その女性は、「イエス・キリストはあなたの息子ではありません。また、肉体を持って来たのでもありません」と言いました。彼女は主イエス・キリストと言いませんでした。彼女は、イエス・キリストが神の御子であり、主であり、肉体を持って来られた事を告白できませんでした。この女性が正しい霊を受けていない事は明らかでした。彼女は、人は聖霊に満たされ、異言を話さなければ本当に救われないと言う人たちと付き合っていました。これらの人々は、まだ罪人であるこの女性を聖霊のバプテスマを求めるように導き、代わりに彼女は間違った霊を受けたのです!この女性は私に言いました。「私の内の何かが、あなたの言った事を私に言わせません。」私は言いました。「知っています。自由になりたいですか?」彼女は「はい」と答えました。それで私はその悪霊を彼女から追い出し、礼拝が終わる前に彼女は生まれ変わり、聖霊が彼女に言葉を与え、彼女は異言で話しました。もう一度言わせて下さい。罪人が聖霊に満たされようとするのは危険です。彼らはまず、キリスト・イエスにあって新しい創造にされる必要があります。そうして初めて、彼らは聖霊に満たされるのです。一方、あなたが主イエスを自分の救い主として知っていて、新生において神があなたの父になった時、あなたが聖霊の満たしを御父に求める事については、全く心配する必要はありません。神の子になったあなたが聖霊を求める時、あなたの内には聖霊が宿っている為に、悪霊は入れないのです。


確認の夢


私はある大きな教会で集会を開いており、日曜日の朝の礼拝の為に説教する準備をしていました。しかし、その日曜の朝、目覚める直前に夢を見てメッセージを変える事にしました。私は夢で、自分が説教壇に立っているのを見て、こう言っているのを聞きました。「聖霊に満たされ、異言で話さない限り、生まれ変わっていないと言う人もいます。しかし、それは正しくありません。」それから私は自分がヨハネ 14:16-17を引用するのを聞きました。「聖書は言っています。『この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません...』神が世に対して持っている賜物は、ヨハネ 3:16によると永遠の命です。しかし、神の子供たちにとっての神の賜物は、聖霊です(使徒 1:5)。」それから夢の中で、私はルカ 11:13を引用しました。


ルカ 11:13「ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それなら尚の事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。」


夢の中で見たのはそれだけです。それは私が説教しようとしていた事ではありませんでしたが、夢の中で言った事について話すのは悪くないだろうと思いました。それで、その朝、説教する時間になった時、私は会衆にこう言いました。「用意した説教があるのですが、昨夜見た夢の中で、自分が説教壇から言っているのを聞いた事をお話ししたいと思います。それは誰かの助けになるかもしれません。」それから私は夢の中で言った事を話しました。礼拝の後、私と妻はその牧師と食事に出かけました。彼は言いました。「ケニー兄弟、あなたが会衆に語った事、あなたの夢は神からのものでした。今朝、私たちの会衆の若い男性が、礼拝の前に私に話しかけに来ました。彼は立派な青年で、夫であり、3人の子供の父親でもあり、5年前にこの教会で救われ、聖霊に満たされ、それ以来、私たちの会衆の一員となっています。今朝、この人が私に言ったのです。『これが私の最後の日曜日になります。私は別の教会に行く予定ですが、公平を期してお知らせしたかったので、今朝、来ました。母は別の所の教会員で、聖霊に満たされて異言を話さない限り、誰も本当に救われない事を私に確信させました。』しかし、礼拝の後、この若者が私の所に来て言ったんです。『私の家族と私は行かない事にしました!ケニー兄弟の夢は、明らかに私の為のものであり、神が私に何を伝えようとしておられるかが分かりました。ケニー兄弟の夢の話を聞いた後、私はこう思い始めました。私は教会で救われ、数か月後に御霊に満たされました。聖霊のバプテスマを受けた時、既に救われている事を知り、その間ずっと聖霊の証を持っていました。私は母が良い人であり、救われていると知っています。しかし、心の中では正しくても、頭の中では間違っていると思います。』」あの若者は正しかったのです。この世に対する神の賜物、つまりイエス・キリストを受け入れる事による永遠の命の賜物と、神の子供たちへの神の賜物である聖霊には大きな違いがあります!


誤解#2: 「異言は全ての人のものではない」


他の人は、「私は異言を信じていますが、異言は皆の為のものではありません」と言い、1コリント 12:29-30を引用します。


1コリント 12:29-30「皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。全てが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。」


これらの人々は次のように結論付けています。「全ての人が使徒、預言者、教師、又は、力あるわざをする者ではないので、全ての人が異言を話しません。従って、異言は皆の為ではありません。」これらの聖句の文脈全体を読んで、パウロが実際に何について話しているのか見てみましょう。


1コリント 12:27-30「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えて下さいました。皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。全てが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。」

「パウロは、誰もが異言を話すわけではない」と言っているのではありません。「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。」と言ったように、教会というキリストの体においては、各信者はそれぞれが違う役割があるという事です。この箇所は、教会に与えられた奉仕の役割について話しているのです。1コリント 12:30では、様々な異言とその解き明かしを通してなされる、預言のミニストリーに召されている人々について言っています。


