異言と執り成し
異言による執り成しは、うめき声、叫び、泣き、苦しみに関係しています。
ローマ 8:26「同じ様に御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、執り成して下さるのです。」
パウロは、私たちの知性では分からないという意味で語っています。御霊の思いは、知る事ができます。必要なのは、御霊の思いにあるものを私たちの思考に取り込む事です。これは思考の一新の事であり、最良の方法は、異言で祈り、それを解き明かす事です。
私たちは、他の人々の為に御霊によって執り成します。時々、御霊の強い導きによって、執り成しの為に祈る事があります。自分では、誰の為に祈っているのか分からない時もあります。
誰かが祈りを必要としていると察する時、危険な状況がある時、異言で祈ると良いでしょう。
執り成して行く中、神が様々なものを見せて下さる時があります。神が秘密を守る為に私たちを信頼すればするほど、神は秘密を明らかにして下さいます。そうでないなら、私たちの異言の祈りの中に留めて置く必要があります。
異言で祈っていると、写真のようなものを瞬間的に見る事があります。それは神の霊が、私たちが何を祈っているかを示しているのです。だからこそ、思考を集中させ、考えがあちこちに行かないようにする必要があります。
私たちの思考の肉的な部分は、この世と同じように考えていて、神と敵対しています。悪魔はどんな地も譲ろうとしません。悪魔は、私たちが霊の中に入っていく事を望んでおらず、私たちが肉的、魂の領域にいて欲しいと望んでいます。何故なら、私たちが推論している時、悪魔は私たちを騙す事ができるからです。悪魔は理にかなったものを与え、そう考えるのが論理的だと言うでしょう。しかし、神は論理的にではなく、霊的に考えるお方です。
ジョン・レイクが与えたメッセージは、通常、全て最初に異言で祈られ、解き明かされました。ジョン・レイクは次のように言っています。「私が道路を車で走っていた時、神の霊が私に語りかけました。カーブを曲がろうとした時、神の霊が道の反対側に行けと言うのが聞こえました。私はその声を何度も聞いていたので、それに従えば良い事がすぐに分かりました。私が車線変更した直後、トラックが反対車線のカーブを曲がって来ました。もし私が右車線に留まっていたら、理性的に考えていたら、正面衝突していたでしょう。しかし、私は御霊の声に耳を傾け、言われた通りにし、反対車線にいた私は、トラックを回避したのです。」
レイクが神の御霊を聞いたのは、異言で祈った事によって、御霊に敏感になったからです。異言で話す事のもう一つの利点は、神の霊に敏感になる事です。異言でよく祈るようになると、私たちも敏感になりますが、神の御霊も私たちを導きやすくなるのです。
異言でよく祈っているなら、より神に頼る事ができ、行く先々で良い事が起こり始めるでしょう。それは、私たちが神と一致するにつれ、自然と神の導きの中に入る事になるからです。神の声を明確に聞いていなくても、タイミングの良い場面にいる事ができます。
異言でよく祈ると、直感も霊的になって、正確になります。神の声を明確に聞いていなくても、「こうするべき」だという直感が当たるようになります。
1コリント 6:17「しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」
異言によって主と交わる者は、その人の魂が、主と一つの霊になるのです。それにより、自然と様々な良い事が起こるでしょう。私たちが望んでいる事と神の御心が一致して来ます。それほど、私たちは主と一つになれるのです。
主とそこまで一つになっていないなら、私たちはそれほど霊的に敏感ではないという事です。その為、「そこを曲がりなさい」という神の指示があっても、私たちはそのまま歩き続けるでしょう。もう一度、神が「そこを曲がりなさい」と言われ、私たちがその指示に気づいて、曲がろうとするなら、 私たちはようやく、神の指示に気づいたという事なのです。しかし、気づかないほどに、神と一つになるなら、神と共に行動して、自然に道を曲がる事になるのです。
神と共に歩む事への敏感さは、普段の生活の中で異言で祈る事で得られます。危機的状況に陥った時に祈るだけでは、その敏感さは得られません。大抵の人は、危機に陥った時だけ神に祈ります。全てが順調な時は、ただ放っておくのです。異言で祈り続けるなら、もっと良くなるはずです。
神の最善とは、私たちが神と共に歩み、上手に危機を回避する事なのです。そうすれば、もし私たちが危機に陥ったとしても、私たちがそこにいるのは誰かを助ける為だと分かるでしょう。
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