2023年2月1日水曜日

15 極端なもの

うめき


この種の異言は、聖霊の促しがなければできません。通常の異言の祈りは、私たちの意志で祈る事ができます。しかし、執り成しの祈りに伴う「うめき」は、聖霊があなたと一緒に祈るものです。自分の力で「うめきの異言」で祈る事はできません。聖霊の導きや助けがそこにないなら、その人のうめきは肉の現れに過ぎないのです。霊によって祈るという事です。あなたがうめきの異言で祈る事を決めたとしても、共に祈って下さる御霊の助けと力を意識しなければなりません。この種の異言の祈りは、産みの苦しみの時によく見られるものです。


ガラテヤ 4:19「私の子供たち。あなた方の内にキリストが形造られるまで、私は再びあなた方の為に産みの苦しみをしています。」


パウロがほのめかしていたのは、最初に人々を主に導いた時、彼らの為に産みの苦しみをして祈っていたのですが、それは、彼らが本来あるべき姿でキリストにあって成長していなかったからです。その結果、パウロは、彼らが霊的な歩みにおいて完全に成長するように、彼らの為にうめき祈り続けたという事です。この祈りは、出産時に子供を産む女性のようなものです。通常、赤ちゃんを産む事は、母親にとって幾らかの苦しみが伴います。聖霊が人々を導く時、失われた人の為にうめいて執り成しをする為の促しや力を祈る人に与える時、似たような事が霊において起こります。執り成しする者とは、他の人の代わりをする人です。その為、信者が未信者の為に祈り始めると、時には自分も未信者のように感じる事があります。


これに関して、私が経験したものを一つ紹介します。1954年、私はネバダ州にある教会で集会を開いていました。牧師館の居間で、朝8時頃、そこの牧師とその妻は、私と私たち夫婦と一緒に、今後の礼拝について祈ってくれました。私が膝まずいて祈っていた時、突然、執り成しの強い重荷を感じました。この時、私は聖霊のバプテスマを受けて8か月しかたっていなかったので、御霊に関する事の多くは、私にとって初めてでした。この重荷をどうしたらいいのか分からなかったのですが、私はうめき声を上げて異言で祈るという聖霊の強い働きに委ねました。私の内側で、私自身が失われ、罪人であるという感覚がしました。その数年前には私も未信者だったので、それがどのようなものかを知っていました。私は、「自分には希望がない!」と叫びました。もちろん、そうではない事は分かっていましたが、未信者の代わりをしていたのです。私は彼らが感じたのと同じように感じました、そして私は彼らの為にうめきの祈りをしていました。「希望がない!」と叫びながら、異言で祈り続けました。私は御霊に促されていたので、どのくらいそのように祈っていたのか分かりません。次の教会の礼拝で、私がまだ10分しか説教をしていなかった時、突然神の力が下りました。そこにいた全ての罪人が救われ、全ての堕落した信者は再び献身しました。それが、私がその日早く祈っていた事だったのです。私は、それらの救われていない人々の為に執り成しをしていました。


ここで理解しなければならない事があります。教会は失われた人々を勝ち取る為にあらゆる手段を用意しましたが、多くの場合、事前に産みの苦しみの祈りがなかった為に、人々は救いに至らないのです。もちろん、福音を聞いて信じるだけで人は生まれ変わる事はできます。しかしあまりにも多くの人が、「はい、私はイエスが神の子であると信じています。はい、私はイエスを受け入れます」と言うだけで、本当の生まれ変わりの経験をしません。彼らは頭の中で言っているだけで、キリストへの真の献身が、彼らの心の中で起こっていません。何年も後になって、「シオンは、産みの苦しみと同時に子たちを産む」というイザヤ 66:8で言及されている執り成しによって、より多くの人々が真の救いに至る事が分かりました。失われた魂の為に、御霊にあって執り成すよう聖霊があなたに働きかける時、あなたは未信者をよりスムーズに導けるのです。霊的な産みの苦しみなしに神の家族に生まれる子供はいません。この事に関して、私たちは聖霊の助けがとても必要なのです。