私が異言とその解き明かしを行っているのを初めて見たのは、デイビス夫妻でした。デイビス夫妻は、私の妻と私がこれまで知る事のできた、最も親愛なる友人であり、牧師仲間でした。彼らはこの異言とその解き明かしの分野で注目に値する働きをしました。例えば、妻と私がテキサス州南部の都市で会合を開いた時の事を覚えています。昔、私たちはその都市に住んでいたある家族と交わりましたが、夫は一度も教会の礼拝に来なかった事に気づきました。その男の妻は、ある日私たちと一緒に昼食に行くように頼みました。一緒にいる間、彼女は私たちにこう言いました。「彼はとても素晴らしい人なので批判するつもりはありません。しかし、教会で彼を怒らせるような事が起こり、行くのをやめんです。」人が教会を離れる時、その人は神との交わりから離れます。何故なら、他の信者と交わらない信者は、神の言葉に照らして歩んでいないからです(1ヨハネ 1:7)。この男性には祈りが必要でした。もちろん、私たちはその日、彼の妻と一緒に彼の為に祈りました。私たちはその集会を閉会し、100マイル離れた別の町で奉仕する為に出かけました。デイビス夫妻はこの集会に出席していました。今回は、その男性は妻と3台の車に乗った人たちと一緒に現れました。彼は地元の集会には来ませんでしたが、これらの他の集会に行く為に100マイルも車を走らせたのです。これらの集会の1つで、主は私に言われました。「その男性とその妻に奉仕しなさい。」それで私は彼らを前の方へ呼びました。突然、目の前にビジョンがありました。夫婦が歩いているのが見え、奥さんは下を向いていました。夫は「どうしたの?」と尋ねました。妻は答えました。「ケニー兄弟が預言的に私に言ったのは知っていますが、私が彼に話したので、彼は状況の一部を知っていたんです。」すると主は私に言われました。「あなたがこの夫婦に奉仕する事もできますが、デイビス夫妻が彼らに仕えた方がよいでしょう。そうすれば、デイビス夫妻が彼らについて何も知らない事を彼らは知っているので、悪魔は彼らを利用できなくなるからです。」


それで、礼拝のリーダーが会衆を率いて歌を歌っている間、私はデイビス夫妻に来てもらい、彼らに奉仕するように頼みました。デイビス姉妹はこの夫婦に異言を話し、デイビス兄弟は通訳をしました。私がデイビス夫妻に彼らに関する正確な状況を全て話したと思った事でしょう! デイビス兄弟と姉妹は、その日の昼食時に妻のオレサと私に言った事を、この夫妻に一言一句話しました。デイビス夫妻は、彼らの問題が何であり、どこでお互いにそれを見逃したのかを夫婦に話しました。それから彼らはその夫婦の状況に対する神の答えを与えました。私は何年にもわたって、そのようなデイビス夫妻の奉仕を何度も見てきました。公の集会で異言でメッセージを伝える時、その奉仕者は聖霊によって導かれ、促されます。私自身の集会で何度も、人々は奉仕を受ける為に前に出て来て、主は「デイビス夫妻に奉仕をさせなさい」と言われました。それからデイビス夫妻は、異言とその解き明かしで彼ら一人一人に奉仕したのです。彼らは人々について何も知りませんが、それぞれに何が悪いのかを正確に伝え、彼らに天からの正確な答えを与えます。ですから、公の集会で様々な異言とその解き明かしで奉仕する人たちはいます。


誰もがその役割を担う事は可能ですが、そのミニストリーでよく活躍する人たちが主にします。教会での役割と、各信者が聖霊に満たされて異言で話す事とは別です。それは、全ての信者にとって必要であり、皆が新しい言葉で話す事が可能であり、またそうすべきです。この種の異言は、教会で公に解き明かされる必要はありません。むしろ、神の前での個人的デボーションの中で使われるものです。


誤解#3: 「意のままに異言で祈る事はできない」


私がまだ若い伝道者であった時に、私は聖霊のバプテスマを受けました。その日以来、私は神の前で祈り、異言で歌いながら、主を崇拝し、交わりをする事を習慣にしました。誰もそうするように教えてくれませんでした。実際、人々は、聖霊のバプテスマで受けた祈りの言葉をどうするべきかについて、全く教えられていませんでした。ですから、日常的に異言で祈る事が正しいかどうか、私には分かりませんでした。しかし、聖霊派の人々が「意のままに異言を話す事はできません。あなたは聖霊の導きを待たなければなりません。その為に必死に頑張る必要があります」言うのを聞いた事があります。しかし、聖書のどこにもそれが見つかりませんでした。それに、それは私の経験ではありませんでした。私が異言で祈ったり、歌う為に神と二人きりになった時、私は全く頑張りませんでした。だから私は、いつも心の奥底にこの疑問を抱いていました。「いつでも異言で祈るのは正しい事だろうか?」私はこの問題で、数年間、悩みました。誰も聖書的な異言の使い方を教えておらず、私も異言について知らなかったので、悪魔は私を非難しました。悪魔は私の思考の中で「お前は他の人々と歩調を合わせていない!彼らは特定の時だけ異言で祈るが、お前はただ気ままに祈っている。お前は間違っている!」とささやきました。また、聖霊派の人々も私に、「私たちは意のままに異言で祈る事はできません。異言で祈れるのは、聖霊が私たちを特別に導かれる時に限られます。」と言いました。それで、私は自分が正しいかどうかを自問し続けました。それから数年間、私は祈りの生活に迷いました。私たちは人の意見を求め、そこから何かを見つけようとしますが、誰もが異なる意見を提供します。しかし、神の言葉から見つけるべきです!そしてついに、私は答えを見つけました。ある日、私は1コリント14章を開きました。私はパウロが「異言で祈る人は...」 と言っている箇所を読みました。パウロは、「聖霊が人を通して異言で語る...」とは言っていない事に気づきました。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


4節にも、「異言で語る人は...」とあります。ここでも、話すのは聖霊ではなく、人である事に気付きました。その節では、「異言で語る人は自らを成長させます...」とあります。それは私の注意を引きました。異言で話す人は自分自身を成長させます。次に私は、1コリント 14:14-15を読みました。


1コリント 14:14-15「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


誰が祈るのでしょう?聖霊が祈って下さるのではありません。聖霊は私を通して祈って下さるのでしょうか?いいえ!御霊は私が祈るのを手伝ってくれます。15節でパウロは言います。「私は霊で祈ります、そしてまた知性で祈ります。」それで私は自分自身に言いました。「パウロが『私は霊で祈ります、そしてまた知性で祈ります』と言ったのなら、祈りたい時はいつでも知性で祈れるのだろうか?きっとそうだ!」私は結論付けました。「私はいつでも『今から15分間祈ります。そして、知性で祈り始めます』と言う事ができるのだ。愛する父よ、私はイエスの御名によって御前に頭を下げます。私たちの主イエス・キリストの父、栄光の父である、あなたに声を上げます。あなたの偉大な贖いの計画に感謝します。このようにして、自分の意志で間ずっと神に祈り続ける事ができるのだ。 」それから、15節の冒頭をもう一度読みました。「私は霊で祈ります。」つまり、「私は自分の知性で祈る事ができるのと同じように、自分の霊で祈る事ができます」とパウロは言っているのです。その日まで、聖書でそれを見た事はありませんでしたが、いつでも御霊によって祈りたい時にそうできたのは正しかったと気づきました。それで私は言いました。「私は自分が何をしようとしているのか知っています。ここでひざまずいて、異言で1時間祈るつもりです。私はそうするつもりです。私は自分の霊で祈ります!」


