2023年2月2日木曜日

14 誤解

御霊に満たされ、異言を話す信者でさえ、異言の価値、目的や用途などに関しては無知な人が多いものです。一部の信者は、異言について聖書が何と言っているかを知りません。その結果、彼らは、神がこの超自然的な賜物を通して与えようとしている恩恵を得ていません。この事について、聖書から見て行こうと思いますが、その前に、この異言の主題に関して、多くの信者が何年にも渡って真実として誤って受け入れてきた幾つかのものと、非聖書的で極端な考えについて見ていこうと思います。まず誤解について取り扱いたいと思います。


 誤解#1 「聖霊のバプテスマを受けて異言を話さないと、救われない」


教会の世界の全体では、聖霊のバプテスマを受けて異言で話さなければ、誰も本当に救われないと言う人がいます。これらの人々はまた、通常、人は特定の洗礼式によって洗礼を受けなければならないと強く信じています。しかし、聖霊を受けて異言で話すまでは、誰も救われないとするのなら、イエスは嘘をついた事になります。何故なら、イエスは救われていない人は、聖霊を受ける事ができないと宣言したからです!


ヨハネ 14:16-17「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


「世はこの方を見る事も知る事もない」と言っています。イエスは、この世、つまり、救われていない人々は、聖霊を受け入れる事ができないと言いました。どうしてでしょう?救われていない人は、イエスを受け入れた時に、新生において聖霊によって再創造されます。しかし、救われていない世の人々は、イエスを知らないので、聖霊を受ける事ができません。救われていない人が、まずイエスを受け入れずに、聖霊の満たしを求めて祈る場合、別の種類の霊を受けるかもしれないのです!何故なら、霊の領域には悪霊もいるからです。罪人に聖霊のバプテスマを求めるように促すとどうなるでしょう?罪人は、霊と違いを知りません。イエスをまず受け入れずにいると、彼らは間違った霊に委ねるかもしれません。


何年にも渡って、私は、これが実際に何人かの人々に起こるのを目撃してきました。彼らは最初にイエスを受け入れて新生しなかったので、悪霊を受けました。私はその悪霊を追い出さなければなりませんでした。その後、私は彼らを主に導きました。彼らは新たに生まれ変わり、聖霊に満たされました!例えば、ある集会で何人かの人々が聖霊に満たされる為に前に出てきたのですが、祈りの列に並んでいた、1人の女性に悪霊が宿っている事を私は霊で感じました。私は彼女に手を置きながら、「あなたはクリスチャンですか?」と尋ねました。 彼女は言いました。「そうです。私には聖霊さえあります。私が異言で話すのを聞きたいですか?」


私が何かを言う前に、彼女は何かをガタガタ言い始めましたが、それはただ意味不明なものでした。私は、それが異言ではない事が分かりました。ご存知のように、悪魔や悪霊について話すと怖がる人もいます。しかし、信者は恐れる必要はありません。聖書は、悪霊を見分ける方法を次のように教えています。


1ヨハネ 4:3「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です...」


私は彼女に言いました。「姉妹、このように祈って下さい。天の父よ、私はあなたが神である事を認めます。主イエス・キリストはあなたの御子です。」その女性は、「イエス・キリストはあなたの息子ではありません。また、肉体を持って来たのでもありません」と言いました。彼女は主イエス・キリストと言いませんでした。彼女は、イエス・キリストが神の御子であり、主であり、肉体を持って来られた事を告白できませんでした。この女性が正しい霊を受けていない事は明らかでした。彼女は、人は聖霊に満たされ、異言を話さなければ本当に救われないと言う人たちと付き合っていました。これらの人々は、まだ罪人であるこの女性を聖霊のバプテスマを求めるように導き、代わりに彼女は間違った霊を受けたのです!この女性は私に言いました。「私の内の何かが、あなたの言った事を私に言わせません。」私は言いました。「知っています。自由になりたいですか?」彼女は「はい」と答えました。それで私はその悪霊を彼女から追い出し、礼拝が終わる前に彼女は生まれ変わり、聖霊が彼女に言葉を与え、彼女は異言で話しました。もう一度言わせて下さい。罪人が聖霊に満たされようとするのは危険です。彼らはまず、キリスト・イエスにあって新しい創造にされる必要があります。そうして初めて、彼らは聖霊に満たされるのです。一方、あなたが主イエスを自分の救い主として知っていて、新生において神があなたの父になった時、あなたが聖霊の満たしを御父に求める事については、全く心配する必要はありません。神の子になったあなたが聖霊を求める時、あなたの内には聖霊が宿っている為に、悪霊は入れないのです。


