2023年4月2日日曜日

8 より素晴らしい体験

聖霊を受ける事は最初の霊的経験以上のものです。これが、非常に多くの信者が見逃している点です。彼らは聖霊に満たされた日(聖霊のバプテスマを体験した日)を思い出しますが、それは一度きりの経験ではありません。聖霊のバプテスマとは、聖霊の中へ浸るという意味なので、日々体験していくものなのです。私たちが聖霊と日々歩むには、聖霊の中へ入って行き、完全に満たされる必要があるのです。そうする事によって、私たちは神の力を受け、人生を超自然的に歩む事ができるようになるのです。


聖霊に満たされたその日、私は一時間半も異言で話し、異言で三つの歌を歌いました。しかし、その体験は私にとっては始まりに過ぎませんでした。一部の信者は、最初の聖霊のバプテスマを大事だとし、それが彼らの人生で最も素晴らしい出来事だったと言います。しかし彼らは、それ以上の御霊の体験について話しません。彼らは自分自身を更に霊的に成長させる事はなく、最初の体験を望み続けます。しかし、何年も前に体験したものを、聖霊との唯一の交わりとして振り返る必要はありません。聖霊は日々、私たちにとって、より現実的になるべきです。私たちが御霊を最初に迎えた日よりも、今の御霊は私たちにとってより現実的であるべきです。そうでないなら、私たちは御霊と親密な交わりを持って歩んで来ていないのです。私たちは、いつも御霊の内在の臨在を意識していないのです。主にあってのあなたの最大の経験は、今日、主と親密な交わりを持って歩む事であるべきです。毎日、あなたの中に住んでいて、あなたが遭遇するあらゆる状況を勝利に収めて乗り越えられるよう、力を与えている偉大なお方を意識すべきなのです。あなたが毎日そのように生きていると、聖霊はあなたにとってますます現実の方となり、あなたは自分の人生において力を与えて下さる聖霊の存在を十分に享受し始めるでしょう。



証:山での体験


私は1958年にカリフォルニア州で開かれた集会で伝道しました。そしてその翌年の夏に、同じ集会で伝道する為に再び戻って来ました。私がそこにいた二年目の時に、ある女性が立ち上がって、前年の集会での経験について証言しました。彼女は言いました。「昨年ここに来た時、聖霊のバプテスマについて知りませんでしたが、ここを去る時には、私は聖霊に満たされました。集会が終わって実家に帰ってからは、とても苦労しました。子供たちの学校の準備をしたり、子供たちの為に服を縫ったり、教会での責任を果たしたりと、生活はとても忙しくなりました。私は霊的に乾いて無力だと感じ始めました。実際、私は去年の夏以来、聖霊を受けた時のような祝福はもう受けていません。ですから、ここに戻って、また祝福を受けるのが待ちきれませんでした。」


私がそれを聞いた時、その女性は全てを見逃していたと思いました。彼女は一年間飢え乾いており、力を失っていましたが、彼女の内側には偉大なお方が常にいたのです。この女性は正しく教えられていなかったので、無力で、霊的に乾いていると感じたのでした。多くの人は、「去年のように、また祝福を受けられたら、きっと助けになる」と考えます。そして、それが彼らにとっての敗北となるのです。聖霊があなたに臨み、あなたがその力に満たされているなら、あなたは毎日聖霊との交わりを楽しむ事ができます。一度だけの体験で終わりにするべきではありません。「山での体験」に戻るまで待つ必要はありません。あなたは人生の毎日において、霊的に山の頂上にいる事ができます!



力を受ける


私の聖霊のバプテスマの体験は、私にとっては、少しがっかりしたものだったと話しました。この体験をする前には、私はかなり保守的で控えめでした。ですから、聖霊の満たしを受けた時は、主にあって大声で、感情的な時間を過ごすだろうと思っていました。しかし、私は異言で話す事以外は何もしませんでした。それで、私は少し気持ちが落ち込みました。他の人が御霊に満たされると騒がしくなり、喜びの叫び声を上げるのを見た事があります。私は自分が満たされた時に、そのような感情的な体験ができたらいいのにと思いました。私は祈りました。「主よ、聖霊派の人々は、聖霊が人に臨む時、その人は力を受けると言います(使徒1:8)。力はどこにあるのでしょうか?私に以前よりも力があるなら、私はそれをまだ知りません。」