さて、異言で祈る事について理解しなければならない事があります。悪魔はあなたと戦います。悪魔は、あなたがいつでも御霊によって異言で祈るこの領域にあなたが入るのを望んでいません。彼はあなたと戦うでしょう!悪魔の好む戦略の1つは、落胆させる考えをあなたの思考に浮かび上がらせ、軌道から外れさせようする事です。ひざまずいて1時間異言で祈り始めた瞬間、それが私に起こりました。否定的な考えが頭に浮かびました。そして、それが悪魔である事を私は知っていました。「誰かが入って来て、何をしているのか尋ねたらどうするんだ?『分からない!』と言うしかないぞ!」私は言いました。「いや、待て。」私は聖書を手に取り、1コリント 14 章を開きました。「誰かが入って来て、私が異言で祈っているのを聞いて、『何をしているの?』と尋ねたら、『私は父と話し、自分自身を築き上げているのです!』と言います!」すると、敵からの考えが再び来ました。「何を言っているのか分かるのか?」「いいえ、私は神の奥義を話しているのです!」「でも、祈り始める前と何か違う感じがあるのか?」「悪魔よ、私は感情では歩まない。私は聖書に書かれている事によって歩むのだ!それに、異言は霊的な築き上げであり、物理的な教えではないのだ。だから、もしお前が読めないなら、これらの聖句を読んでやろう。」それから、悪魔の全ての告発に答える様々な節を彼に読み上げました。それが終わった時、私は言いました。「悪魔よ、お前は引き下がるのだ。何故なら、私は異言で1時間祈るからだ!」それから私は目を閉じて、異言で祈り始めました。私の祈りには、御霊の導きはありませんでした。ただ霊で祈っただけです。しばらくして、1時間は祈っていたと思いました。とても長く感じました!それで目を開けて時計を見ると、たった10分しか祈っていなかったのです!それで私は、再び異言で祈りながら進み続けました。ゆっくりと時が流れ、しばらくすると、異言で1時間半も祈ったと思いました!私は自分の時計を見ました。20分しか経っていませんでした。私は懸命になりました。異言で祈るその時間は、私には決して乗り切れないように思えました。1時間がこんなに長く感じるとは思いませんでした!私はその間、とても苦労しました。立ち上がって椅子に座ると、外から声が思いに響きました。「お前は1時間を無駄にした! 説教の準備が出来たかもしれないのに。或いは、人々を訪ねる事ができたかもしれないのに。


しかし、その代わりに、お前は丸1時間を無駄にしたのだ。それがお前のやった事だ!」私は言いました。「悪魔よ。私は1時間も無駄にしてはいない。もう一度読んでやろう。」私は1コリント14章から引用して言いました。「私は父と奥義を話してたのだ。お前には奥義を知る術がないのだ!」悪魔は言いました。「でも、何を言っているのか分からないだろ!」私は言いました。「知性では分からないが、私の霊は神と奥義について話していたのだ!神は私が言っている事を全て理解しておられ、私は奥義を神に話す事で、自分自身を築いていたのだ。ただそれだけの為に、私はひざまずいて、また祈るつもりだ。邪魔をしたら、祈る時間を2倍にするぞ!」それで私は再びひざまずいて異言で祈り始めました。この時は少し楽で、次の2時間は乗り切りました。私は少しも聖霊の導きを感じませんでしたが、異言で祈る為に2時間費やしたのです。立ち上がって再び椅子に座った時、私は異言で3時間祈っていました。あれほど御霊によって祈った事はありませんでした。もう一度、外からの声が私の考えの中で言いました。「お前はさらに2時間、合計3時間を無駄にした。それは何の益をもたらしたのか?始める前よりも気分が良くなったか?」私は言いました。「私は感情や視覚で歩まない。私は信仰によって歩むのだ。」悪魔は言いました。「でも、自分の言った事を知っているのか?」私は言いました。「いいや。しかし、私の知性は自分に祈ってはいなかった。私の霊は神に奥義を話していたのだ。」悪魔はまた言いました。「自分が何を言ったのか分からないのに、異言で祈る事は、お前にとってどんなに良い事だったのか?」私は答えました。「私は自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げたのだ。」悪魔はまた言いました。「でも、お前はその時間を使って説教を仕上げる事ができた。時間は過ぎ去ってしまい、お前は何も達成していない。」私は言いました。「悪魔よ、私はお前に警告したはずだ。お前が私に何か言ったら、異言で祈る時間を2倍にすると言ったぞ。だから私はひざまずいて、さらに異言で祈るつもりだ!」それで私はひざまずいて、再び異言で熱心に祈りました。私がさらに1時間45分間祈っていた時、突然、溢れ出てくるようなものを感じました。私は霊の深みで、自分の霊と知性の両方で祈り始めたのです。聖霊が私にこれから起こる事を示して下さる中で、啓示が私の内から出てきました(ヨハネ 16:13)。