確認の夢


私はある大きな教会で集会を開いており、日曜日の朝の礼拝の為に説教する準備をしていました。しかし、その日曜の朝、目覚める直前に夢を見てメッセージを変える事にしました。私は夢で、自分が説教壇に立っているのを見て、こう言っているのを聞きました。「聖霊に満たされ、異言で話さない限り、生まれ変わっていないと言う人もいます。しかし、それは正しくありません。」それから私は自分がヨハネ 14:16-17を引用するのを聞きました。「聖書は言っています。『この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません...』神が世に対して持っている賜物は、ヨハネ 3:16によると永遠の命です。しかし、神の子供たちにとっての神の賜物は、聖霊です(使徒 1:5)。」それから夢の中で、私はルカ 11:13を引用しました。


ルカ 11:13「ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それなら尚の事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。」


夢の中で見たのはそれだけです。それは私が説教しようとしていた事ではありませんでしたが、夢の中で言った事について話すのは悪くないだろうと思いました。それで、その朝、説教する時間になった時、私は会衆にこう言いました。「用意した説教があるのですが、昨夜見た夢の中で、自分が説教壇から言っているのを聞いた事をお話ししたいと思います。それは誰かの助けになるかもしれません。」それから私は夢の中で言った事を話しました。礼拝の後、私と妻はその牧師と食事に出かけました。彼は言いました。「ケニー兄弟、あなたが会衆に語った事、あなたの夢は神からのものでした。今朝、私たちの会衆の若い男性が、礼拝の前に私に話しかけに来ました。彼は立派な青年で、夫であり、3人の子供の父親でもあり、5年前にこの教会で救われ、聖霊に満たされ、それ以来、私たちの会衆の一員となっています。今朝、この人が私に言ったのです。『これが私の最後の日曜日になります。私は別の教会に行く予定ですが、公平を期してお知らせしたかったので、今朝、来ました。母は別の所の教会員で、聖霊に満たされて異言を話さない限り、誰も本当に救われない事を私に確信させました。』しかし、礼拝の後、この若者が私の所に来て言ったんです。『私の家族と私は行かない事にしました!ケニー兄弟の夢は、明らかに私の為のものであり、神が私に何を伝えようとしておられるかが分かりました。ケニー兄弟の夢の話を聞いた後、私はこう思い始めました。私は教会で救われ、数か月後に御霊に満たされました。聖霊のバプテスマを受けた時、既に救われている事を知り、その間ずっと聖霊の証を持っていました。私は母が良い人であり、救われていると知っています。しかし、心の中では正しくても、頭の中では間違っていると思います。』」あの若者は正しかったのです。この世に対する神の賜物、つまりイエス・キリストを受け入れる事による永遠の命の賜物と、神の子供たちへの神の賜物である聖霊には大きな違いがあります!


誤解#2: 「異言は全ての人のものではない」


他の人は、「私は異言を信じていますが、異言は皆の為のものではありません」と言い、1コリント 12:29-30を引用します。


1コリント 12:29-30「皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。全てが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。」


これらの人々は次のように結論付けています。「全ての人が使徒、預言者、教師、又は、力あるわざをする者ではないので、全ての人が異言を話しません。従って、異言は皆の為ではありません。」これらの聖句の文脈全体を読んで、パウロが実際に何について話しているのか見てみましょう。


1コリント 12:27-30「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えて下さいました。皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。全てが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。」

