2023年6月3日土曜日

1 異言に対する反論

異言に対する反論


異論#1:「イエスは異言を話さなかったので、私も異言を話す必要はない。」


イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されているように、ペンテコステの日に聖霊の注ぎによって始まったこの聖霊の時代の特徴です。イエスは、新しい契約の下で神がご自分の民に与えるこの賜物について言及されました。マルコ 16:17-18において、イエスは五つの超自然的なしるしが信者に従うと宣言されました。そのうちの一つが「新しい言葉」(17節)です。この一節を説明しようとして、次のように言う人もいます。「それは、救われる前は下品なジョークを言ったり罵ったりしていたけれど、今はもうそんな事はしない、或いは、以前は嘘をついていたが今はもう嘘をつかないという意味だ。」確かに、特に神の子になってからはそういう事をすべきではありませんが、この聖句が語っているのはそういう事ではないのです。マルコ 16:17-18に列挙されている、これら五つのしるしは、全て超自然的なものです。イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けません。神の超自然的な力によって守られるからです。もちろん、何かを証明する為に猛毒の蛇を扱えるという意味ではありません。しかし、パウロがマルタ島でまむしが這い出して来て、彼の手にかみついた時があったように、超自然的に守られる事もあるのです(使徒 28:3-5)。そして、病人に手を置けば癒されるという事も、神の力によって可能なのです。


「新しい言葉」も超自然的なもの、神の力によってなされるものです。また、イエスご自身も、「少数の信者が新しい言葉を話す」とは言われませんでした。イエスは、全ての信者がそうすべきであると言われたのです。異言を語らない人には、その人なりの理由があるかもしれません。しかし、私はその第一の理由も確信しています。異言を話す事の範囲と価値について、健全で、論理的で、聖書的な教えが殆どなかったからです。その結果、多くの人々は神が与えて下さったこの賜物を認識していません。異言で話す事の価値に気づいていないだけなのです。もし気づいていたら、みんな異言で話したがる事でしょう。


異論 #2:「異言は悪魔のもの」


私がまだ若い伝道師だった頃、聖霊派のクリスチャンたちと交わりを持ちたいと思った事がありました。彼らは神の癒しを信じていたからです。私は神の力によって癒され、死の床から蘇りました。同じように尊い信仰を持つ人たちとの交わりは、私の癒しへの信仰を強めてくれました。その結果、当時私が属していた教派の同僚たちは、私の事を深く心配し、聖霊派の人たちについて警告してきました。彼らは誠意と正直さをもって話したのですが、その頭は聖書にない神学的概念で混乱していました。ある教派の神学校を卒業した、ある聖書教師の言葉を私は覚えています。「純福音のグループの人たちが教え、説いている事は殆ど全て基本的で正しく、彼らが私たちの教会よりも良い生活をしている事も認める。しかし、異言を語る事は悪魔のものだ。」私はその時、この男性には答えませんでしたが、心の中でこう思いました。「一体どうすれば、人は悪魔から何かを得る事ができるのだろうか?人々に悪い事をさせようとするのが悪魔で、正しい事をするように助けるのが聖霊ではないか?」この矛盾した考え方は、私に、ある乱暴な男に起こった出来事を思い出させました。少年時代、彼はある教派の教会に通っていましたが、救われた事はありませんでした。しかし、10代になると、その若者は乱暴になり、毎晩のようにバーに出入りするようになったのです。そして、あらゆる罪を犯したものでした。パトカーを2台も3台も呼んで、警察に連行されたほど、とても力持ちでした。


数年後、純福音の人たちがこの男性を導き始め、彼は救われ、聖霊のバプテスマを受け、異言を話すようになりました。しかし、彼が子供の頃に通っていた教会は、20年以上もの間、彼を放っておいたのです。牧師は、一度も彼を訪ねようとはしませんでしたが、ある日、深い心配を抱いて彼を訪ねて来たのでした。その理由は、彼が「悪魔から何かを得た」事を聞いたからでした。その男性は、その牧師が彼を訪ねて来た時に、彼に起こった事を私に個人的に話してくれました。「私はしばらく牧師に話をさせたが、『異言を話すのは悪魔の仕業だ』と牧師が言ったので、「ちょっと待って下さい、牧師さん。異言が悪魔のものでない事を知っています。私が救われる前、私はあらゆる悪魔からの悪いものを持っていましたから。もし異言が悪魔のものだったら、私はとっくに異言を持っていたはずです。しかし、私が救われ、聖霊に満たされるまでは、この賜物を受け取る事はなかったんです。」牧師がどんなにその男の人を説得しても、彼が異言を話す事をやめさせる事はできませんでした。その人は、自分が神からその賜物を受け取った事を分かっていたからです。


