2023年4月3日月曜日

7 聖霊の満たしを受けるには

聖霊に満たされようと思っても、なかなか聖霊を受けられない人がいます。その理由の一つに、異言に対する誤解がつまずきとなっている事があります。異言とは、私たちを通して聖霊が語られる事ではりません。


1コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


神は、私たちの理解とは別に、私たちの霊によって祈る方法を用意されました。聖霊が祈られるのではなく、聖霊が私たちの祈りを助けて下さるのです。厳密には、聖霊が私たちと共に祈って下さいます。しかし、聖霊が私たちを通して異言を語って下さるのではありません。むしろ聖霊は、私たちに語る異言の言葉を与えて下さり、私たちがそれを発するのです。多くの人々は、ここを見逃しています。彼らは聖霊が話して下さるのをじっと待っていたり、私たちの口を動かして下さるのを待っています。聖霊は言葉を与えて下さるお方ですが、それを信仰によって発するのは私たちなのです。


使徒 2:4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」 


ペンテコステの日、聖霊は異言の言葉を与えたましたが、信者がそれを話したのです。


私は、この事を理解していない人と会話をした事を覚えています。1952年2月、私はある教会で集会を開いていた時の話です。ある教会の女性が、その集会について手紙を書いて、彼女の友人を教会に誘った事がありました。「ここの教会の人たちはみな、聖霊を受けています。週末に一緒に集会に参加しませんか?」その人は長年、聖霊のバプテスマを求めていた人でした。それでこの誘いを受けた人は土曜の礼拝に来ました。彼女が聖霊の満たしを受けるように、私は彼女に手を置いたのでした。 次の日曜日の朝にも、その女性は礼拝に来ていました。


その日曜日の朝、私は説教をし、礼拝を牧師に引き継ぎました。牧師がアナウンスをしていると、手紙を書いた女性が手を挙げ、「兄弟」と牧師を遮るように言いました。牧師はそれに気づいてアナウンスを中断しました。その女性は、「ケニー兄弟が私の友人に手を置いたのですが、もう一度そうして頂く事はできないでしょうか?彼女はもう戻らなくてはなりません。聖霊の満たしを受けられなくてがっかりしています」と言いました。牧師は私の方を見たので、「分かりました。そうしましょう」と私は答えました。 


それでその女性が前の方に出てきたので、私は彼女に手を置きました。その時、聖霊が彼女に言葉を与えたのですが、彼女は異言を話しませんでした。私は彼女に長々と助言を与える時間もなかったので、そこで終わりになりました。そこの牧師はその夜の集会を解散させようとしていたのです。その後、私が教会の駐車場で歩いていた時、彼女たちが車で座っていた所を通り過ぎました。聖霊の満たしを求めていた女性は、がっかりした様子で座っていました。私も申し訳ない気持ちでいました。それで私は、彼女たちの車の所へ戻り、窓をノックしました。彼女は私を見て驚きましたが、窓を開けてくれました。私はその女性の問題をはっきりと理解していました。ただ、礼拝の遅い時間に、皆の前で色々と言わなかったのです。そこで私は、「姉妹、聖書はそこにありますか?」と尋ねました。彼女はうなずきました。「使徒言行録2章4節を開いて、読んでもらえますか」と私は言いました。


女性はその一節を声に出して読みましだ。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」それから私は、「その聖句によると、誰が異言を話しましたか」と尋ねました。「どうしてですか?聖霊です」と彼女は答えました。私は彼女がそう言う事を知っていました。それが彼女の問題だったのです。彼女は、聖霊が彼女を通して異言を語られるのを待っていたのです。しかし、聖霊が異言を語られるのではありません。そこで私は、「もう一度その箇所を声に出して読んで下さい」と言いました。彼女はもう一度読み、再び私は同じ質問をしました。「誰が異言で祈ったのですか」と私が尋ねると、聖霊が異言を語ったと彼女は答えました。私はもう一度その箇所を彼女に読んでもらい、又、同じ質問をしました。彼女がその箇所をもう一度読んだ時、「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」という意味がやっと理解できたようで、「人々が異言を語ったのですね」と彼女は答えました。


そして彼女は言いました。「私は、この聖句が聖霊が異言を語ると言っているものだと思っていました。」その後私は、人々が異言を語った事が書かれてある、別の聖書箇所を彼女に見せたのでした。「別の質問をしても宜しいですか?」私は彼女に尋ねました。「どうぞ」と彼女が答えると、私は「あなたの内に何かあって、それが口から出て来るような感覚がありましたか?」すると彼女は、「ありました。私はそれを抑えていたのです」と彼女は言いました。「そうするべきではなかったのですよ」と私は説明しました。「その促しに委ねて異言を話せば良かったのです。もしかすると、その抑えている何かをまだ感じているのではないですか?」と私は言いました。「そうです」と彼女は言い、「では、そのまま委ねてみて下さい」と私が言ったとたん、その女性は異言で流暢に話し始めました!


その女性は窓を開けまま車の中で座り、異言を話し、主との素晴らしい交わりをしました。他の教会の人々がその近くに歩いて来ると、先程の聖霊の満たしを受けずに落ち込んでいた女性が、急に流暢に異言で話しているのを聞いたのでした。何年もの間、私は聖霊の満たしについて奉仕する際に、このような間違った考えを持った人々に何度も出くわして来ました。ある人々は、聖霊がその人の意志とは関係なしに、ただ異言が口から出て来るものだと思っています。しかし、聖書は聖霊が人々を通して異言を語られるとは言っていません。聖書は、人々が異言を語ったと言っているのです。


1コリント 14:18「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」


パウロは、「聖霊が誰よりも私を通して異言を語って下さる事を神に感謝しています」とは言っていません。パウロ自身が異言を語っていたのです。


聖霊が促すままに語る


信者は、聖霊によって促されて異言を話す事があります。聖霊は強いて誰も何かをさせようとはしません。しかし、聖霊は導いたり、促したりします。私たちが聖霊の促しを感じる時には、それに抵抗してはいけません。御霊の人を助ける事に関しての促しは、いつでもタイミングが良いものです。