「パウロは、誰もが異言を話すわけではない」と言っているのではありません。「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。」と言ったように、教会というキリストの体においては、各信者はそれぞれが違う役割があるという事です。この箇所は、教会に与えられた奉仕の役割について話しているのです。1コリント 12:30では、様々な異言とその解き明かしを通してなされる、預言のミニストリーに召されている人々について言っています。


私が異言とその解き明かしを行っているのを初めて見たのは、デイビス夫妻でした。デイビス夫妻は、私の妻と私がこれまで知る事のできた、最も親愛なる友人であり、牧師仲間でした。彼らはこの異言とその解き明かしの分野で注目に値する働きをしました。例えば、妻と私がテキサス州南部の都市で会合を開いた時の事を覚えています。昔、私たちはその都市に住んでいたある家族と交わりましたが、夫は一度も教会の礼拝に来なかった事に気づきました。その男の妻は、ある日私たちと一緒に昼食に行くように頼みました。一緒にいる間、彼女は私たちにこう言いました。「彼はとても素晴らしい人なので批判するつもりはありません。しかし、教会で彼を怒らせるような事が起こり、行くのをやめんです。」人が教会を離れる時、その人は神との交わりから離れます。何故なら、他の信者と交わらない信者は、神の言葉に照らして歩んでいないからです(1ヨハネ 1:7)。この男性には祈りが必要でした。もちろん、私たちはその日、彼の妻と一緒に彼の為に祈りました。私たちはその集会を閉会し、100マイル離れた別の町で奉仕する為に出かけました。デイビス夫妻はこの集会に出席していました。今回は、その男性は妻と3台の車に乗った人たちと一緒に現れました。彼は地元の集会には来ませんでしたが、これらの他の集会に行く為に100マイルも車を走らせたのです。これらの集会の1つで、主は私に言われました。「その男性とその妻に奉仕しなさい。」それで私は彼らを前の方へ呼びました。突然、目の前にビジョンがありました。夫婦が歩いているのが見え、奥さんは下を向いていました。夫は「どうしたの?」と尋ねました。妻は答えました。「ケニー兄弟が預言的に私に言ったのは知っていますが、私が彼に話したので、彼は状況の一部を知っていたんです。」すると主は私に言われました。「あなたがこの夫婦に奉仕する事もできますが、デイビス夫妻が彼らに仕えた方がよいでしょう。そうすれば、デイビス夫妻が彼らについて何も知らない事を彼らは知っているので、悪魔は彼らを利用できなくなるからです。」


それで、礼拝のリーダーが会衆を率いて歌を歌っている間、私はデイビス夫妻に来てもらい、彼らに奉仕するように頼みました。デイビス姉妹はこの夫婦に異言を話し、デイビス兄弟は通訳をしました。私がデイビス夫妻に彼らに関する正確な状況を全て話したと思った事でしょう! デイビス兄弟と姉妹は、その日の昼食時に妻のオレサと私に言った事を、この夫妻に一言一句話しました。デイビス夫妻は、彼らの問題が何であり、どこでお互いにそれを見逃したのかを夫婦に話しました。それから彼らはその夫婦の状況に対する神の答えを与えました。私は何年にもわたって、そのようなデイビス夫妻の奉仕を何度も見てきました。公の集会で異言でメッセージを伝える時、その奉仕者は聖霊によって導かれ、促されます。私自身の集会で何度も、人々は奉仕を受ける為に前に出て来て、主は「デイビス夫妻に奉仕をさせなさい」と言われました。それからデイビス夫妻は、異言とその解き明かしで彼ら一人一人に奉仕したのです。彼らは人々について何も知りませんが、それぞれに何が悪いのかを正確に伝え、彼らに天からの正確な答えを与えます。ですから、公の集会で様々な異言とその解き明かしで奉仕する人たちはいます。


誰もがその役割を担う事は可能ですが、そのミニストリーでよく活躍する人たちが主にします。教会での役割と、各信者が聖霊に満たされて異言で話す事とは別です。それは、全ての信者にとって必要であり、皆が新しい言葉で話す事が可能であり、またそうすべきです。この種の異言は、教会で公に解き明かされる必要はありません。むしろ、神の前での個人的デボーションの中で使われるものです。


