2023年3月3日金曜日

10 神とのコミュニケーション

異言は聖霊のバプテスマの最初のしるしとして、典型的なものである事については既に説明しました。では、定期的に異言で祈る事から得られるその他のメリットについて話しましょう。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


異言で話す時、私たちは人と話しているわけではない事に注意して下さい。私たちは神に話しかけています。つまり、神は、私たちが超自然的に神に話しかける事ができる、神聖な手段を私たちに与えて下さったという事です。残念な事に、殆どのクリスチャンは、この賜物を本来あるべき形で利用していません。「そういうコミュニケーションが必要なのですか?」と聞く人もいます。それは必要であるに違いありません。神が私たちに用意して下さったからです。パウロは続けて、「...霊において、奥義を語る」と言いました。ある聖書の訳では、「...神聖な秘密を話す」となっています。あなたが異言で祈る時、誰もそれを理解できないのはその為です。あなたは神の奥義を御父と話しているのです!奥義とは、隠されているという意味があるので、サタンもあなたを理解できないでしょう!それが、悪魔が異言と激しく争う主な理由だと私は思います。彼は秘密の会話に参加できないからです。あなたが御父と奥義を祈っている時、悪魔はあなたが何について祈っているかを知る事ができないので、できる限りの方法で戦って来るのです。神の奥義について、神と話す事に何か価値があるでしょうか?あるはずです!そうでなければ、神はご自身とのコミュニケーションの為に、この神聖で超自然的な手段を教会に与えなかったでしょう!



人ではなく神と話す


私の知人、ルーク氏はある教団の教会の人で、小さな町の農民でした。私はこの町の小さな教会を牧師にする為にやって来た事がありました。ルーク氏は、私が到着する数年前に、この辺りであったリバイバル集会を開いた説教者について話してくれました。説教者は、リバイバルの初めに、新生についてだけ説教したそうです。町中から、数百人の農民とその家族がこの説教を聞きにやって来て、多くの人々が救われました。その地域全体が、これらの集会で起こった事に興奮しました。リバイバルが数週間続いた後、説教者は聖霊のバプテスマについて、そして異言について説教し始めました。人々はそのメッセージを受け入れ始めました!ご想像の通り、この小さな町は大騒ぎになりました。集会で奇妙な言語を話す地元の人々に何が起こっているのかについて、人々は自分たちの理論を持っていました。例えば、テントの集会を照らす為に、柱に吊るされたガスランプと関係があると思った人もいました!その頃、田舎の野外集会には電気がなかった事がよくあったのです。ある人は言いました。「それらのガスランプは光の輪を放つ。説教者はランタンの光の中に何かを入れて、あなたに異言を話させているに違いない。」当時では、霊的な事柄について無知だったのが普通であったのを知る事ができます。


説教者が病人の為に祈る時に使用した油についての理論もありました。病人を油を塗って癒すという概念は、その人々にとって新しいものでした。その為彼らは、「説教者は、人々が奇妙な言語で話すようにさせる為に、その瓶から何かを人々に与えたに違いない。説教者に近づき過ぎるな。さもないと何かが来るから」と考えたのでした。人々はあらゆる種類のばかげた考えを持っていました。実際には、彼らは心配する必要はありませんでした。聖霊はその人が望まない場合、その人の上に臨む事はありません。御霊は完璧な紳士です。


その地域全体は、聖霊のバプテスマと異言で話すという事について、どちらか一方に分かれていました。誰もがそれについて話していて、多くの人が、何が起こるかを見る為だけにテント集会に行きました。好奇心旺盛な見物人は、ランタンの明かりから離れた影の中に立ちます。結局の所、彼らは、人々が奇妙に振る舞う原因が何であれ、彼らに臨む事を望んでいなかったのです!その後、近所の農夫が救われ、ルーク氏は私にこう言いました。「私はその男を知っていました。彼は正直であり、誠実な人でした。それで、別の農家の友人と私はお互いに言いました。『その隣人が異言の経験をした場合、私たちは彼をよく知っているので、それが本物である事が分かります。彼は偽物などには興味ありません。』」ルーク氏は続けて言いました。「当時の人々が知っていたのは、祭壇に来て、聖霊に満たされる事を求めるだけでした。それで、友人と私は物陰に立ち、あえて祭壇に近づき、この男に何が起こったのかを観察しました。ある夜、この近所の農夫は祭壇で一人で祈っていました。他の誰もが去り、私の友人と私は他の誰よりも彼に近くにいました。私たちは、彼が祭壇でひざまずいて祈っているのを注意深く見ていました。突然、彼は両手を上げ、天を見上げ、この奇妙な言語で話し始めました。誰も彼にランプの光を当てたり、油を塗ったりする事なく、それが起ったのです!一緒に物陰から見ていた友人がこちらを向いてこう尋ねました。『彼は何を言っているんだ?』私は答えました。『分からない。私に話しているのではない。』」ルーク氏は、その言葉がどれほど聖書的であるかを知りませんでした。つまり、ルーク氏は、第一コリント14:2に沿って話していたのです。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


