2023年2月3日金曜日

13 異言の目的

 ここまで、異言で話す事の三つの主な目的に焦点を当ててきました。一つ目は、異言とは、神とコミュニケーションを取る為の神聖で超自然的な手段です。二つ目に、異言は我々を築き上げます。三つ目に、異言で祈る事によって、私たちは神の完全な御心の沿って祈れます。この三つの主な目的以外にも、私たちが聖霊に導かれるままに異言で祈るなら、様々な恩恵が私たちを待っています。


神を崇める手段


異言は私たちが神を崇める為の手段でもあります。コーネリアスと彼の家族がこの超​​自然的な経験をした時に何が起こったのかを読んでみましょう。


使徒 10:45-46「割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれた事に驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。」


46節の「異言を語り、神を賛美した」という言葉に注目して下さい。「賛美する」の語は、「大きくする」という意味です。しかし、既に大きい存在である神よりも大きくする事ができるでしょうか?もちろん、神の視点から見れば、答えはノーです。しかし、私たちの観点からは、神は私たちの評価において、より大きくされたりする可能性があります。異言を話す事は、神が私たちにとって大きくなる一つの手段です。私は宣教の早い段階で、この種の異言の目的に気づきました。御霊に満たされる前、私はまだ20歳でしたが、既に教会の牧師として奉仕していました。もちろん、若い人たちが経験する全ての試練と誘惑を受けました。しかし、聖霊に満たされ、毎日異言で祈り始めると変化に気づきました。同じ試練や誘惑に直面した時、私にはそれらを乗り越え、抵抗する力が追加されました。その後、それらの領域において、勝利者として生きる事がずっと楽になりました。何故なら、私が神をより信頼していたので、神は私の人生でより働かれたからです。


以前、私が牧師をしていた教会で聖霊を受けた後の2年間、私は聖霊を受けた事や、異言で話した事を誰にも話しませんでした。しかし、しばらくすると、教会の人々が私にこう言い始めました。「あなたに何かが起こった。あなたは以前よりも力を持っています。あなたが今説教すると、あなたの言葉はとても力強い!」私が異言で話し始めた後、イエスは私の説教の中で大きくなったのです。毎日異言で祈る事を決心し、あなたの生活の中で神がますます大いなる方となるようにして下さい。その結果、あなたはまだ見た事のない神の力の中で歩み始めるでしょう。


聖霊の臨在


異言で神を祈り、崇拝し続ける事は、神の内在の臨在を私たちに意識させるのに役立ちます。この一つの利点だけでも、私たちの生き方に影響を与える事は間違いありません。ヨハネ14章で、イエスは信者の生活において、聖霊の留まる臨在について語りました。 


ヨハネ 14:16-17「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


御霊はいつも私たちの中に住んでおられるので、私たちの生活の中で聖霊の聖なる存在を意識し続ける事は当然の事です。何年も前に、ある伝道者が次のような証言をしたのを聞きました。この伝道者は、教会で集会を開いている間、牧師とその家族と一緒に、牧師館に滞在していた時に起こった出来事について語ってくれました。「私は普通、昼食の後に少し運動する為に散歩したものでした。それから戻ってきて、夜の礼拝の準備をするのでした。でもこの日は、郵送しなければならない手紙が幾つかあったので、まず自分の部屋に行きました。後で散歩に行く時に手紙を郵送するつもりだったのです。」


