2023年6月2日金曜日

2 救いと聖霊の満たし

私がある教団にまだ属していた若い頃、自分が救われ、新生に聖霊が働かれた事を聖書から知っていたのですが、聖霊派が言う、「聖霊を受ける」という事をまだ体験していなかったのだと、分かり始めていました。私が新約聖書を学ぶうちに、神の霊がこの主題に関する箇所を理解するのを助けてくれました。聖書を通して、もし私が聖霊派の人々が受けたのと同じ聖霊を受けたなら、私も同じように異言を話すだろうと確信しました。私はそれ以外で満足するつもりはありませんでした。


私は救われてから四年経っていました。私は聖霊の助けを得て説教をし、人々に祈れば、聖霊が癒して下さった事も体験していました。しかし私は、救いとは別の経験として聖霊を受ける必要がある事をはっきりと理解するようになったのです。多くの人はその真実を理解していません。実際、新生における聖霊の働きと、聖霊の充満との区別は、多くの教会の人々の中では、明確に認識されていないのです。しかし、聖書はこれらを二つの別々の経験としています。


次のイエスの言葉は、新生の事を指しています。


ヨハネ 14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


その後、使徒言行録1章5節と8節で、イエスは再び聖霊について語られていますが、その言葉は明らかに異なる経験を示しています。


使徒 1:5「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」


使徒 1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」


水のバプテスマは、水に浸かる事ですが、聖霊のバプテスマは、聖霊の中に浸かる事です。新生によって、信者の内に聖霊が宿る事は、イエス・キリストを信じた時に起こります。その信仰を現す最初の方法として、水のバプテスマがあります。しかし、それとは違って、聖霊の中に浸かり、神の力を受ける事が、聖霊のバプテスマなのです。これらは二つの異なる体験です。神の子とされたので、私たちの御父は聖霊を遣わされたのですが、それとは別に、キリストの証人として働く為に、聖霊の中に浸かる事を通して、力を受ける必要があるのです。これが聖霊のバプテスマ、聖霊に浸かる事、或いは、聖霊に満たされる事なのです。


ガラテヤ 4:6「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」


ある牧師は私に、「新しく生まれ変われば、聖霊が与えられ、それで終わりだ。新生以外で聖霊を体験する事はない」と教えました。確かに、聖霊は新生した人の心に遣わされ、私たちの霊に永遠の命を与え、御言葉によって私たちの霊を再創造されます。しかしその一方で、聖霊を受ける、聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマを受ける、賜物として聖霊を受けるという体験について、使徒言行録に書いてあるのを見つける事ができます。そしてこの体験は、信者に起きたものでした。



イエスの証言と使徒ペテロ


救いと聖霊のバプテスマは別個の経験であるという真理を理解する上で、次の箇所は他のどの聖句よりも私を助けてくれました。


使徒 8:12-17「しかし人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えた事を信じて、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じてバプテスマを受けると、いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた。エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」


ピリポが彼らにキリストを説いた時、サマリア人は救われていました。彼らは、神の言葉を受け入れ、「主イエスの名によってバプテスマを受けていた」のですから、間違いなく救われていたのです。しかし、使徒のペテロとヨハネは、彼らが聖霊をを受ける為に、すなわち、聖霊に満たされる為に彼らの所へ行ったと書いてあります。


ペテロとヨハネは、サマリア人が聖霊を受けるように、彼らの為に祈る目的を持ってエルサレムからやって来たのでした。明らかに、使徒たちと初代教会は、聖霊に満たされる事は、新生とは別の経験であると理解していたのです!



パウロの証し


パウロの証言もまた、救いと聖霊によるバプテスマは別の体験であるという事を証言しています。彼がまだサウロであった時、ダマスコに向かう道で、まばゆい光を放ってイエスが現れた事がありました。その時に、彼は改心したのでした。


使徒 9:5-6「彼が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならない事が告げられる。』」


サウロが「主よ」と尋ねた時、彼はイエスを自分の主と告白したのです。言い換えれば、彼は自分をイエスの手に委ね、自分の人生に対するイエスの主権を告白したという事です。パウロはヘブル語で自分の名前を呼ぶイエスの声を光の中で聞いたのですから、イエスは主であるという確信を持ったのです。


この幻の後、目が見えなくなったサウロは、主の指示に従って都に入り、ダマスコで祈りながら主を待ち望み、目の見えない三日間を過ごしました。その時、主はアナニアという弟子に現れ、サウロの所に行って手を置くように指示されたのです。


使徒 9:17「そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされる為です。」」


ここでアナニアは、サウロに対して「兄弟」と呼んでいます。既にイエスによって指示を受けていたアナニアは、サウロを敵ではなく、兄弟だと知っていたのでした。つまり、サウロは救われていた事を知っていたという事です。それから、「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされる為」と言って、彼がサウロの所に来た理由を言いました。この事からも、救われたサウロが聖霊の満たしを受けたのです。従って、救われた信者が聖霊の満たしを受けるという事であり、救いとは別の体験なのです。