私はというと、聖霊に満たされ、異言を話し始めた瞬間、「異言は悪魔のもの」と言っていた先生を探しに行きました。以前は、彼がいつもこの話題を持ち出してきたのですが、今回は、私が彼に伝える事があったので持ち出したのでした。またしても、この先生は、聖霊派の連中について警告し、「異言は悪魔からのもの」だと言ったのでした。私は言いました。「異言が悪魔のものなら、私たちの教団全体も悪魔のものですよ。私は聖霊に満たされ、異言を話す事ができるんです。私たちの教派で知った聖霊は、私の霊を再創造して下さり、私が神の子である事を証ししておられます。それと同じ聖霊、つまり、私が聖霊に満たされた時、純福音教会で私に異言を与えて下さったのと同じ聖霊なんですよ!」 聖霊派は他の教派と違う聖霊を持っているわけではありません。聖霊は一つであり、全く同じ御霊なのです。「いやいや、そんな事はない」と彼は言いました。私は、「あなたは聖書の先生ではないのですか?」と尋ねると、「そうだ。私は25年間聖書を教えてきたんだ」と彼は答えました。

私は続けて、「では聞きますが、異言で話した事があるのですか?」すると彼は、「もちろん、ない」と言いました。私は、「では、その背後にどのような霊があるのか、どうやって知る事ができるのですか?あなたは聖書を知っていると言います。それなら、『よく聞かないうちに返事をする者は、愚かである』(箴言 18:13)という言葉を知っているはずです。それによると、あなたは愚かであるという事ですよ」と言い返しました。私は続けて、「異言を話さないのなら、あなたにコメントする資格はないのですよ。もし異言を話すのなら、どのような聖霊があなたにその言葉を与えたのか、私に言う事ができます。私が言えるのは、それは同じ聖霊だという事です。私は変な霊を受け取ってはいません。私がいつも持っていたのと同じ霊です。聖霊に満たされた時、私はより強力な聖霊の経験をしたのです。だから、異言を話す事が悪魔のものであるなら、私たちの教団全体が悪魔のものなのです。」私の言葉は、この聖書教師に大きな衝撃を与えたので、彼はしばらく口を開いたままでした。もちろん、その教派は悪魔のものではないし、異言も悪魔からのものでもありません。異言を話す事で、同じ聖霊の、より深い次元へと導かれるだけなのです。私たちは、もっと深く神の所へと進む事ができるのです。


父は求めるものを与えて下さる


さて、あなたに伝えたい事があります。もしあなたが神の子で、聖霊の満たしを受けたいと御父に願うなら、別の何かを得る事はありません。ある牧師が、聖霊に満たされる為に私の集会に来た事がありました。私が彼の為に祈る前に、彼は私に言いました。「ケニー兄弟、先に正直に言っておきます。聖書を学んできて、異言は悪魔のものではない事が分かってきました。でも、まだ悩んでいます。長い間、異言に対して間違って教えられて来たからでしょう。私たちが祈り求めれば、間違った霊を受け取らないという事を、どうすれば知る事ができるのか教えて頂けますか?」この人は、聖霊のバプテスマの為に祈ると、偽の霊を受けるという話を色々と聞いていたようでした。私がまだ若い頃、聖霊のバプテスマを受ける前に、私自身、そのような話をたくさん聞いたものです。しかしそれ以来、50年以上にも渡って、純福音の教会の人々の中では、聖霊に満たされたいと願い出た人が、間違った霊を受けたのを私は一度も見た事はありませんでした。でも勘違いしないで下さい。私は、聖霊に満たされた人々が、肉になっている状態を何度も見ました。しかし、私は神が動いている間、人々が肉的に反応して多少興奮している方が、完全に無反応でいるよりはましだと思うのです。私は、何も起こらない、死人のいる墓場で秩序があるよりは、少しくらいの無秩序は許容範囲だと考えます。この男性は、他の霊ではなく、聖霊を受ける事を確かめたがっていたので、私はルカによる福音書11章11節から13節を読み聞かせました。



ルカ 11:11-13「あなた方の中で、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それなら尚の事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。」


