2022年9月28日水曜日

種々の異言 1

聖霊のバプテスマ


「父の約束」とは、聖霊のバプテスマを受ける事です。聖霊のバプテスマとは、聖霊の中に浸かる事であり、それは御霊の満たしも意味します。御父は、神の子が常に聖霊に満たされる事を望んでおられます。その理由は、それが神の子の歩みと深く関わるからです。


御父は人がイエスを信じて、ご自分の所に戻って来て、神の子となり、聖霊を受け、聖霊で満たしたいと望んでおられます。未信者は最初にイエスを信じて神の子となり、水によるバプテスマを受け、聖霊を受けます。そこからさらに、信者である神の子が御父に求めると、イエスが御父の霊で私たちを満たして下います。この聖霊の満たしに関して私たちがしなければいけない事は、単純に、聖霊を父に求めるという事だけです。


ヨハネ 7:38「私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」


聖霊が信者の最も深い所から流れ出すのは、聖霊が私たちの中に入る事になるからです。信者は御言葉という御霊の剣を用いて、様々な戦いにおいて勝つ事が可能ですが、通常、そこにはある種の限界があります。しかし、御霊の力によるなら、イエスの証人として歩める事がより楽にできます。御霊の力にあって歩むには、聖霊のバプテスマ、つまり、聖霊の中に浸かる事が必須です。聖霊の中に浸かっていれば、聖霊に満たされる事になります。私たちが聖霊に満たされ続けて歩むのなら、御霊の助けを大いに得る事ができます。 


使徒1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」


「lambanō」は手に入れるという意味から、所有者になるという意味も含みます。信じて所有するという事です。


私たちが神の御霊によって人々に仕え始めると、御霊とその力は私たちの内(霊)から出て来きます。そこ以外の場所から、注ぎ出される事はありません。私たちの腹の奥底から生ける水の川が流れ出るのです。水や川は聖霊を表しますが、ここでの川は複数形です。

聖書は神の声について言及している箇所がありますが、神の声の音は、多くの水の音と関係しています。

私たちから出る聖霊の働きには、多くの目的があり、それらは一般に言う、御霊の賜物の事です。御霊の賜物とは、恵みの現れ、御霊の現れの事です。



ヨハネ14:10「私が父の内にいて、父が私の内におられる事を、信じていないのですか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではありません。私の内におられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」


イエスは「私の内におられる父が、ご自分のわざを行う」と言われました。イエス自身のわざではありません。御父が私たちを通して、御霊の力で行われるのであり、その栄光を主張する事はできません。しかし、私たちを通して働かれるので、その栄光を共有して下さっている事になります。


ヨハネ14:11-12「私が父の内にいて、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。まことに、まことに、あなた方に言います。私を信じる者は、私が行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。私が父の元に行くからです。」


イエスが行ったのと同じ働き(病人を癒し、死者を蘇らせ、悪魔を追い出し、福音を説き、食物を増やし、嵐を静めるなど)を私たちができる唯一の理由は、イエスが御父の元に行かれて、御霊を送って下さったからです。従って、神の恵みによって、これらが可能なのです。しかし、私たちが信仰によって一歩踏み出し、病人に手を差し伸べなければ何も起こらないでしょう。私たちが人々に福音を伝え、嵐に命じて、地を治めなければならないのです。


ヨハネ14:15「もし私を愛しているなら、あなた方は私の戒めを守るはずです。」


イエスは十戒を守れとさえ言わませんでしたが、私たちが神を心、知性、魂、力を尽くして愛し、隣人を自分自身のように愛しているなら、自動的にモーセの律法を守っている事になります。


ヨハネ 14:16「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。」


御霊(paraklētos)は私たちと共にいて、敵に抵抗し、助け下さいます。


ヨハネ14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


世は御霊を受ける事ができません。人は最初に生まれ変わる必要があり、それから聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けるのです。


聖霊はイエスが言われた事だけを伝え、イエスが言われた事を思い出させて下さいます。これは慰め者、助け主の第一義的な役割です。聖霊は、何よりもまず、全ての真理へと導き、イエスへと、イエスの教えへと導かれます。聖霊のバプテスマは「父の約束」です。御霊は私たちの中に住まわれ、私たちを力で満たし、神の子として地を治める事ができるように助けて下さるお方です。


神格の第三位格である聖霊なる神が、人間の中に生きるという事は驚くべき事です。古い契約の下では、それは決して起こらなかった事でした。それはなんと光栄な事でしょうか。


私たちが生まれ変わった、聖霊に満たされたクリスチャンであるなら、私たちは、イエスが十字架にかかる前には、他に存在していなかった者になるのです。それは、以前の私たちとは根本的に異なります。時々、私たちは今の状況に慣れてしまい、その違いについて考えたり、十分に感謝していません。


古い契約の時代とは事なり、聖霊は私たちの中に留まり、私たちと共におられます。聖霊から去って行く事はありません。


私たちの中に留まっている御霊の存在を、真に意識する事は重要です。これは、私たちが無力ではない事を意味します。パウロは、「私を強めて下さるキリストを通して、私は全ての事ができるのです」と言いました。神と共にいれば全てが可能であり、不可能な事はありません。この考えができるのは、私たちの中に住んでいる聖霊のおかげです。


神の御霊に燃え立って下さい。テモテでさえ、何となく神の働きをし、いつの間にか情熱を失い、再び燃え立たせる必要がありました。聖霊は常に準備ができており、燃えていますが、霊的に目覚める必要があるのは私たちです。異言によって、私たちは聖霊、その結果、自分の霊を再燃させる事ができます。


*異言が与えられている理由の一つは、私たちが再び聖霊を燃え立たせる必要があるから。


御霊を再燃させて下さい。私たちは、人生のあらゆる面、24時間ずっと、実際に浸透する神の御霊をもっと持つべきです。神の存在をさらに意識するという意味で、私たちの一日の全てが神とより密接に接触している必要があります。


*御霊の存在をもっと意識しなければならない。御霊は常に私たちの中におられ、いつでもその交わりを望んでおられ、いつでも助けて下さる準備ができている。私たちが注意を払っていないだけ。私たちが御霊にもっと自由を与えるほど、御霊は私たちを通して、よりスムーズに助けて下さる。 


私たちはいつも異言で話すべきです。大声で、小声で、声に出さずに御霊の中で祈るのです。絶え間ない神とのコミュニケーションが必要です。御霊にあって燃え、それが普通になってくるレベルに上げて行くのです。


運転中、異言で祈る事さえ考えなくても、自然と異言が出るくらい異言で祈るのです。神は私たちをコントロールしません。私たちは、御霊の導きにただ委ね、神が語られるのを望むのです。


異言で祈る時はいつでも、神に祈っており、神は私たちを通して話しておられ、同時に、私たちは神と一つになっています。この完璧な交わりが、そこにあるのです。

2022年9月27日火曜日

種々の異言 2

満たしのレベル


多くの人が、「ある程度の聖霊の満たし」を体験していますが、聖霊のバプテスマ(直訳は御霊の中へ浸かる事)を体験していません。異言は、聖霊に深く浸かる事からの溢れ出るものです。しかし、この御霊に深く浸かるという体験は、異言を話すだけではなく、それ以上のものです。*御霊に深く浸かる事によって、自然と異言を発する事になりますが、更に深く御霊に浸かって行くには、その異言を利用する事も可能です。


私たちは、完全に機能する御霊に満ちた教会、完全に機能する御霊に満たされた体になり、神の御霊が私たちと結びつき、常に私たちの中で動いていく所まで行く必要があります。その為には、御霊の中へ浸かる事を通して御霊の力を掴まなければなりません。御霊の中へ浸かる時に異言が伴う理由の一つは、異言が、神の子である私たちが常に御霊の力を帯びている為の効果的な手段となるからです。この力と御霊の実によって、私たちはキリストの証人となります。


神は、聖霊を持つ人々が世界中で伝道できるように、その伝道を通して神の子が地を治めるように、ご自身の霊を人々に入れようと計画されました。それがイエスが地に来られた全ての理由でした。それは人々が世にしるしと不思議を与え、世を回心させ、人々に神の霊を戻す事であったのです。


聖霊のバプテスマ(御霊の中へ浸かる事)は、私たちが世に対してキリストの証人になる為に、神の力を得る手段であり、御霊の実を結ぶ事にも関係します。私たちは神の力を現し、キリストの品性を身に着けて、神の子としてこの地上を治めるのです。神の力を現す事は比較的簡単ですが、キリストの品性を現すには時間が掛かります。