その瞬間まで、私は自分の最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げる為に、一切の聖霊の導きなく、ただ異言で祈っていました。しかし、溢れ出てくるものを感じた時、啓示は私から出てきたのです。それは、私が何かやったようには感じませんでした。しかし、自分の意志で異言で祈り始めていなかったら、あの溢れ出てくるものはなかったでしょう。自分の意志で異言で祈る事は、油井を掘るようなものです。石油業者が井戸を掘る努力をしなければ、その石油は全て地面に留まったままでしょう。石油業者が石油を掘削しない限り、誰もその証拠を見る事はありません。ですから、この4時間以上もの間、聖霊の導きなしに異言で祈った事は正しかったのです。私は何年にもわたって、ただ異言で祈りたいからという理由でそうしました。しかし、自分の意思で異言で祈る事と霊の深みの下で祈る事には、確かに違いはあります。霊の深みに入って祈る時、奇跡が起こり、啓示が与えられます!その日、その深い祈りの領域に入るのに私は5時間近くかかりました。しかし、私は毎日異言で祈り続けていたので、15分でその深みに入る事ができるようになりました。毎日、長い間異言で祈り始めると、より深い祈りの領域に素早く入る方法も学べます。


カリフォルニア州ノースリッジで集会を開いていた時の事でした。突然、講堂にいる全員に聖霊が祈りに導いたのです。私は御霊の強い促しの下、早口で異言で祈っていました!1時間以上も、そのように祈ったので、私は殆ど息ができませんでした。それから聖霊は私が祈っていた事の解釈を私に与えました。しかし、全てを知る必要はなかったので、私が祈っていた全ての解釈ではありませんでした。その解釈の中で、神は私の将来のミニストリーに何を含めるべきか教えて下さいました。その祈りの時間の後、私はミニストリーを完全に変え、すぐに別の方向に向け始めました。私はその日、主が私に命じられた事を一歩一歩実行しました。全てがうまく機能し、まるで舞台裏の誰かが導いているように見えました。そして神はそのようになさったのです!このように、聖霊が祈りを導く事もあります。ですから、あなたの個人的な祈りの時間に、毎日異言で祈り続けて下さい。しかし、それだけに留まらないで下さい。あなたが霊の深みで祈り始めるまで、その超自然的な言葉が力強い川のようにあなたから流れ出し始めるまで、祈り続けて下さい!


誤解#4: 「全ての異言は祈り」


時々、全ての異言は祈りの形であると誰かが言うのを聞くかもしれません。彼らは言います。「人が異言を話す時だけ、その人は本当に祈っているのです。そして、誰かが異言を解釈する時、彼は本当に預言しているのです。」しかし、全ての異言が祈りではなく、全ての異言が祈りとして与えられている訳ではありません。私は公の場で何度も異言を話した事がありました。私の言ったその言語を正確に理解した人々が、何度か私の所に来た事があったので、私はこの事を良く理解しています。私は一度ドイツ語で話しましたが、私はドイツ語は分からないのです。私はスペイン語とアラビア語でも話しました。私は自分が何か祈っているのか彼らに尋ねると、彼らは「いいえ、あなたは会衆に向けて話しているのです」と答えました。例えば、ある男性が礼拝の後に私の所に来て、「あなたが言った事を翻訳した時、あなたは何をするつもりだったのだろうと思いました」と言いました。 私は聞きました。「どうしてですか?」彼は、「あなたはアラビア語である事を言いました」と答えました。私はアラビア語で話していたとは思いもしませんでした!すると、この男性が「アラビア語は私の母国語です。あなたはアラビア語で、普通の人には決して聞かない発言をしました。それを翻訳して、どうするつもりなのだろうと思いました」と言いました。この男はクリスチャンではなく、御霊の賜物について何も理解していませんでした。彼は私がアラビア語を話す方法を知っていると思って、私が言った事を英語に翻訳していたのです。私は「私のアラビア語はどうでしたか?」と言いました。「素晴らしかったです」と彼は言いました。「それは良かった。神を褒め称えます!きちんと話せたのを良かったと思います。何故なら、私はアラビア語を知らないからです。」その男は呆然として、私を見て言いました。「アラビア語を話した事がないと言う事ですか?」私は言いました。「そうです。」その男は信じられないという目で私を見つめました。彼は「アラビア語が話せないのですか?」と言いました。それから彼は、アラビア語で私に何か言いました。私は同じ言葉を言った事に気づきましたが、彼が何を言っているのか私が分からなかった事を、彼は私の顔を見て分かったのです。するとその男は、「何を言っているのか分からないのに、どうやって完璧なアラビア語を話せるのですか?」と尋ねました。それで、私は自分の聖書で1コリント 12:14を開き、異言の賜物と解釈につ​​いて彼に説明しました。


その夜、この男が最初に教会に入った時、彼はイエス・キリストがメシアであるとは信じていませんでした。でも礼拝が終わって話を終える頃には、彼の中で何かが変わっていました。彼は私に言いました。「キリストはメシアかもしれない!」私は答えました。「神に感謝します。その通りです!」私がアラビア語で話していた時、聖霊はイエスがメシアである事についてこの男に話したのです!私は祈っていませんでした。神の働きによって、私はこの男への特定のメッセージをしていたのです。これは私のミニストリーで何度も起こりました。ですから、全ての異言が祈りという訳ではありません。全ての異言は本質的に同じですが、目的と使用法が異なる場合がある事を忘れないで下さい。これが、神がそれを「様々な種類の異言」と呼ぶ理由の1つです。


誤解#5: 「異言は、外国語を話す能力です」 


あなたが異言で公に話す時、誰かがあなたを理解するかもしれません。しかし、あなたが異言で奥義を神に話す時、誰もそれを理解する事はできません(1コリント 14:2)。恐らくですが、悪魔もあなたを理解できません!その為、悪魔は異言を非常に嫌い、異言と激しく戦います。何故なら、あなたが何の奥義を語っているのか分からないからです。あなたは父と神の奥義を話しているのに、サタンはその事について完全に外にいるのです!数年前、ある集会で、私たちは牧師の学生を晩餐会に招待しました。15の異なる大学からの学生と多くの教派の牧師が晩餐会に出席しました。懇親会では議論を行いました。私たち牧師の何人かがパネルに参加し、精神科医と医師も参加しました。聴衆が提示した異言に関する質問に答えました。私の親友の奉仕者は癒しに関する質問に答えました。また、他の牧師の何人かは、他のトピックに関する質問に答えました。異言に関する質問は、提出された全ての質問のほぼ70%を占めました。神学校の学生の何人かは伝道地への準備をしていて、次の質問をしました。「神が召された国の母国語を学ぶ為に、学校に通わなければならないのは何故ですか。神は異言の賜物を通して彼らの外国語を私たちに与えてくれませんでしたか?」これらの学生は、聖書の異言の使い方を誤解していました。彼らは、異言で話す事は、常に誰かの母国語で話していると誤って考えていました。しかし、異言によって外国語を習得するという事ではありません。確かに、聖霊が未知の異言を話してくれる事があります。つまり、それはあなたにとって未知の言語です。あなたが話す幾つかの異言は、他の人には知られているかもしれませんが、あなたには知られていません。人の異言、それは外国語を意味する事もあるのです。