誤解#3: 「意のままに異言で祈る事はできない」


私がまだ若い伝道者であった時に、私は聖霊のバプテスマを受けました。その日以来、私は神の前で祈り、異言で歌いながら、主を崇拝し、交わりをする事を習慣にしました。誰もそうするように教えてくれませんでした。実際、人々は、聖霊のバプテスマで受けた祈りの言葉をどうするべきかについて、全く教えられていませんでした。ですから、日常的に異言で祈る事が正しいかどうか、私には分かりませんでした。しかし、聖霊派の人々が「意のままに異言を話す事はできません。あなたは聖霊の導きを待たなければなりません。その為に必死に頑張る必要があります」言うのを聞いた事があります。しかし、聖書のどこにもそれが見つかりませんでした。それに、それは私の経験ではありませんでした。私が異言で祈ったり、歌う為に神と二人きりになった時、私は全く頑張りませんでした。だから私は、いつも心の奥底にこの疑問を抱いていました。「いつでも異言で祈るのは正しい事だろうか?」私はこの問題で、数年間、悩みました。誰も聖書的な異言の使い方を教えておらず、私も異言について知らなかったので、悪魔は私を非難しました。悪魔は私の思考の中で「お前は他の人々と歩調を合わせていない!彼らは特定の時だけ異言で祈るが、お前はただ気ままに祈っている。お前は間違っている!」とささやきました。また、聖霊派の人々も私に、「私たちは意のままに異言で祈る事はできません。異言で祈れるのは、聖霊が私たちを特別に導かれる時に限られます。」と言いました。それで、私は自分が正しいかどうかを自問し続けました。それから数年間、私は祈りの生活に迷いました。私たちは人の意見を求め、そこから何かを見つけようとしますが、誰もが異なる意見を提供します。しかし、神の言葉から見つけるべきです!そしてついに、私は答えを見つけました。ある日、私は1コリント14章を開きました。私はパウロが「異言で祈る人は...」 と言っている箇所を読みました。パウロは、「聖霊が人を通して異言で語る...」とは言っていない事に気づきました。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


4節にも、「異言で語る人は...」とあります。ここでも、話すのは聖霊ではなく、人である事に気付きました。その節では、「異言で語る人は自らを成長させます...」とあります。それは私の注意を引きました。異言で話す人は自分自身を成長させます。次に私は、1コリント 14:14-15を読みました。


1コリント 14:14-15「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


誰が祈るのでしょう?聖霊が祈って下さるのではありません。聖霊は私を通して祈って下さるのでしょうか?いいえ!御霊は私が祈るのを手伝ってくれます。15節でパウロは言います。「私は霊で祈ります、そしてまた知性で祈ります。」それで私は自分自身に言いました。「パウロが『私は霊で祈ります、そしてまた知性で祈ります』と言ったのなら、祈りたい時はいつでも知性で祈れるのだろうか?きっとそうだ!」私は結論付けました。「私はいつでも『今から15分間祈ります。そして、知性で祈り始めます』と言う事ができるのだ。愛する父よ、私はイエスの御名によって御前に頭を下げます。私たちの主イエス・キリストの父、栄光の父である、あなたに声を上げます。あなたの偉大な贖いの計画に感謝します。このようにして、自分の意志で間ずっと神に祈り続ける事ができるのだ。 」それから、15節の冒頭をもう一度読みました。「私は霊で祈ります。」つまり、「私は自分の知性で祈る事ができるのと同じように、自分の霊で祈る事ができます」とパウロは言っているのです。その日まで、聖書でそれを見た事はありませんでしたが、いつでも御霊によって祈りたい時にそうできたのは正しかったと気づきました。それで私は言いました。「私は自分が何をしようとしているのか知っています。ここでひざまずいて、異言で1時間祈るつもりです。私はそうするつもりです。私は自分の霊で祈ります!」


