解き明かし
1コリント 14:13「そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かす事ができるように祈りなさい。」
多くの人が異言で祈る時、それを解き明かす事はありません。「御霊の賜物」とは、聖霊の現れの事です。私たちが聖霊の現れについて神の御心を知らず、それに沿った信仰が働かないなら、それらを体験する事はできないでしょう。
神の霊がどのようにご自身を現す事ができるかを経験すれば、それ以降は、いつでも信仰を持って踏み出し、それを経験する事ができます。
最初は「当たり外れ」があって安定してないかもしれませんが、長くやり続けると、上手になって行きます。いつでも神がそこにいてくれると期待するようになるからです。他の「御霊の賜物」でも同じように働きます。
私たちは、御霊の賜物についてこだわる必要はありません。人を愛する事の実践だけを考えていれば良いのです。「御霊の賜物」という視点で歩むと、神次第と考えがちになりますが、神の御心を知ると、神はいつも働かれる事が分かり、信仰を持って歩む事ができます。神が人を愛しておられ、常に病人を癒したいと望んでおられるのを知るなら、たとえ私たちが不安定な時でも、神が彼らを癒して下さるという信仰が、彼らを癒してしまうでしょう。
神から離れても、神は彼らが悔い改めるチャンスを与えて下さいます。もし、その人の罪を神が暴く場合があるなら、それはキリストの体を守る為に、そしてその人が悔い改める為にそうなさるのです。
御霊の賜物だけで奉仕する人は、少なくとも、それによって聖霊が助けて下さる事を信じていると言えます。それが理由で、神から少し離れても、その御霊の力が働く事があります。しかし、神から離れて奉仕するなら、悪魔は「罪を犯していても神が働かれる」という誘惑に、私たちを繋げようとするでしょう。
私たちは、教会で異言を解き明かす為に用いられた事が何度かあるかもしれません。最初は主が始めたかもしれませんが、一度経験すれば、後は自分が始める事が可能となります。
リバイバル
神がリバイバルを送るものだと、多くの人が思っています。リバイバルが起こると、人々は凄いといって騒ぎますが、リバイバルの熱を保つ事は私たちの責任なのです。リバイバルは来ては去るという事であってはなりません。
ヨハネの5章にベテスダと呼ばれた池があり、ある季節になると、天使が降りてきて、水をかき混ぜました。病人は水がかき混ぜられるのを待っていました。それと同じように、ただリバイバルを待つだけで良いという事ではありません。
「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」とイエスは言いました。私たちから生ける水の川が流れ出るなら、それは水がかき混ぜられたのです。私たちが聖霊を燃え立たせるという事です。
1908年12月22日、南アフリカで最初の妻ジェニーが亡くなった後、異言とその解き明かしによって、ジョン・レイクに与えられたのは次のようなものでした。
「魂よ、地上から栄光への道を歩む者よ、どんな状況にあっても、あなたの神の命を、あなたの人生の中で輝かせなさい。イエスがあなたを導いてくれる。恐れる必要はない。
もしあなたが私を信じるなら、私はあなたを導き、人生の流砂と砂漠を通り抜け、全ての道を歩むであろう。あなたに危害を加える事はない。私はただ、あなたが毎日私に委ねてて歩む事を教えるだけである。
地上はあなたを栄光へと導く為の学ぶ所である。ここで学んだ教訓は、必ず守れ。永遠が明ける時、それは朝でしかない。今日の人生のように、いつも私と共に生きる。従って、焦らず教訓を学びなさい。毎日が、ここにいるあなたに喜びと楽しみをもたらしてくれるであろう。しかし、天はあなたの魂に、無限に広がる宝を、長い年月を経て明らかにするだろう。あなたの神は、地と天の神であるからだ。そして、あなたの魂は、イエスが死ぬ事で救われた魂である。そして、その血は十分であり、その力は永遠である。だから、今日も、そしてこれからも、あなたの神に安住しなさい。」
レイクは異言で祈り、解き明かしました。それは、神の霊が彼を通して祈り、神を讃える事でした。それは、神を崇め、神を讃える事でありました。同時にそれは、彼を慰め、励し、彼の置かれた状況に対処する為の助けとなりました。
これは、誰かから与えられたメッセージではありません。彼は神に向かって異言で祈り、神を崇め、その過程で、神は彼に語りかけ、彼の状況の必要性に答えていたのです。
誰かが持ってきたのではなく、レイクの中から出て行った生ける水の川が、自分の中に戻って来たのです。
ダビデは、主にあって自分を励ましました。それは、詩篇を書いて自分自身を励ます為に歌うという方法でした。
私たちは、異言で祈る事によって、神の知恵、助言、励まし、慰め、問題に対する答えを自分の中から引き出す事ができます。
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