1コリント 13:1「例え私が人の異言や御使いの異言で話しても...」


私たちは神の奥義を神に話す時、大抵、天の言葉で話します。しかし、外国の言葉で話す事もあるのです。ある超教派の牧師が、これに沿った経験について話してくれたのを覚えています。何年も前に、彼はメキシコのミッション・ステーションに食糧を持って行きました。1週間の滞在中、この牧師は毎日説教しました。彼が説教した後、人々は祭壇の周りに来て祈りました。その牧師は私に言いました。「祭壇の周りで祈りを捧げている時、私は今まで見た中で最も輝かしい光景の一つを目撃しました。歯がなかった年老いた女性が聖霊に満たされました。彼女の顔は暗闇の中でネオンサインのように輝き、英語で流暢に神を賛美し始めたのです!


最初、おばあさんが流暢な英語で話すのを聞いた時、私は彼女がその言語を話せると思いました。でもその後、彼女は人生で一度も学校に行った事がない事を知りました!彼女が神をあがめ、崇拝し、賛美するのを、私は知っていましたが、彼女には全く知らなかった言語で聞くのはとても興奮しました!」


何人かのアメリカ人宣教師が私に同様の証言をしてくれました。例えば、伝道地で人々に聖霊のバプテスマを施す際に、彼らにとっては知らない言語である英語で話すのを聞く事があるのです。例えば、1958年、私はスミス兄弟の為にニューヨークで集会を開いていました。スミス兄弟は当時70歳でした。彼と彼の妻は宣教師として1915年に中国に行きました。私はスミス兄弟の教会で頻繁に奉仕しました。私が異言でメッセージを話す時は、彼が常に通訳してくれました。彼の異言の解き明かしは、私が今までに見た中で最も美しいものでした。御霊の賜物は、使用する事によってより良い働きにさせる事ができます。人は神の前で待ち、聖霊に委ねる事を学ぶにつれて、自分のミニストリーを発展させる事ができます。御霊の賜物についても同様です。霊的な賜物の働きにおいて、神の霊にもっと従う事を学ぶ事ができます。スミス兄弟の教会でのその礼拝の間、私は異言でメッセージを伝えました。礼拝の後、隣の牧師館に行って食事をしました。私たちがそこに座っていると、スミス兄弟は妻にこう言いました。「ケニー兄弟が今夜中国語で話した時、何て言ったか分かりましたか?」スミス婦人は答えました。「はい。分かりました。」夫婦はそこに座って、中国語で数分間話し合いました。聞いていると、私が異言を話す時に使った多くの言葉に気づきました。スミス兄弟は、「私たちがそこに来てから何年も経ちましたが、私たちの聞いていた方言ではなく、近くの地域の方言であなたは話したのです。私はあなたの言った半分を理解しました。」私は中国語の方言を話しているとは知りませんでした。聖霊は、異言で超自然的な言葉を私に与えて下さったので、私は委ねているだけでした。人間の言語であれ、天使の言語であれ、あなたが異言で話す時、重要なのはあなたが霊感を受けた言葉を話しているという事です。


しるしとしての異言


人々は異言を話し、会衆の誰かが理解する事はあります。その人の母国語が話されるからです。或いは、時々、異言によるメッセージが、特定の人に特定の言語で向けられていますが、メッセージを伝えている人には知られていません。ただし、これらの場合、異言のメッセージはしるしとして与えられます。ペンテコステの日に聖霊がその屋上で120人に注がれた時の事を考えてみて下さい。その群衆の中にいた様々な人々は、彼ら自身の言語が話されているのを聞いたのです。しかし、何が起こっているのかを見ようと大勢の人々が集まった時でさえ、ペテロが立ち上がって説教するまで、誰も救われなかった事に注意して下さい!人々が異言を話すのを聞いて救われた人は一人もいませんでした。異言の賜物を含む御霊の賜物は人を救いません。それらの賜物の目的は救いはではありません。これらの超自然的な賜物の目的は、未信者の注意を引く為のしるしです!神が誰かの注意を引くと、その人は福音に対してよりオープンになるのです。


15 極端なもの へ続く

2023年2月1日水曜日

15 極端なもの

うめき


この種の異言は、聖霊の促しがなければできません。通常の異言の祈りは、私たちの意志で祈る事ができます。しかし、執り成しの祈りに伴う「うめき」は、聖霊があなたと一緒に祈るものです。自分の力で「うめきの異言」で祈る事はできません。聖霊の導きや助けがそこにないなら、その人のうめきは肉の現れに過ぎないのです。霊によって祈るという事です。あなたがうめきの異言で祈る事を決めたとしても、共に祈って下さる御霊の助けと力を意識しなければなりません。この種の異言の祈りは、産みの苦しみの時によく見られるものです。


ガラテヤ 4:19「私の子供たち。あなた方の内にキリストが形造られるまで、私は再びあなた方の為に産みの苦しみをしています。」


パウロがほのめかしていたのは、最初に人々を主に導いた時、彼らの為に産みの苦しみをして祈っていたのですが、それは、彼らが本来あるべき姿でキリストにあって成長していなかったからです。その結果、パウロは、彼らが霊的な歩みにおいて完全に成長するように、彼らの為にうめき祈り続けたという事です。この祈りは、出産時に子供を産む女性のようなものです。通常、赤ちゃんを産む事は、母親にとって幾らかの苦しみが伴います。聖霊が人々を導く時、失われた人の為にうめいて執り成しをする為の促しや力を祈る人に与える時、似たような事が霊において起こります。執り成しする者とは、他の人の代わりをする人です。その為、信者が未信者の為に祈り始めると、時には自分も未信者のように感じる事があります。