さて、異言で祈る事について理解しなければならない事があります。悪魔はあなたと戦います。悪魔は、あなたがいつでも御霊によって異言で祈るこの領域にあなたが入るのを望んでいません。彼はあなたと戦うでしょう!悪魔の好む戦略の1つは、落胆させる考えをあなたの思考に浮かび上がらせ、軌道から外れさせようする事です。ひざまずいて1時間異言で祈り始めた瞬間、それが私に起こりました。否定的な考えが頭に浮かびました。そして、それが悪魔である事を私は知っていました。「誰かが入って来て、何をしているのか尋ねたらどうするんだ?『分からない!』と言うしかないぞ!」私は言いました。「いや、待て。」私は聖書を手に取り、1コリント 14 章を開きました。「誰かが入って来て、私が異言で祈っているのを聞いて、『何をしているの?』と尋ねたら、『私は父と話し、自分自身を築き上げているのです!』と言います!」すると、敵からの考えが再び来ました。「何を言っているのか分かるのか?」「いいえ、私は神の奥義を話しているのです!」「でも、祈り始める前と何か違う感じがあるのか?」「悪魔よ、私は感情では歩まない。私は聖書に書かれている事によって歩むのだ!それに、異言は霊的な築き上げであり、物理的な教えではないのだ。だから、もしお前が読めないなら、これらの聖句を読んでやろう。」それから、悪魔の全ての告発に答える様々な節を彼に読み上げました。それが終わった時、私は言いました。「悪魔よ、お前は引き下がるのだ。何故なら、私は異言で1時間祈るからだ!」それから私は目を閉じて、異言で祈り始めました。私の祈りには、御霊の導きはありませんでした。ただ霊で祈っただけです。しばらくして、1時間は祈っていたと思いました。とても長く感じました!それで目を開けて時計を見ると、たった10分しか祈っていなかったのです!それで私は、再び異言で祈りながら進み続けました。ゆっくりと時が流れ、しばらくすると、異言で1時間半も祈ったと思いました!私は自分の時計を見ました。20分しか経っていませんでした。私は懸命になりました。異言で祈るその時間は、私には決して乗り切れないように思えました。1時間がこんなに長く感じるとは思いませんでした!私はその間、とても苦労しました。立ち上がって椅子に座ると、外から声が思いに響きました。「お前は1時間を無駄にした! 説教の準備が出来たかもしれないのに。或いは、人々を訪ねる事ができたかもしれないのに。


しかし、その代わりに、お前は丸1時間を無駄にしたのだ。それがお前のやった事だ!」私は言いました。「悪魔よ。私は1時間も無駄にしてはいない。もう一度読んでやろう。」私は1コリント14章から引用して言いました。「私は父と奥義を話してたのだ。お前には奥義を知る術がないのだ!」悪魔は言いました。「でも、何を言っているのか分からないだろ!」私は言いました。「知性では分からないが、私の霊は神と奥義について話していたのだ!神は私が言っている事を全て理解しておられ、私は奥義を神に話す事で、自分自身を築いていたのだ。ただそれだけの為に、私はひざまずいて、また祈るつもりだ。邪魔をしたら、祈る時間を2倍にするぞ!」それで私は再びひざまずいて異言で祈り始めました。この時は少し楽で、次の2時間は乗り切りました。私は少しも聖霊の導きを感じませんでしたが、異言で祈る為に2時間費やしたのです。立ち上がって再び椅子に座った時、私は異言で3時間祈っていました。あれほど御霊によって祈った事はありませんでした。もう一度、外からの声が私の考えの中で言いました。「お前はさらに2時間、合計3時間を無駄にした。それは何の益をもたらしたのか?始める前よりも気分が良くなったか?」私は言いました。「私は感情や視覚で歩まない。私は信仰によって歩むのだ。」悪魔は言いました。「でも、自分の言った事を知っているのか?」私は言いました。「いいや。しかし、私の知性は自分に祈ってはいなかった。私の霊は神に奥義を話していたのだ。」悪魔はまた言いました。「自分が何を言ったのか分からないのに、異言で祈る事は、お前にとってどんなに良い事だったのか?」私は答えました。「私は自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げたのだ。」悪魔はまた言いました。「でも、お前はその時間を使って説教を仕上げる事ができた。時間は過ぎ去ってしまい、お前は何も達成していない。」私は言いました。「悪魔よ、私はお前に警告したはずだ。お前が私に何か言ったら、異言で祈る時間を2倍にすると言ったぞ。だから私はひざまずいて、さらに異言で祈るつもりだ!」それで私はひざまずいて、再び異言で熱心に祈りました。私がさらに1時間45分間祈っていた時、突然、溢れ出てくるようなものを感じました。私は霊の深みで、自分の霊と知性の両方で祈り始めたのです。聖霊が私にこれから起こる事を示して下さる中で、啓示が私の内から出てきました(ヨハネ 16:13)。