神は全ての信者に対して、神の力を利用して奉仕する事ができるようにされました。神は言われたのです。「誰が証しの為の力を求めるのか?その為には、自然の考えから飛び出し、超自然の中へ一歩踏み入れなければならない。」


これは霊の事柄についてです。これは神との結合の事です。私たちが神を信頼して、信仰によって異言を語ると決断するなら、御霊は私たちを通して語ります。神の言語、天の言葉が私たちから出て来るでしょう。


御霊の満たし(聖霊のバプテスマ)は、神との交わりであり、これを続けていると、結果として、神の力と神の品性を現すようになります。しかし、キリストの品性を現すには時間が掛かります。


異言は聖霊を燃え立たせ、自分の霊を燃え立たせる手段ですが、第一に、神と交わる為の手段と認識するべきでしょう。

2022年9月26日月曜日

種々の異言 3

異言で話す事


聖霊が私たちの内に住むだけ事だけでなく、私たちの内から流れ出る為に聖霊が来られました。これが重要なポイントです。


使徒 2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなた方が目にし、耳にしている聖霊を注いで下さったのです。」


聖霊の中へ浸かる事(聖霊のバプテスマ)、異言の祈り、御霊の現れ(御霊の賜物)は、それぞれ成長の過程で経験するものです。それらは一度限りのイベントではなく、私たちの生活の一部であるべきです。それらは、神の子たちが正しい道を歩む中で経験する成長過程の一部です。


生まれ変わった時から、私たちは成熟に向かって進んでいるべきです。溢れるほど御霊に満たされる事(聖霊の中に深く浸かる事)は、その成熟の過程の一部です。又、思考の一新を通して、自身を罪から離れて清く保つ事も成長の一部です。


聖霊のバプテスマを待つ必要はない


ホーリネス運動では、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を第二の恵みと呼び、聖化の為には待つ必要があると教えていました。御父からの約束である御霊を受ける事は、御父の御心です。そして、約束の御霊の中に浸かる事も御父の御心です。従って、私たちがその体験をする為に、特別に待つ必要はありません。ちょうど、生まれ変わる為に何かを準備して待つ必要がないのと同じです。


重要なのは、単に御霊を求めて、聖霊のバプテスマを体験するだけです。実際、ただ心をオープンにして神を求めた人たちの中には、水の浸かり(水のバプテスマ)と同時に、聖霊に浸かってしまい、水から上がると異言を話し出した人たちもいました。


1916年までに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、「異言で話す事は、御霊のバプテスマを受ける事(聖霊の中へ浸かる事)の唯一の証拠である」という基準を確立しました。


確かに、聖霊の中へ十分深く浸かった場合、信者は異言を話します。浅く聖霊の中に浸かるなら、それは聖霊のバプテスマとは言えません。しかし、この教義の問題点は、異言を聖霊の中へ浸かる事の、唯一の証拠として扱っている所です。実際、聖霊派の信者の間では、聖霊の中へ浸かった時に異言を話した経験を持つ人は多いのですが、彼らは異言を日常で使う事はありません。彼らの多くは、過去に経験した出来事として異言を認識しているだけなのです。


キリストの証人となる為に与えられる神の力は、様々な形として現れているべきです。しかし、恵みの現れ(御霊の賜物)で奉仕する信者の全てが、聖霊の中へ浸かったという証拠にはなりません。そもそも、聖霊の中へ浸かった証拠を確かめようとして、異言やその他の何かを見ようとする考えもズレているのです。そうではなく、新生の体験から聖霊の中へ浸かる事へと進み、異言を体験し、様々な形で神の力を現して行くのが成長の過程なのです。


神ご自身が異言をしるしとして設定されました。異言は、マルコ16章で言及されている数少ないしるしの一つです。イエスは、信じる者は新しい言葉を語ると言われました。教会で祈る異言は、御霊の現れ(御霊の賜物)の一つであり、1コリントで言及されています。しかし、神ご自身が異言を設けた第一の理由は、私たちが常に御霊の中へ浸かる為、つまり、私たちが絶え間ない神との交わりを持つ為なのです。この「個人的な異言を通しての交わり」は、私たちを成長させます。御霊の中へ十分深く浸かるのなら、異言は自然と伴います。

*異言で祈り続ける事によって、御霊の中へ浸かり続ける事が可能。神は、私たちがそのようにして、より霊的な事柄を体験して、成長して行く事を望んでおられる。


異言が出ないという人がいますが、時には、誰かに促されたりする必要もあるでしょう。それは、按手という一つの手段を通してもなされます。

*或いは、自分で信仰によって一歩踏み出すという方法でもできる。しかし、信者自身が積極的に御霊を求め、御霊の中にもう少し深く浸かれば、自然と異言で話し始める事になり、この方法がベスト。何故なら、御霊の中により深く浸かる事こそが、聖霊のバプテスマであり、異言そのものよりも、より親密な御霊との交わりが重要であるから。


異言は一度限りの体験ではなく、信者の生活の中で継続的に行われなければなりません。


*異言の祈りを通して、継続的に神との交わりをする事が、神の子としての歩みを安定させる。何故なら、御霊との歩調が合うほど、神の力と品性によって歩む事が可能になるから。逆に言えば、聖霊体験のある信者でも、神の力を常に発揮できていないのは、常に御霊の中に浸かっていない、常に親密な交わりがないから。パウロは、御霊の中に浸かって神の力を発揮できるように、聖霊を再燃させるようにテモテに言った。そしてこの交わりは、神を求める私たちの情熱次第で、より深いものとなる。


さて、異言には様々な目的がありますが、個人的成長の為に異言が与えられた事をまず知らなければなりません。毎日異言で祈るだけでも多くの問題を避ける事ができ、神の知恵が発揮され、気づかないうちに、私たちは正しい決断を下す事ができます。何故なら、私たちが前もって異言で十分に祈ったからです。


2つの異なる状況で使用される異言:

(1) 個人的な異言  

(2) 教会: 異言と異言の解き明かし


2テモテ1:6「そういうわけで、私はあなたに思い起こして欲しいのです。私の按手によってあなたの内に与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい。」


ここでの「神の賜物」とは、御霊の賜物(御霊の現れ)のどれか一つではなく、聖霊の事を指してパウロは言っています。パウロは「再び燃え立たせて下さい」と言っているので、私たち次第であるという事です。神からの賜物である聖霊が私たちの中で燃やされていないのは、神の責任ではなく私たちの責任です。私たちの異言によって、聖霊が再燃されるなら、私たちの霊も燃えてきます。


ガラテヤ 4:19「私の子供たち。あなた方の内にキリストが形造られるまで、私は再びあなた方の為に産みの苦しみをしています。」


パウロは、彼らの内にキリストが形造られるよう祈っていました。御霊による祈りは、私たちの中にキリストが形造られるのを助けてくれます。しかし、キリストが形造られる為には、御言葉による思考の一新が最も重要です。真理を正しく理解し、それによって思考を一新させながら、異言で祈るなら、キリストが形造られるプロセスが最速になります。新しい契約までは、聖霊が人々の霊の中に宿らなかったので、誰も異言を語りませんでした。古い時代には、異言による恩恵は全くなかったのです。


異言で祈ると、レンガを積み上げるように自分自身を築き上げる事になります。今日、異言で祈ると、昨日異言で祈って築いたレンガの上に、さらにレンガを重ねる事になります。異言で祈れば祈るほど、強くなり、敵が隙を突く事ができなくなるでしょう。それほど異言の祈りは重要なのです。異言で祈るほど真理の理解が深まります。聖書を読んでいると分からない事が出て来ますが、異言で祈る事で全てが解決するでしょう。


異言で神を礼拝する


ペンテコステで異言を話した人々は、イスラエル以外から来ていた外国人の言葉で神に栄光を帰し、神を礼拝していました。この時、人々は、信者が聖霊の中へ浸かったかどうかを、別の信者が確認する為のしるしとして、異言を捉えていたのではなく、未信者の為のしるしとして捉えていました。聖霊のバプテスマの証拠として、異言を見るのではありません。信者はしるしを必要とせず、信じるがゆえに、しるしが伴うものなのです。ただし、聖霊に深く浸かるなら、自然と異言が伴うのも事実です。


執り成しによる突破


異言による執り成しの祈りは、状況などを変える事があります。言葉にならないうめき声を発したり、それが笑いに変わったり、踊ったりする事もあります。笑いや踊りは、執り成しの祈りが終わって、勝利を得た事のしるしとなります。