ある時、私が招かれた教会で、人々が聖霊を待たずに満たされる事について説教した事がありました。それらの人々にとっては、新しいメッセージでした。メッセージの後、私は聖霊に満たされたい人は前に出てくるように言いました。前に出てきた人の中に、何年も聖霊の満たしを受けずにいた、男の人がいました。最初の五人に私が手を置くと、彼らはすぐに異言を話し出しました。それから、その男性の所に私が来た時、彼は目を閉じて、両手を上げていました。彼に手を置こうとした時、私は知識の言葉によって、彼の問題を知りました。私は、「目を開けて、私を見て下さい」と彼に言いました。「あなたの人生には、聖霊に満たされる事を妨げるものは何もありません。あなたには、聖霊の満たしを受けるのを妨げるような隠れた罪などはないのです」と私が言うと、「ええっ!本当にそう思いますか?」と彼は目を開いて言いました。後で聞いた話によると、悪霊がこの男性を思いの中で苦しめていた事が分かりました。その為に、彼は夜も眠れず、ひどい頭痛に数日も悩まされていたのでした。隠れた罪などあるわけがないのです。私たちの良心はそれを教えてくれます。もし、良心が何も訴えていないのなら、何かに悩まされる必要はないのです。


それから私はこの人に言いました。「私があなたの上に三回ほど手を置きます。そうすると、あなたは聖霊に満たされます。」またこの男性は聞きました。「本当ですか?」私は、「その通りです」と答えました。彼は大きな期待に満ちていました。そして私が「イエスの御名によって、聖霊に満たされなさい」と言って彼に手を置くと、彼は少しどもり始め、異言で少し話し始めました。私は、「兄弟、それです。御霊はあなたに異言の言葉を与えています。そのまま大胆に異言で話して下さい」と言いました。するとその男性は、声を上げて異言で祈り始めました。突然、彼は自分が他の言葉で話しているのが聞こえ、感激してあちこちで踊り始めました。後に聞いたところ、彼は20年以上も、悪霊に苦しめられて来たと言いました。人が御言葉を知らないなら、敵はその人を思う存分苦しめる事ができるのです。そして彼もまた、聖霊が彼を通して語られる事が異言だと誤解していたのでした。それが理由で、彼も正しく聖霊に満たされ、異言を話す事ができなかったのです。もしあなたが聖霊のバプテスマを受ける為に祈り、異言を話す事で悩んでいるのなら、これらの人々の証しを参考にして下さい。御霊があなたに語るべき言葉を与えおられると信じ、信仰によって異言で語るのです。実際、異言で語るたびに、私たちは信仰を実践しているのです。


十分に満たされる


ヨハネ 7:37-39「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受ける事になる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」


イエスのもとに来て飲む水とは、聖霊の事です。そして、ペンテコステの日に、人々は聖霊という水を飲んで満たされました。従って、私たちが聖霊に満たされるには、御霊を飲めば良いのです。イエスは来て、飲みなさいと言って私たちを招いておられます。聖霊に十分に満たされる時、私たちは異言を話します。それはまた、自分の霊が満足するまで、異言で自由に話しなさいという事でもあるのです!


1コリント 12:13「私達はみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」


パウロも同じように水の例えを用いています。このバプテスマは、キリストという一つの体に属するもの、つまり、新生の意味としてパウロは使っています。しかし、ただ一杯の水を飲んだだけでは、聖霊の充満には至りません。クリスチャンである限り、聖霊はあなたのうちに宿りますが、それと聖霊の満たしは別の事なのです。御霊によって生まれる事と、御霊に満たされる事は別の事なのです。聖書は、半分だけ、2/3だけとは言っていません。ただ満たされなさいと言っています。ですから、もし聖霊に満たされていないなら、満たされるまで聖霊を飲んで下さい。どのようにして、満たされている事が分かるのかというと、その答えは、使徒言行録2章4節にあります。人々が聖霊に満たされると、彼らは異言を話し始めたのです。聖書を読むと、多くの場合、人々は異言を話した事が分かります。イエスの招きはシンプルなものです。「誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」です。しかし、口を閉じていては飲む事ができません。聖霊を飲むにも、御霊に委ね、口を開けて、異言を語る事について、神に信頼をおかなければいけないのです。一度異言を話せるようになると、毎日異言で祈る事によって、聖霊を十分に飲み続ける事ができるのです!


信仰


異言を話す事を妨げるものの一つに、信仰の欠如があります。聖霊は異言の言葉を与えられますが、その人が自分で決断して、口を開き、話さなければならないのです。イエスに聖霊のバプテスマを求めた後、心を静め、聖霊が内面に言葉を与えて下さる事を感じ取れば良いのです。聖霊に心を開き、聖霊に十分に満たされると、自然に異言が出るようになるので、できる限り神を信頼し、神に委ねた方が良いかもしれません。


一方、もし異言を発したなら、そのまま思い切って、言葉を口にしてみる必要があります。ここでも、あまり考えすぎずに、神に信頼して、口に出してみる事です。その人がリラックスして異言で話せる環境も必要かもしれませんし、他の人が周りで一緒に異言で祈ってあげる事も悪くありません。


