2023年4月1日土曜日

9 パウロの理解

今日の教会は、異言で話す事の価値について何も知りません。異言が聖霊のバプテスマの最初の証拠である事を知っている人はいますが、異言についての他の聖書的目的を理解していません。


ある有名なクリスチャンの指導者が、異言について否定的な手紙を別の聖霊に満たされた人に送った事があり、私はその手紙の抜粋を読む事を許されました。このクリスチャンの指導者は手紙の中で、パウロが異言を話す事について非常に曖昧な見方をして、コリント人に異言を話す事を思い留まらせ、禁じようとしたと述べていました。しかし、パウロはそうは言いませんでした。そのクリスチャンの指導者は、自分が言いたい事を述べる為に、文脈を無視して聖句の一部を取ったのです。この人は、パウロが言った事を用い、自分の主張を証明しようとしました。


1コリント 14:19「しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」


教会において、パウロは他の人たちを教える事を優先にしていたので、知性の言葉を語る事が良いとしたのです。しかし、パウロは誰よりも異言で語ったとも言っていました。


1コリント 14:18 「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」


パウロがコリントの人々よりも多くの異言を話したとしたら、彼は途方もない量の異言を話したに違いありません。1コリント14章の残りの部分を読むと、異言で話す事がコリント人がやりたかった事の全てであった事が分かります。コリントでは、礼拝の最中の間違ったタイミングで、間違った方法で異言を話していたので、パウロはその事に関して彼らの教会を正さなければなりませんでした。


1コリント 14:22-23「それで異言は、信じている者たちの為ではなく、信じていない者たちの為のしるしであり、預言は、信じていない者たちの為ではなく、信じている者たちの為のしるしです。ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来た時、あなたがたは気が変になっていると言われる事にならないでしょうか。」


パウロは23節で、初心の人か信じていない人が入って来た時、皆が同時に異言を話すのは教会全体にとって良くないとはっきり言いました。パウロがそう言わなければならなかったとしたら、それはコリントの信者たちが、実際に教会でやっていた事を意味するに違いありません。パウロはこれらのコリント人に、異言を話す事そのものについて間違っていると言っていませんでしたし、彼らに異言を話す事を禁じていたわけでもありません。

しかし、その超自然的な賜物に非常に興奮し、活気に満ちていたので、初心の人や未信者の事を忘れてしまい、一度に異言を話していたのです!パウロはこれらの信者たちに、教会の礼拝では聞く人たちを教え導いたり、または成長の為に全ての事を行うべきだと言っていたのです。その後、彼は公の集会で異言を話す事について、さらに指示を与えました。


1コリント 14:27-28「誰かが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。」


異言の賜物がある事を神に感謝します!神は異言を解き明かす賜物も用意されました。知性が実を結ぶ為には、異言は私たちの理解できる言葉で解き明かされなければなりません。異言は未信者へのしるしなので、彼らが教会にいる場合は、異言の解き明かしがないなら、黙っておく必要があり、そうでなければ、他人に聞こえないよう、自分に対し、また神に対して語るべきなのです。しかし、初心者や無知な人ではなく、信者だけが集う場においては、問題ありません。



目的と用途の違い


1コリント 14:19「しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」


パウロは、異言を話す人が非常に多かったにも関わらず、コリントの信者全員よりも多くの異言を話して下さった事を神に感謝しました。しかし、教会では、異言で一万語を話すよりも、自分の理解力で五つの言葉を話す方がましだとパウロは言いました。それは、人々が理解できる言葉で話す事によって、他の人に教える事ができるからです。つまり、異言の主な目的は、それを用いて教えたり説教したりする為ではないとパウロは言ったのです。異言は主に、信者自身の個人的な霊的な成長の為のものです。それは、神とコミュニケーションをとる為の個人的な方法です。


1コリント 14:4「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」


この箇所でパウロは、教会ではなく、主に私的な祈りの生活の中で異言を話したという事を意味しました。もしかすると、パウロは朝起きて異言を話していた事でしょう。彼は食事の合間に異言を話し、夜寝る前に異言を話していたに違いありません。パウロはそのようにして、異言で話す事を大切にしていた事でしょう。


人は自分が価値を感じていないもの、あまり重要でない事、又は反対している事に対して、神に感謝しません。ですから、異言は主に、私たちの父なる神と個人的に交わる為の賜物である事が分かります。もちろん、個人的な異言においても、解き明かしを伴う事もあります。


しかし、これら二つの霊的な賜物は、主に教会の利益の為に与えられています。この二つが一緒に使用される事は、預言の賜物と同等です。それについては後で話しますが、私たちが今理解しなければならないのは、あらゆる場合において、異言の言葉を与えるのが聖霊だという事です。しかし、それらは目的と用途が異なります。


さて、もし信者たちが教会で一緒に神を賛美しているなら、異言で一斉に神を賛美する事は全く問題ありません。しかし、説教者が御言葉を教えようとしている時に、全員が異言を大声で話すのは間違っています。又、説教者が解き明かしなしで異言で人々を教えるのに1時間費やすのも、正しくありません!その場合、説教者は自分を築く事になりますが、人々はそれから何も得られません。これが、この箇所でパウロが語っている事です。



異言の価値


神の言葉はとても単純明快です。ところが、一部の人々は、信者は異言を一切話してはならないとパウロが教会に教えていたと主張して、教義に作りあげてしまいました。パウロの願いは、全ての信者が異言で話す事でした(1コリント14:5)。彼はこの超自然的な賜物の価値を完全に理解していたので、他の誰よりも異言を話した事を神に感謝しました。パウロは個人的な経験から、日常生活に祝福と力の源があるのは、異言を話す事によってだと知っていました。


では、この主題についてパウロが知っていた事をさらに探ってみましょう。その過程で、異言で話す事の価値と目的について聖書が何と述べているかを知る事ができます。異言を話す必要性​​を知れば知るほど、私たちの証しはパウロの証しと一致するようになり、「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」と言って、信仰の宣言をするようになります。


10 神とのコミュニケーション へ続く

0 件のコメント:

コメントを投稿

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...