牧師夫妻には、11歳の娘がいました。その日、この子は、私がいつものように午後の散歩をしていると思っており、まだ家にいる事を知りませんでした。そして、母親に腹を立てる事が何か起こった時、少女はかんしゃくを起こし、母親に醜い事を言いました。ちょうどそのタイミングで、伝道者が寝室から居間に出てきました。娘が見上げると、彼がそこに立っているのを見て、顔が真っ白になり、泣き始めて言いました。「許して、許して!私がこのように振る舞うのを見て、私がこのように話すのを聞いてしまって、本当にごめんなさい!」伝道者は少女の手を取り、彼女を椅子に連れて行ってひざまずかせました。それから彼は言いました。「私はあなたを赦します。しかし、あなたの内側にもあなたの声を聞いた偉大なお方がいます。あなたが悔い改めるなら、主もあなたを赦して下さいます。」それで少女は悔い改め、泣きながら祈り始めました。「主よ、赦して下さい。」しばらくすると、その少女は異言で神に祈り、礼拝し始め、御霊に入り込みました。それから伝道者は彼女に聞きました。「あなたはよく異言で祈り、そのように神を崇拝しますか?」「いいえ。頻繁には」と彼女は答えました。そこで伝道者は、「約束して下さい。今日から毎日、異言で祈って下さい。異言で幾つかの言葉を発するという事ではありません。神様の御前で待って、1日最低30分は異言で祈って下さい。そうすれば、あなたの内側にある聖霊の存在をより意識するようになり、あなたの生き方に影響を与えるでしょう。内在する御霊の存在を意識する時、あなたはコントロールを失って怒り狂う事はもうありません。」少女は涙ながらに、毎日異言で祈る事を約束しました。もちろん、私たちは言ってはいけない事を言ってしまう事がありますが、そうした事が起こる必要はありません。信者が肉において行動するのは、自分の内に留まっている聖霊の存在を意識していないからです。約2年後、伝道者はこの教会に戻って別の集会を開きました。その子は、その時には14歳くらいになっていました。礼拝の後、彼女は伝道者をわきに連れて尋ねました。「あなたが数年前にここに来た時、私に言った事を覚えていますか?」伝道者は言いました。「覚えていますよ。」彼女は言いました。「私はあなたが私に言った事をやりました。私は毎日、少なくとも30分間、異言で祈ります。そして聞いて下さい。それ以来、私は醜い事を言ったり、腹を立てたりした事は一度もありません!」


毎日異言で祈る事は、この少女が内在する聖霊の存在をより意識するのに役立ち、それは彼女の生き方に影響を与えました。異言で祈る毎日の練習をすると、同じ事が私たちにも起こります。私たちの内にある聖霊の存在をもっと意識すると、私たちの言動が清められるでしょう。


神を崇拝する助け


異言は、神を崇拝する時にも役立ちます。その過程で、あなたの霊は神に対してより敏感になります。自然のものに対するあなたの好みが、それ自体が必ずしも悪いものでなくても、影響されるでしょう。私は御霊によって神を礼拝し異言で祈った後、よく家に帰ったものでした。時々、ドアの中に入るとラジオから音楽が流れていて、それが私にどのような影響を与えたかを覚えています。しかし、私は異言で神に祈り、礼拝する事が私に与えた影響について、ある事を発見していました。神と親密な交わりをした後、神の臨在を意識しながら私が家に帰ると、妻が家の掃除をしていて、ラジオでゴスペル音楽を流していました。音楽が悪かったわけではありません。その音楽は、特に悪いものではありませんでした。でも私には、誰かがバケツを叩いているように聞こえました!幾つかの歌は聖書的でさえありませんでした。私はさっきまで聖なる聖霊の臨在にいて、私の内の御霊の臨在に意識を向けていたので、その音楽を聞く事さえできませんでした。理解して下さい。こうした娯楽が間違っているとは言ってはいません。しかし、異言で神を崇拝する事で、内在する聖霊の存在をより意識するようになるので、あなたは神を求めるようになり、世的なものに興味がなくなるのです。


ハワード・カーターは、英国のアッセンブリー・オブ・ゴッドの総監督を務め、ペンテコステ聖書学校の創設者でもあり、優れた教師として認められていました。カーターはかつて、異言の祈りのこの目的について言いました。「異言は、聖霊の満たしの最初の証拠であるだけでなく、残りの人生において、私たちが神を礼拝するのを助ける為の、絶え間ない経験である事を忘れてはなりません。異言は決して乾く事のない流れであり、人生を霊的に豊かにするものです。」異言で継続的に祈り、神を崇拝する私たちは、この超自然的な賜物によってもたらされる霊的な豊かさを経験します!


