2023年4月3日月曜日

7 聖霊の満たしを受けるには

聖霊に満たされようと思っても、なかなか聖霊を受けられない人がいます。その理由の一つに、異言に対する誤解がつまずきとなっている事があります。異言とは、私たちを通して聖霊が語られる事ではりません。


1コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


神は、私たちの理解とは別に、私たちの霊によって祈る方法を用意されました。聖霊が祈られるのではなく、聖霊が私たちの祈りを助けて下さるのです。厳密には、聖霊が私たちと共に祈って下さいます。しかし、聖霊が私たちを通して異言を語って下さるのではありません。むしろ聖霊は、私たちに語る異言の言葉を与えて下さり、私たちがそれを発するのです。多くの人々は、ここを見逃しています。彼らは聖霊が話して下さるのをじっと待っていたり、私たちの口を動かして下さるのを待っています。聖霊は言葉を与えて下さるお方ですが、それを信仰によって発するのは私たちなのです。


使徒 2:4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」 


ペンテコステの日、聖霊は異言の言葉を与えたましたが、信者がそれを話したのです。


私は、この事を理解していない人と会話をした事を覚えています。1952年2月、私はある教会で集会を開いていた時の話です。ある教会の女性が、その集会について手紙を書いて、彼女の友人を教会に誘った事がありました。「ここの教会の人たちはみな、聖霊を受けています。週末に一緒に集会に参加しませんか?」その人は長年、聖霊のバプテスマを求めていた人でした。それでこの誘いを受けた人は土曜の礼拝に来ました。彼女が聖霊の満たしを受けるように、私は彼女に手を置いたのでした。 次の日曜日の朝にも、その女性は礼拝に来ていました。


その日曜日の朝、私は説教をし、礼拝を牧師に引き継ぎました。牧師がアナウンスをしていると、手紙を書いた女性が手を挙げ、「兄弟」と牧師を遮るように言いました。牧師はそれに気づいてアナウンスを中断しました。その女性は、「ケニー兄弟が私の友人に手を置いたのですが、もう一度そうして頂く事はできないでしょうか?彼女はもう戻らなくてはなりません。聖霊の満たしを受けられなくてがっかりしています」と言いました。牧師は私の方を見たので、「分かりました。そうしましょう」と私は答えました。 


それでその女性が前の方に出てきたので、私は彼女に手を置きました。その時、聖霊が彼女に言葉を与えたのですが、彼女は異言を話しませんでした。私は彼女に長々と助言を与える時間もなかったので、そこで終わりになりました。そこの牧師はその夜の集会を解散させようとしていたのです。その後、私が教会の駐車場で歩いていた時、彼女たちが車で座っていた所を通り過ぎました。聖霊の満たしを求めていた女性は、がっかりした様子で座っていました。私も申し訳ない気持ちでいました。それで私は、彼女たちの車の所へ戻り、窓をノックしました。彼女は私を見て驚きましたが、窓を開けてくれました。私はその女性の問題をはっきりと理解していました。ただ、礼拝の遅い時間に、皆の前で色々と言わなかったのです。そこで私は、「姉妹、聖書はそこにありますか?」と尋ねました。彼女はうなずきました。「使徒言行録2章4節を開いて、読んでもらえますか」と私は言いました。


女性はその一節を声に出して読みましだ。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」それから私は、「その聖句によると、誰が異言を話しましたか」と尋ねました。「どうしてですか?聖霊です」と彼女は答えました。私は彼女がそう言う事を知っていました。それが彼女の問題だったのです。彼女は、聖霊が彼女を通して異言を語られるのを待っていたのです。しかし、聖霊が異言を語られるのではありません。そこで私は、「もう一度その箇所を声に出して読んで下さい」と言いました。彼女はもう一度読み、再び私は同じ質問をしました。「誰が異言で祈ったのですか」と私が尋ねると、聖霊が異言を語ったと彼女は答えました。私はもう一度その箇所を彼女に読んでもらい、又、同じ質問をしました。彼女がその箇所をもう一度読んだ時、「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」という意味がやっと理解できたようで、「人々が異言を語ったのですね」と彼女は答えました。