この人は、ルーク氏や他の人と話していたのではなく、神の奥義を神に話していたのです。



理解を超える祈り


1コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


別の聖書訳によれば、「私の霊は(私の中の聖霊によって)祈る」とあります。祈っているのは聖霊ではない事に注意して下さい。神はあなたの霊の中で言葉を発する事によって、あなたの祈りを助けています。


パウロは、私たちの理解とは別に、神が私たちの霊が祈る事ができる手段を私たちに与えて下さったと語っています。私たちの知性は、御霊によって祈る事とは何の関係もありません。そのような祈りは必要でしょうか?神が超自然的な準備をされたので、必要に違いありません!ある人が私にこう尋ねました。「自分が何を言っているのか分からない祈りは何の役に立つんだ?」私は答えました。「私は自分自身に話しているのではなく、神に話しているのです!」もう一度言いますが、私たちが異言で祈るのを助けて下さるのは聖霊ですが、祈りをしているのは私たち自身でもあるのです。その事を覚えて第一コリント14:2を見ましょう。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


パウロが「御霊によって」という言葉を使う時、何を意味しているのでしょう?エペソ人に書いた手紙でパウロは、「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。」と言っています(エペソ6:18)。


1コリント 14:2の御霊による祈りが異言の祈りを指しているなら、エペソ 6:18 での御霊による祈りも、異言による祈りを指していると結論付ける十分な理由があります。


1コリント 14:14-15「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り(又は、霊と共に祈り)、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


15節の「霊と共に」という言葉に注目して下さい。人々が祈る祈りの殆どは知性で祈るものであり、聖霊とはあまり関係がありません。しかし、パウロはここで、霊と彼の知性で、両方の方法で祈ったと言いました。聖霊に満たされる前、私は御霊と共に祈る事と御霊による祈りについて、様々な聖句を見て来ました。私は自分の教団の様々な牧師に尋ねました。「御霊と共に祈る事と、御霊によって祈るとはどういう意味ですか?」何人かの牧師は言いました。「それは、もう少し『気合を入れて』 祈るという事だ。」


時々、私たちは教会の賛美歌を歌っていました。賛美リーダーが言います。「さあ、次の詩を霊と理解をもって歌いましょう」しかし、彼が意味したのは「次の節はもう少し元気に歌おう。もう少し『気合を入れて』歌おう」でした。しかし、1コリント14のこの一節が話しているのは、そのような事ではありません。もしあなたの霊が英語で祈っていたら、あなたの知性はあなたの言った事を理解するでしょう。しかし、パウロは、「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈ります」と言っています(14節)。パウロはこの事について、コリントの人々に、そして、エペソの信者にも書きました。両方の手紙で彼は、「御霊によって」という表現を使用しています。また、1コリント 14:15では、「御霊と共に」という表現も使用しています。


パウロがこれらの表現を使用している所を見ると、彼が異言で祈る事について言及している事が分かります。もちろん、預言の霊によって「御霊によって」祈る事もできます。預言の霊による祈りは、あなたが異言で祈る時に聖霊があなたを捕らえ、霊感によってあなたの知っている言語で祈り始める時に起こります。


時々、預言の霊によって、私の理解できる英語で一時間以上祈った事もあります。私は自分が何を言っているのか分かっていましたが、私の知性はそれとは何の関係もありませんでした。言葉が私の霊から出ていたからです。