異言は信仰を促す


ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」


聖霊によって祈る事は、異言で祈る事を指しているます。ですから、異言で祈る時、私たちは自分自身の信仰を促す結論づける事ができます。しかし、異言は私たちに信仰そのものを与えません。ローマ 10:17が言うように、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。あなたが信者なら、あなたは既に信仰を持っています。しかし今、あなたは最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げなければなりません。信仰をもって自分を充電して下さい!聖霊によって祈る事を通して、それが可能です。私たちが御霊によって祈る時、聖霊は私たちが話す言葉を超自然的に導きます。異言で話す為には、信仰を働かなければなりません。私たちは、次の言葉が何であるかは分からないので、聖霊様が与えて下さる事を信頼し続けるしかありません。ある分野で神を信頼する事は、他の分野で神を信頼するのに役立ちます。そしてそれは、私たちの信仰を促すでしょう。ある人たちは、何年もの間、信仰の教えを聞いて来ました。彼らは、神が自分たちの必要を満たしてくれると信じ、そして何らかの結果を受け取ります。しかし、多くの場合、彼らは最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げる為に、聖霊によって祈る事に時間をかけていないので、本来あるべき結果を受け取れません。


あなたが体を健康に保ちたい時は、運動をします。その結果、体はより鋭敏になり、機敏になります。同じように、精神を鋭敏に保ちたいのであれば、それを行使する必要もあります。そして、異言で祈る事は、神の言葉であなたの精神を養う事と並んで、霊的な運動の最も効果的な方法の1つです。異言で祈る事は信仰を刺激するので、あらゆる分野で神をより完全に信頼する事を学ぶのに役立ちます。


私が田舎の小さな教会を牧師していた時、その教会に通っていた女性の一人が重度の胃潰瘍に苦しんでいました。彼女とその夫はある教団の教会に所属していた人たちでした。この女性の夫は私に言いました。「妻にはまだ話していませんが、医師から、妻は胃がんにかかっており、これ以上どうする事もできないと言われました。私は彼女を癒す為に、200,000ドル以上も既に費やしました。」彼は続けて言いました。「私たちは、車や家を売却して、妻の医療費を支払う必要がありました。今は、家具付きの小さなアパートに住んでいます。」この女性は、家族の為に食事を作りましたが、彼女自身はあまり食べる事ができませんでした。彼女は離乳食を少し食べていましたが、それでもよく嘔吐していました。その女性は皮と骨のように見えました。


その後、家族は別の教会に出席し始めましたが、私はしばらく会いませんでした。ある日、私は彼らに会いに行こうと決心しましたが、彼らの家に足を踏み入れた時、私が見たものは予想もしていませんでした。様々な食べ物を食べている女性がいて、彼女はそれを楽しんでいました!女性は顔を上げて微笑んで言いました。「私です!私は今は、食べたい物を何でも食べています。お腹はすっかり治りました!」私は以前、この女性に手を置いて彼女の治癒を祈りました。他の牧師たちもそうしたのを知っています。私は、その時私が知っていた範囲で彼女を教えようとしました。しかし、その時の私は、ただの若い説教者でした。彼女を助けられる術は何もないようでした。私はその女性に「どのように癒されましたか?」と尋ねました。「ある教会で聖霊のバプテスマを受けたんです!」彼女は答えました。「神の力が私に臨んだ時、私は祭壇で祈りました。私は目を閉じて神様を賛美し続けました。すると、突然、光のビームが天井から降りてきて、私の額に当たったのを見ました。それから私は、この異言で話し始めました — それ以来、私は元気です!」私は1年後にまたその女性に会いましたが、彼女はまだ完全に癒されていました!


私は、この女性のような証言を何度も聞きました。それから、私は聖霊のバプテスマを受け、自分自身も異言で話しました。その後の数年間、私はこの種の癒しが何度も起こるのを見ました。1つか2つのケースだけではありません。人が聖霊のバプテスマを受けると同時に、肉体的な癒しが頻繁に行われたのです!


私は、この女性のように、長い間癒しを求め続けてきた人々に会いました。多くの人は、癒しの為に町に来てくれる伝道者に願いましたが、何らかの理由で彼らは癒されていないようでした。しかし、彼らが聖霊のバプテスマを受けた時、即座に癒されたのです!私はその事を良く理解できませんでした。それで私は勉強し、瞑想し、人々に質問し続けました。ついに、私はユダ20についての啓示を得ました。「あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって...」異言は信仰を促すのです。ある分野で神を信じる事は、別の分野で神を信じるのに役立ちます。それが、癒しを必要としていた人々に起こった事です。彼らが聖霊に満たされ、異言を話し始めた時、それは彼らの信仰を促したのです。既に持っていた彼らの信仰が、かき立てられ、以前には受けられなかった癒しを受ける事ができたのです。