多くの場合、私たちは力が何であるかを知りません。私たちは力を感じるものだと思っていますが、いつもそうであるとは限りません。イエスは感情的な体験について約束しませんでした。イエスは、聖霊が私たちに臨む時、超自然的な力を与えられると約束したのです。


使徒 1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、更に地の果てまで、私の証人となります。」


私はがっかりしましたが、聖霊のバプテスマの経験を受け入れるのに十分な聖書の言葉が私の中にありました。私は自分に言い聞かせました。「御霊に満たされる事は、私が思っていたようなものではなかったが、それは聖書的だったので、それに留まろう。私は聖霊に満たされているのだ!」しかし私は、その経験について誰にも話しませんでした。会衆に説教もしませんでした。私はまだ若かったので、それについて誰かに話す前に、何かが起こるまで待つ事にしました。私は人々に何も言わなくても、力の証を見てもらいたいと思いました。又、私はそれについてまだ何も言うべきではないという感覚を霊の内に持っていました。


さて、私たちの会衆にペリー氏という人がいました。彼と彼の妻はヨーロッパへの旅行で四か月間不在でした。私は彼らが戻る直前に聖霊に満たされました。ペリー氏がヨーロッパに出発する少し前に、聖霊派の人々が私たちの教会に通い始めました。その小さな地域ではその教会しかなかったからです。それらの家族は、聖霊派の教会を見つける為に遠くまで行くしかなかったので、代わりに私たちの教会に来たのです。あらゆる種類の宗派の人々が私たちの教会に出席しましたが、ペリー氏は、聖霊派の家族が来始めている事を知った時、満足していませんでした。それで彼は、コール氏という他の教会員に会って言いました。「聖霊派の人々を来させるべきかどうかは分かりません。」もちろん、公の集会ですから、来て欲しくないと私たちが思っても、人々は来る事ができました。ペリー氏は続けてコール氏に言いました。「異言がここに入ってきたら、私は家族をこの教会から引き離すつもりです!私はここに通いません。」


その後、ペリー夫妻はヨーロッパに向けて出発し、彼らが去っている間に、私は聖霊に満たされ力を受け、その証拠としての異言を話しました。言ったように、私はそれについて少しがっかりし、私が感じるべきだと思っていた方法で、「力を感じなかった」ので、その時、この事を会衆と共有しませんでした。しかし私は、自分の満たしの経験について、一人だけ個人的に話しました。それがコール氏でした。コール氏は非常に霊的で、聖書的な人で、私が何かを言う前に、私に何が起こったのかを理解していました。彼と彼の家族は、私が週末に説教する為、地方に出るたびに、親切にも彼らと一緒に滞在する事を許可してくれました。コール氏は、ペリー氏が去る前に、私たちの教会に来る聖霊派の人々について言った事を私に話しました。


ペリー氏が戻ってきてしばらくした後、コール氏は彼との会話について、私に話してくれました。ペリー氏は、「留守の間、私たちの小さな説教者に何かが起こったようだ!」とコール氏に言いました。コール氏は、誰かがペリー氏に私の事を言ったのかと思っていました。そこで、コール氏は言いました。「どういう意味ですか、ケニー兄弟に何かが起こったのですか?」ペリー氏は言いました。「彼は以前よりも優れた説教者ですよ。」コール氏は答えました。「ペリーさん、ケニー兄弟はとても力強い説教者だといつも思っていましたよ。」ペリー氏は答えて言いました。「私もそう思っていました。でも、以前にはなかった何かを持っているんです!」その時コール氏は、私について誰もペリー氏に話していないと気づきました。ペリー氏に話し続けるように促す為、コール氏は、「確かに。では、私たちの説教者が持っているものは何ですか」と尋ねました。ペリー氏は言いました。「それが何であるか分からない。しかし、今日彼が説教する時、それを感じる事ができます!彼が話す時、以前にはなかった力があるんです!」


私自身が感じていなかったとしても、教会の人々は、私の人生に加えられた力を感じていました。ペリー氏は続けて言いました。「私はいつもケニー兄弟の説教を楽しんできました。しかし、彼が今説教すると、それには力があります。彼のメッセージにはインパクトがあります!彼の言葉には、以前にはなかった権威があります。」コール氏は、ペリー氏が他の誰かから、それについて何か否定的な事を聞く前に、私に何が起きたかを話すべきだと考えました。それで、コール氏は言いました。「あなたがいない間に、私たちの説教者に何が起こったのか知りたいですか?」ペリー氏は答えました。「はい。」「彼は、聖霊に満たされ、その証拠としの異言を話したのです。」


