2023年5月2日火曜日

5 聖霊の満たしの証

ある日、私たちの町で特別集会がありました。それは、聖霊派の人たちが開いたもので、彼らは私と似たような事を信じていた事が分かりました。私は説教者の話しを聞いて非常に喜びました。同じ信仰を持つ人たちとの交わりが始まったのは、それがきっかけとなりました。その交わりによって、私の信仰は強められると思ったからです。聖霊派の人たちは私と同じような救いの理解を持っており、癒し、聖霊のバプテスマに関しても同じ考えを持っていました。しかし異言に関しては、私が所属していた教団の教えは、彼らとは異なるものでした。それについては、私自身もまだはっきりとした理解を持っていませんでした。聖霊の満たしについては信じていましたが、異言については、実際のところ、私は避けていたのです。癒しを信じていた聖霊派の人たちとの良い交わりを保つ為、私は異言については触れずに、仲良く付き合っていたのでした。


ある時、私は聖霊のバプテスマについて主に尋ねました。私自信、それを体験したいと思っていましたが、どうしても異言の事について知りたいと思っていました。「主よ、この聖霊について、誰が正しい事を言っているのでしょうか?私たちの教派の指導者の一人は、人は新しく生まれ変われば、聖霊を持っていると言います。でも、他の指導者は、聖霊のバプテスマと呼ばれる救いに続く体験があるが、異言を話す必要はないとも言っています。そして、聖霊派の人たちは、使徒 2:4を土台に教えています。」


使徒 2:4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」


主は、私にこの御言葉に注意して読むように促されました。聖霊に満たされた人は皆、「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」とあります。特に、「異言はオプション的なもの」とは明言されていません。むしろ、聖霊に満たされた時、異言を語ったという事が三度もありました。


私が異言について否定的な考えをやめ、ただ聖霊に満たされる事の大切さを認めた時、私は知り合いの牧師の所へ行く事に決めました。牧師は私を快く迎えて下さいました。私はその牧師に聖霊に満たされたいと希望しました。すると彼は答えました。「ケニー兄弟、今、この私の友人の伝道師と集会をしているところなんです。今夜の礼拝が終わるまで待って、それから聖霊を求めたらどうですか?」


既に夕方の六時になっており、礼拝は7時から始まる事になっていました。しかし私は、聖霊の満たしを受け取るのには、それほど時間は掛からないでしょう」と答えました。それでその牧師は、私を彼の家へ入れてくれました。私は居間に行って、大きな椅子のそばにひざまずきました。牧師と伝道師がそうするように言ったのではありませんでした。私は、ただ内からの衝動に駆られてそうしたのです。それから私は手を上げ、目を閉じ、祈り始めました。「主よ、私は聖霊の満たしを受ける為にここに来ました。信仰によって私は新しく生まれ、信仰によって癒しを受けました。今、私は信仰によって聖霊の満たしを受けます!私は今、聖霊に満たされています。そして今、私は聖霊が私に言葉を与えて下さるので、異言で話す事を期待します。ペンテコステの日に使徒たちがしたように、また使徒言行録を通して信者たちがしたように、異言を話す事を期待します。私は神を賛美します。聖霊が私に言葉を与え、異言を語る事ができるので、主よ、あなたに感謝します。」それから私は、「ハレルヤ」と十回ほど言いました。全く何の変化も感じませんでしたが、私は何も感じないからという理由でやめる事はしませんでした。


2 コリント 5:7 「私達は見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」


この聖句の意味は、神が私たちに教えている事を信じて歩むという事なのです。ですから、「ハレルヤ」と私が何度か言いながら何も感じなかったとしても、私は聖霊と異言を与えて下さった神に感謝しました。聖霊の満たしを受ける事に関しては、人それぞれ違う経験がある事については、私も知っています。多くの人は、他の異言で話すという一般的な経験以外には、超自然的な現れは全くないものです。一方で、炎のようなものが現れて、教会の人々が一斉に異言を話しだしたというケースも聞いた事がありました。天井から光のビームが降りてきて、異言を話しだしたという人もいると聞いた事もあります。私の場合、炎も光のビームも見る事はありませんでした。私はただ目を閉じていたのです。しかし突然、私の内側に、燃えるような火を感じました。何が起こるか分からなかったので、「主よ、この火照りが止まらなければ、私はやめなければなりません!」と言いました。