これに関して、私が経験したものを一つ紹介します。1954年、私はネバダ州にある教会で集会を開いていました。牧師館の居間で、朝8時頃、そこの牧師とその妻は、私と私たち夫婦と一緒に、今後の礼拝について祈ってくれました。私が膝まずいて祈っていた時、突然、執り成しの強い重荷を感じました。この時、私は聖霊のバプテスマを受けて8か月しかたっていなかったので、御霊に関する事の多くは、私にとって初めてでした。この重荷をどうしたらいいのか分からなかったのですが、私はうめき声を上げて異言で祈るという聖霊の強い働きに委ねました。私の内側で、私自身が失われ、罪人であるという感覚がしました。その数年前には私も未信者だったので、それがどのようなものかを知っていました。私は、「自分には希望がない!」と叫びました。もちろん、そうではない事は分かっていましたが、未信者の代わりをしていたのです。私は彼らが感じたのと同じように感じました、そして私は彼らの為にうめきの祈りをしていました。「希望がない!」と叫びながら、異言で祈り続けました。私は御霊に促されていたので、どのくらいそのように祈っていたのか分かりません。次の教会の礼拝で、私がまだ10分しか説教をしていなかった時、突然神の力が下りました。そこにいた全ての罪人が救われ、全ての堕落した信者は再び献身しました。それが、私がその日早く祈っていた事だったのです。私は、それらの救われていない人々の為に執り成しをしていました。


ここで理解しなければならない事があります。教会は失われた人々を勝ち取る為にあらゆる手段を用意しましたが、多くの場合、事前に産みの苦しみの祈りがなかった為に、人々は救いに至らないのです。もちろん、福音を聞いて信じるだけで人は生まれ変わる事はできます。しかしあまりにも多くの人が、「はい、私はイエスが神の子であると信じています。はい、私はイエスを受け入れます」と言うだけで、本当の生まれ変わりの経験をしません。彼らは頭の中で言っているだけで、キリストへの真の献身が、彼らの心の中で起こっていません。何年も後になって、「シオンは、産みの苦しみと同時に子たちを産む」というイザヤ 66:8で言及されている執り成しによって、より多くの人々が真の救いに至る事が分かりました。失われた魂の為に、御霊にあって執り成すよう聖霊があなたに働きかける時、あなたは未信者をよりスムーズに導けるのです。霊的な産みの苦しみなしに神の家族に生まれる子供はいません。この事に関して、私たちは聖霊の助けがとても必要なのです。



御霊の促しの下での聖書的な祈り


神の奥義を神に話ながら神と交わり、いつでも異言で祈ったり、歌ったりする事はできます(1コリント 14:2)。しかし、自分自身の徳を高める為に異言で祈る事と、祈りの中で聖霊があなたと一緒にいて、他の人の為に御霊によって執り成しをする事との違いはあります。あなたの内に住む聖霊について使徒ヨハネが何と言っているかに注目して下さい。


1ヨハネ 2:20「あなた方には聖なる方からの注ぎの油がある...」


1ヨハネ 2:27「しかし、あなた方のうちには、御子から受けた注ぎの油が留まっている...」 


ここでヨハネは、あなた方には聖霊からの油注ぎ(つまり、御霊の力や促し)があると言っています。それはあなたの内にあると言っています。バプテスマを受けて聖霊に満たされると、自分の霊から異言を話し始めます。赤ちゃんが母国語を話すようになるのと同じように、異言を話す練習をすればするほど、超自然的な言葉を流暢に話せるようになります。私は何度も夜中に目が覚め、神を賛美したり、異言を話したりします。その時、必ずしも御霊の促しがあったわけではありません。私はただ自分の霊から神に話しかけていました。しかし、聖霊の導きと助けの下で異言で話す時もあります。私がその祈りの領域に入ると、異言がスムーズに流れ出てきます。それは聖霊の促しと助けによって私の霊から湧き出て、私はただ言葉を発するだけです。


御霊の導きと助けによって、うめきながら異言で祈る事は、聖霊体験をした多くの信者に欠けている祈りです。多くの信者は異言を話しますが、御霊の超自然的な領域で、それ以上成長する事はありません。では、信者はどうすれば神の中でより高い位置に上がる事ができるのでしょうか?彼らは、聖霊の促しによって自然と流れる祈りの領域を乗り越える為に、異言で十分長く祈る必要があります。


御霊の導きと助けの下で異言で祈る事が、執り成しにどのように適用されるかについて話しましょう。あなたの祈りを必要としている人の為に、あなたは異言で祈る決心をして始める事ができます。しかし、あなたはその人の状況に関する全ての詳細を知らないので、その人の為に何を祈るべきか分からない事があります。私は、私の内に住んでおられる聖霊によく言います。「この状況で何を祈ればいいのか分かりません、聖霊様。私は異言で祈り始め、あなたが私に執り成しの言葉を与えて下さる事を信頼します。」これは、あなたが聖霊に向かって嘆願する事ではありません。あなたはイエスの御名によって御父に祈ります。しかし、あなたは聖霊と話す事ができます。聖霊は神聖な人格を持つお方であり、あなたの中に住んでいる助け主だからです。私は聖霊の助けを得て、異言で祈り始めます。そして時々、それは苦労して祈るようなものです。聖霊の強い促しによって、誰かの為に、或いは、何かの為に祈る時、あなたは重荷を感じるでしょう。しかし、御霊の導きと共に祈り続けていくと、異言がスムーズに出てきます。もちろん、御霊の事を理解していない人々の周りにいるなら、そこを出て、その重荷に対して祈る為に一人でいられる場所を見つけるべきです。