御霊を得るには、生まれ変わらなければならないのですが、重要なのは御霊です。教会では、生まれ変わる事、救いに重きを置いており、救われた後はイエスの再臨を待つだけとしています。神が私たちに聖霊を受け取って欲しいと望んでおられる理由は、私たちがこの地上を神の子として治める事が、御霊と歩む事で可能になるからです。それが神の大いなる計画なのです。


異言で祈るほど、御霊の力が見られるようになるでしょう。異言で祈れば祈るほど、私たちはより霊的になります。異言で祈ると、私たちの肉はなくなり始めます。私たちは御霊と密接に歩み始めるでしょう。そうすれば,私たちが神の子として霊的な事柄を行ない始め、御霊は私たちを効果的に助ける事ができるようになります。

種々の異言 4

しるしとしての異言


聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けたしるしとして、第三者が自然に判断できるものは、基本的に異言です。稀に、預言の場合もあります。それらが無くて、真に聖霊のバプテスマを体験したと見るべきではありません。この場合、しるしとしての異言ばかりに焦点を置いて、それだけの為のものにしてはいけません。異言は、聖霊のバプテスマのしるし以上のものだからです。


真に聖霊に浸かると、様々な恵みの現れ(御霊の賜物)があったとしても、異言か預言もあるべきです。これらのうち、一つがないなら、その人はまだ御霊に浸かっていない(聖霊のバプテスマを体験していない)と考えるべきです。何故なら、聖霊に十分に深く浸かっているのなら、通常、異言が伴うからです。使徒言行録では、そのように書かれています。しかし、異言が伴わなくても、聖霊にある程度は満たされる事はあるので、それを一つの励みにして、次は聖霊に深く浸かる事を目指しても良いでしょう。


異言がないなら、以下の事が欠けている事になります。その人がこれらを欠いているのなら、御霊に浸かった、聖霊のバプテスマを体験したとは言えません。

1. 霊による交わり(神と共に歩む事を意識させる)

2. 啓示が与えられる(起こる事を示される)

3. 礼拝の助けになる(感謝を表す)

4. 休息(精神的、肉体的な回復)

5. 信仰を助ける(成長を助ける)

6. 執り成し

7. 舌の制御

8. 世の汚染からの守り

9. 他の恵みの現れへの扉


神が異言を選んだ理由は上記の通りであり、それらの恩恵が理由で、サタンは異言に激しく抵抗したのです。


悪魔が最も激しく戦ってきた分野は三つあります。癒し、異言、御国の経済の分野です。イエスは、「悪い、姦淫の時代(世代)はしるしを求めます」と言われましたが、信じる者にはしるしが伴うとも言われました。イエスは私たちに、悪い、姦淫の世代の人々に、しるしを与えなさいと言っておられるのです。そのうちの一つは異言です。


マルコ 16:17「信じる人々には次の様なしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、」


初期のギリシャ教父全員が、マルコ16章を引用しています。彼らが読んでいた聖書にはマルコ16章があったという事です。マルコ16章が8節で終わっている写本よりも、その後の節、特にイエスの語った部分を含んでいる多くの写本を尊重した方がより安全だと言えるでしょう。


異言は、話している人からすれば外国語です。使徒言行録2章でそれが起きました。弟子たちは無学でしたが、外国の言葉を話しました。超自然的な事が起きていたのです。しかし、外国語でない場合(御使いの異言)でも、解き明かしによって理解できます。


神がジョン G. レイクミニストリーを用いられた理由の一つは、聖霊の中への浸かりと異言の領域において、神の霊に重点を戻す為でした。レイクは異言が彼のミニストリーを作り上げたと言っています。 

2022年9月25日日曜日

種々の異言 5

神との直接のコミュニケーション


御霊によってなされるべきものが人間的な努力、すなわち、肉的なものである事がよくあります。それは感情から来るものと絡まったものであり、純粋な聖霊の働きではありません。


私たちは神の霊の深さに入る事を否定して来ました。それは、聖書が全く言及されず、全てが御霊によるものであるような、極端なものではありません。或いは、聖書的になり過ぎて、儀式や律法主義的な考えに傾倒して、やたらと人々を非難してしまう事でもありません。神の霊の深さに入るとは、御霊と御言葉がバランスを保ちながら共に働き、深みをもたらすという事です。


*ジョン・レイクは、かつて彼の秘書だったエマ・ウィックが、御霊の中へ浸かる事なしに人々に異言を話させるコツを持っていた事を話していいました。しかしこれは、真の異言ではありません。


御霊との継続的な関係は、私たちを霊の領域のより深い所へ連れて行ってくれます。今日の神学は浅く広いものですが、本来はもう少し狭く、深い教えになっているべきです。そして、私たちは御霊の事柄をもっと掘り下げる必要があります。


異言は神との直接のコミュニケーション


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


異言は誰も理解できないというのが、パウロのポイントです。パウロは、主に教会での異言についてこの章で語っていますが、この節では個人的な異言の用法についても言及しています。そのコミュニケーションの動機となっているのは、私たちの中におられる神の御霊です。

2022年9月24日土曜日

種々の異言 6

知恵ある者を恥じ入らせる


異言は知恵ある者を恥じ入らせます。神は常に世の愚かなものを選び、知恵ある者を恥じ入らせます。


異言はおかしな言葉として人の耳に聞こえるかもしれませんが、外国語もそのようなものです。言語のように聞こえないものもあったりします。しかし、それを話す人々とそれを理解する人々にとっては、それは明確なコミュニケーションの手段となるのです。


私たちがそれを理解できないのなら、私たちの方が無知なだけなのです。知らない間は奇妙に聞こえても、その言語を習得すれば、もはや奇妙に聞こえる事はありません。それが我々の問題の一つです。理解できない事を自動的に押しのけて、「それは意味をなさないので、真実ではない」と言うのです。しかし、神の霊は私たちよりも、もっと多くの事を知っておられるのです。


1コリント 14:23「ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来た時、あなた方は気が変になっていると言われる事にならないでしょうか。」


パウロは、「もしあなたが教会にいて、異言を話すだけで、初心者か未信者が入ってきたなら、彼らはそれを理解していないので気が狂っていると思うでしょう」と言いました。彼は異言で話す事自体が間違っているとは言わず、状況を考えて、秩序を保ちながらするように注意しました。

2022年9月23日金曜日

種々の異言 7

休息と回復


イザヤ 28:9-10「彼は誰に知識を教えようとしているのか。誰に啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」


10節では、神は全てを一度に教える事はできないと言っているのです。神は少しずつ教えて下さいます。一つ一つのレンガを積み上げるように、家を立てるのと同じです。


イザヤ28:11「まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。」


「もつれた舌」、「外国の言葉」とあります。異言が言葉のように聞こえない理由の一つは、「もつれた舌」と書かれてある通りです。しかし、頻繁に異言で話す事により、言葉のように発展して行きます。定期的に異言で祈らず、それを生活の一部分としないなら、流暢な異言にはなりません。どもりのような、同じ言葉を繰り返すように聞こえたりします。


ただ日曜日に教会において、しかも、賛美の20分の時にだけ異言を話すのなら、異言が発展して行く事はないでしょう。それだけだと時間も頻度も遥かに少ないからです。従って、異言の祈りの殆どは個人的な使用であり、家でやるものです。


イザヤ28:12「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」


異言は最初にユダヤ人にもたらされましたが、彼らは受け取りませんでした。異言は休息であり、回復なのです。


ガラテヤ 6:9「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取る事になります。」


人々が善を行う事に疲れるなら異言が必要です。異言は休みと回復をもたらします。


異言で祈るのに最適な時期の一つは、気分が乗らない時です。やりたくなくても、やらないといけない事があります。その時に異言を祈るのです。疲れて来て効果が見えない時こそ、それをやり続ける必要があります。


それは、農夫が種を蒔いて、最初の二週間毎日外に出て、こう言っているようなものです。「何も見えないので、もう二度と畑に出ません。」 神の言葉の種を蒔く時があり、収穫の時があります。種蒔きから収穫までには時間が掛かります。その間の時間、異言で祈るのです。その時には忍耐が必要でしょう。その時には疲れたりして、つらい時期でもありますが、諦めずに続けて行かなければなりません。異言は休みと回復をもたらすのです。大抵の場合、諦める人は異言で祈っていないからです。


個人的な異言の祈りは、周りに人がいない所なら、いつでもどこでも可能です。それによって休みを得、回復を得るのです。異言で祈ると、全てのゴミや肉の思いを振り払うので、集中力を保つ事ができます。