休息を与える


異言から得られるもう一つの素晴らしい事は、休息を得られるというものです。


イザヤ 28:11-12「まことに主は、もつれた舌で、異国の言葉でこの民に語られる。主は彼らに、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある」と言われたのに、彼らは聞こうとしなかった。」


「憩い」と「休息」という2つの言葉に注目して下さい。良い響きだと思いませんか?しかし、聖書のこの箇所が言及している憩いと休息とは何でしょう?「もつれた舌」と「異国の言葉」のフレーズの中にヒントがあります。しかし、その答えは新約聖書に完全に示されています。御霊に満たされ、異言で話す時、私たちは神の憩いと休息を経験します(使徒 2:4)。医師は、ケアを受けている人に安静療法を勧める事があります。しかし、私は最も優れた休養療法を知っています。これは毎日受けられますし、費用もかかりません!「もつれた舌」と「異国の言葉」が疲れた人を休ませるのです。神の休息を日常的に活用する人は、決して神経が衰弱になる事はありません。混乱、困惑、不安に満ちた今日、私たちはこれまでになく神の休息を必要としています。そして神は、その休息を受け取る手段を与えて下さいました。それは、私たちが異言で話す事によって得られます。私たちは、必要な時にいつでも、聖霊によって祈る事で、休息を取る事ができるのです。


感謝を伝える


1コリント 14:14-17「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っている事が分からないのですから。あなたが感謝するのは結構ですが、その事で他の人が育てられるわけではありません。」


パウロが、「救われていない者の席」ではなく、「初心者の席に着いている人」と言った事に注意して下さい。霊的な事を学んでいない人々の事です。


パウロは、霊的な事を知らない人があなたと一緒にいる場合、あなたは異言で感謝を捧げる事はできないと言っています。例えば、あなたが夕食の為に人々を招待したとします。夕食の席で、私が異言の祈りで感謝を捧げるとします。ところが、同席していた他の人々が、聖霊によるバプテスマや異言に関して無知だった場合、私の感謝の祈りに「アーメン」と言えません。彼らは私が言った事を理解しないからです。ですから、この場では私の知性による感謝の祈りを捧げた方が良いのです。そうすれば、テーブルで私の周りに座っている人々は、私の感謝の祈りを理解し、私の言う事に同意する事ができます。


もちろん、異言によって神に感謝する事は、私たちにとって良い事です。実際、17節は、「あなたが感謝するのはけっこうですが、」と言っています。霊的な事を学んだ人々は、彼らは私たちが言っている事を理解しないかもしれませんが、彼らは霊的な事については、理解しています。少なくとも、彼らは霊で感謝している事を知っているのです!しかし、霊的な事柄に無知な人々の前では、私たちの言葉で理解し、感謝を捧げるのが最善でしょう。そうすれば、彼らは私たちの言う事を理解し、異言について学ぶ事ができます。クリスチャンとして、私たちは愛の内に歩むように命じられています。愛は常に相手の事を考え、他の人を教える方法を探します。


舌の制御


異言によって、自分の舌を制御する事ができます。


ヤコブ 3:8「しかし、舌を制する事ができる人は、誰もいません。舌は休む事のない悪であり、死の毒で満ちています。」


舌は、私たちの体の中で最も制御するのが難しい部分だと思いますが、ヤコブはここで、舌を制御する事ができる人はいないと言っているのです。しかし、神はできます!ですから、あなたが自分の舌を聖霊に委ね、異言で話す時、あなたは全ての体を完全に神に委ねる為の大きな一歩を踏み出します。最も手に負えない部分を神に明け渡す事ができれば、あなたの体のどの部分も神に明け渡す事ができるようになります。考えてみて下さい。ヤコブは異言を「舌は休む事のない悪」、「死の毒」と呼んでいます。多くのクリスチャンは、体の性的な部分が最もコントロールしにくいと考えています。そして、性的欲求を抑えられずに罪を犯している他のクリスチャンを非難するでしょう。一方で、彼らは自分たちの制御されていない舌で、もっと悪い罪を犯します。ある人々は、いつも仲間のクリスチャンについて話し、追い詰めています。例えば、ある説教者が不道徳に陥ると、教会の全員がそれについて話し始めるかもしれません。「あの説教者が何をしたか聞きましたか。恐ろしい詳細の全てをお話しましょう!」しかし、相手を突き落としても、あなたは高く上げられる事はありません!他人を批判したり、うわさ話をしたりする事も重大な罪です。聖書は、舌の罪は神にとって忌むべきものであると言っています。


