2023年6月3日土曜日

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。


これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されているように、ペンテコステの日に聖霊の注ぎによって始まったこの聖霊の時代の特徴です。イエスは、新しい契約の下で神がご自分の民に与えるこの賜物について言及された。マルコ 16:17-18において、 イエスは、五つの超自然的なしるしが信者に従うと宣言した。そのうちの一つが「新しい言葉」(17節)です。この一節を説明しようとして、次のように言う人もいます。「それは、救われる前は下品なジョークを言ったり、罵ったりしていたけれど、今はもうそんな事はしない、或いは、以前は嘘をついていたが、今はもう嘘をつかないという意味だ。」確かに、特に神の子になってからは、そういう事をすべきではありませんが、この聖句が語っているのはそういう事ではないのです。マルコ 16:17-18に列挙されているこれら五つのしるしは、全て超自然的なものです。イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けません。神の超自然的な力によって守られるからです。もちろん、何かを証明する為に猛毒の蛇を扱えるという意味ではありません。しかし、パウロがマルタ島でまむしが這い出して来て、彼の手にかみついた時があったように、超自然的に守られる事もあるのです(使徒 28:3-5)。最後に、病人に手を置けば癒されるという事も、神の力によって可能なのです。


「新しい言葉」も超自然的なもの、神の力によってなされるものです。又、イエスご自身も、「少数の信者が新しい言葉を話す」とは言われませんでした。イエスは、全ての信者がそうすべきであると言われたのです。異言を語らない人には、その人なりの理由があるかもしれません。しかし、私はその第一の理由も確信しています。異言を話す事の範囲と価値について、健全で、論理的で、聖書的な教えが殆どなかったからです。その結果、多くの人々は神が与えて下さったこの賜物を認識していません。異言で話す事の価値に気づいていないだけなのです。もし気づいていたら、みんな異言で話したがる事でしょう。



「異言は悪魔のもの」


私がまだ若い伝道師だった頃、聖霊派のクリスチャンたちと交わりを持ちたいと思った事がありました。彼らは、神の癒しを信じていたからです。私は神の力によって癒され、死の床から蘇りました。同じように尊い信仰を持つ人たちとの交わりは、私の癒しへの信仰を強めてくれました。その結果、教派の同僚たちは私の事を深く心配し、「聖霊派の人たち」について警告してきました。彼らは誠意と正直さをもって話したのですが、その心は聖書にない神学的概念で混乱していました。ある教派の神学校を卒業したある聖書教師の言葉を私は覚えています。「純福音の人たちが教え、説いている事は殆ど全て基本的で正しい事は認めます。そして、彼らが私たちの教会よりも良い生活をしている事も。しかし、異言を語る事は悪魔のものだ。」私はその時、この男性には答えなかったが、心の中でこう思った。「一体どうすれば、人は悪魔から何かを得る事ができるのだろうか?人々に悪い事をさせようとするのが悪魔で、正しい事をするように助けるのが聖霊ではないか?」その聖書に基づかない考え方は私に、ある乱暴な男に起こった出来事を思い出させた。少年時代、彼はある教派の教会に通っていたが、救われた事はありませんでした。しかし、10代になると、その若者は乱暴になり、毎晩のようにバーに出入りするようになったのです。そして、あらゆる罪を犯したものでした。パトカーを2台も3台も呼んで、警察に連行されたほど、とても力持ちでした。


数年後、純福音の人たちがこの男性を導き始め、彼は救われ、聖霊のバプテスマを受け、異言を話すようになりました。しかし、彼が子供の頃に通っていた教会は、20年以上もの間、彼を放っておいたのです。牧師は一度も彼を訪ねようとはしませんでしたが、深い心配を抱いて彼を訪ねてきたのでした。その理由は、彼が「悪魔から何かを得た」事を聞いたからでした。その男性は、その牧師が彼を訪ねて来た時に起こった事を個人的に話してくれました。「私はしばらく牧師に話をさせたが、『異言を話すのは悪魔の仕業だ』と牧師が言ったので、「ちょっと待って下さい、牧師さん。異言が悪魔のものでない事を知っています。私が救われる前、私はあらゆる悪魔からの悪いものを持っていましたから。もし異言が悪魔のものだったら、私はとっくに異言を持っていたはずです。しかし、私が救われ、聖霊に満たされるまでは、この賜物を受け取らなかったんです。」牧師がどんなにその男の人を説得しても、異言を話す事をやめさせる事はできませんでした。その人は、自分が神からその賜物を受け取った事を分かっていたからです。