私は彼に尋ねました。「お子さんはいますか?」彼は「はい」と答えました。「もしあなたの息子が、魚が欲しいと言ったら、あなたは蛇を与えるでしょうか?それとも卵が欲しいと言われたら、サソリを差し出しますか?」彼は、「いいえ、そんな事はしません」と言いました。私は言いました。「神もそんな事はしません。この箇所で、イエスが実際に何を語っていたのかを教えましょう。ルカによる福音書10章19節にその答えがあります。」


ルカ 10:19「確かに私はあなた方に、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなた方に害を加えるものは何一つありません。」


私は言いました。「イエスがここで話していたのは、文字通りの蛇や実際のさそりのではなく、敵である悪霊の事を、蛇やサソリと呼んでおられたのですよ。もし子が魚を求めるなら、その父は蛇(悪霊)を与えるでしょうか。卵を求めるなら、サソリ(悪霊)を差し出すでしょうか。あなたは神の子であり、それは、神があなたの父である事を意味するのではないですか?」彼は、「はい」と答えました。「あなたが自分の子供たちに邪悪なものを決して与えないのと同じように、天の御父が、あなたが御霊を求める時、ご自分の子供である、あなたに邪悪な霊を与えると思いますか?」と私は尋ねました。すると彼は突然、笑い始めました。そして異言を語り始めたのです。彼が恐れから解放されると、彼が聖霊を受ける為に私は祈る必要さえなかったのでした。彼は言いました。「ケニー兄弟、あなたが今話してくれた事を知っていたら、私はとっくに異言を話していたかもしれない。」


その男性は、人々から聞いた話のせいで縛られ、神が彼に与えた祝福を見逃していたのでした。悪魔は彼の心に、御父に聖霊の満たしを求めて祈っても、間違った霊を得るかもしれない、という恐れを植え付けたのです。しかし、そんな事はあり得ません。聖霊を受ける事を恐れる必要は決してないのです。覚えておきましょう。神の言葉は真理であり、真理はいつもあなたを自由にするのです(ヨハネ 8:32)。イエスは真理があなたを縛るとは言われませんでした。神の言葉の真理は私たちを自由にすると言われたのです。私たちが、神に聖霊で満たしてもらおうとする時、間違った霊を受ける危険性はありません。信者が聖霊を求め、間違った霊を受けたと主張する人がいるとすれば、その人は信者ではないか、嘘をついているのです。クリスチャンが聖霊を求める時に、異なる霊を受ける事があると言うのなら、イエス・キリストが嘘を言っている事になるのです。私なら、イエスを嘘つきというよりも、その人を嘘つきと呼ぶ事を選びます。


ローマ 3:4「...たとえ全ての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです...」


イエスは言いました。「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます」(ルカ 11:13)。 つまり、聖霊の満たしを求めれば、まさにそれが得られるのです。


異論#3:「異言は終わった」


ある時、ある人が私の所に来てこう言った事がありました。「聖書に、異言はなくなったと書いてあるのを知らないんですか?」私は答えました。「いいえ、知りませんでした。それはどこの箇所ですか?もし、その聖句を教えてくれたら、報酬をあげます。」私はお金を持ち合わせていませんでしたが、その人が聖書の中に異言がなくなったという聖句を見つける事ができないと知っていました。その人が幾ら探しても、そのような聖句は見つかりませんでした。ついに、彼は諦めてしまいました。そこで私は彼を助けてあげました。「あなたが探している聖句は、第一コリント13:8ではないですか。」彼は言いました。「ああ、やはり聖書には異言がなくなったと書いてある。」私は言いました。「続けて一緒に読んでみましょう。一部だけを取って、結論に急ぐのは賢い読み方ではありません。」


I コリント 13:8「愛は決して絶える事がありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私達が知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」


私は彼に言いました。「完全なものが現れたら、部分的なものがすたれるでしょうと書いてあります。つまり、パウロが12章で取り扱った、預言、異言、知識の賜物などは、完全なものが現れたら、すたれるという事なのです。次の二つの節に、完全なものについて書いてありますよ。」


I コリント 13:11-12「私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。今、私達は鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見る事になります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になります。」


まず、ここでパウロが言っている「幼子であった時」とは、成長がまだ幼かった時の事を指します。そして、「完全」という語は文脈からも明らかなように、「成長」を意味しているのです。実際、このギリシャ語は、「成長」という意味で、聖書で何度も用いられています。つまりパウロは、幼子であった時には、御霊の賜物に意識を向けていたのが、大人になると、より重要なものが見えて来るという事を言っているのです。