箴言 6:16「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。」


箴言 6:19「まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。」


体の他のどの部分よりも、舌によって、より多くの罪を犯す可能性があるのです。しかし、異言で祈れば祈るほど、自分の舌を聖霊に委ねる事を学ぶでしょう。そして、あらゆる状況で、他の人を教える言葉だけを話すようになるでしょう。 


世の汚れからの守り


異言は、職場であろうと様々な公共の場であろうと、私たちを取り巻く不敬虔で、冒涜的な、全ての汚れや下品な話から守る手段でもあります。異言で祈ると、どのように私たちを世の汚れから霊的に清く保つ事ができるでしょう?パウロは言います。信者は「解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。」(1コリント 14:28)。この原則は、あらゆる公共の場に適用できます。異言で話す時、あなたは自分自身と神に話しているのです。ですから、教会の礼拝で自分自身や神に静かに話しかける事ができるのと同じように、他の公共の場でもそうする事ができます。あなたは職場や地下鉄、バス、または飛行機に乗っている時、御霊によって祈る事ができます。あなたは自分自身と神に静かに話し、自身を築き上げて、同時に世の汚れから自分を清く保っていて、誰の邪魔にもなりません。


ある時、私がスーパーに買い物の為にレジで並んで待っていると、若い男性たちの会話が聞こえてきました。その多くは下品な冗談や冒涜的な言葉が含まれていました。私はただそこに立って待っている間、小声で自分自身と神に異言で話していました。彼らがいなくなるまで、私は異言を話すのをやめませんでした。その結果、私を取り巻く肉欲と下品な話は全て、私の心に残りませんでした。異言で祈る事により、私は自分の清さを保ったのです。あなたも同じ事ができます。一日中、どこへ行っても、異言で自分自身と神に静かに話す事ができます。そうする事で、あなたは聖霊の力によって強められ、世の汚れから自分を清く保つ事ができます。


御霊の賜物


聖霊に満たされ、異言で話す事は、その他の御霊の賜物(聖霊の様々な働き)へと繋がります(1コリント 12:1-11)。異言で話す事は、神の超自然的な領域への入り口となっているのです。聖霊の満たしと異言で定期的に祈る事は、他の全ての霊的な恩恵へと続くのです。ただし、異言は霊の実を結ぶ事とは、直接には関係していません(ガラテヤ 5:22-23)。特に、御言葉を自分の心に刻み込まずに、ただ異言で祈るだけなら、成長がない為に御霊の実を結ぶ事にはならないのです。ある人々はよく私にこう言いました。「私は、異言を話すが、「御霊の実」を結んでいない聖霊派の人々をたくさん知っています。」


ところで、ガラテヤ 5:22-23で語られたのは、聖霊が結ぶ実ではありません。聖霊は実を結びません。イエスは「私はぶどうの木であり、あなた方は枝です」と言いました(ヨハネ 15:1-8)。従って、イエスの枝である私たちが結ぶ実であり、それは、内なるキリストの命によって私たちの生活の中で現される実を指します。


ガラテヤ 5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」


少し細かい解説になりますが、 22節では、ギリシャ語の「霊」という語だけがあって、「聖なる」という言葉が前にありません。その場合、どういう「霊」であるかを文脈で判断する必要があります。パウロは、聖霊という意味で言ったかもしれませんし、新生したクリスチャンの霊と言ったかもしれません。9つの実は、神の性質の事なので、御霊の実と呼ばれてもおかしくありません。私は、再創造された新しい人の霊が結ぶ実という点を強調したいので、新生したクリスチャンの霊の実と捉えています。いずれにしても、聖霊とクリスチャンの霊は一つになっているので、問題はないでしょう(1コリント 6:17)。しかし、覚えておいて下さい。御霊の実を結ぶ事は、様々な御霊の賜物(様々な聖霊の力の現れ)を体験する事とは別のものです。


御霊の実は、信者の聖さと性格の為に与えられます。御霊の賜物(聖霊の力の現れ)はイエスを証しする為の力として与えられます。あなたは聖くあっても力を持たない事もあるし、強くても聖くない事もあります。もちろん、あなたに対する神の理想は、あなたが聖く強くある事です!これは、愛の内に歩む事について、パウロがコリントの人々に語った事です。