私はというと、聖霊に満たされ、異言を話し始めた瞬間、「異言は悪魔のもの」と言っていた先生を探しに行きました。以前は、彼がいつもこの話題を持ち出してきたのですが、今回は、私が彼に伝える事があったので持ち出したのでした。またしてもこの先生は、聖霊派の連中について警告し、「異言は悪魔からのもの」だと言ったのでした。私は言いました。「異言が悪魔のものなら、私たちの教団全体も悪魔のものですよ。私は聖霊に満たされ、異言を話す事ができるんです。私たちの教派で知った聖霊は、私の霊を再創造して下さり、私が神の子である事を証ししておられます。それと同じ聖霊、つまり、私が聖霊に満たされた時、純福音教会で私に異言を与えて下さったのと同じ聖霊なんですよ!」 聖霊派は他の教派と違う聖霊を持っているわけではありません。聖霊は一つであり、全く同じ御霊なのです。「いやいや、そんな事はない」と彼は言いました。私は、「あなたは聖書の先生ではないのですか?」と尋ねると、「そうだ。私は25年間聖書を教えてきたんだ」と彼は答えました。私は続けて、「では聞きますが、異言で話した事があるのですか?」すると彼は、「もちろん、ない」と言いました。私は、「では、その背後にどのような霊があるのか、どうやって知る事ができるのですか?あなたは聖書を知っていると言います。それなら、『よく聞かないうちに返事をする者は、愚かである』という言葉を知っているはずです。それによると、あなたは愚かであるという事ですよ」と言い返しました。私は続けて、「異言を話さないのなら、あなたにコメントする資格はないのですよ。もし異言を話すのなら、どのような聖霊があなたにその言葉を与えたのか、私に言う事ができます。私が言えるのは、それは同じ聖霊だという事です。私は変な霊を受け取ってはいません。私がいつも持っていたのと同じ霊です。聖霊に満たされた時、私はより強力な聖霊の経験をしたのです。だから、異言を話す事が悪魔のものであるなら、私たちの教団全体が悪魔のものなのです。」私の言葉はこの聖書教師に大きな衝撃を与えたので、彼はしばらく口を開いたままでした。もちろん、その教派は悪魔のものではないし、異言も悪魔からのものでもありません。異言を話す事で、同じ聖霊のより深い次元へと導かれるだけなのです。我々は、もっと深く神の所へと進む事ができるのです。



父は求めるものを与えて下さる


さて、あなたに伝えたい事があります。もしあなたが神の子で、聖霊の満たしを受けたいと御父に願うなら、別の何かを得る事はありません。ある牧師が、聖霊に満たされる為に私の集会に来た事がありました。私が彼の為に祈る前に、彼は私に言いました。「ケニー兄弟、先に正直に言っておきます。聖書を学んできて、異言は悪魔のものではない事が分かってきました。でも、まだ悩んでいます。長い間、異言に対して間違って教えられて来たからでしょう。私たちが祈り求めれば、間違った霊を受け取らないという事を、どうすれば知る事ができるのか教えて頂けますか?」この人は、聖霊のバプテスマの為に祈ると偽の霊を受けるという話を色々と聞いていたようでした。私がまだ若い頃、聖霊のバプテスマを受ける前に、私自身、そのような話をたくさん聞いたものです。しかしそれ以来、50年以上にも渡って、純福音の教会の人々の中では、聖霊に満たされたいと願い出た人が、間違った霊を受けたのを私は一度も見た事はありませんでした。でも勘違いしないで下さい。私は、聖霊に満たされた人々が肉になっている状態を何度も見ました。しかし、私は神が動いている間、人々が肉的に反応して、多少興奮している方が、完全に無反応でいるよりはましだと思うのです。私は、何も起こらない、死人のいる墓場で秩序があるよりは、少しくらいの無秩序は許容範囲だと考えます。この男性は、他の霊ではなく聖霊を受ける事を確かめたがっていたので、私はルカによる福音書11章11節から13節を読み聞かせました。


ルカ 11:11-13 11「あなた方の中で、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それならなおの事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。」


私は彼に尋ねました。「お子さんはいますか?」彼は「はい」と答えました。「もしあなたの息子が魚が欲しいと言ったら、あなたは蛇を与えるだろうか?それとも卵が欲しいと言われたら、サソリを差し出しますか?」彼は、「いいえ、そんな事はしません」と言いました。私は言いました。「神もそんな事はしません。この箇所でイエスが実際に何を語っていたのかを教えましょう。ルカによる福音書10章19節にその答えがあります。」