御霊の促しの下での聖書的な祈り


神の奥義を神に話ながら神と交わり、いつでも異言で祈ったり、歌ったりする事はできます(1コリント 14:2)。しかし、自分自身の徳を高める為に異言で祈る事と、祈りの中で聖霊があなたと一緒にいて、他の人の為に御霊によって執り成しをする事との違いはあります。あなたの内に住む聖霊について使徒ヨハネが何と言っているかに注目して下さい。


1ヨハネ 2:20「あなた方には聖なる方からの注ぎの油がある...」


1ヨハネ 2:27「しかし、あなた方のうちには、御子から受けた注ぎの油が留まっている...」 


ここでヨハネは、あなた方には聖霊からの油注ぎ(つまり、御霊の力や促し)があると言っています。それはあなたの内にあると言っています。バプテスマを受けて聖霊に満たされると、自分の霊から異言を話し始めます。赤ちゃんが母国語を話すようになるのと同じように、異言を話す練習をすればするほど、超自然的な言葉を流暢に話せるようになります。私は何度も夜中に目が覚め、神を賛美したり、異言を話したりします。その時、必ずしも御霊の促しがあったわけではありません。私はただ自分の霊から神に話しかけていました。しかし、聖霊の導きと助けの下で異言で話す時もあります。私がその祈りの領域に入ると、異言がスムーズに流れ出てきます。それは聖霊の促しと助けによって私の霊から湧き出て、私はただ言葉を発するだけです。


御霊の導きと助けによって、うめきながら異言で祈る事は、聖霊体験をした多くの信者に欠けている祈りです。多くの信者は異言を話しますが、御霊の超自然的な領域で、それ以上成長する事はありません。では、信者はどうすれば神の中でより高い位置に上がる事ができるのでしょうか?彼らは、聖霊の促しによって自然と流れる祈りの領域を乗り越える為に、異言で十分長く祈る必要があります。


御霊の導きと助けの下で異言で祈る事が、執り成しにどのように適用されるかについて話しましょう。あなたの祈りを必要としている人の為に、あなたは異言で祈る決心をして始める事ができます。しかし、あなたはその人の状況に関する全ての詳細を知らないので、その人の為に何を祈るべきか分からない事があります。私は、私の内に住んでおられる聖霊によく言います。「この状況で何を祈ればいいのか分かりません、聖霊様。私は異言で祈り始め、あなたが私に執り成しの言葉を与えて下さる事を信頼します。」これは、あなたが聖霊に向かって嘆願する事ではありません。あなたはイエスの御名によって御父に祈ります。しかし、あなたは聖霊と話す事ができます。聖霊は神聖な人格を持つお方であり、あなたの中に住んでいる助け主だからです。私は聖霊の助けを得て、異言で祈り始めます。そして時々、それは苦労して祈るようなものです。聖霊の強い促しによって、誰かの為に、或いは、何かの為に祈る時、あなたは重荷を感じるでしょう。しかし、御霊の導きと共に祈り続けていくと、異言がスムーズに出てきます。もちろん、御霊の事を理解していない人々の周りにいるなら、そこを出て、その重荷に対して祈る為に一人でいられる場所を見つけるべきです。


私にも、重荷を感じて祈らなければいけない事を感じる時がありました。膝まずいた瞬間、私は御霊の中にいました。強い聖霊の促しで祈っていると、異言が流れ出てきました。私が祈り始めたのですが、その祈りの間は、まるで、私自身が祈っているのではないかのようでした。もちろん、聖霊はあなたの許可なしにあなたに臨み、あなたの中を流れる事はありません。しかし、神に服従する時、あなたは神の強い導きを感じるようになります。そのより強い促しで神の完全な御心を祈る事は、私が御霊に委ねて協力するかどうかの問題でした。御霊に委ねて共に行動する時、あなたはより深い祈りの領域に入り、力に溢れて異言があなたから繰り出され始めます。その強い御霊の促しが私に臨む時、私は異言でできるだけ強く、速く祈ります。重荷が取り除かれ、勝利の気配を感じるまで、私はそのように祈り続けます。