そして彼女は言いました。「私は、この聖句が聖霊が異言を語ると言っているものだと思っていました。」その後私は、人々が異言を語った事が書かれてある、別の聖書箇所を彼女に見せたのでした。「別の質問をしても宜しいですか?」私は彼女に尋ねました。「どうぞ」と彼女が答えると、私は「あなたの内に何かあって、それが口から出て来るような感覚がありましたか?」すると彼女は、「ありました。私はそれを抑えていたのです」と彼女は言いました。「そうするべきではなかったのですよ」と私は説明しました。「その促しに委ねて異言を話せば良かったのです。もしかすると、その抑えている何かをまだ感じているのではないですか?」と私は言いました。「そうです」と彼女は言い、「では、そのまま委ねてみて下さい」と私が言ったとたん、その女性は異言で流暢に話し始めました!


その女性は窓を開けまま車の中で座り、異言を話し、主との素晴らしい交わりをしました。他の教会の人々がその近くに歩いて来ると、先程の聖霊の満たしを受けずに落ち込んでいた女性が、急に流暢に異言で話しているのを聞いたのでした。何年もの間、私は聖霊の満たしについて奉仕する際に、このような間違った考えを持った人々に何度も出くわして来ました。ある人々は、聖霊がその人の意志とは関係なしに、ただ異言が口から出て来るものだと思っています。しかし、聖書は聖霊が人々を通して異言を語られるとは言っていません。聖書は、人々が異言を語ったと言っているのです。


1コリント 14:18「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」


パウロは、「聖霊が誰よりも私を通して異言を語って下さる事を神に感謝しています」とは言っていません。パウロ自身が異言を語っていたのです。


聖霊が促すままに語る


信者は、聖霊によって促されて異言を話す事があります。聖霊は強いて誰も何かをさせようとはしません。しかし、聖霊は導いたり、促したりします。私たちが聖霊の促しを感じる時には、それに抵抗してはいけません。御霊の人を助ける事に関しての促しは、いつでもタイミングが良いものです。


ある時、私が招かれた教会で、人々が聖霊を待たずに満たされる事について説教した事がありました。それらの人々にとっては、新しいメッセージでした。メッセージの後、私は聖霊に満たされたい人は前に出てくるように言いました。前に出てきた人の中に、何年も聖霊の満たしを受けずにいた、男の人がいました。最初の五人に私が手を置くと、彼らはすぐに異言を話し出しました。それから、その男性の所に私が来た時、彼は目を閉じて、両手を上げていました。彼に手を置こうとした時、私は知識の言葉によって、彼の問題を知りました。私は、「目を開けて、私を見て下さい」と彼に言いました。「あなたの人生には、聖霊に満たされる事を妨げるものは何もありません。あなたには、聖霊の満たしを受けるのを妨げるような隠れた罪などはないのです」と私が言うと、「ええっ!本当にそう思いますか?」と彼は目を開いて言いました。後で聞いた話によると、悪霊がこの男性を思いの中で苦しめていた事が分かりました。その為に、彼は夜も眠れず、ひどい頭痛に数日も悩まされていたのでした。隠れた罪などあるわけがないのです。私たちの良心はそれを教えてくれます。もし、良心が何も訴えていないのなら、何かに悩まされる必要はないのです。


それから私はこの人に言いました。「私があなたの上に三回ほど手を置きます。そうすると、あなたは聖霊に満たされます。」またこの男性は聞きました。「本当ですか?」私は、「その通りです」と答えました。彼は大きな期待に満ちていました。そして私が「イエスの御名によって、聖霊に満たされなさい」と言って彼に手を置くと、彼は少しどもり始め、異言で少し話し始めました。私は、「兄弟、それです。御霊はあなたに異言の言葉を与えています。そのまま大胆に異言で話して下さい」と言いました。するとその男性は、声を上げて異言で祈り始めました。突然、彼は自分が他の言葉で話しているのが聞こえ、感激してあちこちで踊り始めました。後に聞いたところ、彼は20年以上も、悪霊に苦しめられて来たと言いました。人が御言葉を知らないなら、敵はその人を思う存分苦しめる事ができるのです。そして彼もまた、聖霊が彼を通して語られる事が異言だと誤解していたのでした。それが理由で、彼も正しく聖霊に満たされ、異言を話す事ができなかったのです。もしあなたが聖霊のバプテスマを受ける為に祈り、異言を話す事で悩んでいるのなら、これらの人々の証しを参考にして下さい。御霊があなたに語るべき言葉を与えおられると信じ、信仰によって異言で語るのです。実際、異言で語るたびに、私たちは信仰を実践しているのです。