人々は、教会において聖霊が来た時に、休息があると思って、聖霊を待っています。しかし、異言で祈る事が回復なのです。「回復するまで待ちなさい」と神は言われませんでした。


異言の祈りは、いつでもやめる事ができますが、時には御霊の促しが加わる事があります。肉の思いが多く取り除かれ、霊の中に深く入ると、異言の祈りが楽になり、スムーズになります。御霊と共に祈れやすくなり、異言が溢れ出して来きます。


パウロは、「私は霊で祈り、知性でも祈りましょう」と言いました。それは、二種類の祈りがあるという事ですが、霊で祈る事が異言であり、それは知性による祈りとは違って、理解できるものではありません。それが理由で、パウロは異言の解き明かしについても言及したのです。解き明かしは教会においてのみではなく、私たちの私生活でも必要です。パウロはまた、「霊で賛美し、知性でも賛美しましょう」と言いました。つまり、異言で歌うという事です。


ジョン・レイクの殆ど全ての説教は、彼が最初に異言で祈り、それからそれらを自分で解釈し、メモを取り、説教を説いたものだと言われています。


1900 年代初頭、アルメニアにペンテコステ派の信者のグループがありました。7歳くらいの子供たちは異言で話し、それを解釈していました。彼らは、これから起こる侵略についてグループに警告しました。子供たちは、軍隊がやって来て、多くの人々を殺すだろうと言いました。人々は荷物をまとめて荒野に出て、人が住んでいない地域に引っ越しました。


その後、わずか数か月で軍が侵攻した時、アルメニアの一般市民はほぼ完全に一掃されました。残された人々の殆どは、丘に隠れていたペンテコステのクリスチャンでした。それは全て、子供たちが異言と解釈を通して預言したからであったのです。

2022年9月22日木曜日

種々の異言 8

神によって選ばれた異言


異言を一つのしるしとして選んだ(マルコ 16:17)のは神です。私たちは、神がなさる事の理由の全てを知る事はありませんが、神への信仰は、全てをしらないからこそ生まれるとも言えます。異言で話すように神が言われた以上、私たちはそれを行うべきです。


パウロは、私たちが異言で祈る時、私たちは人ではなく神と話していると言っていますが、解き明かすように祈りなさいとも言いました。御霊を通して神とコミュニケーションを取る方法は、異言によってです。父なる神と私たちの間に働き、私たちを神に繋いで下さるのは御霊です。神が私たちの為に用意して下さったものは、御霊によって私たちにもたらされるのです。


私たちは常に正しく祈る方法を知りませんが、内におられる御霊は、私たちを通して正しく祈る事ができます。御霊が私たちを通して異言で話す時、私たちは聖霊に委ねている部分もあります。異言で祈る時、私たちは、御霊が私たちと共に祈る機会を御霊に与えているのです。


聖書が新生について詳しく語っていないのは驚くべき事です。しかし、全ての弟子たち、イエス、神、旧約聖書の預言者たちによる証拠と彼らが教えたものは、新生の結果よりも、聖霊の到来と私たちの内に宿る御霊に関するものでした。


生まれ変わる事は素晴らしい事ですが、そこに留まるべきではありません。御霊に浸かるべきです。イエスの到来は、神の霊を私たちに与える為、神の御霊を私たちと結びつける為だったのです。


私たちは御霊との関わりについて、まだよく理解していません。私たちの内に住まわれる御霊は、私たちの霊と共に、一つになっておられます。聖霊を歓迎すれば、聖霊が天から降りてくるのではありません。既に私たちの内におられるのです。新生している人の内に御霊がおられます。


異言で祈るにつれ、私たちは御霊との密接な関係を保つ事ができます。次第に、私たちの考えや知恵が聖霊からのものとなります。御霊が私たちの内におられるという事は、神ご自身がそこにおられるので、神の知恵を必要な時にいつでも使用できるように、文字通り私たちの中に埋め込まれている事と同じなのです。神の知恵を引き出す方法は、異言で祈る事によります。異言で祈れば、御霊が私たちと共に祈って下さり、神の知恵が分かるようになります。その意味では、異言は、神からの啓示をゲットする手段でもあるのです。


1コリント 2:10「それを、神は私たちに御霊によって啓示して下さいました。御霊は全ての事を、神の深みさえも探られるからです。」


何をどう祈れば良いのか分からない事があっても、異言で十分に事前に祈っているなら、御霊は必要としているものを与えて下さいます。

2022年9月19日月曜日

種々の異言 9

クリスチャンの特質


1.私たちは、生活の中で働く御霊の力を現しているべきです。


2.私たちは御霊の実を現さなければなりません。御霊の力はすぐに見られますが、実は育つのに時間が掛かります。つまり、成長するには時間が掛かるという事です。


私たちは、霊の内に神の性質を持っています。神の性質とは、御霊の実の事です。御霊の実は、私たちの魂がより霊になるにつれ、現されます。


御霊の力の現れを常に保つには、御霊の実が必要です。御霊の実は信者の人格に安定性を与え、間違った方向へ行く事を抑止します。しるしと不思議だけを求めるのではなく、キリストの性質である御霊の実も同時に求めていかなくてはなりません。


御霊の力と御霊の実(神の性質)の両方が合わさってクリスチャンになるのです。それらは一つになってクリスチャンを築き上げ、クリスチャンが神の御子の生きた真の模範となり、神の力の中を歩み、神の知識の中を歩む事ができるようにします。その殆どは異言で祈る事によってもたらされます。

2022年9月18日日曜日

種々の異言 10

御霊に満たされる事の利点


1コリント 2:16「誰が主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心(考え)を持っています。」


私たちは実際に、キリストの考え方を引き出す事ができます。私たちは、いずれキリストの考えに満ちて、歩む事ができるのです。成長の過程でそこに到達する事になるでしょう。これは思考の一新の事です。


キリストの考えは私たちの内にあるので、それにアクセスする事は可能なのですが、現状としては、キリストの考えで完全に歩めているわけではありません。ここに、私たちの立ち位置と経験の違いがあります。私たちは神の子というポジション(立ち位置)にいるので、全ての霊的祝福をキリストの内に持っていますが、実際には、それらの全てを経験してはいません。


神の霊が私たちの中に住んでおられるので、その活動は私たちから外へ出て行かれる事であり、天から降りてくる事ではありません。


私たちが聖霊に満たされている時、「私にあるものをあげよう」とペテロが言ったように言う事ができます。これは、聖霊に満たされる事の利点です。異言を通して神とのコミュニケーションを取っていると、その親密な関係が築かれ、聖霊をより近くに感じる事でしょう。そうすると、私たちは、神に何かを求めたり、許可を得ようと考える事をしなくなり、神の子として大胆に歩み始めます。もちろん、バランスや秩序を保つ事は大事なので、イエスの教えに沿うように、御言葉を蓄えて置かなければなりません。


十字架の偉大な功績は、人が御霊を通して神の住まいとなれる事を可能にし、保証する事でした。十字架の目的は、神の御霊を私たちの中に取り戻す事であったのです。ただ罪の刑罰から救う為だけではなかったのです。イエスが救いを中心に語ったのは、聖霊の満たしについては、まだ隠していたからです。


人が救われた瞬間に、神の計画の全てが達成されるのではありません。信者が神の子としてこの地を治めるまでは、何も達成されていないのです。そして、神の子が地上を治めるには、聖霊の中に浸かる事が必須になります。


ジョン・レイクは次のように言っています。「キリスト教の大きな危険は、初期の教会に存在していた、私たちの中にある神の御霊の生きた臨在に対する畏敬の念を失う事だ。」


それが聖霊に満たされる事の恩恵です。私たちは人々に、神の御霊の、生きた臨在に対する畏敬の念を与える事ができます。私たちはそういう者なのです。

2022年9月16日金曜日

種々の異言 11

様々な異言


異言で話し始めると、同じ音節または同じ音を何度も言う事があります。時々、別の音節を口にする事がありますが、殆どはその領域に留まります。その理由は、あなたの異言が幼児期の状態だからです。毎日異言で話し続けると、それは流暢になって行きます。


異言には違いがあり、異言の使い方も異なります。ペンテコステの日に、人々は様々な国の言葉で話していました。それは異邦人へのしるしでした。


終焉説の教えでは、「異言は過ぎ去り、癒しも過ぎ去った」などと言います。聖霊派のクリスチャンが語る異言は、使徒言行録に書かれているような外国語ではないとし、それゆえに、異言は過ぎ去ったと言うのです。しかし、殆どの異言は個人的な祈りとしての異言であり、信者が神と話す為のものです。当然、御霊の判断で、異言が外国語であるケースもあったりします。また、教会では異言と異言の解き明かしによって、預言の働きをするケースもあります。