私にも、重荷を感じて祈らなければいけない事を感じる時がありました。膝まずいた瞬間、私は御霊の中にいました。強い聖霊の促しで祈っていると、異言が流れ出てきました。私が祈り始めたのですが、その祈りの間は、まるで、私自身が祈っているのではないかのようでした。もちろん、聖霊はあなたの許可なしにあなたに臨み、あなたの中を流れる事はありません。しかし、神に服従する時、あなたは神の強い導きを感じるようになります。そのより強い促しで神の完全な御心を祈る事は、私が御霊に委ねて協力するかどうかの問題でした。御霊に委ねて共に行動する時、あなたはより深い祈りの領域に入り、力に溢れて異言があなたから繰り出され始めます。その強い御霊の促しが私に臨む時、私は異言でできるだけ強く、速く祈ります。重荷が取り除かれ、勝利の気配を感じるまで、私はそのように祈り続けます。


このように聖霊に委ねた結果、人々が新しく生まれ変わり、超自然的に癒されるのを私は見てきました。私は何年にもわたって、数え切れないほどの必要が奇跡的に満たされるのを目の当たりにしてきました。実際、このように霊の領域に入ると、あなたの霊はどこか別の場所で誰かに仕えているように見えたり、神があなたに見て欲しいと望んでいる特定の状況を見るでしょう。御霊の力による物理的な移動も聖書的な経験です。ピリポは御霊に捕らえられ、体が別の場所にいる事に気づきました(使徒 8:39-40)。この自然の領域には時間と距離がありますが、あなたが異言で祈り、霊の領域に入ると、時間と距離は関係なくなります。それは、神が祈りにおいてあなたを通してできる可能性は、無限である事を意味するのです。


無知な人の前での異言


1コリント 14:16-17「そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っている事が分からないのですから。あなたが感謝するのは結構ですが、その事で他の人が育てられるわけではありません。」


パウロが「初心者の席に着いている人」について話した時、彼は霊的な事を学んでいない人たちの事を指していました。残念ながら、これは、キリストの体における多くの信者に当てはまります。場合によっては、霊的に訓練されていない人々の前で異言で祈るという分野で、人々が行き過ぎたり、過ちを犯したりする為に、キリストの御業に多大な損害を与える事があります。言い換えれば、一部の信者は、異言で話す時に無知な人の前にいるという事実を考慮に入れていません。信者が無知な人の前で、特に気を散らすような方法で異言を話すと、状況はさらに悪化します。1コリント 14:15では、霊と知性の両方で祈らなければならないと言っています。一方で、いつ異言で祈るべきか、いつ知性で祈るべきかを知る必要があります。私たちは他の人の前にいる時、その人の成長になる事をするのです。私はいつもその神の教えに従うよう努めてきました。例えば、何年も前にフロリダで集会を開いた時です。私たちの何人かは、食事の為に地元の人々に招待されました。その夜の夕食に来た人は皆、霊的な事柄についてよく理解していた人たちでした。それで、彼らが私に祈るように頼んだ時、私は英語で始めましたが、いつの間にか、異言で祈り、皆がそれに参加しました。その夜、私たちは一緒に祈って素晴らしい霊的な時間を過ごしました。しかし、無知な人がいた場合、私はそれをしなかったでしょう。私は英語でしか祈らなかったでしょう。聖書が、「その全ての事を、成長に役立てる為にしなさい。」と言っている通りです(1コリント 14:26)。私たちは御霊の霊感によって異言を話しますが、祈るか祈らないかは私たちが選択できるのです。しかし、人が成長しないのなら、異言を話す事は混乱を招くのです。


別のある時、私はインディアナ州で集会を開き、フィッリップ夫婦の家に泊まった事がありました。夜の礼拝の後のある晩、私たちは彼らと食事をしようとした時の事でした。突然、重荷のような、祈りたいという非常に強い衝動が私を襲った時、私はフィリップ夫妻に言いました。「フィリップ兄弟、今祈らなければいけません。」彼は、そこに集まっていた皆に言って私の祈りに参加してくれました。それで、私たちは皆、膝まずいて異言で祈り始めました。理解して欲しいのですが、その場に無知な人がいたとしたら、私は彼らの前で異言で祈る事はしなかったでしょう。私は自分でプライベートな場所を見つけて祈った事でしょう。彼らは全員、異言についてよく理解していた人たちでした。私たちはこれらの事をよく理解して、人々のつまずきにならないようにする必要があります。


膝が床に着いた瞬間、私は御霊の中にいて、異言で祈っていました。私は約1時間、激しく速く祈りました。それは、まるで私が祈っているのではないかのようでした。異言が川のように私から流れ出ました。祈りの仕方から、誰か未信者の為に御霊によって苦労している事を知りました。私たちの祈りの終わりに、重荷が取り除かれた感じがしました。私は喜びで笑ったり異言で歌ったりしました。それから私はビジョンを見ました。この時は木曜日の夜のことで、ビジョンの中で、来る日曜の夜の礼拝を見ました。私は説教をしている自分を見て、自分の説教を聞きました。私は説教を終え、信仰告白の為に人々を講壇の方へ招きました。それから私は、3番目の席にいた年配の女性を指しているのを見ました。「主は、あなたが70歳を過ぎていて、地獄があるとは信じていなかった両親に育てられた事を私に示して下さいました。しかし主は、あなたの片足が地獄にある事をあなたに告げるように言われました。」それから私は彼女が来て、前に来て膝まずくのを見たのです。


日曜日の夜、私が教会に入ってすぐに、私は周りを見回しました。すると、そこに確かに、私がビジョンで見たあの女性が3番目の席にいたのでした。私は説教を終え、ビジョンで見た通りの事をその女性に言いました。彼女は前の方に来ました。礼拝後に、その女性が牧師と話しているのを見ました。彼女は、私に挨拶をしてから、牧師に言いました。「この説教者の言った通り、私の両親は普遍主義者で、地獄などないと教えました。」この女性は、友達に連れられてこの集会に参加していたのでした。その夜、会衆の誰も、この人の為に祈る事を知りませんでしたし、誰も彼女が未信者であった事も知りませんでした。私もどのように彼女の為に祈っていいかわかりませんでしたが、聖霊は知っていたのです。するとその女性は、「あなたが言ったように、私は片足が地獄にありました。その意味をしっていました。私は脳梗塞で倒れた事があったのです。」すると、その女性は頬をうれし涙を流しながら、「ああ、今夜来てよかったです。本当によかった。」


