2023年3月1日水曜日

12 神の御心に沿って祈る

異言で祈るとは、神の完全な御心に沿って祈る事です。聖霊は神の御心が何であるかを知っているだけでなく、私たちを御言葉に導きます。パウロは、私たちが神の完全な御心に沿って祈るのを助ける為に、私たちの生活における聖霊のこの役割について語っています。


ローマ 8:26-27「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


26節の「弱い私たちを助ける」という言葉に注目して下さい。多くの人は、この「弱さ」という言葉の意味を、いつも肉体的な患いや病気を意味していると誤解しています。しかし、この場合の「弱さ」は、「私たちが、何をどう祈ったらよいか分からない」という弱さを意味します。私たちの祈りの「弱点」は、何について祈るべきかを常に知っているとは限らない事です!信仰によって、悪霊に命じて追い出したり、問題に命じたりして山を動かす事は、私たちの基本の祈りとして知っているべきです。しかし、どうやって祈っていいか分からない時、知っている限りの祈りを終えたら、聖霊の助けを借りて祈るというオプションを思い出すべきです。


私たちが祈っている人々が本当に必要なものは、何かを別な事であるかもしれません。あなたは、自分の為に祈る事さえ、その全てを知りません。もちろん、お腹がすいたら、何か食べられるように祈る事は知っています。


家賃の支払いが遅れている場合は、財政の為に祈る事を知っています。しかし、あなたは未来を知りません。又、問題の原因が思いもよらない所にある場合もあります。そして、神があなたに示さない限り、あなたは霊の領域を見る事ができず、あなたに立ち向かおうとしている悪霊に対して効果的に祈る事もできません。


エペソ 6:12 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。」


 私たちに対して舞台裏で働こうとしている邪悪な勢力がいます。ですから、特に悪霊の策略に対して効果的である為には、異言の祈りで対処しなければなりません。


私自身の体験から例を挙げましょう。ある時、私はフロリダで集会を開いていました。妻と私は、その頃の経済情勢の為に非常に心配していました。集会を開いて祈っていた人々の教会で、私はひざまずいて祈っていた事を覚えています。「主よ、経済の情勢が悪化していて心配です。神の霊よ、どう祈ったらいいのか分からないので助けて下さい。」それから私はそれを異言で祈り始めました。間もなく神の御霊が私の心に語りかけ、「気にしないで良いのです。すぐに情勢が良い方向に向かいます。全てが上手く行くでしょう。」そして、全てが上手く行ったのでした。神を賛美します!私たちは、「聖霊様、私はこの状況に関してどう祈るべきか分かりませんが、あなたはご存じです。ですから、私が祈るのを助けて下さい」と言う事ができます。そして、御霊はまさにそれを忠実にして下さいます!


聖霊は私たちを助ける


ローマ 8:26-27「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


私がミニストリーを初めて間もない頃、ジョンソン氏という、ギリシャ語に詳しい年配の方がいました。私は彼の説教を何度も聞いて学びました。彼はこの聖句について、次のようにコメントしていました。「ギリシャ語は文字通り、聖霊は明確な言葉では発する事のできないうめき声で、私たちの為に執り成しをして下さいます。明確な言葉とは、私たちの通常の言葉を指します。」ジョンソン氏は、これらの「うめき声」には、異言で祈る事も含まれていると指摘しました。パウロは祈りの中で「明瞭には言い表せない言葉やうめき声」について語っています。ジョンソン氏は、うめき声は、聖霊があなたから離れて行うものではない事を強調しました。むしろ、聖霊はあなたのうめきの祈りを助けます。ある聖書では、1コリント 14:14を次のように訳しています。「私が異言で祈れば、私の霊は、私の中におられる聖霊によって祈ります...」


繰り返しますが、あなたが異言で祈る時、それはあなたの内なる聖霊によって、あなたの霊が祈っているのです。内なる聖霊があなたに言葉を与え、あなたはそれをあなたの霊から発しているのです。御霊は言葉を与え、あなたは異言で祈ります。この方法によって、聖霊はあなたが神の完全な御心に従って祈るのを助けます。