その瞬間まで、私は自分の最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げる為に、一切の聖霊の導きなく、ただ異言で祈っていました。しかし、溢れ出てくるものを感じた時、啓示は私から出てきたのです。それは、私が何かやったようには感じませんでした。しかし、自分の意志で異言で祈り始めていなかったら、あの溢れ出てくるものはなかったでしょう。自分の意志で異言で祈る事は、油井を掘るようなものです。石油業者が井戸を掘る努力をしなければ、その石油は全て地面に留まったままでしょう。石油業者が石油を掘削しない限り、誰もその証拠を見る事はありません。ですから、この4時間以上もの間、聖霊の導きなしに異言で祈った事は正しかったのです。私は何年にもわたって、ただ異言で祈りたいからという理由でそうしました。しかし、自分の意思で異言で祈る事と霊の深みの下で祈る事には、確かに違いはあります。霊の深みに入って祈る時、奇跡が起こり、啓示が与えられます!その日、その深い祈りの領域に入るのに私は5時間近くかかりました。しかし、私は毎日異言で祈り続けていたので、15分でその深みに入る事ができるようになりました。毎日、長い間異言で祈り始めると、より深い祈りの領域に素早く入る方法も学べます。


カリフォルニア州ノースリッジで集会を開いていた時の事でした。突然、講堂にいる全員に聖霊が祈りに導いたのです。私は御霊の強い促しの下、早口で異言で祈っていました!1時間以上も、そのように祈ったので、私は殆ど息ができませんでした。それから聖霊は私が祈っていた事の解釈を私に与えました。しかし、全てを知る必要はなかったので、私が祈っていた全ての解釈ではありませんでした。その解釈の中で、神は私の将来のミニストリーに何を含めるべきか教えて下さいました。その祈りの時間の後、私はミニストリーを完全に変え、すぐに別の方向に向け始めました。私はその日、主が私に命じられた事を一歩一歩実行しました。全てがうまく機能し、まるで舞台裏の誰かが導いているように見えました。そして神はそのようになさったのです!このように、聖霊が祈りを導く事もあります。ですから、あなたの個人的な祈りの時間に、毎日異言で祈り続けて下さい。しかし、それだけに留まらないで下さい。あなたが霊の深みで祈り始めるまで、その超自然的な言葉が力強い川のようにあなたから流れ出し始めるまで、祈り続けて下さい!