異言で祈る人々の教会の中には、終焉説の支持者はいません。この神学を主張する人々は、外から一部だけを見ている為に、様々な異言を見た事がなく、勝手に判断している事が多いのです。


1コリント13:1「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」


パウロによると、御使いの異言もあります。


私たちに異言が与えられた主な理由は、個人の成長の為です。


ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」


御霊によって祈る事で、自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいとユダは言いました。異言で話す事から得られる副産物の一つは、霊的に敏感になり、霊的な夢、ビジョン、洞察力が増える事です。


レイクの秘書であるエマ・ルイーズ・ウィックは、御霊のバプテスマを受けなくても人々に異言で話させるコツを持っていました。それは、今日の教会での多くの教えに完全に反しているものです。


*彼女による異言は、聖霊のバプテスマとは関係のないもの。しかし、御霊が信者の中に住んでおられる以上、信者であるなら異言は話せる事は可能。通常、聖霊に浸かる事を通してでないと、人は信仰だけで異言で話す事はない。御霊に浸かる事は、御霊の助けを得るようなもので、その時には、異言で祈れるようになる。


歴史上、異言で話し、その生活の中で、聖霊の他の証拠を持っていなかった多くの人々がいます。どの世紀にも、歴史は異言で話す事を記録していますが、異言で話す事が御霊のバプテスマと結びつけられるようになったは、1901年になってからです。


*人は他人の異言を真似る事ができる為、カリーは異言を話すように励ます事はあまり好んではいない。自分から信仰を持って口を開くなら良いと考えている。理想は、十分な霊の深さにまで浸かる事であり、そうすると、自然に異言が出て来る。


もし一度も聖霊に浸かった事がないのであれば、イエスの証人となる為に力を得る必要があります。又、自分の成長と神とのより深い関係の為に御霊のバプテスマを求める事に重点を置くべきであり、異言そのものではありません。以前に御霊に浸かった事がある人は、自分がそうできると信じながら、より深く霊に入ると決めて、そこに集中しながら、異言を話してみて下さい!


チャールズ・フィニーも全く同じ経験をしました。彼は既に救われており、神は彼を扱っていました。ある時、フィニーはオフィスを出て森に入り、そこでしばらく神と過ごしました。彼から出ていたうめき声を通して、理解できない言語が出始めたと彼は言いました。彼は誰かが自分の声を聞く事を恐れたので、それを止めました。しかしその後、伝道者として驚異的な成功を収め、人々を回心させ、救いに導きました。


過去100年ほどの間に、教会はより聖霊への畏敬の念を失ってしまいました。霊的なパーティーのように考えて、感情になっている人々が多いという事です。そこで見られる様々な霊的現象は、聖霊への畏敬の念を伴うものではありません。私たちが話しているのは、神の御霊に浸かり、満たされる事、そして御霊の力が溢れ出て、キリストの証人になる事です。私たちは、人を全く新しいレベルの経験と存在へと導き、神と人の親しい交わりと神聖な一致について話しているのです。全てにおいて静かにしていなさいと言っているのではありません。聖霊を尊重し、ただ霊的現象を求めず、御霊の力の現れを愛と結びつけようにする必要があると言っているのです。


病人を癒す為に、必ずしも異言が必要ではありません。しかし、異言と癒しは同じ部類と考えるべきです。両方とも、霊的な事柄であり、私たちは人生の中であらゆる神の力を現して、神の豊かさを持つべきなのです。


私は、2002年頃にジョージ バーナが行った調査を見つけました。ジョージ・バーナは、アメリカ人の宗教的信念と行動、および信仰と文化の交差点の研究を専門とする市場調査会社の創設者でした。


彼は自分の研究と調査に基づいて、状況が変わらなければ、2025年までに、カリスマ的な、異言を話すグループは存在しなくなるだろうと予測しました。彼によると、自分たちをカリスマ的であると考えている教会でさえ、およそ20%の人々だけが、異言を話していたのです。そしてその20%には、一度だけ異言を話した人も含まれており、それは彼らが聖霊のバプテスマを受けた時だったのです。残りの80%は、異言で話す経験がなかったという事です。


救いは、神がご自分の霊を人間に取り戻す計画の一部でした。イエスの使命は、モーセの律法の終わりと新しい戒めの到来を示唆して、それらの成就を十字架で証明して見せる事でした。そうする事で、御父の霊を送り返して、私たちの内に住まわせる事ができたのです。 


イエスに宿る神の霊は、イエスがいる場所に限られていました。それは決して神の意図ではありませんでした。


ヨハネ 16:7「しかし、私は真実を言います。私が去って行く事は、あなた方の益になるのです。去って行かなければ、あなた方の所に助け主はおいでになりません。でも、行けば、私はあなた方の所に助け主を遣わします。」


イエスは「私が去って行く事は、あなた方の益になるのです。去って行かなければ、あなた方の所に助け主はおいでになりません」と言いました。世の失われた人々の救いが、イエスにとってどれほど重要であったかが分かります。


私たちが触れる事ができるのは、自分の体です。私たちの中に私たちの霊があります。私たちの霊は私たち自身です。


神の御霊が私たちの中に来る時、神は私たちに浸透し、もはや私たちが生きているわけではありません。私たちの中に見えるのは神です。神は私たちの霊を聖霊で圧倒します。私たちは神の霊と一つだからです。私たちが神と協力する時、そうなるのです。私たちは神に委ねる部分、つまり、思考を一新する部分があります。


御霊に結ばれた者は、主と一つの霊です。その為、私たちは神と共に浸透しているのです。それがジョン・レイクが理解しようとしていた事でした。彼は、神の霊と人間との結合に関して、最も正確に表現していた人でした。しかし、それは私たちを神にはしません。私たちは神と結ばれています。それは、神が私たちの霊と一体化していることを意味します。ジョン・レイクが聖霊のバプテスマについて言及した時、彼は聖化について言及していました。彼はジョン・ウェスレーの聖化の定義に同意していました。言い換えれば、聖霊は私たちと非常に結びついているので、私たちはこの地上で一緒に機能するはずなのです。


1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


私たちが神に話しかける時、私たちを通して祈る神の御霊が働き、同時に、私たちの霊の祈りでもあります。私たちが異言で話す時、御霊は私たちに加わり、私たちが話す異言を作られます。御霊は異言という言語に形成されるのです。


悪魔は異言を理解できません。悪魔は肉的なので、神の御霊の事を理解できないのです。


人々が問題や困難な状況を経験する時、必要な助けが得られないような事があるのは、彼らが異言で祈らないからです。助け主は、人を通して異言で祈る事によって助けて下さいます。人々が異言で祈っていない場合、神の御心の通りに祈るように助ける御霊の力が制限されるのです。御霊は私たちの為に執り成しをする事ができ、神がご自分の御心に従って答えられるように、正しい方法で祈って下さいます。ある事柄に関しては、異言による執り成しが必要になります。


思考の一新の一部は、神の御心で祈り、御霊によって神の知恵を引き出す事です。それは異言と、それを解き明かす事によってなされます。

2022年9月14日水曜日

種々の異言 12

異言について知るべき事


1. 神は預言者イザヤを通して異言を預言された

神はイザヤを通して異言について預言しましたが、これはそれが起こる約 800 年前の事です。神がその事を決め、預言の言葉として与え、それから実現させたという事です。


2. イエスは信じる者たちが異言を話すと言われた

マルコ 16:17で、イエスは信じる者に伴うしるしとして「新しい言葉」があると言いわれました。信じる者なら、異言を話すという事です。これは、「御霊の賜物としての異言」とは異なる種類です。


3. イエスは弟子たちに、異言が伴う父の約束を受けるまで待つよう命じた

ペンテコステで聖霊が来られた時、異言を伴う聖霊のバプテスマがありました。ペテロは弟子たちの異言を、預言者ヨエルが語った「預言」と結びつけました。彼は人々が異言で話すという事を、異言についてさえ言及していない聖書の成就と関連付けたのです。

彼らは異言を話し、それらの異言を解釈したかもしれません。彼らはそれらを「異言」や「解き明かし」とは呼ばず、預言という言葉を使っていたのかもしれないのです。その可能性もあり得るのです。


4.神が教会において、異言を確立した


5.パウロは異言の祈りを禁じないで、秩序が大事だと言った

神は、異言を話す信者がいるどんな状況でも、聞こえるように話す方法を持っておられます。異言を話す信者がいる場合、神はそのグループと対話してメッセージを伝える能力を持っておられます。その後、神はそのメッセージを解釈し、全ての人に理解してもらう事もできるのです。