ローマ 8:27 「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


うめきながら御霊による祈りも、聖霊があなたから離れて行う事はありません。それらのうめき声は、あなたの奥深くから来る聖霊によって促されます。しかし、あなたが口を開いて祈る時、あなたはそれらがあなたの唇から出るのを許しているのです。何年も前、私たちが開催していたセミナーで、私が礼拝の終わりに壇を降りた時、一人の女性が話しかけてきました。彼女は、最近聖霊に満たされた教団の信徒でした。彼女は言いました。「ケニー兄弟、ローマ 8:26-27に、聖霊が私の為に祈って下さると書かれている事を知って以来、私はもうあまり祈る事はありません。聖霊が私の為に祈っているなら、きちんと仕事を成し遂げる方法を知っているので、私が祈る必要はありません。」この女性のように、ローマ8章の1つの聖句を基に、教義を作り上げ、パウロが意味していない事を主張する人もいます。しかし、聖書は常に私たちに祈るよう勧めているので、この発言が非聖書的である事はすぐに分かります。そして、ローマ 8:26は、聖霊が私たちの為に祈って下さるとは言っていません。神の完全な御心に従って、うめきを通して私たちの祈りを助けて下さるのです。


ローマ 8:26 「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。」


パウロは、聖霊が私たちが祈るのを助けて下さると言い、その一つの方法を示しました。


それは、うめきを通してです! 神の御霊はあなたに祈るように促しますが、あなたはそれに応えなければなりません。御霊はあなたを強制的に祈らせません。御霊が祈りの責任を負うのではなく、あなたに祈る責任があるのです。聖霊は、あなたのとりなし手、祈りの助け手として、あなたのうめきを通して、とりなしして下さるのです。この御霊の働きにあなが協力して、この種の御霊による祈りをするかどうかは、あなた次第なのです!


祈りの重荷


聖霊が私たちの祈りの助け主である事について、次の点を説明しましょう。その事は、聖霊に満たされてペンテコステ派のグループにやって来た、ある教団の牧師によって語られました。私と彼は二人とも、幾つかの異なる聖会でゲストでした。ある日、この牧師は私に言いました。「ケニー兄弟、あなたが異言を教えている時に、私が以前に理解していなかったものが分かりました。妻と私はまだこの御霊に満ちた人生を歩んだばかりですが、私たち二人が聖霊に満たされて異言で話した直後、私たちの教会に来る、3人の幼い子供の若い母親が心臓手術が必要になりました。」そのような重大な手術は、今日ほど成功してはいませんでした。この手術の過程において、何らかの形で、この若い女性の心臓は停止しました。医師たちはやっと彼女の心臓を再び動かしたのですが、女性は意識不明のままでした。その牧師は私に話しました。「医師は、この女性の脳は酸素を十分に得ていなかったと私たちに告げました。意識が戻ったとしても、ただの植物人間で何も分からないだろう。彼女を死なせた方がいいだろうと彼らは言いました。」


その夜、牧師はうめき声を聞いて目覚めました。彼がベッドの反対側に手を伸ばすと、妻がそこにいない事に気づきました。居間から聞こえるのは、彼女のうめき声だとやっと分かりました。最初、牧師は妻が病気だと思いました。彼はベッドから起き上がり、居間に向かいました。彼は尋ねました。「大丈夫?病気なの?」彼女は言いました。「いいえ。あの若い母親と彼女の3人の子供たちの為に祈るのがとても重く、重荷になっています。彼女は死ぬにはまだ若過ぎます!その子供たちは母親を必要としています。」牧師は続けて話しました。「妻ができる事は、うめき声​​を上げて異言で祈る事だけでした。私には分かりませんでした。そのように誰かが祈るのを見た事がありませんでした。私は聖霊に満たされ、異言を話しましたが、妻がその夜の祈りの中で体験した事は違っていました。御霊に満たされた時、私は喜びを感じました。しかし、この夜、妻は祈るという強い重荷を霊に感じていたので、祈りの中で深くうめき声を上げていました。だから、私は何が起こっているのか分からないので、彼女を放っておく事にしました。ケニー兄弟、今日の集会であなたが教えてくれるまで、その夜、妻に何が起こったのか本当に理解できませんでした。しかし妻は、そのように1時間半ほど祈り続け、ようやく彼女は立ち上がって床につきました。彼女は私に言いました。『負担がなくなりました。解放されました。』


