2023年5月1日月曜日

6 神は求めている人を満たされる

聖霊に満たされ、異言を話し始めるまでは、適切に霊的に成長する事はできません。聖霊に満たされ、異言を語らなければ満たされないものがあるのです。私の場合、聖霊を受ける前に、既に五年間説教をしていました。私は霊において、自分が救われた事、自分が神の子である事を理解していました。私は人々に説教し、他の人々が救われるのを見て来ました。病人の為に祈ると、彼らが癒されるのを見ました。しかし、聖霊を受けて異言を話すまでは、私の霊には決して満たされる事のない虚しさがありました。


ある教会の牧師が次の証しを私に話してくれました。昼食会の数日前、この牧師は自分の教会の聖堂で聖霊の満たしを受けていました。皆で座って食事をしていた時、私がこの牧師に目をやると、彼の顔が輝いていたように見えました。それからこの牧師は立ち上がり、証しを私たちにシェアし始めました。「今日ここに来られて本当に嬉しく思います。以前、皆さんについての否定的な噂をよく耳にしていましたが、残念な事に、私はそれを信じていたのです。しかし、当時の私の心はとても飢えていて、正しい判断ができませんでした。その頃、その飢えを満たしてくれるものは何もないように思えました。私は何年も説教をしてきたし、教会も新しい建物を建てたばかりだったにも関わらず、私の中には虚しさがあったのです。新約聖書を読めば読むほど、自分には人々の霊的なニーズに応えるだけの力がないと、自分の霊の中で確信するようになりました。」 


その牧師はそれから、数日前に教会の聖堂の通路を上り下りしながら祈っていた時の事を話してくれました。彼は祈りました。「主よ、新約聖書を読むと、あなたの初期の弟子たちは私にはないものを持っていた事が分かります。あなたは弟子たちに、高い所から力を授かるまでエルサレムに留まるように言われました。何らかの方法で、私が受け取る事ができるはずです。自分が救われている事は知っています。しかし、奉仕の働きを続けて行くには、それ以上のものを持たなければなりません。私はとても不十分だと感じています。あなたが私に与えたいと望んでおられるものを受け取らずに、再び教壇に立つ事はできません。虚しい気持ちで人々に向き合う事はできないのです。それから、聖霊派の人たちや異言についてよく耳にしますが、主よ、どう考えて良いのか分かりません。しかし、それがあなたからの必要なものであれば、それを与えて下さい。」牧師は教会の通路を行ったり来たりしながら、主に語りかけました。突然、彼は両手を上げて絶望的に叫んだのです。「神よ、聞いて下さい。あなたの霊で私を満たして下さい。」すると聖霊が彼の上に望み、彼は異言を話し始めました。この牧師は、これが聖霊派の人たちがいつも話している事なのだと理解し、すぐに、同じ体験をした誰かと交わりたいと思うようになりました。


私の知っている、別の牧師の話しからも、神が求める人々を聖霊で満たす事が分かります。私は、ある教団の牧師と釣りに行った事があります。その牧師は私との会話において、ただお互いにとって異議のない聖書の話題ばかりを話しました。聖霊や異言について一言も語りませんでした。それから何年かして、私は彼に電話で話す用事があり、彼の電話番号を調べて電話をかけました。電話に出た牧師は、二人で釣りに行った事を思い出してくれました。すると、この牧師はこう漏らしたのです。「恐らく、私はあなた方が持っているものを受け取ったようです!」「どういう事ですか?」と私が尋ねると、「聖霊のバプテスマの事です」と彼は答えました。そして電話越しに異言を語ったのです。「それですよ。あなたは聖霊のバプテスマを受けたのです。神を褒め称えます」と私は彼に言いました。


この牧師の証言は、私が長年に渡って聞いてきた他の多くの人々の証言と同じです。これらの証言と御言葉から、そして私自身の個人的な経験から、神は御霊を求めている人の所に来て下さるという事実を、私は知っています。