知恵の言葉、知識の言葉、または信仰に基づいて行動する人々よりも、異言と解き明かしする人々の方が多くいるのは、異言で話す事がより一般的である為です。

人々は、異言を流暢に話す事を目指し、より霊的に機能する事を目標にせず、聖霊のバプテスマの要件と見なして、一度だけ異言を話すだけに満足してしまいました。

2022年9月13日火曜日

種々の異言 13

異言について聖書が言っている事


未信者へのしるし


マルコ 16:15-18「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次の様なしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」


しるしは信者の為ではなく、未信者の為です。そして、異言は未信者の為の一つのしるしです。


よく言われる「聖霊のバプテスマとその証拠としての異言」という表現には、クリスチャンが「証拠」にこだわってしまう欠点が含まれています。実際、クリスチャンが聖霊のバプテスマを受けたかどうかのしるしとして、その人が異言を語るかどうかに注意が行き、その為の異言という理解になってしまっているのです。


ヘブル 11:1-3「さて、信仰は、望んでいる事を保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られた事を悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではない事を悟ります。」


この定義によると、信仰は証拠を必要としません。


あなたと神との直接のコミュニケーション


1コリント 14:2 「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


世の賢者を当惑させる


1コリント 14:23「ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来た時、あなた方は気が変になっていると言われる事にならないでしょうか。」


異言を話すには信仰が必要


マルコ 16:17「信じる人々には次の様なしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、」


私たちが異言を話す時はいつでも、信仰を持って一歩を踏み出しているのです。


回復と休憩


イザヤ 28:9-12「彼は誰に知識を教えようとしているのか。誰に啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。主は、彼らに「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休みがある」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」


「誰に知識を教えようとしているのか」、「誰に啓示を悟らせようとしているのか」とは、人が教えを理解する事について話しています。


神は異言を通して人に教えようとしているのです。神の啓示は少しずつ与えられ、私たちは少しずつ、神の言葉を学んで行きます。又、異言から啓示を得るには解き明かしが必要です。そして、その教えは休息でもあり、力であり、回復なのです。


ガラテヤ 6:9「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取る事になります。」


「疲れた者を憩わせよ。ここに休みがある」とあるので、異言で疲れや失望感を払拭し、良い行いを続ければ、刈り取る事になります。そして、全ての良い行いは魂から働きかける自己の努力ではなく、神の法則、霊によってやる事であり、聖霊の助けを得る事なのです。


現在の大きな危険は、神の御霊を排除しようとする考えや教えがあるという点でしょう。しかし、御霊は私たちに清さをもたらし、私たちを変えて下さいます。


神の方法


神が異言を選ばれました。私たちは、神がなさる事の理由を全て理解できるわけではありませんが、神が異言という手段で私たちに啓示、休息、回復を与えている以上、私たちが異言で祈るなら、それらが得られるという事なのです。

2022年9月11日日曜日

種々の異言 14

平安を保つ


殆どの人は、二つの理由で疲れ果ててしまいます。一つは、長期にわたる戦いによるものです。特に病気の為の祈りが長くなると、それは絶え間ない戦いである為、疲れてしまうのです。


もう一つの理由は、平安がない時です。いつも警戒しているのなら疲れてしまうでしょう。緊張状態が長くなり過ぎると人の体は疲れてしまいます。常に緊張していてはいけません。私たちはイエスの平安を保たなければなりません。


イエスが残した平安は聖霊と関連しています。この平安は、聖霊の臨在を通してもたらされます。神は御霊によって私たちの中に住んでおられるので、聖霊ご自身がイエスの平安という事なのです。


「paraklētos」は、共に反対する事を意味します。御霊は私たちと協力し、私たちの問題を取り上げ、私たちと共に問題に対して働きかけて下さいます。しかし、御霊は、私たちが神の子として一歩踏み出す時に助けて下さるので、私たちがするべき事をしなくてはなりません。御霊は、私たちがイエスと同じわざ、それよりも大きなわざをするのを助けて下さいます。私たちは、御霊の助けを絶対的に信頼する必要があります。癒しの為に命じたら、たとえその時には回復が見られなくても、御霊を信じて、病人に手を置けば癒されるという御言葉を信じ続けるのです。私たちの役割は、信じて手を置き、病に去るように命じる事であり、御霊のなさる事は、その力で癒やす事です。


落ち着いて平安を持つ事ができなければなりません。平安は知る事から来るものです。


癒しの確率に変動が起こるのは、多くの場合、様々な世の事に気が散ちらされているからです。忙しすぎず、複雑ではなく、シンプルな生活を送るのがコツです。そうすれば、集中する事ができます。

2022年9月10日土曜日

種々の異言 15

人の異言と御使いの異言


目的と機能に関連して様々な種類の異言


· メンテナンス

· 執り成し

· 教会での異言 - 解き明かしを伴う

· 霊の戦い


メンテナンス異言は、日々の成長の為のものであり、エネルギーと健康を維持する為に毎日必要なものです。


異言は様々な形で現れますが、ポイントは、私たちの内におられる神の霊は、様々な川となって流れ出たいと望んでおられる事です。状況に応じて御霊は働かれます。時には、霊的戦いの為に、私たちを通して現れます。その時、私たちの異言は、霊的戦いの為のものとなるでしょう。この時、霊の戦いを意識して異言で祈りますが、悪魔に異言で叱る事はしません。御父と真剣に問題について話し、知恵を得、勝利を宣言するようにやるのです。


私たちの普段の異言は一つの川ですが、川は複数です(ヨハネ 7:38)。もし私たちが普段の言葉のみで、御霊を外に出していないとしたら、私たちは一つの川の中で活動しているのであって、複数の川の中で活動してはいません。しかし、御霊は状況に応じて、様々な働きをしたいと望んでおられます。私たちの協力や理解がないのなら、御霊は他の領域においてご自身の力を発揮できない事になるのです。

2022年9月9日金曜日

種々の異言 16

個人的成長


ユダ 1:19-21「この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。しかし、愛する者たち。御霊によって祈る事で自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、神の愛の内に自分自身を保ち、永遠の命に導く、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」


「御霊をもっていない」とは、魂的、生まれつきの考えや感情的である事を示しています。


パウロが啓示を受けて奥義を知ったのは、異言で誰よりも祈ったからです。個人的な成長に異言が関わるのは、神からの啓示がもたらされるからです。それによって、私たちは自分自身を築き上げられます。


異言によって、私たちの内にある神の力を私たちの魂に充電して、発揮できるようになります。そうすると、意図的に神の力を解放できるようになります。神の力は既に私たちの内にありますが、その使用方法を学ぶ必要があります。聖霊が私たちに与えられたのは、私たちが異言で祈る事によって、神の力を魂に充電し、自由にそれを解放して、地上を治める為だと言えます。


「神の奉仕者であると主張する人は誰でも、必要に応じて、意のままに神の御霊を現す事ができなければならない。」ジョン・G・レイク


日常生活で疲れ果てた時や、忙し過ぎる時はいつでも、異言で祈るようにすると良いでしょう。多くの奉仕者が疲れ切ってしまうのは、異言で十分に祈ってないからです。異言で祈ると、生ける水の川が私たちの中を流れ、休息と回復をもたらします。


異言で祈る事により、御霊によるミニストリーが、より効率的で、より効果的になるでしょう。


御霊を待つというよりも、御霊が私たちの内から流れ出なくてはならないのです。御霊は既に与えられています。


ヨハネ 7:38「私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」


生ける水の川(聖霊)が私たちから流れていなかったら、異言で祈らなくてはならない事を意味しています。


イザヤ 28:11「まことに主は、もつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる。」


舌は、ヘブル語で、「śepheth」 pronounced saw-fawです。それは、何かが流れ出る注ぎ口を意味します。私たちの唇は、生ける水の川が流れ出る注ぎ口であり、それは生ける水の川を止める事もできるのです。


「私の言葉は霊であり、命です」とイエスが言ったように、聖霊が私たちの口から出ます。川が複数形なので、御霊が様々な形で私たちの口から出る事になります。私たちの通常の言語や、異言で出て来るのです。御霊は様々な方法で、私たちから出たいと願っています。


ヨハネ 7:39「イエスは、ご自分を信じる者が受ける事になる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」


イエスが栄光を受け、ペンテコステの日に御霊は来られました。イエスが来られた理由は、御霊が私たちの内に留まる事ができるようにする為です。御霊が私たちの中に留まるようになった理由は、御霊が私たちから出て、様々な形で力を発揮する為だったのです。