ある夜の集会で、若い男性が聖霊を受けたいと前に出て来た事がありました。私がその人に手を置くと、彼は聖霊の満たしを受けたのですが、その人は異言たった二つの言葉だけを話ました。次の夜、牧師が集会中に救われた人、癒された人、聖霊に満たされた人の証しを求めた時、この青年が立ち上がって、「昨夜、私を聖霊で満たして下さった神を褒め称えます」と言って、自分の席に座りました。次の夜、牧師はまた証しをしたい人がいるか会衆に聞きました。再びこの青年が立ち上がって、「神に感謝したいと思います。二日前の夜、ケニー兄弟が私に手を置いて下さった時、私は聖霊をの満たしを受け、異言で話す事ができました」と証しをしました。更に次の夜、牧師は再び証しを求めました。すると、この同じ青年が席から飛び上がって話し始めました。彼は、「皆さん、三日前の夜、主は私に聖霊のバプテスマを授けて下さいました。家族がこの特別集会に出席する為に毎晩遅くまで起きているので、私は昼に仕事を終えて帰宅し、寝不足の分を補う為に、昼に仮眠を取ろうとしていました。でもこの二日間、昼寝ができませんでした。」 それからその青年は、昼寝ができなかった理由を説明しました。私が彼に手を置いた翌日、彼が眠りにつこうとした時、悪霊が彼の心に「昨夜、聖霊に満たされたいとあなたが願った時、あなたは何も得られなかった」と何度もささやいたのでした。彼は「いや、私は聖霊に満たされました」とはっきり答えたのですが、そうすると敵は、「しかし、あなたは異言を語らなかった」と言ったのです。それで彼は、聖書を開き、使徒言行録2章4節を開いて、それを声を出して、悪霊に聞かせるように読みました。「ここに書いてある。『すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。』昨日私は、まだ異言を始めたばかりなので、二つの言葉だけを話したが、私は聖霊の満たしを受けたのだ。」


次の日、この青年が昼寝の為に家に戻ったところ、また悪霊が邪魔をしに来ました。その為に、彼は寝る事ができませんでした。悪霊は、彼が二言しか異言で話せない事について彼を責め立て、彼の信仰を破壊しようとしたのです。しかし彼は、また同じ聖書の箇所を読み、悪霊にこう言いました。「私はたった二つ言葉を話しただけだ。でも、そこから始まるのだ。私は異言を話し始めたので、聖霊の満たしを受けているのだ。」それからこの男性は、私たちに次のように話しました。「今日の昼、また昼寝をしようとしたら、悪霊がこの二日の間に、私に言っていたのと同じ事を言い始めたのです。そこで私は起き上がって、聖書を開いて使徒言行録2章4節をもう一度読み聞かせました。それから私は、『三日前の夜から私は異言を話すようになったのだ。だから私は、聖霊の満たしを受けているのだ』とこの悪霊に向かって言ったのです。すると私は、自然にこの悪霊に対して笑い始めました。そして、自分が何をしているのか分からないうちに、異言を流暢に話すようになっていたのです!そして私は、残りの時間をずっと異言で祈っていたのです。」


この青年は確かに聖霊の満たしを受けました。彼がした事は、聖書の約束を信じ続け、悪霊に惑わされずに、信仰を保っただけでした。聖霊はその彼の信仰を後押ししたのでしょう。ですから、信仰がここでも鍵となるのです。そこまで神を信頼して、御言葉に留まり続けるなら、その信仰があなたを肉から霊の領域へと導き、その結果、あなたは御霊の助けを得る事になるのです。十分に聖霊に満たされていなくても、信仰によって自ら異言を話す事を決断したり、御言葉に留まって信仰を保ち続ける事で、聖霊もあなたの信仰を後押しして下さるのです。神と神の言葉に信頼を置いて下さい。そして、聖霊の助けを信頼して下さい。そうしないと、不信仰に陥って、「やっぱり、ちょっと何か口から出たといっても、聖霊の満たしを受けていないのだ」と考え始め、やがては全てを疑い始めるでしょう。悪霊は、そのような疑いに満ちた議論を使って信者を縛りつけ、本当は聖霊の満たしを受けているのにも関わらず、その恩恵を享受できないようにするのです。ただし、次の事も知っておいて下さい。聖霊に十分に満たされると、より自然に異言が出て来るのが通常です。しかし、あまり十分出ない場合でも、この男性のように御言葉に留まり続け、信仰を保つなら、聖霊は助けて下さいます。


ある人々は、自分で決断して異言を話そうとして、徐々に異言が話せるようになって行きます。もちろん、それを肉の努力としてやるのではなく、御霊が言葉を与えて下さるという信仰に基づいた行動としてやるべきです。ですから、もしあなたが異言で少ししか言葉を口にしなかったとしても、信仰を持ってその言葉を繰り返し言ったり、そのまま別の言葉で話そうと実践し続けて下さい。あなたのその信仰の一歩がある時に、御霊もあなたを助け、あなたに言葉を与えて下さるのです。


初めて聖霊の満たしを体験する人々の中で、異言を一言、二言どもるような感じで異言を語る人たちがいます。異言で流暢にすぐ話す人もいれば、そうでない場合もあります。そんな時でも、そのまま異言を話し続けて下さい。そうすれば、やがてあなたの心の奥底から、安定した流れがあなたの口から流れ出し、神の祝福が満ち溢れるようになる事でしょう。


外見的な行動に目を向けない


私たちは往々にして、霊的な事柄を肉的な基準で判断しようとし、その人が外見上どのように振る舞うかによって、その人が神から何を受けているか、あるいは受けていないかを決めてしまう事があります。例えば、聖霊の満たしを受ける為に、三人の人が前に出たとします。そのうちの一人が聖霊の満たしを受けると、異言を静かに話し出したとします。もう一人は、異言で話しながら、喜びで霊の歌を歌いました。三人目は異言を語り、喜びのあまり踊り出しまし、泣きながら集会にいた人全員とハグしました。翌日、誰かがその場にいた人々に「昨晩の礼拝では何があったのですか?」と尋ねたとします。そうすると殆どの人々は、「三人が聖霊の満たしを受けましたが、そのうちの二人は本当に聖霊の満たしを受けました」と言うのです。人が聖霊に十分に満たされると、確かに異言で話し出します。時には、感情を伴う事があるでしょう。しかし、誰がより深く聖霊に満たされているかについては、外側の行動だけでは分かりません。その後、その人が信仰によって大胆にあるき始め、様々な分野で神の力にあって歩み始めるなら、その人は深い霊の領域を体験したと言えるでしょう。基本的には、聖霊の満たしを受けたかどうかを周りの人たちが判断するには、その人が異言を話すかどうかによります。しかし、それ以上に重要なのは、その人の後の歩みです。一度だけ聖霊に満たされる事が大事なのではなく、そこを起点として、異言によって祈る生活が続くかどうかなのです。