鏡は自分を映すものですが、幼い時には、自分自身が分からない為に、鏡にぼんやりとしか映りません。しかし、成長して大人になると、自分自身が何者であるかが分かってきます。私たちは、私たちについて書かれている聖書を学ぶ事によって、自分自身を知る事ができます。従って、ここでパウロが言っている鏡とは、聖書の事なのです。本来の私たち、つまり、神の子である私たちを聖書から学んで成長していくと、幼子の考え方をしなくなるという事をパウロは言っています。聖書から自分自身について学んでいくと、私たちの中におられるキリストをより知るようになり、ついには、聖書という鏡を見る時、顔と顔を合わせるようにして本来の私たちが見えるようになります。


これらは、人々が異言を話す事に反対する為に用いる最も一般的な三つの反論です。このテーマについてさらに議論を進めていく中で、一般的に生じる他の疑問や誤解についても触れていきます。しかしこの問題や、その他の霊的な歩みについて学ぶ上で覚えておくべき事は、考えが神の言葉に近いほど、私たちはより正しくなるという事です。


聖霊の満たし


ある時の集会で、私は聖霊に触発されて、今までした事のない事をしようとしていました。「聖霊に満たされていない人、満たされたいと思っている人は、立ち上がって下さい」と言って、私は人々を促しました。すると直ぐに五人が立ち上がりました。私は説教壇に立って、その五人に向かって「聖霊を受けなさい!」と言いました。自分でそう言った時、とても驚きました。五人のうち、一人を除いて全員が即座に異言を話し始めました。一人の女性が異言を話し始めると、彼女は感激のあまり、教壇の間から出てきて通路を踊り始めてしまいました!牧師は驚いて、私を見て次のように言いました。


「あの人たちの中には、何年も聖霊のバプテスマを求め続けている人もいるんですよ!何時間も粘って祈ったものです。共に祈ったのですが、諦めていました。特にこの幸せそうな女性です!私たちは、彼女は聖霊を受けられない人だと諦めていたんです。誰も彼女と一緒に祈る事はなかったんです。」


この女性が、通路でそうやって踊っていたのも不思議ではありませんでした。人々は何年もの間、この女性が聖霊のバプテスマを受けられるようにと、引っ張り、叩き、泣き叫んだのですが、今や、神は一瞬にして彼女を満たされたのでした。その集会が終わって、その牧師が私に、一週間のリバイバル集会を開いてくれるように頼みました。それは一ヶ月も続き、多くの人々が恵まれ、教会も大きく成長したのでした!私がそれをしたのではなく、神がその全てをして下さいました。私はただ聖霊の動きに身を任せただけでした。


そのリバイバル集会のある夜の事を特に覚えていますが、人々は毎晩、聖霊に満たされていて、この日の夜は12人が聖霊を受ける為に前に出ました。これは、一度に祈りを捧げた人数としては最大でした。私はこの12人を「霊的なわだかまり」から解放したかったので、彼らに前の方で膝をついて祈らせませんでした。膝まずいて祈るというような聖書的な行為でさえ、私たちはある種のわだかまりに陥る事があります。だからといって、膝まずいて祈る事が良くないという意味ではありません。パウロも、「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にある全ての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります」と言いました(エペソ 3:14-15)。私自身も、祈る時には膝まずいて祈ります。しかし私たちは、やがては霊的な進歩を遂げられなくなってしまうくらい、ある特定の方法でしか神を求めないという宗教に陥る事があるものです。聖霊派やカリスマ派の多くの人々がそうなっているのです。聖霊を受ける為に神を求める時、人々はしばしば、祭壇に膝まずいて祈るなど、「自分たちの教会がいつもしてきたやり方」に慣れてしまうのです。そして、神を心から賛美するのではなく、他の人が言っている事をオウム返しにして、頭から賛美し始めるのです。彼らの行き着く所はそこまでです。この種の宗教的なものから抜け出す事は、多くの人にとって至難の業となってしまっています。そこで私は、聖霊を受ける為に前に出て来たこの12人に、祭壇の前に立つように指示しました。そして、私は彼らに「聖霊を受けなさい!」と言いました。すると、全員が同時に異言を話し始めました。いとも簡単に、彼らは全員、聖霊に満たされたのでした。私は彼らに手を置く事さえしませんでした。