2022年9月8日木曜日

種々の異言 17

解き明かし



1コリント 14:13「そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かす事ができるように祈りなさい。」


多くの人が異言で祈る時、それを解き明かす事はありません。「御霊の賜物」とは、聖霊の現れの事です。私たちが聖霊の現れについて神の御心を知らず、それに沿った信仰が働かないなら、それらを体験する事はできないでしょう。


神の霊がどのようにご自身を現す事ができるかを経験すれば、それ以降は、いつでも信仰を持って踏み出し、それを経験する事ができます。



最初は「当たり外れ」があって安定してないかもしれませんが、長くやり続けると、上手になって行きます。いつでも神がそこにいてくれると期待するようになるからです。他の「御霊の賜物」でも同じように働きます。


私たちは、御霊の賜物についてこだわる必要はありません。人を愛する事の実践だけを考えていれば良いのです。「御霊の賜物」という視点で歩むと、神次第と考えがちになりますが、神の御心を知ると、神はいつも働かれる事が分かり、信仰を持って歩む事ができます。神が人を愛しておられ、常に病人を癒したいと望んでおられるのを知るなら、たとえ私たちが不安定な時でも、神が彼らを癒して下さるという信仰が、彼らを癒してしまうでしょう。



神から離れても、神は彼らが悔い改めるチャンスを与えて下さいます。もし、その人の罪を神が暴く場合があるなら、それはキリストの体を守る為に、そしてその人が悔い改める為にそうなさるのです。



御霊の賜物だけで奉仕する人は、少なくとも、それによって聖霊が助けて下さる事を信じていると言えます。それが理由で、神から少し離れても、その御霊の力が働く事があります。しかし、神から離れて奉仕するなら、悪魔は「罪を犯していても神が働かれる」という誘惑に、私たちを繋げようとするでしょう。



私たちは、教会で異言を解き明かす為に用いられた事が何度かあるかもしれません。最初は主が始めたかもしれませんが、一度経験すれば、後は自分が始める事が可能となります。



リバイバル



神がリバイバルを送るものだと、多くの人が思っています。リバイバルが起こると、人々は凄いといって騒ぎますが、リバイバルの熱を保つ事は私たちの責任なのです。リバイバルは来ては去るという事であってはなりません。



ヨハネの5章にベテスダと呼ばれた池があり、ある季節になると、天使が降りてきて、水をかき混ぜました。病人は水がかき混ぜられるのを待っていました。それと同じように、ただリバイバルを待つだけで良いという事ではありません。



「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」とイエスは言いました。私たちから生ける水の川が流れ出るなら、それは水がかき混ぜられたのです。私たちが聖霊を燃え立たせるという事です。



1908年12月22日、南アフリカで最初の妻ジェニーが亡くなった後、異言とその解き明かしによって、ジョン・レイクに与えられたのは次のようなものでした。



「魂よ、地上から栄光への道を歩む者よ、どんな状況にあっても、あなたの神の命を、あなたの人生の中で輝かせなさい。イエスがあなたを導いてくれる。恐れる必要はない。


もしあなたが私を信じるなら、私はあなたを導き、人生の流砂と砂漠を通り抜け、全ての道を歩むであろう。あなたに危害を加える事はない。私はただ、あなたが毎日私に委ねてて歩む事を教えるだけである。


地上はあなたを栄光へと導く為の学ぶ所である。ここで学んだ教訓は、必ず守れ。永遠が明ける時、それは朝でしかない。今日の人生のように、いつも私と共に生きる。従って、焦らず教訓を学びなさい。毎日が、ここにいるあなたに喜びと楽しみをもたらしてくれるであろう。しかし、天はあなたの魂に、無限に広がる宝を、長い年月を経て明らかにするだろう。あなたの神は、地と天の神であるからだ。そして、あなたの魂は、イエスが死ぬ事で救われた魂である。そして、その血は十分であり、その力は永遠である。だから、今日も、そしてこれからも、あなたの神に安住しなさい。」



レイクは異言で祈り、解き明かしました。それは、神の霊が彼を通して祈り、神を讃える事でした。それは、神を崇め、神を讃える事でありました。同時にそれは、彼を慰め、励し、彼の置かれた状況に対処する為の助けとなりました。


これは、誰かから与えられたメッセージではありません。彼は神に向かって異言で祈り、神を崇め、その過程で、神は彼に語りかけ、彼の状況の必要性に答えていたのです。


誰かが持ってきたのではなく、レイクの中から出て行った生ける水の川が、自分の中に戻って来たのです。


ダビデは、主にあって自分を励ましました。それは、詩篇を書いて自分自身を励ます為に歌うという方法でした。



私たちは、異言で祈る事によって、神の知恵、助言、励まし、慰め、問題に対する答えを自分の中から引き出す事ができます。

2022年9月7日水曜日

種々の異言 18

異言と執り成し


異言による執り成しは、うめき声、叫び、泣き、苦しみに関係しています。


ローマ 8:26「同じ様に御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、執り成して下さるのです。」


パウロは、私たちの知性では分からないという意味で語っています。御霊の思いは、知る事ができます。必要なのは、御霊の思いにあるものを私たちの思考に取り込む事です。これは思考の一新の事であり、最良の方法は、異言で祈り、それを解き明かす事です。



私たちは、他の人々の為に御霊によって執り成します。時々、御霊の強い導きによって、執り成しの為に祈る事があります。自分では、誰の為に祈っているのか分からない時もあります。


誰かが祈りを必要としていると察する時、危険な状況がある時、異言で祈ると良いでしょう。



執り成して行く中、神が様々なものを見せて下さる時があります。神が秘密を守る為に私たちを信頼すればするほど、神は秘密を明らかにして下さいます。そうでないなら、私たちの異言の祈りの中に留めて置く必要があります。



異言で祈っていると、写真のようなものを瞬間的に見る事があります。それは神の霊が、私たちが何を祈っているかを示しているのです。だからこそ、思考を集中させ、考えがあちこちに行かないようにする必要があります。


私たちの思考の肉的な部分は、この世と同じように考えていて、神と敵対しています。悪魔はどんな地も譲ろうとしません。悪魔は、私たちが霊の中に入っていく事を望んでおらず、私たちが肉的、魂の領域にいて欲しいと望んでいます。何故なら、私たちが推論している時、悪魔は私たちを騙す事ができるからです。悪魔は理にかなったものを与え、そう考えるのが論理的だと言うでしょう。しかし、神は論理的にではなく、霊的に考えるお方です。


ジョン・レイクが与えたメッセージは、通常、全て最初に異言で祈られ、解き明かされました。ジョン・レイクは次のように言っています。「私が道路を車で走っていた時、神の霊が私に語りかけました。カーブを曲がろうとした時、神の霊が道の反対側に行けと言うのが聞こえました。私はその声を何度も聞いていたので、それに従えば良い事がすぐに分かりました。私が車線変更した直後、トラックが反対車線のカーブを曲がって来ました。もし私が右車線に留まっていたら、理性的に考えていたら、正面衝突していたでしょう。しかし、私は御霊の声に耳を傾け、言われた通りにし、反対車線にいた私は、トラックを回避したのです。」


レイクが神の御霊を聞いたのは、異言で祈った事によって、御霊に敏感になったからです。異言で話す事のもう一つの利点は、神の霊に敏感になる事です。異言でよく祈るようになると、私たちも敏感になりますが、神の御霊も私たちを導きやすくなるのです。



異言でよく祈っているなら、より神に頼る事ができ、行く先々で良い事が起こり始めるでしょう。それは、私たちが神と一致するにつれ、自然と神の導きの中に入る事になるからです。神の声を明確に聞いていなくても、タイミングの良い場面にいる事ができます。


異言でよく祈ると、直感も霊的になって、正確になります。神の声を明確に聞いていなくても、「こうするべき」だという直感が当たるようになります。


1コリント 6:17「しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」


異言によって主と交わる者は、その人の魂が、主と一つの霊になるのです。それにより、自然と様々な良い事が起こるでしょう。私たちが望んでいる事と神の御心が一致して来ます。それほど、私たちは主と一つになれるのです。


主とそこまで一つになっていないなら、私たちはそれほど霊的に敏感ではないという事です。その為、「そこを曲がりなさい」という神の指示があっても、私たちはそのまま歩き続けるでしょう。もう一度、神が「そこを曲がりなさい」と言われ、私たちがその指示に気づいて、曲がろうとするなら、 私たちはようやく、神の指示に気づいたという事なのです。しかし、気づかないほどに、神と一つになるなら、神と共に行動して、自然に道を曲がる事になるのです。