満たし以上のもの


何年も前、私はある牧師夫妻の教会で集会を開いていました。この二人は、私の親しい友人でもありました。ある朝の礼拝の時に、一人の女性が「私の為に祈って欲しいのです。私は聖霊に満たされる必要がある事を知るようになったのです」と私と私の友人に尋ねました。そこで私の友人の牧師が、「今が絶好のタイミングですね。祈りましょう」と言いましたが、「いいえ、皆さんに祈って欲しいのですけれど、今は受け取る事ができません。もっと調べなければならない事があるので」と彼女は言いました。彼女は、聖霊を受ける準備ができるまでには、もっと祈り、準備する必要があるという意味でそのように言ったのでした。「あなたは救われているのですよね?」と彼が尋ねると、「はい」と彼女は答えました。「イエスの血を通して罪が赦されていますよね?新生した神の子ではありませんか?」彼女は、「はい。そうです」と答えました。「今もし、死んでしまっても、天の御国に行くのではないですか?」と彼が聞くと、「そうです」と彼女ははっきりと答えました。その牧師は、「天国に行くのにあなたはふさわしい者であるなら、御霊の御霊の満たしを受ける事にも、十分ふさわしいのです。それ以上、祈る必要はありません」と答えました。この女性はようやく理解し始めました。それから、私たちはこの女性の為に祈りました。すると彼女はすぐに御霊の満たしを受け、異言で話し始めたのでした。


クリスチャンはしばしば、この女性が考えるように、聖書が教えていないものを信じています。人々は、神が与えると約束されたものを受け取るのにふさわしい、立派な人になる為に、何かをしなければならないと考えるのです。或いは、異言について否定的になって、恵みによって受けられる祝福の中から、自ら外に出てしまうのです。神の子が信仰をもって聖霊に満たされたいと願う時、天の父はその願いを拒む事はありません。この事をしっかりと知っておかなければなりません。人が聖霊の満たしを受ける時、異言を話す事になります。ただ、聖霊に委ねて異言を話せば良いだけの事です。ですから、神を信頼し、これらについて書いてある御言葉を信頼して、リラックスして、異言を話し始めて下さい。私たちの天の父は、聖霊の満たしを求める者に、違うものをお与えになりません。ただ神を信頼し、聖霊に十分に満たされて下さい。そして、御霊が与える言葉を口にして下さい。自分自身や他の人々の意見ではなく、御言葉に信頼を置き、それを実践するだけです。そして、神が与えるこの異言でたくさん祈る事を通して、私たちは全く新しい霊の領域に入る事ができるのです!


8 より素晴らしい体験 へ続く

2023年4月2日日曜日

8 より素晴らしい体験

聖霊を受ける事は最初の霊的経験以上のものです。これが、非常に多くの信者が見逃している点です。彼らは聖霊に満たされた日(聖霊のバプテスマを体験した日)を思い出しますが、それは一度きりの経験ではありません。聖霊のバプテスマとは、聖霊の中へ浸るという意味なので、日々体験していくものなのです。私たちが聖霊と日々歩むには、聖霊の中へ入って行き、完全に満たされる必要があるのです。そうする事によって、私たちは神の力を受け、人生を超自然的に歩む事ができるようになるのです。


聖霊に満たされたその日、私は一時間半も異言で話し、異言で三つの歌を歌いました。しかし、その体験は私にとっては始まりに過ぎませんでした。一部の信者は、最初の聖霊のバプテスマを大事だとし、それが彼らの人生で最も素晴らしい出来事だったと言います。しかし彼らは、それ以上の御霊の体験について話しません。彼らは自分自身を更に霊的に成長させる事はなく、最初の体験を望み続けます。しかし、何年も前に体験したものを、聖霊との唯一の交わりとして振り返る必要はありません。聖霊は日々、私たちにとって、より現実的になるべきです。私たちが御霊を最初に迎えた日よりも、今の御霊は私たちにとってより現実的であるべきです。そうでないなら、私たちは御霊と親密な交わりを持って歩んで来ていないのです。私たちは、いつも御霊の内在の臨在を意識していないのです。主にあってのあなたの最大の経験は、今日、主と親密な交わりを持って歩む事であるべきです。毎日、あなたの中に住んでいて、あなたが遭遇するあらゆる状況を勝利に収めて乗り越えられるよう、力を与えている偉大なお方を意識すべきなのです。あなたが毎日そのように生きていると、聖霊はあなたにとってますます現実の方となり、あなたは自分の人生において力を与えて下さる聖霊の存在を十分に享受し始めるでしょう。



証:山での体験


私は1958年にカリフォルニア州で開かれた集会で伝道しました。そしてその翌年の夏に、同じ集会で伝道する為に再び戻って来ました。私がそこにいた二年目の時に、ある女性が立ち上がって、前年の集会での経験について証言しました。彼女は言いました。「昨年ここに来た時、聖霊のバプテスマについて知りませんでしたが、ここを去る時には、私は聖霊に満たされました。集会が終わって実家に帰ってからは、とても苦労しました。子供たちの学校の準備をしたり、子供たちの為に服を縫ったり、教会での責任を果たしたりと、生活はとても忙しくなりました。私は霊的に乾いて無力だと感じ始めました。実際、私は去年の夏以来、聖霊を受けた時のような祝福はもう受けていません。ですから、ここに戻って、また祝福を受けるのが待ちきれませんでした。」


私がそれを聞いた時、その女性は全てを見逃していたと思いました。彼女は一年間飢え乾いており、力を失っていましたが、彼女の内側には偉大なお方が常にいたのです。この女性は正しく教えられていなかったので、無力で、霊的に乾いていると感じたのでした。多くの人は、「去年のように、また祝福を受けられたら、きっと助けになる」と考えます。そして、それが彼らにとっての敗北となるのです。聖霊があなたに臨み、あなたがその力に満たされているなら、あなたは毎日聖霊との交わりを楽しむ事ができます。一度だけの体験で終わりにするべきではありません。「山での体験」に戻るまで待つ必要はありません。あなたは人生の毎日において、霊的に山の頂上にいる事ができます!