ルカ 10:19「確かに私はあなた方に、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなた方に害を加えるものは何一つありません。」


私は言いました。「イエスがここで話していたのは、文字通りの蛇や実際のさそりのではなく、敵である悪霊の事を、蛇やサソリと呼んでおられたのですよ。もし子が魚を求めるなら、その父は蛇(悪霊)を与えるでしょうか。卵を求めるなら、父親はサソリ(悪霊)を差し出すでしょうか。」


私は彼に言いました。「あなたは神の子であり、それは神があなたの父である事を意味するのではないですか?」彼は、「はい」と答えました。「あなたが自分の子供たちに邪悪なものを決して与えないのと同じように、天の御父が、あなたが御霊を求める時、ご自分の子供である、あなたに邪悪な霊を与えると思いますか?」と私は尋ねました。すると彼は突然、笑い始めました。そして異言を語り始めたのです。彼が恐れから解放されると、彼が聖霊を受ける為に私は祈る必要さえなかったのでした。彼は言いました。「ケニー兄弟、あなたが今話してくれた事を知っていたら、私はとっくに異言を話していたかもしれない。」


その男性は、人々から聞いた話のせいで縛られ、神が彼に与えた祝福を見逃していたのでした。悪魔は彼の心に、御父に聖霊の満たしを求めて祈っても、間違った霊を得るかもしれないという恐れを植え付けたのです。しかし、そんな事はあり得ません。聖霊を受ける事を恐れる必要は決してないのです。覚えておきましょう。神の言葉はいつもあなたを自由にするのです。


ヨハネ 8:32「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」


イエスは真理があなたを縛るとは言われませんでした。神の言葉の真理は私たちを自由にすると言われたのです。私たちが、神に聖霊で満たしてもらおうとする時、間違った霊を受ける危険性はないのです。信者が聖霊を求め、間違った霊を受けたと主張する人がいるとすれば、その人は信者ではないか、嘘をついているのです。クリスチャンが聖霊を求める時に、異なる霊を受ける事があると言うのなら、イエス・キリストが嘘を言っている事になるのです。私なら、イエスを嘘つきというよりも、その人を嘘つきと呼ぶ事を選びます。


ローマ 3:4「...たとえ全ての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです...」


イエスは言いました。「それならなおの事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます」(ルカ 11:13)。 つまり、聖霊の満たしを求めれば、まさにそれが得られるのです。



「異言は終わった」


ある時、ある人が私の所に来てこう言った事がありました。「どうして、聖書に異言はなくなったと書いてあるのを知らないんですか?」私は答えました。「いいえ、知りませんでした。それはどこの箇所ですか?もし、その聖句を教えてくれたら、報酬をあげます。」私はお金を持ち合わせていませんでしたが、その人が聖書の中に異言がなくなったという聖句を見つける事ができないと知っていました。その人が幾ら探しても、そのような聖句は見つかりませんでした。ついに、彼は諦めてしまいました。そこで私は彼を助けてあげました。「あなたが探している聖句は、第一コリント13:8ではないですか。」彼は言いました。「ああ、やはり聖書には異言がなくなったと書いてある。」私は言いました。「続けて一緒に読んでみましょう。一部だけを取って、結論に急ぐのは賢い読み方ではありません。」


1 コリント 13:8「愛は決して絶える事がありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私達が知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」


私は彼に言いました。「完全なものが現れたら、部分的なものがすたれるでしょう、と書いてあります。つまり、パウロが12章で取り扱った、預言、異言、知識の賜物などは、完全なものが現れたら、すたれるという事なのです。次の二つの節に、完全なものについて書いてありますよ。」


1 コリント 13:11-12「私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。今、私達は鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見る事になります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になります。」


まず、ここでパウロが言っている「幼子であった時」とは、成長がまだ幼かった時の事を指します。そして、「完全」という語は文脈からも明らかなように、「成長」を意味しているのです。実際、このギリシャ語は、「成長」という意味で聖書で何度も用いられています。つまりパウロは、幼子であった時には、御霊の賜物に意識を向けていたのが、大人になると、より重要なものが見えて来るという事を言っているのです。


鏡は自分を映すものですが、幼い時には、自分自身が分からない為に、鏡にぼんやりとしか映りません。しかし、成長して大人になると、自分自身が何者であるかが分かってきます。私たちは、私たちについて書かれている聖書を学ぶ事によって、自分自身を知る事ができます。従って、ここでパウロが言っている鏡とは、聖書の事なのです。本来の私たち、つまり、神の子である私たちを聖書から学んで成長していくと、幼子の考え方をしなくなるという事をパウロは言っています。聖書から自分自身について学んでいくと、私たちの中におられるキリストをより知るようになり、ついには、聖書という鏡を見る時、顔と顔を合わせるようにして本来の私たちが見えるようになります。