このようにして聖霊が私を用いて下さり、人々は聖霊のバプテスマを体験したのでした。多くの場合、私は彼らに手を置く事をしませんでした。私はただ人々に来てもらい、祭壇の前に立たせ、聖霊を受けるように言ったのです。そうすると、彼らは聖霊に満たされたのです。特別な人だけが、このような事をするわけではありません。使徒たちだけ、神によって特別に召された人々だけの働きではないのです。アナニアという人がパウロを助けたように、キリストの信者であれば誰もが、聖霊を求める人々を助ける事ができるのです。


2023年6月2日金曜日

2 救いと聖霊の満たし

救いと聖霊の満たし


私がある教団にまだ属していた若い頃、自分が救われ、新生に聖霊が働かれた事を聖書から知っていたのですが、聖霊派が言う、「聖霊を受ける」という事をまだ体験していなかったのだと分かり始めていました。私が新約聖書を学ぶうちに、神の霊がこの主題に関する箇所を理解するのを助けてくれました。聖書を通して、もし私が聖霊派の人々が受けたのと同じ聖霊を受けたなら、私も同じように異言を話すだろうと確信しました。私はそれ以外で満足するつもりはありませんでした。


私は救われてから四年経っていました。私は聖霊の助けを得て説教をし、人々に祈れば、聖霊が癒して下さった事も体験していました。しかし私は、救いとは別の経験として聖霊を受ける必要がある事をはっきりと理解するようになったのです。多くの人はその真実を理解していません。実際、新生における聖霊の働きと聖霊の充満との区別は、多くの教会の人々の中では、明確に認識されていません。しかし、聖書はこれらを二つの別々の経験としています。次のイエスの言葉は、新生の事を指しています。


ヨハネ 14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


その後、使徒言行録1章5節と8節で、イエスは再び聖霊について語られていますが、その言葉は明らかに異なる経験を示しています。


使徒 1:5「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」


使徒 1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」


水のバプテスマは、水に浸かる事ですが、聖霊のバプテスマは聖霊の中に浸かる事です。新生によって信者の内に聖霊が宿る事は、イエス・キリストを信じた時に起こります。その信仰を現す最初の方法として、水のバプテスマがあります。しかし、それとは違って、聖霊の中に浸かり、神の力を受ける事が、聖霊のバプテスマなのです。これらは二つの異なる体験です。神の子とされたので、私たちの御父は聖霊を遣わされたのですが、それとは別に、キリストの証人として働く為に、聖霊の中に浸かる事を通して力を受ける必要があるのです。これが聖霊のバプテスマ、聖霊に浸かる事、或いは、聖霊に満たされる事なのです。


ガラテヤ 4:6「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」


ある牧師は私に、「新しく生まれ変われば、聖霊が与えられ、それで終わりだ。新生以外で聖霊を体験する事はない」と教えました。確かに、聖霊は新生した人の心に遣わされ、私たちの霊に永遠の命を与え、御言葉によって私たちの霊を再創造されます。しかしその一方で、聖霊を受ける、聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマを受ける、賜物として聖霊を受けるという体験について、使徒言行録に書いてあるのを見つける事ができます。そして、この体験は信者に起きたものでした。


イエスの証言と使徒ペテロ


救いと聖霊のバプテスマは別個の経験であるという真理を理解する上で、次の箇所は他のどの聖句よりも私を助けてくれました。


使徒 8:12-17「しかし人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えた事を信じて、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じてバプテスマを受けると、いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた。エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」


ピリポが彼らにキリストを説いた時、サマリア人は救われていました。彼らは、神の言葉を受け入れ、「主イエスの名によってバプテスマを受けていた」のですから、間違いなく救われていたのです。しかし、使徒のペテロとヨハネは、彼らが聖霊を受ける為に、すなわち、聖霊に満たされる為に彼らの所へ行ったと書いてあります。ペテロとヨハネは、サマリア人が聖霊を受けるように、彼らの為に祈る目的を持ってエルサレムからやって来たのでした。明らかに、使徒たちと初代教会は、聖霊に満たされる事は、新生とは別の経験であると理解していたのです!


