異言について聖書が言っている事
未信者へのしるし
マルコ 16:15-18「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次の様なしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」
しるしは信者の為ではなく、未信者の為です。そして、異言は未信者の為の一つのしるしです。
よく言われる「聖霊のバプテスマとその証拠としての異言」という表現には、クリスチャンが「証拠」にこだわってしまう欠点が含まれています。実際、クリスチャンが聖霊のバプテスマを受けたかどうかのしるしとして、その人が異言を語るかどうかに注意が行き、その為の異言という理解になってしまっているのです。
ヘブル 11:1-3「さて、信仰は、望んでいる事を保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られた事を悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではない事を悟ります。」
この定義によると、信仰は証拠を必要としません。
あなたと神との直接のコミュニケーション
1コリント 14:2 「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」
世の賢者を当惑させる
1コリント 14:23「ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来た時、あなた方は気が変になっていると言われる事にならないでしょうか。」
異言を話すには信仰が必要
マルコ 16:17「信じる人々には次の様なしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、」
私たちが異言を話す時はいつでも、信仰を持って一歩を踏み出しているのです。
回復と休憩
イザヤ 28:9-12「彼は誰に知識を教えようとしているのか。誰に啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。主は、彼らに「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休みがある」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」
「誰に知識を教えようとしているのか」、「誰に啓示を悟らせようとしているのか」とは、人が教えを理解する事について話しています。
神は異言を通して人に教えようとしているのです。神の啓示は少しずつ与えられ、私たちは少しずつ、神の言葉を学んで行きます。又、異言から啓示を得るには解き明かしが必要です。そして、その教えは休息でもあり、力であり、回復なのです。
ガラテヤ 6:9「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取る事になります。」
「疲れた者を憩わせよ。ここに休みがある」とあるので、異言で疲れや失望感を払拭し、良い行いを続ければ、刈り取る事になります。そして、全ての良い行いは魂から働きかける自己の努力ではなく、神の法則、霊によってやる事であり、聖霊の助けを得る事なのです。
現在の大きな危険は、神の御霊を排除しようとする考えや教えがあるという点でしょう。しかし、御霊は私たちに清さをもたらし、私たちを変えて下さいます。
神の方法
神が異言を選ばれました。私たちは、神がなさる事の理由を全て理解できるわけではありませんが、神が異言という手段で私たちに啓示、休息、回復を与えている以上、私たちが異言で祈るなら、それらが得られるという事なのです。
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