神の子供たちへの贈り物


ルカ 11:13「ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それならなおの事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。」


聖霊は信者に対する、御父からの贈り物です。未信者への贈り物ではありません。私たちは、未信者に対して福音を宣べ伝えます。イエスはこの世に対する神の贈り物であり、聖霊は神の子供たちに対する神の贈り物なのです。


さて、救われた信者に対する最初のメッセージの一つは、聖霊を受ける事、聖霊に満たされる事、つまり、聖霊のバプテスマを体験する事である事を私たちは知らなければなりません。



真理の御霊


ヨハネ 14:16-17「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


「世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません」とイエスが言ったように、未信者は聖霊を受け入れる事はできないので、彼らに対しては、聖霊の満たしについての教えは必要ありません。彼らはまず、イエスを信じてキリスト者になる必要があります。イエスはこれを弟子たちに話している事に注目しましょう。弟子たちは、「この方」を知っていると言っています。従って、イエスを信じる者にとっては、御霊を知っているので、「真理の御霊」を受けるのです。しかしそれは、救われた後の事であり、救いそのものとは違うのです。



バプテスマの教え


ヘブル 6:1-2「ですから私達は、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、清めの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしない様にしましょう。」


ある人々は、バプテスマは一つの種類しかないと勘違いしていますが、ギリシャ語だと「baptismon didaches(複数のバプテスマの教え)」と書かれています。新改訳2017では「清めの洗い」という訳になっています。さて、バプテスマが一つという誤解は、次の聖句から来ていると考えられます。


1 コリント 12:13「私達はみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」


エペソ 4:4-5「あなた方が召された、その召しの望みが一つであったのと同じ様に、体は一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」


これらの箇所でパウロは、キリストの体としての一致について説明している事に注意しなければいけません。キリストの体として、信者は皆、一つである事、キリストに属している事を説明しているのです。パウロの言う一つのバプテスマとは、救われた人々がその信仰を現す為に水のバプテスマを受けて、キリストの体に属し、皆がその一致にあずかる事を言っているのです。


使徒 1:5「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」


イエスはここで、水のバプテスマとは別に、聖霊によるバプテスマがある事を言いました。全ての信者に対して、神は御霊を遣わされましたが、全ての信者は聖霊に満たされているわけではありません。



生ける水の川


信者の内に聖霊が住まわれた時から、信者は生ける水を持っていると言えますが、イエスが言った「生ける水」が川のように流れるには、聖霊の満たしが必要になります。ちょうど、川の水が流れ出るには、十分な水がなければならないのと同じで、信者に十分な聖霊の満たしがないと、流れ出る事はありません。従って、聖霊に浸かる、或いは、聖霊に満たされた後で、聖霊の川が流れるのです。


ヨハネ 4:10「イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませて下さいとあなたに言っているのが誰なのかを知っていたら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えた事でしょう。』」


ヨハネ 4:13-14「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む人は、いつまでも決して渇く事がありません。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。』」


イエスはここで、永遠の命を受ける事について話しています。ヨハネ3:16でニコデモに語ったのと同じ事です。私たちの内に永遠の命への水が湧き出る経験は、新生における聖霊の働きの事、つまり、救いの事です。


ヨハネ 7:37-39「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『誰でも渇いているなら、私の元に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受ける事になる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」


ここの水も聖霊を表していますが、先程の「その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出る」ものは、個人的な救いに関するものでした。川にある水は、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」とイエスが言われたように、聖霊が満ち溢れて川のように流れ出るのです。ギリシャ語の川は複数形になっています。つまり、最初の経験である新生は、あなた自身の為であり、あなた自身の祝福の為です。しかし、もう一つの経験、聖霊のバプテスマの経験は、それによって神の力があなたの中から流れ出し、他の人々を祝福する事ができるようになるものなのです。


ルカ 24:49「見よ。私は、私の父が約束されたものをあなた方に送ります。あなた方は、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」


イエスは「救われるまでエルサレムに留まりなさい」とは言われませんでした。救いとは違う経験の事を指しているのです。聖霊のバプテスマの事なのです。これは、イエスがヨハネ7章で、イエスを信じる者の心の奥底から生ける水の川が流れ出る、と言われたのと同じ経験の事です。そしてペンテコステの日に、ヨハネ 7章のイエスの言葉が成就したのでした。


使徒 2:2-4「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎の様な舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」


この瞬間、他の人々に対して祝福となる為に、信者たちの間に生ける水の川が流れ始めました。これは聖霊の満たしであり、神の子供たち一人ひとりへの御父からの贈り物なのです。


3 聖霊に満たされる時 へ続く

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