コール氏は後になって、私に言いました。「私がペリーさんにそう言った時、彼は頭を下げ、長い間何も言いませんでした。彼が見上げようとし、『それまでだ。私は私の家族を連れて行く。例え教会に分裂を起こしてもだ』とでも言うか、私は分かりませんでした。しかし、ペリー氏が見上げると、彼の目には涙が浮かんでいたんです。そして、彼は言いました。『一つだけ言っておきます。それは私を信じる者にさせます。以前ケニー兄弟が説教するのを聞いたし、それ以来彼の説教を聞いている。彼には以前にはなかった力、霊の深さがある。』」ペリー氏のこの言葉を聞いて、私は悔い改めて祈りました。「神様、私はいつもその力を持っていましたが、それを疑っていました。この力は、個人的な益の為だけに与えられたものではない事が今分かりました。他の人を祝福する為に与えられたのです。だからこそ、私が知らなかったとしても、会衆は私に何かが起こった事を知る事ができました。」


それから私は、私生活でも違いに気づき始めました。以前にはかろうじて困難を乗り越えていたのですが、聖霊を受けてからは、新しい勝利の感覚でそれらを乗り越えるのに役立つ、増し加わった「何か」がある事に気付いたのです!私は祈りました。「主よ、私は権力について、この間、違った考えを抱いていました。どうにかして、力を体で感じられるものにしようと思ったんです。ダイナマイトのように、爆発するような感じをするものだと思っていました。私は肉体的にそのように感じなかったので、私には力がないと思っていました。でもあなたは、私の最も深い所から、生ける水の川が流れ出し、それらの川が流れ出て他の人々を祝福すると言いました(ヨハネ7:37-39)。それが、私が聖霊から受けた力の目的であり、私の会衆はその違いを見たのです!」


しばらくすると、私の説教の違いについて話していたのは、ペリー氏だけではありませんでした。教会の人々もそれについて話していました。彼らは互いに言いました。「私たちの説教者に何が起こったのですか?彼は力を持っている。彼の秘密は何ですか?何であれ、それが欲しい!」ついに、私に何が起こったのかを会衆に伝える時が来たと私は決心しました。私は言いました。「私が知っているのは、私が聖霊で満たされ、異言で話したという事だけです。聖霊を受けて異言を話す時、あなたも力を受けるでしょう。」その神聖な力は、私が御霊に満たされるまで、私の人生に現れていませんでした。私の会衆はそれを知りました。彼らは過去二年間、私の説教を聞いていたのですが、私の説教にそのような力がある事に気づいていませんでした。神を賛美します。私の証しは人々に強い印象を与えたので、彼らのほぼ全員が最終的に聖霊に満たされました。そして、私たちがその教会を御霊に溢れた教会に変えるのに、そう多くの時間はかかりませんでした。誰も去って行く事はありませんでした。むしろ、その教会は数年間でさらに大きくなりました。


その経験の後、私は聖霊に満たされた時に受けた恩恵を二度と疑う事はありませんでした。「神の力を感じるかどうか」の問題ではないのだと理解しました。それは聖霊を信頼する事、私の中に住む大いなる方の力を解放する事だったのです。



聖霊に耳を傾ける


聖霊に満たされる前に、私は主との祈りと交わりにおいて、多くの祝福された時間を楽しみました。多くの場合、私は夜の殆どを英語で祈り、一晩中祈る事もありました。しかし、神の前で何時間も過ごしたにも関わらず、その祈りの場を何となく不満に感じて去りました。私は、主に言いたい事を言っていないようにいつも感じていました。私は思いのまま、主がどれほど素晴らしいお方であるかを主に伝えましたが、それでも上手く表現していないように感じながら、祈りの時間を過ごしていました。しかし、私が聖霊に満たされ、異言で祈り始めた後、私の祈りの生活は劇的に変わりました。ついに私の霊は自分自身を表現する事ができ、私は自分の霊において満足して祈りの時を過ごしました。もちろん、私は既に新生しており、聖霊は私の内におられました(ヨハネ3:3-8)。御霊は私が神の子である事を私の霊で証ししてくれました(ローマ8:16)。そして私が若い時、病気に患って、ベッドに横たわっていた時、聖霊は私の心に語りかけ、聖書にある神の癒しに私を導かせようとして下さいました。