このように聖霊に委ねた結果、人々が新しく生まれ変わり、超自然的に癒されるのを私は見てきました。私は何年にもわたって、数え切れないほどの必要が奇跡的に満たされるのを目の当たりにしてきました。実際、このように霊の領域に入ると、あなたの霊はどこか別の場所で誰かに仕えているように見えたり、神があなたに見て欲しいと望んでいる特定の状況を見るでしょう。御霊の力による物理的な移動も聖書的な経験です。ピリポは御霊に捕らえられ、体が別の場所にいる事に気づきました(使徒 8:39-40)。この自然の領域には時間と距離がありますが、あなたが異言で祈り、霊の領域に入ると、時間と距離は関係なくなります。それは、神が祈りにおいてあなたを通してできる可能性は、無限である事を意味するのです。


無知な人の前での異言


1コリント 14:16-17「そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っている事が分からないのですから。あなたが感謝するのは結構ですが、その事で他の人が育てられるわけではありません。」


パウロが「初心者の席に着いている人」について話した時、彼は霊的な事を学んでいない人たちの事を指していました。残念ながら、これは、キリストの体における多くの信者に当てはまります。場合によっては、霊的に訓練されていない人々の前で異言で祈るという分野で、人々が行き過ぎたり、過ちを犯したりする為に、キリストの御業に多大な損害を与える事があります。言い換えれば、一部の信者は、異言で話す時に無知な人の前にいるという事実を考慮に入れていません。信者が無知な人の前で、特に気を散らすような方法で異言を話すと、状況はさらに悪化します。1コリント 14:15では、霊と知性の両方で祈らなければならないと言っています。一方で、いつ異言で祈るべきか、いつ知性で祈るべきかを知る必要があります。私たちは他の人の前にいる時、その人の成長になる事をするのです。私はいつもその神の教えに従うよう努めてきました。例えば、何年も前にフロリダで集会を開いた時です。私たちの何人かは、食事の為に地元の人々に招待されました。その夜の夕食に来た人は皆、霊的な事柄についてよく理解していた人たちでした。それで、彼らが私に祈るように頼んだ時、私は英語で始めましたが、いつの間にか、異言で祈り、皆がそれに参加しました。その夜、私たちは一緒に祈って素晴らしい霊的な時間を過ごしました。しかし、無知な人がいた場合、私はそれをしなかったでしょう。私は英語でしか祈らなかったでしょう。聖書が、「その全ての事を、成長に役立てる為にしなさい。」と言っている通りです(1コリント 14:26)。私たちは御霊の霊感によって異言を話しますが、祈るか祈らないかは私たちが選択できるのです。しかし、人が成長しないのなら、異言を話す事は混乱を招くのです。


別のある時、私はインディアナ州で集会を開き、フィッリップ夫婦の家に泊まった事がありました。夜の礼拝の後のある晩、私たちは彼らと食事をしようとした時の事でした。突然、重荷のような、祈りたいという非常に強い衝動が私を襲った時、私はフィリップ夫妻に言いました。「フィリップ兄弟、今祈らなければいけません。」彼は、そこに集まっていた皆に言って私の祈りに参加してくれました。それで、私たちは皆、膝まずいて異言で祈り始めました。理解して欲しいのですが、その場に無知な人がいたとしたら、私は彼らの前で異言で祈る事はしなかったでしょう。私は自分でプライベートな場所を見つけて祈った事でしょう。彼らは全員、異言についてよく理解していた人たちでした。私たちはこれらの事をよく理解して、人々のつまずきにならないようにする必要があります。