パウロの証し


パウロの証言もまた、救いと聖霊によるバプテスマは別の体験であるという事を証言しています。彼がまだサウロであった時、ダマスコに向かう道で、まばゆい光を放ってイエスが現れた事がありました。その時に、彼は改心したのでした。

使徒 9:5-6「彼が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならない事が告げられる。』」


サウロが「主よ」と尋ねた時、彼はイエスを自分の主と告白したのです。言い換えれば、彼は自分をイエスの手に委ね、自分の人生に対するイエスの主権を告白したという事です。パウロはヘブル語で自分の名前を呼ぶイエスの声を光の中で聞いたのですから、イエスは主であるという確信を持ったのです。この幻の後、目が見えなくなったサウロは、主の指示に従って都に入り、ダマスコで祈りながら主を待ち望み、目の見えない三日間を過ごしました。その時、主はアナニアという弟子に現れ、サウロの所に行って手を置くように指示されたのです。


使徒 9:17「そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされる為です。」


ここでアナニアは、サウロに対して「兄弟」と呼んでいます。既にイエスによって指示を受けていたアナニアは、サウロを敵ではなく、兄弟だと知っていたのでした。つまり、サウロは救われていた事を知っていたという事です。それから、「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされる為」と言って、彼がサウロの所に来た理由を言いました。この事からも、救われたサウロが聖霊の満たしを受けたのです。従って、救われた信者が聖霊の満たしを受けるという事であり、救いとは別の体験なのです。


神の子供たちへの贈り物


ルカ 11:13「ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それなら尚の事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。」


聖霊は信者に対する、御父からの贈り物です。未信者への贈り物ではありません。私たちは、未信者に対して福音を宣べ伝えます。イエスはこの世に対する神の贈り物であり、聖霊は神の子供たちに対する神の贈り物なのです。さて、救われた信者に対する最初のメッセージの一つは、聖霊を受ける事、聖霊に満たされる事、つまり、聖霊のバプテスマを体験する事である事を私たちは知らなければなりません。



真理の御霊


ヨハネ 14:16-17「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」


「世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません」とイエスが言ったように、未信者は聖霊を受け入れる事はできないので、彼らに対しては、聖霊の満たしについての教えは必要ありません。彼らはまず、イエスを信じてキリスト者になる必要があります。イエスはこれを弟子たちに話している事に注目しましょう。弟子たちは、「この方」を知っていると言っています。従って、イエスを信じる者にとっては、御霊を知っているので、「真理の御霊」を受けるのです。しかしそれは、救われた後の事であり、救いそのものとは違うのです。


バプテスマの教え


ヘブル 6:1-2「ですから私達は、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、清めの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしない様にしましょう。」


「清めの洗い」は、ギリシャ語では「複数のバプテスマの教え」となっています。バプテスマは一つの種類しかないという誤解は、次の聖句から来ていると考えられます。


I コリント 12:13「私達はみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」


エペソ 4:4-5「あなた方が召された、その召しの望みが一つであったのと同じ様に、体は一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」


これらの箇所でパウロは、キリストの体としての一致について説明している事に注意しなければいけません。キリストの体として、信者は皆、一つである事、キリストに属している事を説明しているのです。パウロの言う一つのバプテスマとは、救われた人々がその信仰を現す為に水のバプテスマを受けて、キリストの体に属し、皆がその一致にあずかる事を言っているのです。


使徒 1:5「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」


イエスはここで、水のバプテスマとは別に、聖霊によるバプテスマがある事を言いました。全ての信者に対して、神は御霊を遣わされましたが、全ての信者は聖霊に満たされているわけではありません。


生ける水の川


信者の内に聖霊が住まわれた時から、信者は生ける水を持っていると言えますが、イエスが言った「生ける水」が川のように流れるには、聖霊の満たしが必要になります。ちょうど、川の水が流れ出るには、十分な水がなければならないのと同じで、信者に十分な聖霊の満たしがないと、流れ出る事はありません。従って、聖霊に浸かる、或いは、聖霊に満たされた後で、聖霊の川が流れるのです。


ヨハネ 4:10「イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませて下さいとあなたに言っているのが誰なのかを知っていたら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えた事でしょう。』」


ヨハネ 4:13-14「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む人は、いつまでも決して渇く事がありません。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。』」


イエスはここで、永遠の命を受ける事について話しています。ヨハネ3:16でニコデモに語ったのと同じ事です。私たちの内に永遠の命への水が湧き出る経験は、新生における聖霊の働きの事、つまり、救いの事です。


ヨハネ 7:37-39「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『誰でも渇いているなら、私の元に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受ける事になる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」