これらは、人々が異言を話す事に反対する為に用いる最も一般的な三つの反論です。このテーマについてさらに議論を進めていく中で、一般的に生じる他の疑問や誤解についても触れていきます。しかしこの問題や、その他の霊的な歩みについて学ぶ上で覚えておくべき事は、考えが神の言葉に近いほど、私たちはより正しくなるという事です。



聖霊の満たし


ある時の集会で、私は聖霊に触発されて、今までした事のない事をしようとしていました。「聖霊に満たされていない人、満たされたいと思っている人は、立ち上がって下さい」と言って、私は人々を促しました。すると直ぐに五人が立ち上がりました。私は説教壇に立って、その五人に向かって「聖霊を受けなさい!」と言いました。自分でそう言った時、とても驚きました。五人のうち、一人を除いて全員が即座に異言を話し始めました。一人の女性が異言を話し始めると、彼女は感激のあまり、教壇の間から出てきて通路を踊り始めてしまいました!牧師は驚いて、私を見てこう言いました。「あの人たちの中には、何年も聖霊のバプテスマを求め続けている人もいるんですよ!何時間も粘って祈ったものです。共に祈ったのですが、諦めていました。特にこの幸せそうな女性です!私たちは、彼女は聖霊を受けられない人だと諦めていたんです。誰も彼女と一緒に祈る事はなかったんです。」


この女性が通路でそうやって踊っていたのも不思議ではありませんでした。人々は何年もの間、この女性が聖霊のバプテスマを受けられるようにと、引っ張り、叩き、泣き叫んだのですが、今や、神は一瞬にして彼女を満たされたのでした。その集会が終わって、その牧師が私に一週間のリバイバル集会を開いてくれるように頼みました。それは、一ヶ月も続き、多くの人々が恵まれ、教会も大きく成長したのでした!私がそれをしたのではなく、神がその全てをして下さいました。私はただ聖霊の動きに身を任せただけでした。


そのリバイバル集会のある夜の事を特に覚えていますが、人々は毎晩聖霊に満たされていて、この日の夜は12人が聖霊を受ける為に前に出たのです。これは、一度に祈りを捧げた人数としては最大でした。私はこの12人を霊的なわだかまりから解放したかったので、彼らに前の方で膝をついて祈らせませんでした。ひざまずいて祈るというような聖書的な行為でさえ、私たちはある種のわだかまりに陥る事があります。だからといって、ひざまずいて祈る事が良くないという意味ではありません。パウロも、「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にある全ての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります」と言いました(エペソ 3:14-15)。私自身も、祈るときにはひざまずいて祈ります。しかし私たちは、やがては霊的な進歩を遂げられなくなってしまうくらい、ある特定の方法でしか神を求めないという宗教に陥る事があるものです。聖霊派やカリスマ派の多くの人々がそうなっているのです。聖霊を受ける為に神を求める時、人々はしばしば、祭壇にひざまずいて祈るなど、「自分たちの教会がいつもしてきたやり方」に慣れてしまうのです。そして、神を心から賛美するのではなく、他の人が言っていることをオウム返しにして、頭から賛美し始めるのです。彼らの行き着く所は、そこまでです。この種の宗教的なものから抜け出すのは、多くの人にとって至難の業となってしまっています。そこで私は、聖霊を受ける為に前に出てきたこの12人に、祭壇の前に立つように指示しました。そして、私は彼らに「聖霊を受けなさい!」と言いました。すると、全員が同時に異言を話し始めました。いとも簡単に、彼らは全員、聖霊に満たされたのでした。私は彼らに手を置く事さえしませんでした。


このようにして聖霊が私を用いて下さり、人々は聖霊のバプテスマを体験したのでした。多くの場合、私は彼らに手を置く事をしませんでした。私はただ人々に来てもらい、祭壇の前に立たせ、聖霊を受けるように言ったのです。そうすると、彼らは聖霊に満たされたのです。特別な人だけが、このような事をするわけではありません。使徒たちだけ、神によって特別に召された人々だけの働きではないのです。アナニアという人がパウロを助けたように、キリストの信者であれば、聖霊を求める人々を助ける事ができるのです。


2 救いと聖霊の満たし へ続く

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...