翌朝、私たちがお見舞いに行くと、その若い女性はベッドで起き上がって微笑み、完全に治っていました!数年経ちましたが、その女性はまだ元気で、家族と一緒に教会に通っています。」聖霊は、この牧師の妻がその夜、効果的に祈るのを助けました。彼女はその女性の為に、どうやって祈ったら良いかを知りませんでした。しかし、聖霊が助けに来て、彼女が神の御心に沿った祈りをやり遂げるのを助けてくれたのです!うめき声による御霊の祈りの中で、彼女は神の完全な御心に沿って祈ったのです。聖霊は私たちのとりなし手です。御霊は私たちの生活のあらゆる面で私たちを助けて下さいますが、特に、祈りにおいて私たちを助けて下さいます。


私たちの助け主


イエスはあなたを助ける為に聖霊を送って下さると約束されました。「助け主」とは、あなたをサポートしてくれるお方です!


ヨハネ 14:16 「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。」


私たちの生活における聖霊の役割を定義するギリシャ語の「パラクレート」は、七つの意味を示します。すなわち、聖霊が私たちの「慰め主、カウンセラー、助け主、仲介者、擁護者、力を与えるお方、そばにいるお方」として送られた事を意味するのです。聖霊はそれらの全てであり、私たちの中に住んでおられます!聖霊は、祈りの分野で私たちの「パラクレート」、助け主として送られました。それは、私たちが異言で祈る時、勝利に至るまで助けて下さるという事です。御霊は私たちの仕事をサポートをしてくれますが、私たちの為に仕事をして下さいません。聖書のどこにも、聖霊があなたから離れて、何かをして下さるとは書いていないのです。あなたの人生の全てにおいて、聖霊はあなたがそれをするのを助けて下さいます。聖霊が路上で誰かに会い、その人を救った事はありません。人が救われるのは、常に聖霊によって働いた人たちです。私たちとは関係なしに、聖霊が人を救って下さるなら、宣教師を伝道地に派遣する必要はありません。私たちはただ聖霊にお願いして、救われていない人々に福音を伝えてもらい、彼らを救ってもらうように働きかける事はできないのです。しかし、イエスは神の民に、全世界に出て、全ての被造物に福音を宣べ伝えるように言われました(マタイ 28:19)。


イエスは聖霊にそうするように言いませんでした。また、使徒言行録のどこにも、聖霊が路上で誰かに会い、人を癒したという記述がないのです。しかし、聖霊に満たされた信者が彼らを通して聖霊が働くようにさせ、彼らのミニストリーを通して、人々が癒された事は書かれてあります。また、聖霊がどこかへ行って、信者を聖霊で満たした箇所はありません。しかし、聖霊に満たされた人々が福音を伝え、彼らの働きによって聖霊が人々の上に望んだ箇所はあります。他の人が信者に手を置き、聖霊が彼らを満たした所を読む事ができます。御霊は神の霊的な法則に従って働きます。その法則を理解するなら、私たちは神と共に働く事ができるのです。それが聖書が私たちを共同相続人、またはキリストとの協力者と呼んでいるものです(ローマ 8:17)。私たちは神と共に働く者です。(2コリント 6:1)イエスは、私たちが彼と協力する方法を一つ教えて下さいました。


マルコ 16:20「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らと共に働き、御言葉を、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」


