2022年9月16日金曜日

種々の異言 11

異言で話し始めると、同じ音節または同じ音を何度も言う事がある。時々、別の音節を口にするが、殆どはその領域に留まる。その理由は、あなたの異言が幼児期の状態だからだ。毎日異言で話し続けると、それは流暢になる。


異言には違いがあり、異言の使い方も異なる。ペンテコステの日に、彼らは様々な国の言葉で話していた。それは異邦人へのしるしであった。


終焉説の教えは、「異言は過ぎ去り、癒しも過ぎ去った」などと言う。ペンテコステ派、カリスマ派が今日行っている事は、使徒行伝に書かれているような外国語ではないとし、それゆえに、異言は過ぎ去ったと言う。確かに、殆どの異言は個人的な異言であり、信者が神と話す為のものだ。しかし、御霊の判断で、異言が外国語であるケースもあったりする。また、教会では異言と異言の解き明かしによって、預言の働きをするケースもある。異言で祈る人々の教会の中に、終焉説の支持者はいない。彼らは外から見ている為に、様々な異言を見た事がなく、勝手に判断している事が多い。


1コリント13:1「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」


パウロによると、御使いの異言もある。


我々が異言を与えられた主な理由は、個人の成長の為である。


ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」


御霊によって祈る事で、自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいとユダは言っている。異言で話す事から得られる副産物の一つは、霊的に敏感になり、霊的な夢、ビジョン、洞察力が増える事だ。


もし一度も聖霊に浸かった事がないのであれば、イエスの証人となる為に力を得る必要がある。そして、自分の成長と神とのより深い関係の為に御霊のバプテスマを求める事に重点を置くべきであり、異言そのものではない。以前に御霊に浸かった事がある人は、自分がそうできると信じながら、より深く霊に入ると決めて、そこに集中しながら、異言を話してみるのだ!

神の御霊があなたの中に来る時、神はあなたに浸透し、もはやあなたが生きているわけではない。あなたの中に見えるのは神である。神はあなたの霊を聖霊で圧倒する。あなたは神の霊と一つだからだ。あなたが神と協力する時、そうなる。あなたは神に委ねる部分、思考を一新する部分がある。

あなたが神に話しかける時、それはあなたを通して祈る神の御霊であり、同時に、あなたの霊の祈りでもある。あなたが異言で話す時、御霊はあなたに加わり、あなたが話す異言を作られる。御霊はそれらを言語に形成されるのだ。

悪魔は異言を理解できない。悪魔は肉的なので、神の御霊の事を理解できないからだ。

人が問題や困難な状況を経験する時、必要な助けが得られないような事があるのは、彼らが異言で祈らないからだ。助け主は、人を通して異言で祈る事によって、助ける為にそこにおられる。人々が異言で祈っていない場合、彼らを通して神の御心を祈るのを助ける御霊の力が制限されてしまう。御霊はあなたの為に執り成しをする事ができ、神がご自分の御心に従って答えられるように、正しい方法で祈って下さる。ある事柄に関しては、異言による執り成しが必要になる。

我々は、静かに異言で祈る事ができる。

思考の一新の一部は、神の御心で祈り、御霊によって神の知恵を引き出す事である。それは異言と、それを解き明かす事によってなされる。

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