1コリント 13:1「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」


パウロは本質的に、「あなたには霊的な賜物がありますが、その賜物は力の為のものであり、実は聖さと品性の為のものです」と言っていたのです。私は何人かの献身したクリスチャンを知っています。彼らは御霊の実を現していましたが、彼らの証しには全く力がありませんでした。超自然的な賜物が彼らの人生に現れる事はありませんでした。その一方で、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)にあって歩んでいた人々を知っています。しかし、彼らは霊的成長に関しては失敗していました。霊的幼子でも御霊の賜物(聖霊の力の現れ)を体験する事はできます。神は、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)を通して、まだ未熟な信者でも奉仕の働きをさせる事があります。実際、パウロはコリントの信者は、何の賜物も欠けていないと言いました(1コリント 1:7)。しかし後に、パウロはこれらの同じクリスチャンを霊的な幼子と呼びました(1コリント 3:1)。考えてみて下さい。私たちは霊的な幼子が豊かに御霊の実を結ぶとは考えません。実を結ぶのには時間がかかる事を私たちは知っています。同じ事が幼いクリスチャンにも当てはまります。幼いクリスチャンが御霊の実を十分に現し始めるには、しばらく時間がかかるのです。しかし、幼いクリスチャンであっても聖霊に満たされ、生活の中で御霊の賜物(聖霊の力の現れ)を体験する事ができます!そのようにして、聖霊が幼子に奉仕の働きをさせ、教えているのです。また、どれほど主と共に長く歩んで来た人でも、完全に成熟してはいません。私たちは何年もの間、良いクリスチャンであったかもしれませんが、そろそろ本気で考えるべき時です!私たちは、魂や思考の領域では、自分が思っているほど、まだ聖化されていない事に気づく必要があります。そうした時、私たちはまだ肉体を持って生きていて、闘わなければならない肉の体を持っている事に改めて気づくのです。


1コリント 9:27「むしろ、私は自分の体を打ちたたいて服従させます。他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにする為です。」


魂や思考の聖化は過程です。私たちは肉体を制御する事を学ばなければなりません。パウロが、「体を打ちたたいて服従させます」と言った時、彼は自分の体を自分の霊に服従させる事について言及したのです。つまり、パウロは「私の肉が私を支配するのではなく、私の霊が私の肉を支配しなければならない」と言っていたのです。一方、霊が肉体を支配させていない肉的なクリスチャンは、依然として聖霊に満たされる事ができます。彼らはもっと御霊に満たされる必要があります!異言は全ての始まりであり、神との歩みにおける新しい力の領域への入り口です。しかし、あなたは、その入り口超えて神の超自然的な力にもっと入り、御霊の事柄において成長して行くか、それとも、多くの人がそうしているように、入り口に入らず立ち止まり、あなたの霊的成長を止めてしまうか、全てはあなた次第です。私は、私自身の人生とミニストリーにおいて、異言で祈り神を崇拝すればするほど、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)をより頻繁に体験しました。そして、逆もまた真である事を発見しました。異言を話さなければ話すほど、御霊の賜物(聖霊の力の現れ)は少なくなったのです。パウロは信者に、御霊の賜物を切望し、より優れた賜物を熱心に切望するよう教えています(1コリント 12:31)。しかし、これらの言葉は、既に異言を話す人々に向けて書かれたものです。結論として、異言は、神があなたの為に用意された全ての御霊の賜物(聖霊の力の現れ)へと導き、超自然的な備えへの入り口となります。


計り知れない価値


聖書に記されている異言について、これら全ての目的に照らすと、それぞれが私たちの益の為にある事が分かります。人々は私によく尋ねます。「超自然的に神と話す事に価値はありますか?」もちろんです!でなければ、神はその手段を提供しなかったでしょう!神が、異言は神とのコミュニケーションの超自然的な手段であると言うなら、私たちはそれを必要としているのです!異言は、それを話す者を築き上げると神が言うなら、それは全ての信者にとって必要です。信者が何かを感じても、感じなくても、異言を話す時、その人は築き上げられるのです。神が異言に価値があると言うのなら、たとえ私たちがその価値の全てを理解せずとも、価値があるのです。


14 誤解 へ続く

0 件のコメント:

コメントを投稿

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...