2022年9月27日火曜日

種々の異言 2

 多くの人が、ある程度、聖霊の満たしを体験するが、実際には、聖霊のバプテスマ(直訳は御霊の中へ浸かる事)を体験していない。

*真の聖霊のバプテスマとは聖霊充満の事であり、聖霊の中に浸り続ける歩みの事である。そうすれば、火によって我々の肉を焼き尽くされるという恩恵がある。これは聖霊の働きの事である。もちろん、思考の一新による魂の聖化も効果がある。

異言は、聖霊に十分に深く浸かる事からの溢れ出るものである。しかし、この御霊に深く浸かるという体験は、異言を話すだけではなく、それ以上のものだ。

*御霊に深く浸かる事によって、自然と異言を発する事になるが、更に深く御霊に浸かって行くには、その異言を利用して、深みに入る事も可能。


我々は、完全に機能する御霊に満ちた教会、完全に機能する御霊に満たされた体になり、神の御霊が我々と結びつき、常に我々の中で動いていく所まで行く必要がある。その為には、御霊の中へ浸かる事を通して、御霊の力を掴む必要がある。御霊の中へ浸かる時に異言が伴う第一の理由は、異言は、神の子である我々が常に御霊の力を帯びている為の効果的な手段となるからだ。この力によって、我々はキリストの証人となる。


神は、聖霊を持つ人々が世界中で伝道できるように、その伝道を通して、神の子が地を治めるように、ご自身の霊を人々に入れようと計画された。それが、イエスが地に来られた全ての理由であった。それは、人々が世にしるしと不思議を与え、世を回心させ、人々に神の霊を戻す事であった。


聖霊のバプテスマ(御霊の中へ浸かる事)は、我々が世に対してキリストの証人になる為に、神の力を得る為のものである。我々は、神の力を現して、神の子としてこの地上を治める。神は人をえこひいきしない。神は全ての人に対して、神の力を利用できるようにされた。神は言われた。「誰が証しの為の力を求めるのか?その為には、自然の考えから出て、超自然の中へ一歩踏み入れなければならない。」



異言は神と交わる為の手段でもある為、親密な交わりを意識するのも良い。又、異言は自身を燃え立たせる手段でもある。

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