力を受ける


私の聖霊のバプテスマの体験は、私にとっては、少しがっかりしたものだったと話しました。この体験をする前には、私はかなり保守的で控えめでした。ですから、聖霊の満たしを受けた時は、主にあって大声で、感情的な時間を過ごすだろうと思っていました。しかし、私は異言で話す事以外は何もしませんでした。それで、私は少し気持ちが落ち込みました。他の人が御霊に満たされると騒がしくなり、喜びの叫び声を上げるのを見た事があります。私は自分が満たされた時に、そのような感情的な体験ができたらいいのにと思いました。私は祈りました。「主よ、聖霊派の人々は、聖霊が人に臨む時、その人は力を受けると言います(使徒1:8)。力はどこにあるのでしょうか?私に以前よりも力があるなら、私はそれをまだ知りません。」


多くの場合、私たちは力が何であるかを知りません。私たちは力を感じるものだと思っていますが、いつもそうであるとは限りません。イエスは感情的な体験について約束しませんでした。イエスは、聖霊が私たちに臨む時、超自然的な力を与えられると約束したのです。


使徒 1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、更に地の果てまで、私の証人となります。」


私はがっかりしましたが、聖霊のバプテスマの経験を受け入れるのに十分な聖書の言葉が私の中にありました。私は自分に言い聞かせました。「御霊に満たされる事は、私が思っていたようなものではなかったが、それは聖書的だったので、それに留まろう。私は聖霊に満たされているのだ!」しかし私は、その経験について誰にも話しませんでした。会衆に説教もしませんでした。私はまだ若かったので、それについて誰かに話す前に、何かが起こるまで待つ事にしました。私は人々に何も言わなくても、力の証を見てもらいたいと思いました。又、私はそれについてまだ何も言うべきではないという感覚を霊の内に持っていました。


さて、私たちの会衆にペリー氏という人がいました。彼と彼の妻はヨーロッパへの旅行で四か月間不在でした。私は彼らが戻る直前に聖霊に満たされました。ペリー氏がヨーロッパに出発する少し前に、聖霊派の人々が私たちの教会に通い始めました。その小さな地域ではその教会しかなかったからです。それらの家族は、聖霊派の教会を見つける為に遠くまで行くしかなかったので、代わりに私たちの教会に来たのです。あらゆる種類の宗派の人々が私たちの教会に出席しましたが、ペリー氏は、聖霊派の家族が来始めている事を知った時、満足していませんでした。それで彼は、コール氏という他の教会員に会って言いました。「聖霊派の人々を来させるべきかどうかは分かりません。」もちろん、公の集会ですから、来て欲しくないと私たちが思っても、人々は来る事ができました。ペリー氏は続けてコール氏に言いました。「異言がここに入ってきたら、私は家族をこの教会から引き離すつもりです!私はここに通いません。」


その後、ペリー夫妻はヨーロッパに向けて出発し、彼らが去っている間に、私は聖霊に満たされ力を受け、その証拠としての異言を話しました。言ったように、私はそれについて少しがっかりし、私が感じるべきだと思っていた方法で、「力を感じなかった」ので、その時、この事を会衆と共有しませんでした。しかし私は、自分の満たしの経験について、一人だけ個人的に話しました。それがコール氏でした。コール氏は非常に霊的で、聖書的な人で、私が何かを言う前に、私に何が起こったのかを理解していました。彼と彼の家族は、私が週末に説教する為、地方に出るたびに、親切にも彼らと一緒に滞在する事を許可してくれました。コール氏は、ペリー氏が去る前に、私たちの教会に来る聖霊派の人々について言った事を私に話しました。


ペリー氏が戻ってきてしばらくした後、コール氏は彼との会話について、私に話してくれました。ペリー氏は、「留守の間、私たちの小さな説教者に何かが起こったようだ!」とコール氏に言いました。コール氏は、誰かがペリー氏に私の事を言ったのかと思っていました。そこで、コール氏は言いました。「どういう意味ですか、ケニー兄弟に何かが起こったのですか?」ペリー氏は言いました。「彼は以前よりも優れた説教者ですよ。」コール氏は答えました。「ペリーさん、ケニー兄弟はとても力強い説教者だといつも思っていましたよ。」ペリー氏は答えて言いました。「私もそう思っていました。でも、以前にはなかった何かを持っているんです!」その時コール氏は、私について誰もペリー氏に話していないと気づきました。ペリー氏に話し続けるように促す為、コール氏は、「確かに。では、私たちの説教者が持っているものは何ですか」と尋ねました。ペリー氏は言いました。「それが何であるか分からない。しかし、今日彼が説教する時、それを感じる事ができます!彼が話す時、以前にはなかった力があるんです!」


私自身が感じていなかったとしても、教会の人々は、私の人生に加えられた力を感じていました。ペリー氏は続けて言いました。「私はいつもケニー兄弟の説教を楽しんできました。しかし、彼が今説教すると、それには力があります。彼のメッセージにはインパクトがあります!彼の言葉には、以前にはなかった権威があります。」コール氏は、ペリー氏が他の誰かから、それについて何か否定的な事を聞く前に、私に何が起きたかを話すべきだと考えました。それで、コール氏は言いました。「あなたがいない間に、私たちの説教者に何が起こったのか知りたいですか?」ペリー氏は答えました。「はい。」「彼は、聖霊に満たされ、その証拠としの異言を話したのです。」


コール氏は後になって、私に言いました。「私がペリーさんにそう言った時、彼は頭を下げ、長い間何も言いませんでした。彼が見上げようとし、『それまでだ。私は私の家族を連れて行く。例え教会に分裂を起こしてもだ』とでも言うか、私は分かりませんでした。しかし、ペリー氏が見上げると、彼の目には涙が浮かんでいたんです。そして、彼は言いました。『一つだけ言っておきます。それは私を信じる者にさせます。以前ケニー兄弟が説教するのを聞いたし、それ以来彼の説教を聞いている。彼には以前にはなかった力、霊の深さがある。』」ペリー氏のこの言葉を聞いて、私は悔い改めて祈りました。「神様、私はいつもその力を持っていましたが、それを疑っていました。この力は、個人的な益の為だけに与えられたものではない事が今分かりました。他の人を祝福する為に与えられたのです。だからこそ、私が知らなかったとしても、会衆は私に何かが起こった事を知る事ができました。」