ここの水も聖霊を表していますが、先程の「その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出る」ものは、個人的な救いに関するものでした。川にある水は、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」とイエスが言われたように、聖霊が満ち溢れて川のように流れ出るのです。ギリシャ語の川は複数形になっています。つまり、最初の経験である新生はあなた自身の為であり、あなた自身の祝福の為です。しかし、もう一つの経験、聖霊のバプテスマの経験は、それによって神の力があなたの中から流れ出し、他の人々を祝福する事ができるようになるものなのです。


ルカ 24:49「見よ。私は、私の父が約束されたものをあなた方に送ります。あなた方は、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」


イエスは「救われるまでエルサレムに留まりなさい」とは言われませんでした。救いとは違う経験の事を指しているのです。聖霊のバプテスマの事なのです。これは、イエスがヨハネ7章で、イエスを信じる者の心の奥底から生ける水の川が流れ出ると言われたのと、同じ経験の事です。そして、ペンテコステの日にヨハネ 7章のイエスの言葉が成就したのでした。


使徒 2:2-4「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎の様な舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」


この瞬間、他の人々に対して祝福となる為に、信者たちの間に生ける水の川が流れ始めました。これは聖霊の満たしであり、神の子供たち一人ひとりへの御父からの贈り物なのです。


2023年6月1日木曜日

3 聖霊に満たされる時

聖霊に満たされる時


聖霊に満たされる為の聖霊のバプテスマ(聖霊の中へ浸かる)は、私たちに力をもたらします。私たちはキリストの証人として様々な事ができますが、この力を受けるなら、より力強い証人となるでしょう。その力を受ける事とは別に、使徒の働きを読めば、聖霊に満たされた人々が異言を話し始めた事について書いてある箇所が幾つかある事が分かります。


使徒 2:1-4「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎の様な舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」


これらの人々が、聖霊に満たされた瞬間に起こった事に注目して下さい。「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」とあります。


異邦人の救い


使徒 10:44-45「ペテロがなおもこれらの事を話し続けていると、御言葉を聞いていた全ての人々に聖霊が下った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人達は、異邦人にも聖霊の賜物が注がれた事に驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである...」


ペテロと一緒にいたユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれた事に驚いたとあります。この出来事の前までは、ユダヤ人の教会でしか、聖霊の満たしや異言は見られませんでした。このユダヤ人の信者たちは、ユダヤ人以外は、この新しい契約に入れないと考えていたのです。では、その場にいたユダヤ人のクリスチャンたちは、異邦人に救いの扉が開かれた事をどうやって確信したのでしょうか?彼らが驚いた理由は、異邦人が異言を語り、神を賛美するのを聞いたからだと46節にあります。異邦人たちが異言を語るのを聞いて、ユダヤ人の信者たちはコルネリウスとその家族が自分たちと同じように聖霊を受けたと確信したのです。


エペソの弟子たち


使徒 19:1-2「アポロがコリントにいた時の事であった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。」


彼らはパウロに出会うまで、聖霊の存在すら知らなかったと答えています。


使徒 19:3-4「『それでは、どの様なバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』」


バプテスマのヨハネは水の洗礼を授け、後に来られる方を信じるように人々に教えました。しかし、このユダヤ人信者たちは、エペソに住んでおり、イスラエルの地で起こった事の全てを知らなかったのです。


使徒 19:5-6「これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」


聖霊がこの信者たちに臨んだ瞬間、彼らは異言を語ったり、預言したりしました。この箇所から、聖霊に満たされると異言だけでなく、預言をする事もあると分かります。このように、使徒の働き2章、10章、19章にある三つのケースで、信者が聖霊に満たされると、異言を語る事がありました。私たちも、聖霊に満たされると、異言で語るようになると期待しても良さそうです。


終焉説について


さて、初代教会で起きた事は、今日では絶対に起こらないと主張する考えもあります。それは、終焉説と呼ばれる神学で、I コリント13章の10節にある「完全なもの」を「聖書」と解釈する事によって、それが現れた以上、異言を含む御霊の賜物は廃れるものだとしています。しかし、前後の節を合わせて、文脈に沿って理解するなら、「完全なもの」とは成長した「大人」の事を意味しています。成長した大人は、「部分的なもの」である御霊の賜物を必要としなくなるとパウロは説明しているのです。


I コリント 13:11-12「 私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。今、私達は鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見る事になります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になります。」