神と共に歩む事への敏感さは、普段の生活の中で異言で祈る事で得られます。危機的状況に陥った時に祈るだけでは、その敏感さは得られません。大抵の人は、危機に陥った時だけ神に祈ります。全てが順調な時は、ただ放っておくのです。異言で祈り続けるなら、もっと良くなるはずです。



神の最善とは、私たちが神と共に歩み、上手に危機を回避する事なのです。そうすれば、もし私たちが危機に陥ったとしても、私たちがそこにいるのは誰かを助ける為だと分かるでしょう。


2022年9月5日月曜日

種々の異言 19

自分への執り成し


異言で祈っている自分の声を聞く事に集中し、思考があちこちに行かないようにする必要があります。肉は別の事を欲っしているので、集中し続ける事が必要になります。


思考は関与していないので、異言で祈りながら読む事さえ可能です。異言で祈りながら読んでいるものを理解できない場合は、異言ではないとも言えます。偽の異言は、肉によってもなされる事も可能です。


執り成しの祈りをする時、人々の状況について全てを知る必要はありません。神は私たちが異言を用いるようにされました。もしその状況の全ての詳細を知っていたら、私たちは神の御心に沿って祈るというよりも、利己的な祈りをするかもしれません。神は地を人に与えていますが、執り成しなどを通して介入する場合もあります。しかし、多くの介入は人を通して行うものです。


多くの場合、私たちが今こうして歩いているのは、過去の世代が祈ってきた結果であり、彼らの祈りが実現したという事です。


神は悪い事を変える事ができます。しかし、地上で起こる全てが神の計画であるわけではありません。ローマ 8:28


神は人々を自由に用いて、執り成しの祈りを促します。こうして、誰かの執り成しで良い結果を生む事になるのです。


異言で宣言しなかったが為に、物事が上手く行かない事が多々あります。


ガラテヤ 4:19「私の子供たち。あなた方の内にキリストが形造られるまで、私は再びあなた方の為に産みの苦しみをしています。」


ガラテヤのクリスチャンが成長するまで、パウロは執り成していました。


執り成しの祈りをしていて重荷がなくなるのを感じたら、問題の為に祈ったのが解決されたという兆候ですが、そのままもう少し祈ると良いでしょう。


御霊は、私たちの「言葉にならないうめき声」を通して、私たちの為に執り成しをして下さいます。


私たちが異言を話しますが、異言の言葉を与えるのは聖霊です。

2022年9月4日日曜日

種々の異言 20

言葉にならないうめき



あなたの肉は異言で祈る事を嫌います。異言は何も実を結ばないもの、退屈なものだと訴えるのです。異言で祈り始めた途端、様々な余計な事を考えてしまうのは、肉が働いているのです。


自分の思考を制御し、落ち着けるようにしなければなりません。通常、最初のうちは、御霊の事柄に集中できるようになるまでに長い時間が掛かるでしょう。殆どの人は、少しばかり祈るだけで、まだ魂の領域にいて、霊と異言の繋がりを持つ事はありません。


あなたが世と関わっていて、日常生活で未信者の人々との交流が多いなら、御霊の事柄に集中できるようになるには、少し時間が掛かるでしょう。気が散らされない為に、こうした世的、肉的なものを排除しなければなりません。


「私はこれだけの時間を取って、祈るのだ」と言って、集中し、他の事を遮断しなければならない時が来ます。思考が常にあなたを他の事に導こうとする為、祈る事を決断して、自分にそうするように課す必要があります。最初は、それは訓練です。しばらくすると、訓練であったものが、習慣になり、その後で、あなたは夢中になってできるようになるでしょう。


いつ祈るか自分で決めましょう。自分の霊が支配している事を理解しなければなりません。あなたの霊は、魂と体をコントロールしなければならないのです。自分の魂と肉体に、何をするべきかを命じて下さい。


朝、眠気が抜けないまま適当に祈ってはいけません。祈る時には、目が覚めている状態で祈って下さい。あなたが神と真剣に向き合っていて、御霊によって常に自分自身を築き上げている必要があるからです。何が起きても常に準備が整えられているように歩むのです。


必要な事は何でも準備し、万が一の事の為に備え、何でもできるようにしておく必要があります。だから今日、異言で祈らなければならないのです。誰かが、あなたの助けを必要としているからです。


神は、シオン(この場合は教会)がその子を産む為の産みの苦しみむするのを待っておられました(イザヤ 66:6)。あなたが異言で祈る事を通して、御霊は神の完全な御心を祈ります。


御霊は、あなたを通して神の完全な御心を祈ります。あなたがすべき事は、それを解釈する事であり、そうすれば、あなたは神の御心を知る事になるでしょう。そうすれば、あなたは神の御心を知る事ができます。私たちが御霊を持つのは、神が私たちに与えて下さったものを知る為です。私たちが努力して神の御心を得るという事ではありません。


神が与えた恵みの賜物は、私たちが準備して用いなければなりません。肉のもの、余計なものを私たちは取り除く必要があります。そうすれば、与えられたものを上手く用いる事ができるのです。


新生により、霊は完全になったのですが、思考はそうではありません。思考の一新により、あなたはより霊的に機能するようになるのです。私たちはキリストの考え方を持っています。霊がそれを知っています。異言で祈る事で、御霊にキリストの考え方を自分の霊から思考へと引き出してもらう事ができます。


御霊が神の御心を祈って下さいます。御霊はあなたの為に神の完全な御心を祈り、それがあなたをキリストのように形成するのに役に立ちます。それをもたらすのは、言葉にならないうめき、霊における苦しみなのです。それは、自分自身に対するものでも、他人の為の祈りでもあります。


2022年9月3日土曜日

種々の異言 21

時と場所



1コリント 14:18-19「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」


パウロは異言を重要ではないと言ったのではなく、時や場所を考えなくてはならないと言っています。 



パウロは、異言を話す事で知られていたコリントの人たちよりも、もっと異言を話しました。これは、彼が日常生活の中でより多くの異言を話した事を証明し、異言の私的、及び、公的な使用がある事を示しています。パウロは異言によって祈ったので、多くの奥義を知ったのでした。



聖霊は異言の言葉を与え、それを私たちが信仰を持って、口を通して話します。ユダヤ人たちは、異邦人が異言を話したのを見て、神が彼らを救う事を知りました。神は、新生したクリスチャンが聖霊に満たされて、神の力にあって神の子として歩む事を望んでおられます。聖霊のバプテスマを受けるのに適切な霊的レベルに達する必要はありません。



パウロは、異言の賜物を用いる時の秩序について教えました。異言を話すなら、多くても三人までで、解き明かす者がいる場合です。従って、秩序は、賜物を用いる人が作るという意味でもありますが、同時に、その人は御霊に導かれている必要があります。私たちが行う部分と、神が働かれる部分があり、神との一致が重要になります。



御霊の賜物とは、神のエネルギーが爆発したようなもので、一定の特徴を備えています。御霊は、信仰、知識の言葉、異言、その他の形で、御自身を現すのです。


異言で祈ると、自然的なものと霊的なものとの間のギャップを埋める事になります。その時、あなたがどこにいて何をしているかに応じて、どちらにも足を踏み入れる事ができます。


毎日、一時間異言で祈れば、私たちは霊の領域で繋がっている為に、皆が強くなれます。キリストの体として機能するとはそういう事です。



2022年9月2日金曜日

種々の異言 22

物理的にある場所にいても、霊においては、別の場所に行く事が可能です。一般には、異言で祈る事で、それを可能にします。


異言は私たちの霊が祈る事であり、その祈りを御霊が助けて、共に祈って下さる事です。


教会での異言


教会で初心者や異言を知らない人がいる場合で、誰も解き明かしができない場合、個人的に、周りに聞こえないように異言で語るか、控えなければなりません。初心者や異言を知らない人がいる場合の秩序を乱してはならないという事です。どうしても異言を話さなくてはと思うのは、感情で受け止めているからです。


皆が異言を知っており、異言で祈るという目的でリーダーが人々を集めている場合は別になります。


異言のアクティベーション


異言を話せる人と話せない人をペアにすると、話せない人を促す事ができます。


準備

普段から御霊によって祈るべきです。必要になるまで待たず、率先して祈りましょう。祈って準備を整えておく事が大事です。

1 異言に対する反論

異論#1:「イエスは異言を話さなかったので、私も異言を話す必要はない。」 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されているように、ペンテコステの日に聖霊...