それから私は、私生活でも違いに気づき始めました。以前にはかろうじて困難を乗り越えていたのですが、聖霊を受けてからは、新しい勝利の感覚でそれらを乗り越えるのに役立つ、増し加わった「何か」がある事に気付いたのです!私は祈りました。「主よ、私は権力について、この間、違った考えを抱いていました。どうにかして、力を体で感じられるものにしようと思ったんです。ダイナマイトのように、爆発するような感じをするものだと思っていました。私は肉体的にそのように感じなかったので、私には力がないと思っていました。でもあなたは、私の最も深い所から、生ける水の川が流れ出し、それらの川が流れ出て他の人々を祝福すると言いました(ヨハネ7:37-39)。それが、私が聖霊から受けた力の目的であり、私の会衆はその違いを見たのです!」


しばらくすると、私の説教の違いについて話していたのは、ペリー氏だけではありませんでした。教会の人々もそれについて話していました。彼らは互いに言いました。「私たちの説教者に何が起こったのですか?彼は力を持っている。彼の秘密は何ですか?何であれ、それが欲しい!」ついに、私に何が起こったのかを会衆に伝える時が来たと私は決心しました。私は言いました。「私が知っているのは、私が聖霊で満たされ、異言で話したという事だけです。聖霊を受けて異言を話す時、あなたも力を受けるでしょう。」その神聖な力は、私が御霊に満たされるまで、私の人生に現れていませんでした。私の会衆はそれを知りました。彼らは過去二年間、私の説教を聞いていたのですが、私の説教にそのような力がある事に気づいていませんでした。神を賛美します。私の証しは人々に強い印象を与えたので、彼らのほぼ全員が最終的に聖霊に満たされました。そして、私たちがその教会を御霊に溢れた教会に変えるのに、そう多くの時間はかかりませんでした。誰も去って行く事はありませんでした。むしろ、その教会は数年間でさらに大きくなりました。


その経験の後、私は聖霊に満たされた時に受けた恩恵を二度と疑う事はありませんでした。「神の力を感じるかどうか」の問題ではないのだと理解しました。それは聖霊を信頼する事、私の中に住む大いなる方の力を解放する事だったのです。



聖霊に耳を傾ける


聖霊に満たされる前に、私は主との祈りと交わりにおいて、多くの祝福された時間を楽しみました。多くの場合、私は夜の殆どを英語で祈り、一晩中祈る事もありました。しかし、神の前で何時間も過ごしたにも関わらず、その祈りの場を何となく不満に感じて去りました。私は、主に言いたい事を言っていないようにいつも感じていました。私は思いのまま、主がどれほど素晴らしいお方であるかを主に伝えましたが、それでも上手く表現していないように感じながら、祈りの時間を過ごしていました。しかし、私が聖霊に満たされ、異言で祈り始めた後、私の祈りの生活は劇的に変わりました。ついに私の霊は自分自身を表現する事ができ、私は自分の霊において満足して祈りの時を過ごしました。もちろん、私は既に新生しており、聖霊は私の内におられました(ヨハネ3:3-8)。御霊は私が神の子である事を私の霊で証ししてくれました(ローマ8:16)。そして私が若い時、病気に患って、ベッドに横たわっていた時、聖霊は私の心に語りかけ、聖書にある神の癒しに私を導かせようとして下さいました。


私が今まで説教を聞いたのは、救いのメッセージだけだったので、私を癒しに導いてくれる御言葉と聖霊がどうしても必要でした。私はずっと日曜学校と教会に通い、病の床につくまで欠席する事はありませんでしたが、聖霊に耳を傾け、従う訓練は全く受けていませんでした。しかし、若くして病気で横たわっていた私は、聖霊が私の霊に語られた時、内なる声を聞くようになりました。誰も聞くようにとは言いませんでしたが、私は自分に言いました。「この声を聞く事で今より悪くなる事はない。結局、医者は私が死ぬだろうと言ったんだ。私はこれ以上何もできない。それなら、ここで自分の内側から耳を傾け始めてみよう。」そして、私が聖霊に耳を傾けた時、御霊は私を神の癒しへと導きました。聖霊が私の心に話しかけました。「今、あなたは自分が大丈夫だと信じなさい。」私は言いました。「もちろんです。」聖霊は言いました。「では、起きなさい。朝ですから、もう起きなければなりません。」私は寝室で、一人で座った姿勢になるのさえも苦労しましたが、ベッドの上で体をひねって、ベッドから足を床に押し出す事ができました。それから私は寝台の支柱をつかみ、体を引き上げました。そのベッドにもたれかけて、私は宣言しました。「悪魔と悪霊たちの前で言う。神の言葉によると私は癒され、私はそれを信じる事を宣言する!」


突然、神の癒しの臨在の温かい輝きが全身に降り注ぐのを感じました。そして、私はまっすぐに立ち上がり、癒されて部屋を歩き始めました。ひどい苦しみのベッドで寝ていた私ですが、どのようにして私はその癒しの瞬間にたどり着いたのでしょうか?私は新生で知り会う事になった聖霊に耳を傾けたのです。その後、同じ聖霊の声に耳を傾け、聖霊のバプテスマに導かれました(使徒1:5)。


水を飲む事を考えて下さい。その病床で生まれ変わった時、私は水を一杯飲みました。それが私の新生の経験です。しかし、私をキリストにある新しい創造にして下さった同じ聖霊が、私を神の癒しへと導いて下さいました。それから私は、聖霊を受け、満たされるまで御霊の水を飲みました。それ以来、私を通しての神のミニストリーと私への神の扱いは、何倍にも増幅されました。聖霊はクリスチャンをできる限り導きます。しかし、聖霊に満たされ、異言で祈る人にとっては、聖霊の導きが遥かに大きくなります。