求めている人々


1960年に私が経験した御霊に満たされた体験の中で、ここで話している事に関連するものを、また紹介しましょう。何故なら、私は神が御自分の民が御霊に満たされる事を望んでおられると確信しているからです。カンザスで開いた集会で起きた事です。私は数年前に主が与えて下さったある幻を会衆に話している最中でした。突然、私はその幻の一部を間違って解釈していた事に気づいたのです。その瞬間まで、幻全体の解釈を受け取った事はありませんでした。その啓示に打ちのめされた私は、すぐに話すのをやめ、説教壇の後ろにひざまずいて祈り始めた。会衆も私と一緒に祈り始めました。祈りの時間が終わる頃、私はトランス状態に陥り、身体感覚がなくなるように感じました。そのトランス状態の中で、私は突然、別の場所にいました。花が咲き乱れる美しい庭に向かって歩いていたのです。庭には白いフェンスが巡らされ、たくさんの小道が通っていました。庭の真ん中は、つる草や花で溢れ、その両脇には大理石のベンチが置かれていました。


私が東側からこの庭の門の所まで歩いて来ると、主が門のそばに立っておられました。主は手を伸ばされ、私の右手を握られ、左手で門を開いて私を中に引き入れて下さいました。それから、庭の真ん中へと私を導いて下さいました。主は大理石のベンチにお座りになり、私を隣に座らせました。私が西の方を見ると、庭の西側に川が流れていました。川は庭に入る所で非常に狭くなっていました。しかし、この川が我々に向かって流れているのを見ているうちに、川幅はどんどん広くなり、約8キロメートルもの幅があるように思えました。


突然、川は水の川ではなく、多くの人々の川となりました。私は、彼らが強大な軍隊のように私たちに向かって流れてくるのが見えました。私は尋ねました。「主よ、私の見ているこの川は何ですか?この人たちは誰ですか?」するとイエスは答えられました。「庭に流れ込むこの川は、他の教派から人々で、聖霊のバプテスマとペンテコステのメッセージの充満に導かれる人々です。この時代において、私は全ての求める人々を訪れ、 多くの人が私が訪れないと思うような宗教的な地域にも訪れるでしょう。人々が心を開いて求めているからです。あなたが見ている庭に流れ込んでいる人たちは、これから来る人たちです。」


神に感謝します。何年も前に見たあの幻以来、私たちは数え切れないほどの大勢の飢えた心が聖霊の満たしを得るのを目の当たりにしてきました。そして、その川にはまだ終わりがありません。そして、幻の中で私は尋ねました。「主よ、これらの花々とあの素晴らしい芳しい香りは何を表しているのでしょうか?」イエスは答えられました。「これらの花の美しい香りは、私の霊の充満に入る者たちの香りとして、私の御座に昇る賛美です。あなたはその一翼を担わなければなりません。様々な教派の人たちと協力するのです。私の到来に備える為に人々を助けるのです。私はどのように、何をあなたがすべきかを示します。」この真理は、1960年代、私たちがカリスマ運動と呼んでいる神の動きの中で、私が確信したものでした。


私はある会合で、ピーターソンという人と共に講演者の一人として、その場にいました。ピーターソン兄弟は、ある集会で、ある人が教えの最中に聴衆の後ろに立ち、異議を唱えた時の事を話してくれました。聴衆の誰もが彼の言葉を聞き取れるわけではなかったので、ピーターソン兄弟は言ました。「兄弟、言いたい事があるなら、皆に聞こえるようにここに来てくれないか。」明らかに動揺していたその男性が前に出てくると、ピーターソン兄弟は彼にマイクを手渡しました。その人は、「私は牧師ですが、異言は話しません。しかし、私はあなたや他の誰よりも聖霊に満たされています!私は異言で話さないし、異言で話す必要もありません!」


ピーターソン兄弟はとても冷静で優しい人でした。彼がマイクをこの人から取って言いました。「愛する兄弟よ、あなたが今持っているものに満足しているなら、それは私たちにとって喜ばしい事です。これ以上神を望まないのであれば、或いは、必要なものは全て持っているというのであれば...」 するとその牧師は割って入ってきて言いました。「いいえ、私は神をこれ以上求めないとは言っていません。」そこでピーターソン兄弟は「あなたの話し方から、私はあなたが今まで望んでいたもの全てを持ったのだと思いましたよ」と言いました。「いやいや、私はまだ求めていますとも...」とこの牧師が答えると、彼はそれ以上何も言えなくなりました。そこでピーターソン兄弟は、彼に手を置いて祈りました。「主よ、この人は求めています。もっと与えて下さい。」するとこの牧師は、すぐその場で聖霊に満たされ、異言を話だしたのです!そうなったのは、この人が求めていたからでした。彼は神と共に歩む事に前向きだったのですが、神をより深く理解する為には、異言で話す事が必要だという事に気づいていなかっただけなのでした。この牧師は、新生において、既に聖霊に導かれていましたが、その日、彼は神との歩みにおいて、新しい、より深い次元に足を踏み入れたのでした。