十分に満たされる


ヨハネ 7:37-39「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受ける事になる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」


イエスのもとに来て飲む水とは、聖霊の事です。そして、ペンテコステの日に、人々は聖霊という水を飲んで満たされました。従って、私たちが聖霊に満たされるには、御霊を飲めば良いのです。イエスは来て、飲みなさいと言って私たちを招いておられます。聖霊に十分に満たされる時、私たちは異言を話します。それはまた、自分の霊が満足するまで、異言で自由に話しなさいという事でもあるのです!


1コリント 12:13「私達はみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」


パウロも同じように水の例えを用いています。このバプテスマは、キリストという一つの体に属するもの、つまり、新生の意味としてパウロは使っています。しかし、ただ一杯の水を飲んだだけでは、聖霊の充満には至りません。クリスチャンである限り、聖霊はあなたのうちに宿りますが、それと聖霊の満たしは別の事なのです。御霊によって生まれる事と、御霊に満たされる事は別の事なのです。聖書は、半分だけ、2/3だけとは言っていません。ただ満たされなさいと言っています。ですから、もし聖霊に満たされていないなら、満たされるまで聖霊を飲んで下さい。どのようにして、満たされている事が分かるのかというと、その答えは、使徒言行録2章4節にあります。人々が聖霊に満たされると、彼らは異言を話し始めたのです。聖書を読むと、多くの場合、人々は異言を話した事が分かります。イエスの招きはシンプルなものです。「誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」です。しかし、口を閉じていては飲む事ができません。聖霊を飲むにも、御霊に委ね、口を開けて、異言を語る事について、神に信頼をおかなければいけないのです。一度異言を話せるようになると、毎日異言で祈る事によって、聖霊を十分に飲み続ける事ができるのです!


信仰


異言を話す事を妨げるものの一つに、信仰の欠如があります。聖霊は異言の言葉を与えられますが、その人が自分で決断して、口を開き、話さなければならないのです。イエスに聖霊のバプテスマを求めた後、心を静め、聖霊が内面に言葉を与えて下さる事を感じ取れば良いのです。聖霊に心を開き、聖霊に十分に満たされると、自然に異言が出るようになるので、できる限り神を信頼し、神に委ねた方が良いかもしれません。


一方、もし異言を発したなら、そのまま思い切って、言葉を口にしてみる必要があります。ここでも、あまり考えすぎずに、神に信頼して、口に出してみる事です。その人がリラックスして異言で話せる環境も必要かもしれませんし、他の人が周りで一緒に異言で祈ってあげる事も悪くありません。


ある夜の集会で、若い男性が聖霊を受けたいと前に出て来た事がありました。私がその人に手を置くと、彼は聖霊の満たしを受けたのですが、その人は異言たった二つの言葉だけを話ました。次の夜、牧師が集会中に救われた人、癒された人、聖霊に満たされた人の証しを求めた時、この青年が立ち上がって、「昨夜、私を聖霊で満たして下さった神を褒め称えます」と言って、自分の席に座りました。次の夜、牧師はまた証しをしたい人がいるか会衆に聞きました。再びこの青年が立ち上がって、「神に感謝したいと思います。二日前の夜、ケニー兄弟が私に手を置いて下さった時、私は聖霊をの満たしを受け、異言で話す事ができました」と証しをしました。更に次の夜、牧師は再び証しを求めました。すると、この同じ青年が席から飛び上がって話し始めました。彼は、「皆さん、三日前の夜、主は私に聖霊のバプテスマを授けて下さいました。家族がこの特別集会に出席する為に毎晩遅くまで起きているので、私は昼に仕事を終えて帰宅し、寝不足の分を補う為に、昼に仮眠を取ろうとしていました。でもこの二日間、昼寝ができませんでした。」 それからその青年は、昼寝ができなかった理由を説明しました。私が彼に手を置いた翌日、彼が眠りにつこうとした時、悪霊が彼の心に「昨夜、聖霊に満たされたいとあなたが願った時、あなたは何も得られなかった」と何度もささやいたのでした。彼は「いや、私は聖霊に満たされました」とはっきり答えたのですが、そうすると敵は、「しかし、あなたは異言を語らなかった」と言ったのです。それで彼は、聖書を開き、使徒言行録2章4節を開いて、それを声を出して、悪霊に聞かせるように読みました。「ここに書いてある。『すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。』昨日私は、まだ異言を始めたばかりなので、二つの言葉だけを話したが、私は聖霊の満たしを受けたのだ。」