私は、毎日異言で絶えず祈る習慣に従う場合にのみ、この聖霊の特別な体験が私の人生ある事を発見しました。異言で幾つかの言葉を少し発するという事ではありません。それだけなら、あなたの人生における聖霊のミニストリーは、あなたが御霊に満たされる前と大差はありません。私が話しているのは、本当に異言で祈り、毎日神と時間を過ごす時間を取る事についてです。異言で沢山祈る事によって、御霊に満ちた生活を維持しようと努力するなら、聖霊はあなた自身の霊を通してあなたとコミュニケーションを取ります。


1コリント 14:14 「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


あなたの霊に神に祈る力を与えるのは聖霊です。聖霊はあなたに言葉を与えながら、あなたの祈りを超自然的に導きます。彼はあなたを通して物事が起こる前に祈っています。何年にもわたって、私の家族には、病気や死は一度もありませんでした。そうなる前に、時には二年も前に祈っていました。この種の啓示の知識は、預言者の啓示の賜物だけではありません。私も預言者として活動しています。しかし聖書は、聖霊が信者に来るべき事を示すと言っています。


ヨハネ 16:13 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いて下さいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いた事を全て語り、これから起こる事をあなた方に伝えて下さいます。」


信者は誰でも、神に強く求める前に何かについて御霊によって知る事ができます。信者が異言で祈ると、多くの事が明らかになります。聖霊のバプテスマを受けて以来、異言で祈っていると、このような経験を何度もしました。聖霊は、物事が起こる前に起こる事を私に示してくれたので、私はそれらについて祈る事ができました。それは単に異言で祈って、自分が何について祈っているのかを霊で感知する事でした。



奥義を祈る


物事が起こる前に、異言で祈るよう聖霊が警告して下さった事について、私自身の体験から話しましょう。私は1978年にボルチモアで集会を開いており、礼拝が終わってからホテルの部屋に戻っていました。私は本を​​読もうとしましたが、私の中でずっと不安な気持ちがありました。それで最後に本を置いて祈り始めました。私は「主よ、何ですか?」と尋ねました。イエスは、聖霊は自分自身について話すのではなく、聞いた事を話すと言われました(ヨハネ16:13)。つまり、聖霊があなたに語りかける事を期待できるという事です。聖霊は御言葉の著者である為、確かに聖書を通して語ります。しかし、あなたが異言で祈る時、御霊はあなたの内側でも話します。御霊によって奥義を祈りながら、私は主に尋ね続けました。「何ですか?」


1コリント 14:2 「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


しばらくすると、家族の誰かが病気にかかったような身体の危険にさらされているような気がしました。私はすぐに妻の事を思い出しました。私は別の所で奉仕をしていて、彼女は家にいたからです。しかし、異言で祈り続けているうちに、それが私の妻ではない事を心の中で悟りました。それから、私の子供たちの事を考えました。私は彼ら一人一人の為に異言で祈りました。祈っている内に、身体的な危険にさらされているのはどちらでもない事が分かりました。それから、母の事を考えました。彼女について異言で祈り始めた時、私が祈っていたのは彼女である事が分かりました。その時、電話が鳴りました。それは私の妻で、「ケニー、あなたのお母さんが病院にいます」と言いました。私は答えました。「大丈夫です。分かっています。既に警告を受けており、答えは分かっています。聖霊は私に彼女は大丈夫だと言っていました。」


状況を把握するのは良い事だと思いませんか?新生を通して聖霊を知る事は、私たちにとって非常に有益ですが、聖霊によるバプテスマはその祝福に追加されるのです。神は、聖霊のバプテスマと異言を通して、より多くの御霊を体験する機会を私たちに与えて下さいます。新生とは、神の恵みを罪人に紹介する事です。しかし、聖霊によるバプテスマは、神が神の子供たちに神の超自然的な力を紹介する事です。



冒険の始まり


もう一度言います。最初の聖霊の満たしは素晴らしい事の始まりですが、それはあなたが主と共に体験した最高のものであってはなりません。実際、神との歩みの中で私に起こった最大の出来事は、異言で祈った結果としてもたらされました。私は新生の聖霊を知っていました。もちろん、御霊に満たされる前から、私は聖霊を知っていました。聖霊が私に臨み、説教の為に私に力を与えて下さいました。私は、公には癒しについて説教し、個人的には人々に手を置いて癒しました。私が生まれ変わってから最初の五年間、私のミニストリーで起こった癒しと、人々の回心について、神に感謝します。しかし、1947年に聖霊に満たされるまで、私は超自然的な現れを経験した事がありませんでした。私は既に五年も説教をしていたのです。聖霊に満たされた後、私は異言で沢山祈る事を学びました。誰も私にそうするように言いませんでした。当時、私たちはこの主題についての学びがありませんでしたので、私はいつでも異言で祈るべきかどうかさえ知りませんでした。しかし、英語で祈るより異言で祈る方が簡単だという事は分かりました。また、他のどの方法よりも霊的に深める事ができる事を異言で学んだので、それを実行しました。


例えば、私のミニストリーでこれまで見た中で最も大きな癒しは、異言で祈った後にもたらされました。祈っていると、自分が祈っていた事を霊の中に見ました。私たちは霊的な事だけでなく、物質的な事についても御霊によって祈る事ができます。そして、私がただ従い、霊の中で見た事を実行した時、その人は癒されました!最初の聖霊の満たしは素晴らしい事です。しかし、その最初の体験は始まりに過ぎません。私たちが神の霊の領域でどのように行動するかを学ぶ時、神は私たちの為に超自然的な冒険の全てを準備しておられます。ですから、異言で話す事についての議論をさらに進めたいと私は思うのです。神との超自然的なコミュニケーションの真価と無限の可能性に気づいたら、この賜物をこれまで以上に活​​用したいと思う事でしょう。


