様々な異言
異言で話し始めると、同じ音節または同じ音を何度も言う事があります。時々、別の音節を口にする事がありますが、殆どはその領域に留まります。その理由は、あなたの異言が幼児期の状態だからです。毎日異言で話し続けると、それは流暢になって行きます。
異言には違いがあり、異言の使い方も異なります。ペンテコステの日に、人々は様々な国の言葉で話していました。それは異邦人へのしるしでした。
終焉説の教えでは、「異言は過ぎ去り、癒しも過ぎ去った」などと言います。聖霊派のクリスチャンが語る異言は、使徒言行録に書かれているような外国語ではないとし、それゆえに、異言は過ぎ去ったと言うのです。しかし、殆どの異言は個人的な祈りとしての異言であり、信者が神と話す為のものです。当然、御霊の判断で、異言が外国語であるケースもあったりします。また、教会では異言と異言の解き明かしによって、預言の働きをするケースもあります。
異言で祈る人々の教会の中には、終焉説の支持者はいません。この神学を主張する人々は、外から一部だけを見ている為に、様々な異言を見た事がなく、勝手に判断している事が多いのです。
1コリント13:1「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」
パウロによると、御使いの異言もあります。
私たちに異言が与えられた主な理由は、個人の成長の為です。
ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」
御霊によって祈る事で、自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいとユダは言いました。異言で話す事から得られる副産物の一つは、霊的に敏感になり、霊的な夢、ビジョン、洞察力が増える事です。
レイクの秘書であるエマ・ルイーズ・ウィックは、御霊のバプテスマを受けなくても人々に異言で話させるコツを持っていました。それは、今日の教会での多くの教えに完全に反しているものです。
*彼女による異言は、聖霊のバプテスマとは関係のないもの。しかし、御霊が信者の中に住んでおられる以上、信者であるなら異言は話せる事は可能。通常、聖霊に浸かる事を通してでないと、人は信仰だけで異言で話す事はない。御霊に浸かる事は、御霊の助けを得るようなもので、その時には、異言で祈れるようになる。
歴史上、異言で話し、その生活の中で、聖霊の他の証拠を持っていなかった多くの人々がいます。どの世紀にも、歴史は異言で話す事を記録していますが、異言で話す事が御霊のバプテスマと結びつけられるようになったは、1901年になってからです。
*人は他人の異言を真似る事ができる為、カリーは異言を話すように励ます事はあまり好んではいない。自分から信仰を持って口を開くなら良いと考えている。理想は、十分な霊の深さにまで浸かる事であり、そうすると、自然に異言が出て来る。
もし一度も聖霊に浸かった事がないのであれば、イエスの証人となる為に力を得る必要があります。又、自分の成長と神とのより深い関係の為に御霊のバプテスマを求める事に重点を置くべきであり、異言そのものではありません。以前に御霊に浸かった事がある人は、自分がそうできると信じながら、より深く霊に入ると決めて、そこに集中しながら、異言を話してみて下さい!