私が今まで説教を聞いたのは、救いのメッセージだけだったので、私を癒しに導いてくれる御言葉と聖霊がどうしても必要でした。私はずっと日曜学校と教会に通い、病の床につくまで欠席する事はありませんでしたが、聖霊に耳を傾け、従う訓練は全く受けていませんでした。しかし、若くして病気で横たわっていた私は、聖霊が私の霊に語られた時、内なる声を聞くようになりました。誰も聞くようにとは言いませんでしたが、私は自分に言いました。「この声を聞く事で今より悪くなる事はない。結局、医者は私が死ぬだろうと言ったんだ。私はこれ以上何もできない。それなら、ここで自分の内側から耳を傾け始めてみよう。」そして、私が聖霊に耳を傾けた時、御霊は私を神の癒しへと導きました。聖霊が私の心に話しかけました。「今、あなたは自分が大丈夫だと信じなさい。」私は言いました。「もちろんです。」聖霊は言いました。「では、起きなさい。朝ですから、もう起きなければなりません。」私は寝室で、一人で座った姿勢になるのさえも苦労しましたが、ベッドの上で体をひねって、ベッドから足を床に押し出す事ができました。それから私は寝台の支柱をつかみ、体を引き上げました。そのベッドにもたれかけて、私は宣言しました。「悪魔と悪霊たちの前で言う。神の言葉によると私は癒され、私はそれを信じる事を宣言する!」


突然、神の癒しの臨在の温かい輝きが全身に降り注ぐのを感じました。そして、私はまっすぐに立ち上がり、癒されて部屋を歩き始めました。ひどい苦しみのベッドで寝ていた私ですが、どのようにして私はその癒しの瞬間にたどり着いたのでしょうか?私は新生で知り会う事になった聖霊に耳を傾けたのです。その後、同じ聖霊の声に耳を傾け、聖霊のバプテスマに導かれました(使徒1:5)。


水を飲む事を考えて下さい。その病床で生まれ変わった時、私は水を一杯飲みました。それが私の新生の経験です。しかし、私をキリストにある新しい創造にして下さった同じ聖霊が、私を神の癒しへと導いて下さいました。それから私は、聖霊を受け、満たされるまで御霊の水を飲みました。それ以来、私を通しての神のミニストリーと私への神の扱いは、何倍にも増幅されました。聖霊はクリスチャンをできる限り導きます。しかし、聖霊に満たされ、異言で祈る人にとっては、聖霊の導きが遥かに大きくなります。


私は、毎日異言で絶えず祈る習慣に従う場合にのみ、この聖霊の特別な体験が私の人生ある事を発見しました。異言で幾つかの言葉を少し発するという事ではありません。それだけなら、あなたの人生における聖霊のミニストリーは、あなたが御霊に満たされる前と大差はありません。私が話しているのは、本当に異言で祈り、毎日神と時間を過ごす時間を取る事についてです。異言で沢山祈る事によって、御霊に満ちた生活を維持しようと努力するなら、聖霊はあなた自身の霊を通してあなたとコミュニケーションを取ります。


1コリント 14:14 「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


あなたの霊に神に祈る力を与えるのは聖霊です。聖霊はあなたに言葉を与えながら、あなたの祈りを超自然的に導きます。彼はあなたを通して物事が起こる前に祈っています。何年にもわたって、私の家族には、病気や死は一度もありませんでした。そうなる前に、時には二年も前に祈っていました。この種の啓示の知識は、預言者の啓示の賜物だけではありません。私も預言者として活動しています。しかし聖書は、聖霊が信者に来るべき事を示すと言っています。


ヨハネ 16:13 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いて下さいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いた事を全て語り、これから起こる事をあなた方に伝えて下さいます。」


信者は誰でも、神に強く求める前に何かについて御霊によって知る事ができます。信者が異言で祈ると、多くの事が明らかになります。聖霊のバプテスマを受けて以来、異言で祈っていると、このような経験を何度もしました。聖霊は、物事が起こる前に起こる事を私に示してくれたので、私はそれらについて祈る事ができました。それは単に異言で祈って、自分が何について祈っているのかを霊で感知する事でした。



