2022年11月3日木曜日

聖霊が与える賜物

  神が世に与えられた最高の贈り物は、御子イエス・キリストであり、イエスが全ての信者に与えられた最高の贈り物は、聖霊であった。そして、聖霊が信者に与えられる最高の贈り物は異言である。


 聖霊が人に臨む時、聖霊は霊の言語を我々に与える。異言で祈る事を通して、我々は受けた力を発揮し、イエスの証人となる。それは、異言を通して、我々の霊が再燃されるからである。我々が霊的に燃えている状態の下では、我々は肉を制御しやすく、その結果、神の力を上手く活用する事ができるからだ。


異言のアクティベーション


 異言のアクティベーションの為には、異言についての正しい理解と、その理解に基づいた信仰が必須である。クリスチャンは一般に、異言が神の御言葉と御心に沿っていると確信しない限り、信じようとはしないし、信じる事ができない。霊の言葉で祈る事の力と、その目的を十分に理解していない人は、異言で積極的に祈ろうとしないものだ。


 異言に関する御言葉を理解したら、それを心で信じる。知性では信じる事はできない。信仰は種子のようなもので、心に植えられ、芽が出て、収穫の為に成熟するまで育てられる必要がある。信仰が正しく働くには、強い決断と積極性が欠かせない。


 信じたのであれば後は実践するのみだ。最初の異言は明確な言葉ではないかもしれない。ちょうど乳飲み子が言葉を学習するように、正しい発音にこだわる必要はない。初めはとにかく、口を動かす事が大事だ。神は、神の子が成長を目指して歩む姿を喜んでおられる事も覚えておくと良い。


信仰と愛


 ユダ 1:20-21「御霊によって祈る事で自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、神の愛の内に自分自身を保ち、永遠の命に導く、私達の主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」


 信仰と愛は、異言によって活性化される。希望は「未来」を漠然と見るが、信仰は「今」に視点を置いて、信じている事の結果を見ようとする。信仰は愛という土台に励まされると、その他の全ての御霊の実を結ぶようになる。


キリストに似た者へと成長する


 ローマ 8:29「神は、予め知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿に予め定められたのです...」


 これが唯一の神の召しである。多くの人は、様々な奉仕の役割を召しと勘違いしている。役割をこなす事は重要だが、それは一時的であり、変わる事もある。しかし、神の召しは変わらない。異言は、我々の魂をキリストに似た者にする為に大きな助けとなる。何故なら、異言で祈る事によって、我々の霊が活性化され、御霊の実が結ぶようになるからだ。信仰の成長を早めたいのであれば、聖霊が与えて下さった神との交わりの方法、すなわち異言で祈る事が欠かせない。


 信仰を成長させる唯一のものは御言葉である。信仰の成長を促す最高の方法は異言である。御言葉は食べ物のようなもので、それを食べる事で我々の体も作られ、成長する。異言は運動のようなものだ。運動すると体がより強くなり、発育をさらに促進させる。御言葉は直接的に我々を成長させるが、異言は間接的に成長させる。我々が両方バランスよく利用すれば、我々の成長は早くなるのだ。


 我々は御言葉で心を満たし、異言で祈る事によって、肉を取り除き、霊の思いに浸る事ができる。そうなると、思考と魂が霊と一致してくるようになり、より一致するほど、キリストの品性が自然と現れ、神の力が意図的に解放出来るようにもなる。


 聖霊が与える賜物(異言)は、生まれ変わった信者がそれを用いて、自分が成長する為に与えられている。これは「個人的な異言」であり、他人を祝福する為ではなく、自分自身の魂を霊と一致させる為に与えられた。教会における聖霊の現れ(御霊の賜物)としての異言は、必ず異言の解き明かしを伴って、他人や教会の成長を促すものである。*ただし、解き明かしは個人的異言にも応用できる。


解き明かし


 パウロは読者たちに、一回の教会礼拝で異言によるメッセージは、三回までにしておいた方が良いと忠告した(1コリント 14:5)。もし、教会の為にある人が異言を発した場合、その場に誰も通訳できる人がいないなら、或いは、聖霊が異言を話す者に通訳を与えないなら、その異言を語った人は、それ以上続けず、座って黙っておく(1コリント 14:27-28)。


執り成し


 まず誰かが祈らなければ、神の御心を地上に成し遂げる事はない。執り成しにおいて、御霊の祈りは、通常の言語による祈りよりも良い。


御心に沿った祈り


 聖霊は、神の御心に従って祈りを祈るように、我々の異言による祈りを導いて下さる。我々が100%神の御心に従って祈っているのは、異言で祈っている時のみである。神の御心に沿った祈りは、常に答えられる。

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...