この種の祈りの例は、詩篇で見る事ができます。ダビデ、モーセ、その他の詩編著者の祈りは、神の御霊によって与えられました。古い契約の下では、誰も異言を話しませんでした。既に言ったように、異言と異言の解釈は、新しい契約だけのものです。しかし、これらの人々は、御霊によって、又は、預言の霊によって祈りました。預言の霊によって祈る時、あなたは自分の舌を自分の霊に結びつけ、聖霊の霊感によって自分の言語で祈りますが、あなたの知性はそれとは何の関係もありません。あなたの祈りは、あなたが自分で考えているものではありません。代わりに、それらは完全に聖霊に霊感を与えられて、あなたの霊から出てきます。これは、自分の言っている事を理解していても、頭で祈ったり、自分の理解から祈ったりする事ではありません。むしろ、これは御霊によって祈る別の方法です。


エペソ 6:18「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。その為に、目を覚ましていて、全ての聖徒の為に、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」


私たちが異言で祈る時、私たちは自分自身を築き上げる(成長を促す)だけでなく、全ての聖徒の為に祈るという神の命令を果たす事ができます。当然の事ながら、私たちは全ての聖徒を知っているわけではないので、私たちの知性で全ての聖徒の為に祈る事はできません。しかし神は、私たちの理解とは別に、超自然的なコミュニケーションの手段を提供し、まさにそれを可能にしました。


ここで少し立ち止まって、神が私たちの為にして下さった驚くべき事について考えてみて下さい。神は私たちの霊が私たちの知性から離れて祈る事ができる方法を私たちに提供してくれました。


1コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが...」


異言を話すというこの賜物を通して、私たちの霊は今、霊的存在である神と直接コミュニケーションを取る事ができます。一度御霊に満たされると、初めてあなた自身の霊が神と直接話す事ができるのです。それ以前は、知性で神と話していたのですが、異言を話す事は霊と霊のコミュニケーション手段です。


イエスがサマリアの井戸で女に言われた事を覚えているでしょうか(ヨハネ4:4-26)。女はイエスに言いました。「私たちの先祖はこの山で神を礼拝しましたが、ユダヤ人たちはエルサレムで神を礼拝しなければならないと言っています。それについてどう思いますか?」イエスはそれらの見解のどちらも正しいとは言いませんでした。イエスは答えました。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)。サマリアの山で神を礼拝する必要はありませんし、エルサレムで神を礼拝する必要もありません。神は霊的な存在であり、私たちはどこでも神を礼拝する事ができます!しかしイエスは、神は霊である為、霊と真理をもって礼拝しなければならない時が来たと言われました。これは、異言で話す事の価値を示すもう一つの指標です。あなたが異言で祈る時、あなたの霊は、霊である神と直接接触しています。思い出して下さい。パウロは、あなたが異言で祈っている時、あなたの霊が祈っていると言いました(1コリント14:14)。あなたは神聖で超自然的な方法で神と直接話しているのです。


私は自分自身の経験から、知性だけで祈る事と霊で祈る事には大きな違いがある事を知っています。知性の祈りは、私が幼い頃から祈っていたやり方でした。8歳の時、私は祖父の納屋に行き、神と二人きりになり、一時間も祈ったものでした。主をどれほど愛しているか、主がどれほど素晴らしいかを英語で伝えようと懸命に努力した時の事を覚えています。でも、その祈りの場に二時間は留まっていたとしても、内心では満足してはいない気がしていました。どうすれば満足できるのかと思いました。私の霊は、自分自身を表現する機会が本当にありませんでした。しかし、聖霊に満たされ、異言で話した後、私の霊がついに神と通信できるようになったので、不満を持って祈りの場所を離れる事は決してないと気付き始めたのです!


実は、御霊に満たされる前、私がどれほど主を愛しているかを主に伝えようと祈ろうとした時、つまり、私の語彙の全ての言葉を使っていた時、私の唇と舌はある種の感覚を持っているように思った時がありました。ある日、もっと祈ろうと努力した時、舌が部分的に麻痺したように感じた事がありました。私は怖くなったので、起きて立ち去りました。それからは、舌が再びそのように感じるほど長く祈る事はありませんでした。何かを感じ始めるとすぐに祈るのをやめて起き上がり、その場を立ち去りました。しばらくすると、私の舌は再び正常な感覚に戻ったのでした。