誤解#4: 「全ての異言は祈り」


時々、全ての異言は祈りの形であると誰かが言うのを聞くかもしれません。彼らは言います。「人が異言を話す時だけ、その人は本当に祈っているのです。そして、誰かが異言を解釈する時、彼は本当に預言しているのです。」しかし、全ての異言が祈りではなく、全ての異言が祈りとして与えられている訳ではありません。私は公の場で何度も異言を話した事がありました。私の言ったその言語を正確に理解した人々が、何度か私の所に来た事があったので、私はこの事を良く理解しています。私は一度ドイツ語で話しましたが、私はドイツ語は分からないのです。私はスペイン語とアラビア語でも話しました。私は自分が何か祈っているのか彼らに尋ねると、彼らは「いいえ、あなたは会衆に向けて話しているのです」と答えました。例えば、ある男性が礼拝の後に私の所に来て、「あなたが言った事を翻訳した時、あなたは何をするつもりだったのだろうと思いました」と言いました。 私は聞きました。「どうしてですか?」彼は、「あなたはアラビア語である事を言いました」と答えました。私はアラビア語で話していたとは思いもしませんでした!すると、この男性が「アラビア語は私の母国語です。あなたはアラビア語で、普通の人には決して聞かない発言をしました。それを翻訳して、どうするつもりなのだろうと思いました」と言いました。この男はクリスチャンではなく、御霊の賜物について何も理解していませんでした。彼は私がアラビア語を話す方法を知っていると思って、私が言った事を英語に翻訳していたのです。私は「私のアラビア語はどうでしたか?」と言いました。「素晴らしかったです」と彼は言いました。「それは良かった。神を褒め称えます!きちんと話せたのを良かったと思います。何故なら、私はアラビア語を知らないからです。」その男は呆然として、私を見て言いました。「アラビア語を話した事がないと言う事ですか?」私は言いました。「そうです。」その男は信じられないという目で私を見つめました。彼は「アラビア語が話せないのですか?」と言いました。それから彼は、アラビア語で私に何か言いました。私は同じ言葉を言った事に気づきましたが、彼が何を言っているのか私が分からなかった事を、彼は私の顔を見て分かったのです。するとその男は、「何を言っているのか分からないのに、どうやって完璧なアラビア語を話せるのですか?」と尋ねました。それで、私は自分の聖書で1コリント 12:14を開き、異言の賜物と解釈につ​​いて彼に説明しました。


その夜、この男が最初に教会に入った時、彼はイエス・キリストがメシアであるとは信じていませんでした。でも礼拝が終わって話を終える頃には、彼の中で何かが変わっていました。彼は私に言いました。「キリストはメシアかもしれない!」私は答えました。「神に感謝します。その通りです!」私がアラビア語で話していた時、聖霊はイエスがメシアである事についてこの男に話したのです!私は祈っていませんでした。神の働きによって、私はこの男への特定のメッセージをしていたのです。これは私のミニストリーで何度も起こりました。ですから、全ての異言が祈りという訳ではありません。全ての異言は本質的に同じですが、目的と使用法が異なる場合がある事を忘れないで下さい。これが、神がそれを「様々な種類の異言」と呼ぶ理由の1つです。


誤解#5: 「異言は、外国語を話す能力です」 


あなたが異言で公に話す時、誰かがあなたを理解するかもしれません。しかし、あなたが異言で奥義を神に話す時、誰もそれを理解する事はできません(1コリント 14:2)。恐らくですが、悪魔もあなたを理解できません!その為、悪魔は異言を非常に嫌い、異言と激しく戦います。何故なら、あなたが何の奥義を語っているのか分からないからです。あなたは父と神の奥義を話しているのに、サタンはその事について完全に外にいるのです!数年前、ある集会で、私たちは牧師の学生を晩餐会に招待しました。15の異なる大学からの学生と多くの教派の牧師が晩餐会に出席しました。懇親会では議論を行いました。私たち牧師の何人かがパネルに参加し、精神科医と医師も参加しました。聴衆が提示した異言に関する質問に答えました。私の親友の奉仕者は癒しに関する質問に答えました。また、他の牧師の何人かは、他のトピックに関する質問に答えました。異言に関する質問は、提出された全ての質問のほぼ70%を占めました。神学校の学生の何人かは伝道地への準備をしていて、次の質問をしました。「神が召された国の母国語を学ぶ為に、学校に通わなければならないのは何故ですか。神は異言の賜物を通して彼らの外国語を私たちに与えてくれませんでしたか?」これらの学生は、聖書の異言の使い方を誤解していました。彼らは、異言で話す事は、常に誰かの母国語で話していると誤って考えていました。しかし、異言によって外国語を習得するという事ではありません。確かに、聖霊が未知の異言を話してくれる事があります。つまり、それはあなたにとって未知の言語です。あなたが話す幾つかの異言は、他の人には知られているかもしれませんが、あなたには知られていません。人の異言、それは外国語を意味する事もあるのです。


1コリント 13:1「例え私が人の異言や御使いの異言で話しても...」


私たちは神の奥義を神に話す時、大抵、天の言葉で話します。しかし、外国の言葉で話す事もあるのです。ある超教派の牧師が、これに沿った経験について話してくれたのを覚えています。何年も前に、彼はメキシコのミッション・ステーションに食糧を持って行きました。1週間の滞在中、この牧師は毎日説教しました。彼が説教した後、人々は祭壇の周りに来て祈りました。その牧師は私に言いました。「祭壇の周りで祈りを捧げている時、私は今まで見た中で最も輝かしい光景の一つを目撃しました。歯がなかった年老いた女性が聖霊に満たされました。彼女の顔は暗闇の中でネオンサインのように輝き、英語で流暢に神を賛美し始めたのです!