求める人への賜物


第二次世界大戦直後、ある教派のアフリカ宣教師の証言を読んだ事があります。1947年、ある女性宣教師はアフリカの潅木地帯で35年間休む事なく宣教した後、初めて米国に戻りました。滞在先のニューヨークの教会に彼女が訪れた時、そこの牧師夫妻が彼女を祈りの部屋へと迎え入れてくれました。そこでは、教会の人々が救いの為に、聖霊に満たされるように祈っていました。宣教師が観察していると、祈祷室にいた何人かの信者が異言を話し始めました。牧師婦人はその女性に、「あの人たちは聖霊に満たされているのです 」と説明しました。宣教師はこう答えました。「聖霊派の人たちと一緒にいた事はありませんが、彼らが異言について話してたのを聞いた事はあります。この人たちがおかしな言葉で話しているのがそうですか?」「あなたが聞いているのは、異言で、聖霊に満たされたというしるしなのですよ」と牧師婦人は答えました。


宣教師は話ました。「まあ、私もそれをずっと持っています。神が私を祝福してくれましたが、何と呼ぶのか知りませんでした。数年前、若い独身宣教師として初めてアフリカに来た時、私は宣教師になる事について華やかな考えを持っていたのです。でも、実際に行ってみると、それは大変な事でした。わずか数カ月後、私は藁葺き屋根の小さな草小屋で膝をついて祈りました。『主よ、あなたが私を呼んで下さった事を信じます。あなたの御手が私の人生に注がれていると信じています。しかし、私にはその為のものがありません。主よ、もっとあなたが必要です』と。私はできる限りそのように祈り続けました。しかしある日、私は絶望的な気持ちになり、祈りの中で叫びました。『主よ、私は続けられません!あなたが私を送って下さった事は分かっていますし、応援してくれている人たちを失望させたくはありません。でも、もっとあなたが必要です。でないと、私はあきらめて家に帰るしかありません。』すると突然、私はここにいる人たちが話しているような、奇妙に聞こえる言葉を話し始め、その後、同じ奇妙な言葉で歌い始めたのです。私は喜びに満たされ、神様が私に何か良いものを与えて下さったと思いました!それが誰にでも与えられるものだとは知りませんでした!しかし、それ以来35年間、毎日、私は神と二人きりになり、その奇妙な言葉で神と交わりを持って来ました。私もよくそうやって歌います!それは私を高め、とても祝福してくれます。」


この女性宣教師の証しから、聖霊によるバプテスマや異言を何と呼ぶか、それらについてよく知っているかどうかは、それほど重要ではない事を示しています。重要な事は、この超自然的な祝福を受ける事なのです!


私は、この証しに関連する、別の証言を聞いた事がありました。それは、フルゴスペルの宣教師からでした。彼はアフリカのある教会に招かれて説教した時の事を話してくれました。その宣教師は、論争になりそうなテーマを避け、救いのメッセージを説く事に努めていました。彼の救いのメッセージの後、7人が救いを求めて祭壇に進み出ました。教会の祭壇にその教会の奉仕者たちが彼らの周りに集まりました。この宣教師はクリスチャン全員を祭壇の周りに招いて祈りました。すると、救われに来た7人のうち3人が突然、異言を話し始めたのです!その宣教師は失敗したと思い、そこの教会の牧師に謝ろうとして言いました。「兄弟、私は問題を起こすつもりはありませんでした。私はただ救いのメッセージを説いただけです!」その教会の牧師は、「どうしたと言うのです?」と言いました。「この信者の方々は異言を話しているのです。聖霊に満たされたのです」と宣教師が答えると、「それを聖霊の満たしというのですか?私たちの回心者はそれをずっと、体験してきていますよ。私たちはそれを清めと呼んでいるのです。まあ、私たちがそれを何と呼ぼうが、神は御名を呼ぶ全ての人に、この貴重な贈り物を用意されたのですね」とその教会の牧師は言いました。どこの信者であれ、ただもっと神を求めて、聖霊に満たされれば良いだけの事なのです!


7 聖霊の満たしを受けるには へ続く

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