弟子たちは説教しに行きました。主は彼らと一緒に働き、それに伴うしるしで彼らの言った事を確かなものとしました。私たちは主と一緒に働きます、そして主は私たちと一緒に働いてくれます!これは、私たちの生活のあらゆる分野に当てはまります。特に祈りではそうです。


共に祈る


あるギリシャ語の学者は、「同様に御霊も私たちの弱さを助ける」の中の「助ける」という言葉は、三つのギリシャ語の語根に由来している事を指摘しています。


その三つは、「一緒に保持する」、「共に」、「対抗して」という意味を持ちます。ですから、この「助ける」は文字通り、「御霊も私たちと一緒に対抗する」と読む事ができます。それは、私たちが人生で遭遇する障害や妨げに対して、聖霊が祈りの中で私たちと一緒にいる事を意味します。それがローマ8章26節で言っている「助ける」という語の意味です。聖霊は私たちの弱さや祈りの欠点を助けて下さいます。ですから、もし私たちが祈らなければ、聖霊には私たちと一緒になって反対するものは何もないのです。御霊の役割は、私たちが障害物を動かすのを助ける事だからです。


利己心を取り除く


クリスチャンが時間をかけて自分の理解で祈る祈りを分析すれば、それらの祈りの大部分が利己的である事に気付くでしょう。多くの場合、彼らの祈りは、同じ祈りをして来た人のようです。「神よ、私と妻と子供たちを祝福して下さい。私たち四人です!」このように全く同じ言葉を言わないかもしれませんが、彼らの祈りの時間の殆どは、自分自身と愛する人たちだけに費やされているという事です。しかし、異言の祈りは御霊に導かれた祈りである為、私たちの祈りに利己心が入る可能性を排除します。知性で祈る時、あなたの祈りは非聖書的または利己的になる事があります。


神の完全な御心ではない祈りの結果がもたらした例を、聖書から見てみましょう。それは、1サムエル記8章にあります。神はイスラエル人が周囲の国々のように王を持つ事を望まれませんでした。神は彼らの王になりたいと思っていましたが、イスラエルの子供たちは他の全ての国と同じようになりたいと思っていました。


そして彼らは、自分たちの王をしつこく求め続けたのです。神は、「では、あなた方が王を持つ事を許可する」と言われました。しかし、その時点から、イスラエル人は再び神の完全な御心の中に留まる事はありませんでした。これは、多くの人が見逃している所です。神は何度も彼らに対処し、彼らの人生に対するご自身の御心が何であるかを彼らに伝えました。しかし、彼らは肉で望むものを祈り、神に求め続けました。ついに神は、「では、あなた方が望むものを持つがよい」とされたのです。


同様な例を、もう一つ挙げましょう。ある若い女性の事です。彼女はその過ちの為に、その後、大変な苦しみに会いました。彼女は、私がコロラド州で牧師をしていた時、私の教会に来ている方でした。彼女は美しい方で、伝道に燃えていた人でした。しかし、この若い女性は、未信者の男と付き合っていたのです。彼はクリスチャンであると主張しましたが、時々教会に行くだけで、信者でない事は明らかでした。彼女は、二人の関係が神の御心ではない事をずっと知っていたにも関わらず、ついにこの若い男と婚約しました。ある夜、私たちが教会で祈っていると、この若い女性が来て、二人の婚約の件について祈りました。神ははっきりと彼女に語りかけ、その男と結婚しないようにと告げました。その後、彼女は起き上がり、教会の人々に軽く挨拶を交わして言いました。「これで決まりました。私は彼と別れます。」彼女はこの男と別れる事になりました。しかし、結局、彼と復縁して結婚してしまいました。どうして彼女はそうしたのかというと、主が彼らの結婚を認めるまでずっと頑固に祈っていたからです。もっとも、神の御心に逆らっている事を知りながら、肉にあって歩んでいる人が神の声を正確に聞こえるという事はありません。従って、彼女が聞いた声が神からものだったとは限らないのです。


