休息と回復
イザヤ 28:9-10「彼は誰に知識を教えようとしているのか。誰に啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」
10節では、神は全てを一度に教える事はできないと言っているのです。神は少しずつ教えて下さいます。一つ一つのレンガを積み上げるように、家を立てるのと同じです。
イザヤ28:11「まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。」
「もつれた舌」、「外国の言葉」とあります。異言が言葉のように聞こえない理由の一つは、「もつれた舌」と書かれてある通りです。しかし、頻繁に異言で話す事により、言葉のように発展して行きます。定期的に異言で祈らず、それを生活の一部分としないなら、流暢な異言にはなりません。どもりのような、同じ言葉を繰り返すように聞こえたりします。
ただ日曜日に教会において、しかも、賛美の20分の時にだけ異言を話すのなら、異言が発展して行く事はないでしょう。それだけだと時間も頻度も遥かに少ないからです。従って、異言の祈りの殆どは個人的な使用であり、家でやるものです。
イザヤ28:12「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」
異言は最初にユダヤ人にもたらされましたが、彼らは受け取りませんでした。異言は休息であり、回復なのです。
ガラテヤ 6:9「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取る事になります。」
人々が善を行う事に疲れるなら異言が必要です。異言は休みと回復をもたらします。
異言で祈るのに最適な時期の一つは、気分が乗らない時です。やりたくなくても、やらないといけない事があります。その時に異言を祈るのです。疲れて来て効果が見えない時こそ、それをやり続ける必要があります。
それは、農夫が種を蒔いて、最初の二週間毎日外に出て、こう言っているようなものです。「何も見えないので、もう二度と畑に出ません。」 神の言葉の種を蒔く時があり、収穫の時があります。種蒔きから収穫までには時間が掛かります。その間の時間、異言で祈るのです。その時には忍耐が必要でしょう。その時には疲れたりして、つらい時期でもありますが、諦めずに続けて行かなければなりません。異言は休みと回復をもたらすのです。大抵の場合、諦める人は異言で祈っていないからです。
個人的な異言の祈りは、周りに人がいない所なら、いつでもどこでも可能です。それによって休みを得、回復を得るのです。異言で祈ると、全てのゴミや肉の思いを振り払うので、集中力を保つ事ができます。
人々は、教会において聖霊が来た時に、休息があると思って、聖霊を待っています。しかし、異言で祈る事が回復なのです。「回復するまで待ちなさい」と神は言われませんでした。
異言の祈りは、いつでもやめる事ができますが、時には御霊の促しが加わる事があります。肉の思いが多く取り除かれ、霊の中に深く入ると、異言の祈りが楽になり、スムーズになります。御霊と共に祈れやすくなり、異言が溢れ出して来きます。
パウロは、「私は霊で祈り、知性でも祈りましょう」と言いました。それは、二種類の祈りがあるという事ですが、霊で祈る事が異言であり、それは知性による祈りとは違って、理解できるものではありません。それが理由で、パウロは異言の解き明かしについても言及したのです。解き明かしは教会においてのみではなく、私たちの私生活でも必要です。パウロはまた、「霊で賛美し、知性でも賛美しましょう」と言いました。つまり、異言で歌うという事です。
ジョン・レイクの殆ど全ての説教は、彼が最初に異言で祈り、それからそれらを自分で解釈し、メモを取り、説教を説いたものだと言われています。
1900 年代初頭、アルメニアにペンテコステ派の信者のグループがありました。7歳くらいの子供たちは異言で話し、それを解釈していました。彼らは、これから起こる侵略についてグループに警告しました。子供たちは、軍隊がやって来て、多くの人々を殺すだろうと言いました。人々は荷物をまとめて荒野に出て、人が住んでいない地域に引っ越しました。
その後、わずか数か月で軍が侵攻した時、アルメニアの一般市民はほぼ完全に一掃されました。残された人々の殆どは、丘に隠れていたペンテコステのクリスチャンでした。それは全て、子供たちが異言と解釈を通して預言したからであったのです。
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