膝が床に着いた瞬間、私は御霊の中にいて、異言で祈っていました。私は約1時間、激しく速く祈りました。それは、まるで私が祈っているのではないかのようでした。異言が川のように私から流れ出ました。祈りの仕方から、誰か未信者の為に御霊によって苦労している事を知りました。私たちの祈りの終わりに、重荷が取り除かれた感じがしました。私は喜びで笑ったり異言で歌ったりしました。それから私はビジョンを見ました。この時は木曜日の夜のことで、ビジョンの中で、来る日曜の夜の礼拝を見ました。私は説教をしている自分を見て、自分の説教を聞きました。私は説教を終え、信仰告白の為に人々を講壇の方へ招きました。それから私は、3番目の席にいた年配の女性を指しているのを見ました。「主は、あなたが70歳を過ぎていて、地獄があるとは信じていなかった両親に育てられた事を私に示して下さいました。しかし主は、あなたの片足が地獄にある事をあなたに告げるように言われました。」それから私は彼女が来て、前に来て膝まずくのを見たのです。


日曜日の夜、私が教会に入ってすぐに、私は周りを見回しました。すると、そこに確かに、私がビジョンで見たあの女性が3番目の席にいたのでした。私は説教を終え、ビジョンで見た通りの事をその女性に言いました。彼女は前の方に来ました。礼拝後に、その女性が牧師と話しているのを見ました。彼女は、私に挨拶をしてから、牧師に言いました。「この説教者の言った通り、私の両親は普遍主義者で、地獄などないと教えました。」この女性は、友達に連れられてこの集会に参加していたのでした。その夜、会衆の誰も、この人の為に祈る事を知りませんでしたし、誰も彼女が未信者であった事も知りませんでした。私もどのように彼女の為に祈っていいかわかりませんでしたが、聖霊は知っていたのです。するとその女性は、「あなたが言ったように、私は片足が地獄にありました。その意味をしっていました。私は脳梗塞で倒れた事があったのです。」すると、その女性は頬をうれし涙を流しながら、「ああ、今夜来てよかったです。本当によかった。」


聖霊は私たちが誰の為に祈るべきかを知っています。主は、この女性を悔い改めに導いて救われる為に、うめきの祈りが必要である事をご存じでした。しかし、異言に無知な人々がそこにいたとしたら、私はそのように異言で祈らなかったでしょう。理由の一つは、混乱を引き起こし、損害を与えていたかもしれないからです。恐らく、まさに神との歩みにおいて霊的に成長する為に必要な、聖霊の満たしを求める事から彼らを遠ざけた可能性があったでしょう。


1コリント 14:16「...あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っている事が分からないのですから。」


この聖句に注意を払わなかった別の女性の例を挙げましょう。その結果、この女性は、何が起こっているのか理解できず、人々に損害を与える過剰行為に陥りました。御霊に関してよく知っている牧師夫妻が、別の牧師に招かれ、結婚式に参加していた時の事です。3人全員が式典で役割を果たしました。結婚式に出席した人々の殆どは他の教団の人々でした。まず、新郎の親戚である牧師が式典の一部を朗読し、続いてゲストの牧師が朗読しました。それから、自身も牧師である、このゲストの牧師の妻がある部分を読む事になっていました。しかしその代わりに、信者と未信者の人々の前で、結婚式の真っ最中に、突然床に倒れ、赤ん坊を産もうとするように、うめき声を上げたのです。彼女は恐らく誰かの為に祈っていたのでしょう。私がフィリップ夫妻といた時の話では、そのようなうめきの祈りが何であるかをよく知っている人たちと共におり、それは個人の家で起きた事でした。しかし、この女性は公共の場で、しかも多くの無知な人々がいる結婚式の最中にうめき声を上げたのです。彼女は完全に肉によって行っていました。この夫婦を式典に招待した牧師は、後に私に言いました。「とても恥ずかしい思いをしました。どうすればいいのか分からなかったので、ただそこに立っていました。」私なら、その女性の注意を引いて、「立ち上がって、大人らしく振る舞いなさい。あなたがしている事は聖書的ではありません。あなたは肉によってしているのです。」人々は結婚式を去り始めました。彼らは霊的な事を「学んでいない」ので怖がっていました。人々が結婚式を去る時、彼らはこう言いました。「やっぱり、異言を話す無知な連中は頭がおかしい!」その女性のように愚かな行動をとった人々によって、キリストの体に多くの損害が与えられました。


