2022年9月5日月曜日

種々の異言 19

 異言で祈っている自分の声を聞く事に集中し、思考があちこちに行かないようにする。肉は何かを欲したいので、集中し続ける事が必要。

思考は関与していないので、異言で祈りながら読む事さえ可能である。異言で祈りながら読んでいるものを理解できない場合は、異言ではない。偽の異言は肉によってもなされる。


執り成しの祈りをする時、人々の状況について全てを知る必要はない。神は我々が異言を用いるようにされた。もしその状況の全ての詳細を知っていたら、我々は神の御心に沿って祈るというよりも、利己的な祈りをするかもしれない。神は地を人に与えているが、執り成しなどを通して介入する場合もある。しかし、多くの介入は人を通して行うものである。


多くの場合、我々が今こうして歩いているのは、過去の世代が祈ってきた結果であり、彼らの祈りが実現したという事だ。


神は悪い事を変える事ができるが、地上で起こる全てが神の計画であるわけではない。ローマ 8:28


神は人々を自由に用いて、執り成しの祈りを促す。こうして、誰かの執り成しで良い結果を生む事になる。


異言で宣言しなかったが為に、物事が上手く行かない事が多々ある。


ガラテヤのクリスチャンが成長するまで、パウロは執り成していた(ガラテヤ 4:19)。


執り成しの祈りをしていて重荷がなくなるのを感じたら、問題の為に祈ったのが解決されたという意味。


御霊は、我々の「言葉にならないうめき声」を通して、我々の為に執り成しをする。


我々が異言を話すが、異言の言葉を与えるのは聖霊である。


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