次の日、この青年が昼寝の為に家に戻ったところ、また悪霊が邪魔をしに来ました。その為に、彼は寝る事ができませんでした。悪霊は、彼が二言しか異言で話せない事について彼を責め立て、彼の信仰を破壊しようとしたのです。しかし彼は、また同じ聖書の箇所を読み、悪霊にこう言いました。「私はたった二つ言葉を話しただけだ。でも、そこから始まるのだ。私は異言を話し始めたので、聖霊の満たしを受けているのだ。」それからこの男性は、私たちに次のように話しました。「今日の昼、また昼寝をしようとしたら、悪霊がこの二日の間に、私に言っていたのと同じ事を言い始めたのです。そこで私は起き上がって、聖書を開いて使徒言行録2章4節をもう一度読み聞かせました。それから私は、『三日前の夜から私は異言を話すようになったのだ。だから私は、聖霊の満たしを受けているのだ』とこの悪霊に向かって言ったのです。すると私は、自然にこの悪霊に対して笑い始めました。そして、自分が何をしているのか分からないうちに、異言を流暢に話すようになっていたのです!そして私は、残りの時間をずっと異言で祈っていたのです。」


この青年は確かに聖霊の満たしを受けました。彼がした事は、聖書の約束を信じ続け、悪霊に惑わされずに、信仰を保っただけでした。聖霊はその彼の信仰を後押ししたのでしょう。ですから、信仰がここでも鍵となるのです。そこまで神を信頼して、御言葉に留まり続けるなら、その信仰があなたを肉から霊の領域へと導き、その結果、あなたは御霊の助けを得る事になるのです。十分に聖霊に満たされていなくても、信仰によって自ら異言を話す事を決断したり、御言葉に留まって信仰を保ち続ける事で、聖霊もあなたの信仰を後押しして下さるのです。神と神の言葉に信頼を置いて下さい。そして、聖霊の助けを信頼して下さい。そうしないと、不信仰に陥って、「やっぱり、ちょっと何か口から出たといっても、聖霊の満たしを受けていないのだ」と考え始め、やがては全てを疑い始めるでしょう。悪霊は、そのような疑いに満ちた議論を使って信者を縛りつけ、本当は聖霊の満たしを受けているのにも関わらず、その恩恵を享受できないようにするのです。ただし、次の事も知っておいて下さい。聖霊に十分に満たされると、より自然に異言が出て来るのが通常です。しかし、あまり十分出ない場合でも、この男性のように御言葉に留まり続け、信仰を保つなら、聖霊は助けて下さいます。


ある人々は、自分で決断して異言を話そうとして、徐々に異言が話せるようになって行きます。もちろん、それを肉の努力としてやるのではなく、御霊が言葉を与えて下さるという信仰に基づいた行動としてやるべきです。ですから、もしあなたが異言で少ししか言葉を口にしなかったとしても、信仰を持ってその言葉を繰り返し言ったり、そのまま別の言葉で話そうと実践し続けて下さい。あなたのその信仰の一歩がある時に、御霊もあなたを助け、あなたに言葉を与えて下さるのです。


初めて聖霊の満たしを体験する人々の中で、異言を一言、二言どもるような感じで異言を語る人たちがいます。異言で流暢にすぐ話す人もいれば、そうでない場合もあります。そんな時でも、そのまま異言を話し続けて下さい。そうすれば、やがてあなたの心の奥底から、安定した流れがあなたの口から流れ出し、神の祝福が満ち溢れるようになる事でしょう。


