2022年9月11日日曜日

種々の異言 14

 殆どの人は二つの理由で疲れる。一つは、長期にわたる戦いによるものだ。特に病気の為の祈りが長くなると、それは絶え間ない戦いである為、疲れる事がある。


人が疲れるもう一つの理由は、平安がない事だ。いつも警戒しているのなら、疲れてしまう。緊張状態が長くなり過ぎると、人の体は疲れる。常に緊張していてはならない。我々はイエスの平安を得なければならない。


イエスが残した平安は、聖霊と関連している。この平安は、聖霊の臨在を通してもたらされる。神は御霊によって私たちの中に住んでおられる。つまり、聖霊ご自身がイエスの平安という事。


「paraklētos」は、一緒に反対する事を意味する。御霊はあなたと協力し、あなたの問題を取り上げ、あなたと共に問題に対して働きかける。しかし御霊は、あなたが神の子として一歩踏み出す時に、助けて下さるのであって、あなたがするべき事をしなくてはならない。御霊は、我々がイエスと同じわざ、それよりも大きなわざをするのを助けて下さる。我々は、御霊の助けを絶対的に信頼する必要がある。癒しの為に命じたら、たとえその時には回復が見られなくても、御霊を信じて、病人に手を置けば癒されるという御言葉を信じ続ける。我々の役割は、信じて手を置き、病に去るように命じる事であり、御霊のなさる事は、その力で癒やす事である。


落ち着いて平安を持つ事ができなければならない。平安は知る事から来る。


癒しの確率に変動が起こるのは、多くの場合、様々な世の事に気が散ちらされているという事もある。忙しすぎない、複雑ではない、シンプルな生活を送るのがコツ。そうすれば、焦点を合わせ、集中しやすい。


0 件のコメント:

コメントを投稿

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...