2022年9月23日金曜日

種々の異言 7

イザヤ28:9-10「彼は誰に知識を教えようとしているのか。誰に啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」新改訳第三版

10節では、神は、全てを一度に得る事はできないと言っている。神は少しずつ教えて下さる。一つ一つのレンガを積み上げるように、家を立てるのと同じなのだ。


イザヤ28:11「まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。」

「もつれた舌」、「外国の言葉」とあるが、これらはしるしである。

異言が言葉のように聞こえない理由は、「もつれた舌」と書かれてある通りだ。しかし、頻繁に異言で話す事により、言葉のように発展して行く。定期的に異言で祈らず、それを生活の一部分としないなら、流暢な異言にはならない。どもりのような、同じ言葉を繰り返すように聞こえたりする。

ただ日曜日に、教会において、しかも、賛美の20分の時にだけ異言を話すのなら、異言が発展して行かない。それだけだと、時間も頻度も遥かに少ないからだ。従って、異言の祈りの殆どは、個人的な使用であり、家でやるものである。


イザヤ28:12「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」

異言は、最初にユダヤ人にもたらされたが、彼らは受け取らなかった。異言は休息であり、回復である。


ガラテヤ 6:9「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取る事になります。」

人々が善を行う事に疲れるなら、異言が必要だ。異言は休みと回復をもたらす。


異言で祈るのに最適な時期の一つは、気分が乗らない時だ。やりたくなくてもやらないといけない事がある。その時に異言を祈るのだ。疲れて来て効果が見えない時こそ、それをやり続ける必要がある。

それは、農夫が種を蒔いて、最初の二週間毎日外に出て、こう言っているようなものだ。「何も見えないので、もう二度と畑に出ません。」 神の言葉の種を蒔く時があり、収穫の時がある。種まきから収穫までには時間が掛かる。その間の時間、異言で祈るのだ。その時には忍耐が必要だ。その時には疲れたりして、つらい時でもあるが、諦めずに続けていく必要がある。異言は休みと回復をもたらす。大抵、諦める人は異言で祈っていないからだ。


個人的な異言の祈りは、周りに人がいない所なら、いつでもどこでも可能だ。それによって休みを得、回復を得るのだ。異言で祈ると、全てのゴミや肉の思いを振り払うので、集中力を保つ事ができる。

人々は教会で、聖霊が来た時に休みがあると思って待ってる。しかし、異言で祈る事が回復なのだ。回復するまで待ちなさいと神は言われなかった。


異言の祈りは、いつでもやめる事ができるが、時には御霊の促しが加わる事がある。肉の思いがもっと取り除かれ、霊の中に入ると、異言の祈りがたやすくなり、スムーズになる。御霊と共に祈れやすくなる。異言が溢れ出して来る。


パウロは、「私は霊で祈り、知性でも祈りましょう」と言いった。それは、二種類の祈りがあるという事だが、霊で祈る事が異言であり、それは、知性による祈りとは違って、理解できるものではない。それが理由で、パウロは異言の解き明かしについても言及した。解き明かしは教会においてのみではなく、あなたの私生活でも必要だ。パウロはまた、「霊で賛美し、知性でも賛美しましょう」と言った。つまり、異言で歌うという事だ。


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1 異言に対する反論

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