奥義を祈る


物事が起こる前に、異言で祈るよう聖霊が警告して下さった事について、私自身の体験から話しましょう。私は1978年にボルチモアで集会を開いており、礼拝が終わってからホテルの部屋に戻っていました。私は本を​​読もうとしましたが、私の中でずっと不安な気持ちがありました。それで最後に本を置いて祈り始めました。私は「主よ、何ですか?」と尋ねました。イエスは、聖霊は自分自身について話すのではなく、聞いた事を話すと言われました(ヨハネ16:13)。つまり、聖霊があなたに語りかける事を期待できるという事です。聖霊は御言葉の著者である為、確かに聖書を通して語ります。しかし、あなたが異言で祈る時、御霊はあなたの内側でも話します。御霊によって奥義を祈りながら、私は主に尋ね続けました。「何ですか?」


1コリント 14:2 「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


しばらくすると、家族の誰かが病気にかかったような身体の危険にさらされているような気がしました。私はすぐに妻の事を思い出しました。私は別の所で奉仕をしていて、彼女は家にいたからです。しかし、異言で祈り続けているうちに、それが私の妻ではない事を心の中で悟りました。それから、私の子供たちの事を考えました。私は彼ら一人一人の為に異言で祈りました。祈っている内に、身体的な危険にさらされているのはどちらでもない事が分かりました。それから、母の事を考えました。彼女について異言で祈り始めた時、私が祈っていたのは彼女である事が分かりました。その時、電話が鳴りました。それは私の妻で、「ケニー、あなたのお母さんが病院にいます」と言いました。私は答えました。「大丈夫です。分かっています。既に警告を受けており、答えは分かっています。聖霊は私に彼女は大丈夫だと言っていました。」


状況を把握するのは良い事だと思いませんか?新生を通して聖霊を知る事は、私たちにとって非常に有益ですが、聖霊によるバプテスマはその祝福に追加されるのです。神は、聖霊のバプテスマと異言を通して、より多くの御霊を体験する機会を私たちに与えて下さいます。新生とは、神の恵みを罪人に紹介する事です。しかし、聖霊によるバプテスマは、神が神の子供たちに神の超自然的な力を紹介する事です。



冒険の始まり


もう一度言います。最初の聖霊の満たしは素晴らしい事の始まりですが、それはあなたが主と共に体験した最高のものであってはなりません。実際、神との歩みの中で私に起こった最大の出来事は、異言で祈った結果としてもたらされました。私は新生の聖霊を知っていました。もちろん、御霊に満たされる前から、私は聖霊を知っていました。聖霊が私に臨み、説教の為に私に力を与えて下さいました。私は、公には癒しについて説教し、個人的には人々に手を置いて癒しました。私が生まれ変わってから最初の五年間、私のミニストリーで起こった癒しと、人々の回心について、神に感謝します。しかし、1947年に聖霊に満たされるまで、私は超自然的な現れを経験した事がありませんでした。私は既に五年も説教をしていたのです。聖霊に満たされた後、私は異言で沢山祈る事を学びました。誰も私にそうするように言いませんでした。当時、私たちはこの主題についての学びがありませんでしたので、私はいつでも異言で祈るべきかどうかさえ知りませんでした。しかし、英語で祈るより異言で祈る方が簡単だという事は分かりました。また、他のどの方法よりも霊的に深める事ができる事を異言で学んだので、それを実行しました。


例えば、私のミニストリーでこれまで見た中で最も大きな癒しは、異言で祈った後にもたらされました。祈っていると、自分が祈っていた事を霊の中に見ました。私たちは霊的な事だけでなく、物質的な事についても御霊によって祈る事ができます。そして、私がただ従い、霊の中で見た事を実行した時、その人は癒されました!最初の聖霊の満たしは素晴らしい事です。しかし、その最初の体験は始まりに過ぎません。私たちが神の霊の領域でどのように行動するかを学ぶ時、神は私たちの為に超自然的な冒険の全てを準備しておられます。ですから、異言で話す事についての議論をさらに進めたいと私は思うのです。神との超自然的なコミュニケーションの真価と無限の可能性に気づいたら、この賜物をこれまで以上に活​​用したいと思う事でしょう。


9 パウロの理解 へ続く

0 件のコメント:

コメントを投稿

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...