外見的な行動に目を向けない


私たちは往々にして、霊的な事柄を肉的な基準で判断しようとし、その人が外見上どのように振る舞うかによって、その人が神から何を受けているか、あるいは受けていないかを決めてしまう事があります。例えば、聖霊の満たしを受ける為に、三人の人が前に出たとします。そのうちの一人が聖霊の満たしを受けると、異言を静かに話し出したとします。もう一人は、異言で話しながら、喜びで霊の歌を歌いました。三人目は異言を語り、喜びのあまり踊り出しまし、泣きながら集会にいた人全員とハグしました。翌日、誰かがその場にいた人々に「昨晩の礼拝では何があったのですか?」と尋ねたとします。そうすると殆どの人々は、「三人が聖霊の満たしを受けましたが、そのうちの二人は本当に聖霊の満たしを受けました」と言うのです。人が聖霊に十分に満たされると、確かに異言で話し出します。時には、感情を伴う事があるでしょう。しかし、誰がより深く聖霊に満たされているかについては、外側の行動だけでは分かりません。その後、その人が信仰によって大胆にあるき始め、様々な分野で神の力にあって歩み始めるなら、その人は深い霊の領域を体験したと言えるでしょう。基本的には、聖霊の満たしを受けたかどうかを周りの人たちが判断するには、その人が異言を話すかどうかによります。しかし、それ以上に重要なのは、その人の後の歩みです。一度だけ聖霊に満たされる事が大事なのではなく、そこを起点として、異言によって祈る生活が続くかどうかなのです。


満たし以上のもの


何年も前、私はある牧師夫妻の教会で集会を開いていました。この二人は、私の親しい友人でもありました。ある朝の礼拝の時に、一人の女性が「私の為に祈って欲しいのです。私は聖霊に満たされる必要がある事を知るようになったのです」と私と私の友人に尋ねました。そこで私の友人の牧師が、「今が絶好のタイミングですね。祈りましょう」と言いましたが、「いいえ、皆さんに祈って欲しいのですけれど、今は受け取る事ができません。もっと調べなければならない事があるので」と彼女は言いました。彼女は、聖霊を受ける準備ができるまでには、もっと祈り、準備する必要があるという意味でそのように言ったのでした。「あなたは救われているのですよね?」と彼が尋ねると、「はい」と彼女は答えました。「イエスの血を通して罪が赦されていますよね?新生した神の子ではありませんか?」彼女は、「はい。そうです」と答えました。「今もし、死んでしまっても、天の御国に行くのではないですか?」と彼が聞くと、「そうです」と彼女ははっきりと答えました。その牧師は、「天国に行くのにあなたはふさわしい者であるなら、御霊の御霊の満たしを受ける事にも、十分ふさわしいのです。それ以上、祈る必要はありません」と答えました。この女性はようやく理解し始めました。それから、私たちはこの女性の為に祈りました。すると彼女はすぐに御霊の満たしを受け、異言で話し始めたのでした。


クリスチャンはしばしば、この女性が考えるように、聖書が教えていないものを信じています。人々は、神が与えると約束されたものを受け取るのにふさわしい、立派な人になる為に、何かをしなければならないと考えるのです。或いは、異言について否定的になって、恵みによって受けられる祝福の中から、自ら外に出てしまうのです。神の子が信仰をもって聖霊に満たされたいと願う時、天の父はその願いを拒む事はありません。この事をしっかりと知っておかなければなりません。人が聖霊の満たしを受ける時、異言を話す事になります。ただ、聖霊に委ねて異言を話せば良いだけの事です。ですから、神を信頼し、これらについて書いてある御言葉を信頼して、リラックスして、異言を話し始めて下さい。私たちの天の父は、聖霊の満たしを求める者に、違うものをお与えになりません。ただ神を信頼し、聖霊に十分に満たされて下さい。そして、御霊が与える言葉を口にして下さい。自分自身や他の人々の意見ではなく、御言葉に信頼を置き、それを実践するだけです。そして、神が与えるこの異言でたくさん祈る事を通して、私たちは全く新しい霊の領域に入る事ができるのです!


8 より素晴らしい体験 へ続く

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