最初、おばあさんが流暢な英語で話すのを聞いた時、私は彼女がその言語を話せると思いました。でもその後、彼女は人生で一度も学校に行った事がない事を知りました!彼女が神をあがめ、崇拝し、賛美するのを、私は知っていましたが、彼女には全く知らなかった言語で聞くのはとても興奮しました!」


何人かのアメリカ人宣教師が私に同様の証言をしてくれました。例えば、伝道地で人々に聖霊のバプテスマを施す際に、彼らにとっては知らない言語である英語で話すのを聞く事があるのです。例えば、1958年、私はスミス兄弟の為にニューヨークで集会を開いていました。スミス兄弟は当時70歳でした。彼と彼の妻は宣教師として1915年に中国に行きました。私はスミス兄弟の教会で頻繁に奉仕しました。私が異言でメッセージを話す時は、彼が常に通訳してくれました。彼の異言の解き明かしは、私が今までに見た中で最も美しいものでした。御霊の賜物は、使用する事によってより良い働きにさせる事ができます。人は神の前で待ち、聖霊に委ねる事を学ぶにつれて、自分のミニストリーを発展させる事ができます。御霊の賜物についても同様です。霊的な賜物の働きにおいて、神の霊にもっと従う事を学ぶ事ができます。スミス兄弟の教会でのその礼拝の間、私は異言でメッセージを伝えました。礼拝の後、隣の牧師館に行って食事をしました。私たちがそこに座っていると、スミス兄弟は妻にこう言いました。「ケニー兄弟が今夜中国語で話した時、何て言ったか分かりましたか?」スミス婦人は答えました。「はい。分かりました。」夫婦はそこに座って、中国語で数分間話し合いました。聞いていると、私が異言を話す時に使った多くの言葉に気づきました。スミス兄弟は、「私たちがそこに来てから何年も経ちましたが、私たちの聞いていた方言ではなく、近くの地域の方言であなたは話したのです。私はあなたの言った半分を理解しました。」私は中国語の方言を話しているとは知りませんでした。聖霊は、異言で超自然的な言葉を私に与えて下さったので、私は委ねているだけでした。人間の言語であれ、天使の言語であれ、あなたが異言で話す時、重要なのはあなたが霊感を受けた言葉を話しているという事です。


しるしとしての異言


人々は異言を話し、会衆の誰かが理解する事はあります。その人の母国語が話されるからです。或いは、時々、異言によるメッセージが、特定の人に特定の言語で向けられていますが、メッセージを伝えている人には知られていません。ただし、これらの場合、異言のメッセージはしるしとして与えられます。ペンテコステの日に聖霊がその屋上で120人に注がれた時の事を考えてみて下さい。その群衆の中にいた様々な人々は、彼ら自身の言語が話されているのを聞いたのです。しかし、何が起こっているのかを見ようと大勢の人々が集まった時でさえ、ペテロが立ち上がって説教するまで、誰も救われなかった事に注意して下さい!人々が異言を話すのを聞いて救われた人は一人もいませんでした。異言の賜物を含む御霊の賜物は人を救いません。それらの賜物の目的は救いはではありません。これらの超自然的な賜物の目的は、未信者の注意を引く為のしるしです!神が誰かの注意を引くと、その人は福音に対してよりオープンになるのです。


15 極端なもの へ続く

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1 異言に対する反論

「イエスは異言を話さなかったので、異言は必要ない」という異言に対する反論があります。確かに、 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。もちろん、それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。 これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されてい...