チャールズ・フィニーも全く同じ経験をしました。彼は既に救われており、神は彼を扱っていました。ある時、フィニーはオフィスを出て森に入り、そこでしばらく神と過ごしました。彼から出ていたうめき声を通して、理解できない言語が出始めたと彼は言いました。彼は誰かが自分の声を聞く事を恐れたので、それを止めました。しかしその後、伝道者として驚異的な成功を収め、人々を回心させ、救いに導きました。
過去100年ほどの間に、教会はより聖霊への畏敬の念を失ってしまいました。霊的なパーティーのように考えて、感情になっている人々が多いという事です。そこで見られる様々な霊的現象は、聖霊への畏敬の念を伴うものではありません。私たちが話しているのは、神の御霊に浸かり、満たされる事、そして御霊の力が溢れ出て、キリストの証人になる事です。私たちは、人を全く新しいレベルの経験と存在へと導き、神と人の親しい交わりと神聖な一致について話しているのです。全てにおいて静かにしていなさいと言っているのではありません。聖霊を尊重し、ただ霊的現象を求めず、御霊の力の現れを愛と結びつけようにする必要があると言っているのです。
病人を癒す為に、必ずしも異言が必要ではありません。しかし、異言と癒しは同じ部類と考えるべきです。両方とも、霊的な事柄であり、私たちは人生の中であらゆる神の力を現して、神の豊かさを持つべきなのです。
私は、2002年頃にジョージ バーナが行った調査を見つけました。ジョージ・バーナは、アメリカ人の宗教的信念と行動、および信仰と文化の交差点の研究を専門とする市場調査会社の創設者でした。
彼は自分の研究と調査に基づいて、状況が変わらなければ、2025年までに、カリスマ的な、異言を話すグループは存在しなくなるだろうと予測しました。彼によると、自分たちをカリスマ的であると考えている教会でさえ、およそ20%の人々だけが、異言を話していたのです。そしてその20%には、一度だけ異言を話した人も含まれており、それは彼らが聖霊のバプテスマを受けた時だったのです。残りの80%は、異言で話す経験がなかったという事です。
救いは、神がご自分の霊を人間に取り戻す計画の一部でした。イエスの使命は、モーセの律法の終わりと新しい戒めの到来を示唆して、それらの成就を十字架で証明して見せる事でした。そうする事で、御父の霊を送り返して、私たちの内に住まわせる事ができたのです。
イエスに宿る神の霊は、イエスがいる場所に限られていました。それは決して神の意図ではありませんでした。
ヨハネ 16:7「しかし、私は真実を言います。私が去って行く事は、あなた方の益になるのです。去って行かなければ、あなた方の所に助け主はおいでになりません。でも、行けば、私はあなた方の所に助け主を遣わします。」
イエスは「私が去って行く事は、あなた方の益になるのです。去って行かなければ、あなた方の所に助け主はおいでになりません」と言いました。世の失われた人々の救いが、イエスにとってどれほど重要であったかが分かります。
私たちが触れる事ができるのは、自分の体です。私たちの中に私たちの霊があります。私たちの霊は私たち自身です。
神の御霊が私たちの中に来る時、神は私たちに浸透し、もはや私たちが生きているわけではありません。私たちの中に見えるのは神です。神は私たちの霊を聖霊で圧倒します。私たちは神の霊と一つだからです。私たちが神と協力する時、そうなるのです。私たちは神に委ねる部分、つまり、思考を一新する部分があります。
御霊に結ばれた者は、主と一つの霊です。その為、私たちは神と共に浸透しているのです。それがジョン・レイクが理解しようとしていた事でした。彼は、神の霊と人間との結合に関して、最も正確に表現していた人でした。しかし、それは私たちを神にはしません。私たちは神と結ばれています。それは、神が私たちの霊と一体化していることを意味します。ジョン・レイクが聖霊のバプテスマについて言及した時、彼は聖化について言及していました。彼はジョン・ウェスレーの聖化の定義に同意していました。言い換えれば、聖霊は私たちと非常に結びついているので、私たちはこの地上で一緒に機能するはずなのです。
1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」
私たちが神に話しかける時、私たちを通して祈る神の御霊が働き、同時に、私たちの霊の祈りでもあります。私たちが異言で話す時、御霊は私たちに加わり、私たちが話す異言を作られます。御霊は異言という言語に形成されるのです。
悪魔は異言を理解できません。悪魔は肉的なので、神の御霊の事を理解できないのです。
人々が問題や困難な状況を経験する時、必要な助けが得られないような事があるのは、彼らが異言で祈らないからです。助け主は、人を通して異言で祈る事によって助けて下さいます。人々が異言で祈っていない場合、神の御心の通りに祈るように助ける御霊の力が制限されるのです。御霊は私たちの為に執り成しをする事ができ、神がご自分の御心に従って答えられるように、正しい方法で祈って下さいます。ある事柄に関しては、異言による執り成しが必要になります。
思考の一新の一部は、神の御心で祈り、御霊によって神の知恵を引き出す事です。それは異言と、それを解き明かす事によってなされます。
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