9 パウロの理解 へ続く

2023年4月1日土曜日

9 パウロの理解

今日の教会は、異言で話す事の価値について何も知りません。異言が聖霊のバプテスマの最初の証拠である事を知っている人はいますが、異言についての他の聖書的目的を理解していません。


ある有名なクリスチャンの指導者が、異言について否定的な手紙を別の聖霊に満たされた人に送った事があり、私はその手紙の抜粋を読む事を許されました。このクリスチャンの指導者は手紙の中で、パウロが異言を話す事について非常に曖昧な見方をして、コリント人に異言を話す事を思い留まらせ、禁じようとしたと述べていました。しかし、パウロはそうは言いませんでした。そのクリスチャンの指導者は、自分が言いたい事を述べる為に、文脈を無視して聖句の一部を取ったのです。この人は、パウロが言った事を用い、自分の主張を証明しようとしました。


1コリント 14:19「しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」


教会において、パウロは他の人たちを教える事を優先にしていたので、知性の言葉を語る事が良いとしたのです。しかし、パウロは誰よりも異言で語ったとも言っていました。


1コリント 14:18 「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」


パウロがコリントの人々よりも多くの異言を話したとしたら、彼は途方もない量の異言を話したに違いありません。1コリント14章の残りの部分を読むと、異言で話す事がコリント人がやりたかった事の全てであった事が分かります。コリントでは、礼拝の最中の間違ったタイミングで、間違った方法で異言を話していたので、パウロはその事に関して彼らの教会を正さなければなりませんでした。


1コリント 14:22-23「それで異言は、信じている者たちの為ではなく、信じていない者たちの為のしるしであり、預言は、信じていない者たちの為ではなく、信じている者たちの為のしるしです。ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来た時、あなたがたは気が変になっていると言われる事にならないでしょうか。」


パウロは23節で、初心の人か信じていない人が入って来た時、皆が同時に異言を話すのは教会全体にとって良くないとはっきり言いました。パウロがそう言わなければならなかったとしたら、それはコリントの信者たちが、実際に教会でやっていた事を意味するに違いありません。パウロはこれらのコリント人に、異言を話す事そのものについて間違っていると言っていませんでしたし、彼らに異言を話す事を禁じていたわけでもありません。

しかし、その超自然的な賜物に非常に興奮し、活気に満ちていたので、初心の人や未信者の事を忘れてしまい、一度に異言を話していたのです!パウロはこれらの信者たちに、教会の礼拝では聞く人たちを教え導いたり、または成長の為に全ての事を行うべきだと言っていたのです。その後、彼は公の集会で異言を話す事について、さらに指示を与えました。


1コリント 14:27-28「誰かが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。」


異言の賜物がある事を神に感謝します!神は異言を解き明かす賜物も用意されました。知性が実を結ぶ為には、異言は私たちの理解できる言葉で解き明かされなければなりません。異言は未信者へのしるしなので、彼らが教会にいる場合は、異言の解き明かしがないなら、黙っておく必要があり、そうでなければ、他人に聞こえないよう、自分に対し、また神に対して語るべきなのです。しかし、初心者や無知な人ではなく、信者だけが集う場においては、問題ありません。



目的と用途の違い


1コリント 14:19「しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」


パウロは、異言を話す人が非常に多かったにも関わらず、コリントの信者全員よりも多くの異言を話して下さった事を神に感謝しました。しかし、教会では、異言で一万語を話すよりも、自分の理解力で五つの言葉を話す方がましだとパウロは言いました。それは、人々が理解できる言葉で話す事によって、他の人に教える事ができるからです。つまり、異言の主な目的は、それを用いて教えたり説教したりする為ではないとパウロは言ったのです。異言は主に、信者自身の個人的な霊的な成長の為のものです。それは、神とコミュニケーションをとる為の個人的な方法です。


1コリント 14:4「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」


この箇所でパウロは、教会ではなく、主に私的な祈りの生活の中で異言を話したという事を意味しました。もしかすると、パウロは朝起きて異言を話していた事でしょう。彼は食事の合間に異言を話し、夜寝る前に異言を話していたに違いありません。パウロはそのようにして、異言で話す事を大切にしていた事でしょう。


人は自分が価値を感じていないもの、あまり重要でない事、又は反対している事に対して、神に感謝しません。ですから、異言は主に、私たちの父なる神と個人的に交わる為の賜物である事が分かります。もちろん、個人的な異言においても、解き明かしを伴う事もあります。


しかし、これら二つの霊的な賜物は、主に教会の利益の為に与えられています。この二つが一緒に使用される事は、預言の賜物と同等です。それについては後で話しますが、私たちが今理解しなければならないのは、あらゆる場合において、異言の言葉を与えるのが聖霊だという事です。しかし、それらは目的と用途が異なります。


さて、もし信者たちが教会で一緒に神を賛美しているなら、異言で一斉に神を賛美する事は全く問題ありません。しかし、説教者が御言葉を教えようとしている時に、全員が異言を大声で話すのは間違っています。又、説教者が解き明かしなしで異言で人々を教えるのに1時間費やすのも、正しくありません!その場合、説教者は自分を築く事になりますが、人々はそれから何も得られません。これが、この箇所でパウロが語っている事です。



異言の価値


神の言葉はとても単純明快です。ところが、一部の人々は、信者は異言を一切話してはならないとパウロが教会に教えていたと主張して、教義に作りあげてしまいました。パウロの願いは、全ての信者が異言で話す事でした(1コリント14:5)。彼はこの超自然的な賜物の価値を完全に理解していたので、他の誰よりも異言を話した事を神に感謝しました。パウロは個人的な経験から、日常生活に祝福と力の源があるのは、異言を話す事によってだと知っていました。


では、この主題についてパウロが知っていた事をさらに探ってみましょう。その過程で、異言で話す事の価値と目的について聖書が何と述べているかを知る事ができます。異言を話す必要性​​を知れば知るほど、私たちの証しはパウロの証しと一致するようになり、「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」と言って、信仰の宣言をするようになります。


10 神とのコミュニケーション へ続く

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...