聖霊に満たされる時
聖霊に満たされる為の聖霊のバプテスマ(聖霊の中へ浸かる)は、私たちに力をもたらします。私たちはキリストの証人として様々な事ができますが、この力を受けるなら、より力強い証人となるでしょう。その力を受ける事とは別に、使徒の働きを読めば、聖霊に満たされた人々が異言を話し始めた事について書いてある箇所が幾つかある事が分かります。
使徒 2:1-4「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎の様な舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」
これらの人々が、聖霊に満たされた瞬間に起こった事に注目して下さい。「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」とあります。
異邦人の救い
使徒 10:44-45「ペテロがなおもこれらの事を話し続けていると、御言葉を聞いていた全ての人々に聖霊が下った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人達は、異邦人にも聖霊の賜物が注がれた事に驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである...」
ペテロと一緒にいたユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれた事に驚いたとあります。この出来事の前までは、ユダヤ人の教会でしか、聖霊の満たしや異言は見られませんでした。このユダヤ人の信者たちは、ユダヤ人以外は、この新しい契約に入れないと考えていたのです。では、その場にいたユダヤ人のクリスチャンたちは、異邦人に救いの扉が開かれた事をどうやって確信したのでしょうか?彼らが驚いた理由は、異邦人が異言を語り、神を賛美するのを聞いたからだと46節にあります。異邦人たちが異言を語るのを聞いて、ユダヤ人の信者たちはコルネリウスとその家族が自分たちと同じように聖霊を受けたと確信したのです。
エペソの弟子たち
使徒 19:1-2「アポロがコリントにいた時の事であった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。」
彼らはパウロに出会うまで、聖霊の存在すら知らなかったと答えています。
使徒 19:3-4「『それでは、どの様なバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』」
バプテスマのヨハネは水の洗礼を授け、後に来られる方を信じるように人々に教えました。しかし、このユダヤ人信者たちは、エペソに住んでおり、イスラエルの地で起こった事の全てを知らなかったのです。
使徒 19:5-6「これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」
聖霊がこの信者たちに臨んだ瞬間、彼らは異言を語ったり、預言したりしました。この箇所から、聖霊に満たされると異言だけでなく、預言をする事もあると分かります。このように、使徒の働き2章、10章、19章にある三つのケースで、信者が聖霊に満たされると、異言を語る事がありました。私たちも、聖霊に満たされると、異言で語るようになると期待しても良さそうです。
終焉説について
さて、初代教会で起きた事は、今日では絶対に起こらないと主張する考えもあります。それは、終焉説と呼ばれる神学で、1コリント13章の10節にある「完全なもの」を「聖書」と解釈する事によって、それが現れた以上、異言を含む御霊の賜物は廃れるものだとしています。しかし、前後の節を合わせて、文脈に沿って理解するなら、「完全なもの」とは成長した「大人」の事を意味しています。成長した大人は、「部分的なもの」である御霊の賜物を必要としなくなるとパウロは説明しているのです。
1コリント 13:11-12「 私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。今、私達は鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見る事になります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になります。」
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