祖父の納屋での祈りの時間に何が起こっているのかを理解したのは、御霊に満たされてからの事でした。聖霊はその時にも、私に言葉を与えようとしていましたが、私は知りませんでした。聖書にあるペンテコステの経験について誰も教えてくれませんでした。私の周りには、その祈りの時間に私に起こった事について話す人が誰もいなかったので、私は聖霊に委ねませんでした。私は起き上がってその場を飛び出したのでした。後で聖霊に満たされて異言で話した時、もし当時聖霊に委ねていたら、ずっと前に異言で話せたかもしれない事に気づきました。聖霊はいつも私の中にいて、私を満たして溢れさせようとしていたのです!私は自分に言い聞かせました。「理解さえしていれば、ずっとこうして祈っていたのに!私は異言を通してずっと自分自身を築き上げていた可能性があった。私は自分自身の成長を促す事ができていたかもしれない、超自然的に神と話していたかもしれなかったのです。」しかし、ありがたい事に、私はそれ以来ずっと異言で祈るようにしています。


知性を持って祈る事しかできなかった頃、私はあらゆる形容詞を使って主を賛美し、主がどれほど素晴らしいかを伝えようとしていました。しかし、どういうわけか、心の奥底で、不満を感じていたのです。私はその事について、時々次のように説明します。私は米国中の集会に行きました。その間、私は年間数千マイルを移動しました。旅行中、見知らぬ町にいると、どこで食事をすればいいのか分からない事が何度もありました。でも、昼過ぎに車を運転してお腹がすいたら、美味しそうなレストランに落ち着いて、そこで食事をしたものです。さて、誰でもそう思うでしょうが、私は美味しい食事の為にお金を払う事には問題がありませんでした。しかし、まずいものを食べた後で、苦労して稼いだお金をレジに置く事が嫌いでした。それは、何かだまされた気分でした。


この事は、祖父の納屋の祈りの場所を出るたびに起こった事と非常によく似ています。私の霊は、「だまされた!」と叫んでいたのです。しかし、その時私は、聖霊に委ねる方法をまだ知りませんでした。自分の霊が祈る事ができるとは知らなかったので、自分の知性を最大限に発揮して神に話しかけました。しかし、私が聖霊に満たされ、異言で話し始めて以来、私の霊が満たされずにその祈りの場を離れた事は一度もありません。何故かと言うと、私の霊が聖霊の霊感の下で言いたい事を言えるようになったからです。



両方の祈り


教会全体がいかに祈りに欠け、遅れを取っているかがすぐに分かります。多くのクリスチャンは、知性の祈りだけで何とかやってこようとして来たので、彼らが霊的な進歩を遂げていないのも不思議ではありません。神がご自分の子供たちに霊で祈り、そして、知性で祈る能力を与えてくれました。しかし彼らは、一つの祈りだけでやり遂げようとしているのです!一つの方法で祈る事は、片輪がパンクした状態で自転車に乗ろうとするようなものです。そうすれば、遠くまで行く事はできません。この例えで私が言いたいのは、知性の祈りだけでは、達成できないものがあるという事です。異言による祈りは、私たちを霊的に前進させ、より良い結果をもたらします。教会の大多数が、異言の祈りは使徒と共に死んだと決めつけたので、信者は知性の祈りでしか祈れず、霊的に前進して行く事ができなくなりました。その為、殆どのクリスチャンは知性による祈りだけで、霊的歩みを始めてしまったのです。その結果、それらのクリスチャンは何年も同じ場所に留まり、大きな進歩を遂げる事はありませんでした。彼らは前に進んでいると思っているかもしれませんが、神が望んでおられる目的地と比較すると、全く到達できていません!ですから、パウロは次のように言ったのです。


1コリント 14:15「それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう...」


私たちの人生で神のベストを実現するには、二つの祈りが必要です。多くの人々は、この問題について御言葉が何と言っているかを教えられていません。異言で話す事は、今日では信者の為のものではないと、未だに言う人もいます。しかし、当時の信者が霊で神に祈る必要があったとすれば、私たちもそうする必要があるのは当然の事です。私たちは知性で祈る必要がありますが、それだけでは上手く行かないのです。本来の祈り方が分からないという単純な理由からです。


ローマ 8:26「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。」


一方、霊で祈る事についても同じ事が言えます。異言で祈るだけではやっていけません。周りの人があなたの祈りに一致するには、彼らの理解できる言語で祈る必要があります。従って、両方の種類の祈りが必要です。しかし、あなたがまだ聖霊に満たされて異言で祈った事がなければ、ぜひ積極的にそれを信じて下さい。そして、神の超自然的な手段によって御父と意思疎通する方法を学んで下さい。


11 霊的成長の手段 へ続く

0 件のコメント:

コメントを投稿

1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...