その時、奇妙な言葉が心の中に沸き上がってくる感じがしました。その言葉が何なのか、口に出せば分かるような気がしました。それで私が口に出すと、異言が流れるように出て来ました。私の時計を見ると、祈り始めてから僅か五分たったほどでした。私はそのまま異言で一時間も祈り続けました。やめようと思えばやめられたのですが、私はそのまま祈ろうと思いました。私はその体験を通して、神の言葉を信じるなら、聖霊を受けるのに時間は掛からないと理解したのです。



他の賜物


聖書に書かれている事を見て、それを信じた後、私は聖霊に満たされました。それから、私は神の御言葉をよく調べるようになり、使徒言行録の中で、信者が聖霊に満たされると、異言を語る事がある事が分かりました。多くの人々が、聖書にそのように書かれている事を見ても、それをあまり信じていない事には驚きです。その中には、説教者や牧師も含まれています。「では、異言を求める必要がありますか」と聞かれる事が時々あります。私はそういう人たちに言います。「いいえ、聖書は私たちが異言を求めるようにとは言っていません。私たちが求めるのは、異言を与えて下さるお方、聖霊です。」私の場合、異言を求めてはいませんでしたが、異言で話す事を期待していました。聖書は、聖霊によって完全に満たされると、異言を話すとあるからです。


私は異言を話したので聖霊の満たしを受けた事は分かっていたのでしたが、正直に言うと、全てが満足というわけではありませんでした。  聖霊派の人たちが聖霊に満たされた時の体験が壮絶だったと証言しているのを聞いた事があったので、私は圧倒されるような、感情的に高まるような体験を期待していたのでしょう。聖霊のバプテスマは、単に肉体的、感情的に影響を与える祝福を受けるだけではない事を、私はまだはっきりと知らなかったのです。ただ私は、異言を話したのだから、聖書が言うように、聖霊の満たしを受けた事は確信しました。



ですから私は、その後も、主の御霊で私を満たして下さった主に感謝し、賛美し続けました。それ以来、失望を感じる事はありませんでした。それからしばらくして、私は知識の言葉を通して御霊が働いている事にも気づきました。次第にその賜物がはっきりと現れる事が分かってきました。聖霊に満たされると、異言を話すだけでなく、他の霊的賜物を受ける事があるようです。たとえば、使徒言行録19章では、エペソの弟子たちが聖霊を受けた時に異言を語っただけでなく、そのうちの何人かは預言もした事が書かれています。そして多くの場合、他の霊の賜物も、神と共に歩み初めるにつれて、加えられるようです。しかし、ここで覚えておかなければならないのは、異言で話す事が最初の賜物であるという事です。それこそが、聖霊の満たしを受ける時に期待すべきものなのです。


知恵をもって歩む


聖霊に満たされた後、私は所属していた教派から離れて、聖霊派に移りました。しかし私は、新しい仲間に加わった途端に、その人たちを正そうとするのが、私の役目ではない事は知っていました。別の場所の新しい教会で牧師として二年目に入った時、私は聖霊派の人々が聖霊の満たしを求めにやって来るのを見ました。彼らは、聖霊に満たされる為に、祈りながら聖霊をひたすら待っていました。私は他の教会の人々に、彼らと共にいて、一緒に祈ってあげるよう指示しました。私は、彼らがそのようにする必要がない事を知っていましたが、その時には何も言いませんでした。人々は、「主よ、ここに来て下さい」と歌いました。しかし聖書によると、聖霊はもう来られたのです。私たちは、聖霊に来て下さいと懇願する必要はないのです。人々がそのようにして歌ったり、懇願する必要がなかったのですが、私はその教会に来て二年は、何も言いませんでした。何故なら、それが彼らのやり方であって、彼らはその方法でも、聖霊の満たしを体験していたからです。私は彼らとの議論を避ける事にしました。


このような状況において、何をするべきでしょう?私はただ、ひたすら聖書を開いて説明し、それを証明する私自身の証を加えました。彼らは議論する事もなく、私の言う事に耳を傾けました。そして彼らは徐々に、聖霊の満たしを受ける為に、聖霊が来られるのを待つ必要がないと理解して行きました。私は最終的に、聖書的な方法で彼らが聖霊の満たしを受けるように導く事ができました。


6 神は求めている人を満たされる へ続く

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