多くの人が、神が望んでおられる祝福を奪われてきたのです。この女性のように、霊的な事柄について学びを受けていない人々の前で誰かが愚かな行動をとった場合、霊的な指導者の誰かが立ち上がって正しい事を主張しなければなりません。彼女がした事は会衆を成長させなかったので、正しくありませんでした。繰り返しますが、聖書ははっきりと述べています。「全ての事を、成長に役立てる為にしなさい」(1コリント 14:26)。それは、異言で祈っている人だけでなく、出席している全ての人の成長を意味します!さらに、聖書は次のようにも述べています。「全ての事を適切に、秩序正しく行いなさい」(1コリント 14:40)。


理解できない人々と一緒にいる時に、異言で祈る重荷が与えられたら、立ち上がって退席するのです!他人の邪魔にならないように、一人で祈りに行きましょう。聖霊は誰かに祈るよう促したりするかもしれませんが、それは、秩序ある適切な方法で他の人を成長させようとする、私たちの聖書的責任を取り除くものではありません(1コリント 14:23)。御霊について知っている人々だけの祈祷会では、全員が御霊によって大声で祈っても問題ありません。ただし、公共の場が何であれ、秩序を乱さないようにしましょう。自分自身に注意を引くような方法で祈ってはいけません。この原則に対して、重大な違反をした女性の事を耳にした事があります。牧師が集会で説教をしていて、その最中に彼女は起き上がって預言を始めました。彼女は、「主はあなたの為に祈るように言われました」と宣言し、牧師に手を置いて異言で祈り始めたのです。それは秩序正しく行われていませんでした!人々は立ち上がって去りました。当然、彼らは気分を害しました。霊的な事を学んでいない人々は、何が起こっているのか理解できませんでした。聖霊派の人々でも、時々知らないようです。


次の集会では、大勢が欠席していました。もしこの女性の重荷が本当に主からのものであるなら、彼女は何をすべきだったでしょう?説教を中断する事は秩序正しくはありませんでした。彼女が壇上に上がり、牧師の為に祈った時、彼女は確かに自分自身に注目を集めました。彼女は公の集会を離れて、重荷が取り除かれるまで自分で異言で祈る場所を見つけるべきでした。しかし、この女性は注目を浴びたかったのです!彼女は肉的に行動し、キリストがなされた事に対して、そして出席者全員に損害を与えました。異言の誤用は本当に誰も成長させません。しかし、人々がいつも愛の内に歩むように努めていれば、問題は解決するのです。愛はいつも他人を優先します(1コリント 13:4-8)。従って、この異言の領域で極端な立場を避ける為に、それぞれの状況で考えるべきでしょう。自分だけでなく、他の人々の成長を促すかどうかの事です。


私たちは、信者が異言を話す事に関して陥りやすい、極端なものを議論しました。これらの行き過ぎについて、聖書から見てきました。これらの例で示した信者は、異言の聖書的範囲を超えていた為、誤りに陥りました。では、異言を話す事の聖書的な範囲について話しましょう。殆どの場合、聖霊派の信者は、この祈りの領域で経験できる表面に触れただけです。しかし、神はご自分の民をより高く引き上げようとしておられます!今は終わりの時です。神の完全な御心に従って祈るべき事はたくさんあります!


16 異言の役割 へ続く

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