聖霊は私たちが誰の為に祈るべきかを知っています。主は、この女性を悔い改めに導いて救われる為に、うめきの祈りが必要である事をご存じでした。しかし、異言に無知な人々がそこにいたとしたら、私はそのように異言で祈らなかったでしょう。理由の一つは、混乱を引き起こし、損害を与えていたかもしれないからです。恐らく、まさに神との歩みにおいて霊的に成長する為に必要な、聖霊の満たしを求める事から彼らを遠ざけた可能性があったでしょう。


1コリント 14:16「...あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っている事が分からないのですから。」


この聖句に注意を払わなかった別の女性の例を挙げましょう。その結果、この女性は、何が起こっているのか理解できず、人々に損害を与える過剰行為に陥りました。御霊に関してよく知っている牧師夫妻が、別の牧師に招かれ、結婚式に参加していた時の事です。3人全員が式典で役割を果たしました。結婚式に出席した人々の殆どは他の教団の人々でした。まず、新郎の親戚である牧師が式典の一部を朗読し、続いてゲストの牧師が朗読しました。それから、自身も牧師である、このゲストの牧師の妻がある部分を読む事になっていました。しかしその代わりに、信者と未信者の人々の前で、結婚式の真っ最中に、突然床に倒れ、赤ん坊を産もうとするように、うめき声を上げたのです。彼女は恐らく誰かの為に祈っていたのでしょう。私がフィリップ夫妻といた時の話では、そのようなうめきの祈りが何であるかをよく知っている人たちと共におり、それは個人の家で起きた事でした。しかし、この女性は公共の場で、しかも多くの無知な人々がいる結婚式の最中にうめき声を上げたのです。彼女は完全に肉によって行っていました。この夫婦を式典に招待した牧師は、後に私に言いました。「とても恥ずかしい思いをしました。どうすればいいのか分からなかったので、ただそこに立っていました。」私なら、その女性の注意を引いて、「立ち上がって、大人らしく振る舞いなさい。あなたがしている事は聖書的ではありません。あなたは肉によってしているのです。」人々は結婚式を去り始めました。彼らは霊的な事を「学んでいない」ので怖がっていました。人々が結婚式を去る時、彼らはこう言いました。「やっぱり、異言を話す無知な連中は頭がおかしい!」その女性のように愚かな行動をとった人々によって、キリストの体に多くの損害が与えられました。


多くの人が、神が望んでおられる祝福を奪われてきたのです。この女性のように、霊的な事柄について学びを受けていない人々の前で誰かが愚かな行動をとった場合、霊的な指導者の誰かが立ち上がって正しい事を主張しなければなりません。彼女がした事は会衆を成長させなかったので、正しくありませんでした。繰り返しますが、聖書ははっきりと述べています。「全ての事を、成長に役立てる為にしなさい」(1コリント 14:26)。それは、異言で祈っている人だけでなく、出席している全ての人の成長を意味します!さらに、聖書は次のようにも述べています。「全ての事を適切に、秩序正しく行いなさい」(1コリント 14:40)。


理解できない人々と一緒にいる時に、異言で祈る重荷が与えられたら、立ち上がって退席するのです!他人の邪魔にならないように、一人で祈りに行きましょう。聖霊は誰かに祈るよう促したりするかもしれませんが、それは、秩序ある適切な方法で他の人を成長させようとする、私たちの聖書的責任を取り除くものではありません(1コリント 14:23)。御霊について知っている人々だけの祈祷会では、全員が御霊によって大声で祈っても問題ありません。ただし、公共の場が何であれ、秩序を乱さないようにしましょう。自分自身に注意を引くような方法で祈ってはいけません。この原則に対して、重大な違反をした女性の事を耳にした事があります。牧師が集会で説教をしていて、その最中に彼女は起き上がって預言を始めました。彼女は、「主はあなたの為に祈るように言われました」と宣言し、牧師に手を置いて異言で祈り始めたのです。それは秩序正しく行われていませんでした!人々は立ち上がって去りました。当然、彼らは気分を害しました。霊的な事を学んでいない人々は、何が起こっているのか理解できませんでした。聖霊派の人々でも、時々知らないようです。


次の集会では、大勢が欠席していました。もしこの女性の重荷が本当に主からのものであるなら、彼女は何をすべきだったでしょう?説教を中断する事は秩序正しくはありませんでした。彼女が壇上に上がり、牧師の為に祈った時、彼女は確かに自分自身に注目を集めました。彼女は公の集会を離れて、重荷が取り除かれるまで自分で異言で祈る場所を見つけるべきでした。しかし、この女性は注目を浴びたかったのです!彼女は肉的に行動し、キリストがなされた事に対して、そして出席者全員に損害を与えました。異言の誤用は本当に誰も成長させません。しかし、人々がいつも愛の内に歩むように努めていれば、問題は解決するのです。愛はいつも他人を優先します(1コリント 13:4-8)。従って、この異言の領域で極端な立場を避ける為に、それぞれの状況で考えるべきでしょう。自分だけでなく、他の人々の成長を促すかどうかの事です。


私たちは、信者が異言を話す事に関して陥りやすい、極端なものを議論しました。これらの行き過ぎについて、聖書から見てきました。これらの例で示した信者は、異言の聖書的範囲を超えていた為、誤りに陥りました。では、異言を話す事の聖書的な範囲について話しましょう。殆どの場合、聖霊派の信者は、この祈りの領域で経験できる表面に触れただけです。しかし、神はご自分の民をより高く引き上げようとしておられます!今は終わりの時です。神の完全な御心に従って祈るべき事はたくさんあります!


16 異言の役割 へ続く

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...