イスラエル人がしたように、またこの若い女性がしたように、あなたが神の御心を知っておきながら、尚も違う事を追い求め続けるなら、あなたは自分の好きな事をするでしょう。何故なら、あなたには自由意志があるからです。そして、神はあなたがやりたいままにさせます。それは、神がそうするように許可しているのではなく、あなたの自由意志を尊重しているという事です。私たちには、あらゆる事に対して自由が与えられていますが、その責任もあるのです。主の教えに従うか、それとも、悪い種を蒔いて悪いものを刈り取るかは全て私たちの選択によるのです。


神は本当にその女性に、その男性と結婚しないように言われたので、彼女はそれについてこれ以上祈るべきではありませんでした。彼女は神に従うべきだったのです。しかし、彼女は自分の願いを主張し続け、ついに、「あなたが望むようにしなさい」と言う声を聞いたのです。その後、その女性はこの男と結婚しましたが、あっという間に町で最も惨めな人になりました。私たちはしばらく彼女に会いませんでした。彼女はすぐそこに住んでいたのですが、教会にさえ来ませんでした。しかし、ある時彼女は、私たちの教会のある年配の姉妹に手紙を出しました。その女性は手紙の中で、「私は4か月間も家に閉じ込められていました。夫は私にとても嫉妬していて、仕事に行く時は私が家から出ないようにします。鍵も無いし、一人で外へ出かける勇気もありません。私は彼なしではどこにも行きけなくしてしまいました。」神がこの女性にその男性と結婚しないように言われたのも当然でした。手紙は、「私は自分の家に4か月間、囚人のようでした」と続きました。彼女はこの手紙を家からこっそりと出す方法をやっと見つけ、友人に郵送するように頼んだのでした。なんと悲惨な状況でしょうか。この若い女性は、「どうして神は私を守って下さらなかったのだろう?」と思ったかもしれません。神はいつも私たちを守って下さるお方です。しかし、私たちは神の守りの中に留まる必要があるのです。神はその女性にご自身の御心を教え、どうするべきかを示して、祝福を受けるように導こうとしました。


こういうわけで、私たちが祈る時、その事について、神の御心に沿っているかが分からないのなら、イエスの教えた事聖書から読んで、自分の中に入れなければなりません。イエスの教えの言葉があなたの中に留まっている事を確認して下さい。イエスが言ったように、「あなた方が私に留まり、私の言葉があなた方に留まっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それは叶えられます。」(ヨハネ 15:7)それから、毎日異言で祈る時間を持つようにして下さい。主の言葉があなたの中に留まり、異言で祈る事によってあなたの霊が築き上げられる時、あなたはあらゆる状況について神の御心に沿って祈っている事を知るでしょう!祈る時は、決して神の言葉から離れてはなりません。あなたの祈りの生活の中で、御言葉の強固な土台を築いて下さい。その土台がなければ、神の御心ではない欲望に駆られてしまうかもしれません。そして最終的には、神がイスラエルに答えたように、あなたにも「そのようにしなさい」と答えられるかもしれません。イスラエルが王を持つ事は神のベストの御心ではありませんでしたが、彼らは王を望んでいたので、王を得たのです。そしてその時点から、彼らは二度と神の完全な御心の中にいませんでした。神が彼らを祝福しなかったという意味ではありませんが、神が望んでいた全てで彼らを祝福する事はできませんでした。


私たちは神の完全な御心を求めるべきでしょう。だからこそ、私は異言で祈るという賜物に注目しています。異言の祈りの中では、利己的な祈りを可能な限り回避できるからです。私が異言で祈る時、私は肉によってではなく、霊によって御父と語り、神との交わりの中で祈れます。思考を一新する事で、神の完全な御心に沿って祈れます。又、御霊によって祈る事も、神の完全な御心に沿った祈りを可能にするのです。何故なら、御霊と共に祈る時、私たちは聖霊の助けを得るからです。


13 異言の目的 へ続く

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