2023年5月3日水曜日

4 御霊の満たしを受けるには

待つ事なしに聖霊を受ける


ある集会で私が信仰に沿った教えをした後、聖霊を受けに来るよう人々を招いた所、三人が前に出て来ました。彼らは、聖霊によるバプテスマや異言を話す事を信じない教派の教会に属していました。私は彼らに言いました。「私が手を置いたら、すぐに聖霊を受けるでしょう。」それから私は彼らの上に手を置きました。彼らは皆、すぐに聖霊に満たされ、異言で話し始めました。礼拝が終わると、最近聖霊に満たされたという教派の牧師が私の所にやって来て、こう言いました。「ケニー兄弟、それは驚きでした。私はそこに立って、あなたが、『三人が聖霊に満たされる』と言うのを聞いていました。そうしたら、彼らはあっと言う間に聖霊に満たされました。どうして彼らが聖霊に満たされる事を知ったのですか?」


私は、「実際に彼らが受け取る事になるとは知りませんでしたが、彼らが受け取る事ができ、また、受け取るべきだと私の心に疑いはありませんでした」と言いました。それで私は、彼らが聖霊を受けたいと望んで前へ来たのだから、きっとそうなるだろうと信じたのです。私がこれほどはっきりと話す事ができたのは、主がかつて、幻の中で私に現れ、『人々が聖霊を受ける為に手を置きなさい』と言われたからです。主が、聖霊を受ける為に信者に手を置くようにと私を遣わされたので、私は信者が受けると期待するのです。神に感謝します。殆どの人々は聖霊を受けます。


もちろん、時には聖霊を受け取らない人もいます。神の言葉で思考を新たにするには、しばらく時間が掛かります。特に、例えば、聖霊を受ける為には待つ時間が必要だという間違った考えで混乱している場合はそうです。このような人々を正しく教え、考え方を正すのを助けるには、時間が掛かる事もあるのです。全てのクリスチャンが、新約聖書に書かれている聖霊と異言による祈りについて、神との歩みの、最初の段階から教えられるようになれば素晴らしい事です。そうすれば苦労する事もないでしょう。


私は、ある場所で三週間の集会を開いた事がありました。この三週間で、72人が聖霊を受けました。実際、前に出てきた人は皆、聖霊に満たされた。受けられなかった人は一人もおらず、その72人の殆どが即座に聖霊を受けました。聖霊に満たされるまでに、その集会に三回ほど来て、御言葉によって思考を新たにしなければならなかった人もいましたが、誰も三回以上来る必要はありませんでした。


聖霊は賜物


「聖霊に満たされるのに時間が掛かると教えるのは、肉による努力と不信仰の組み合わせ以外の何ものでもない。」これは、ある有名な教師が言った言葉です。それは本当です。私の長年の奉仕の活動を通して、人々が聖霊を受ける為に信仰を持った時、ただ神に協力さえすれば、彼らは聖霊を受けるという事が分かりました。私が、人々が聖霊のバプテスマを受けるように奉仕する時、それについて何か疑いを持つ事はありません。というのも、私は若い時に、御言葉に書かれている事を学んでいたからです。


当時、まだ私が聖霊のバプテスマを体験する前の頃、私が聖霊によるバプテスマの問題について何を信じるべきかを理解しようとして祈っていた時に、私は神から啓示を与えられました。突然、主が私の心に語りかけ、使徒言行録2章39節に書かれている事を尋ねられました。私はその一節を引用しました。「この約束は、あなた方に、あなた方の子供たちに、そして遠くにいる全ての人々に、すなわち、私達の神である主が召される人なら誰にでも、与えられているのです。」すると主は私に尋ねました。「何の約束ですか?」私は答えました。「38節の後半にはこう書かれています。...そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」その時、私はすぐに、聖霊は賜物だと理解しました。神から無償で与えられた贈物なので、私はそれを受け取るのに待つ理由はないと思い、すぐに受け取る事に決めたのです。


それで私は、知り合いの牧師の家に行って、今すぐ聖霊を受けようと思いました。牧師の家に着くと、彼は私に言いました。「ケニー兄弟、今夜の礼拝が終わるまで待って、祭壇で聖霊を求めたらどうですか?」私は自信を持って言いました。「いえ、聖霊の満たしを受け取るのにそんなに時間は掛かりませんから。」そして、私はその五分後に異言を話していたのでした。何故、聖霊の満たしを受け取るのに待つ時間が必要でなかったのでしょう?それは、信じる者全てに神が惜しみなく与えて下さった贈り物の為に、私たちは待つ必要がないからなのです!


2023年5月2日火曜日

5 聖霊の満たしの証

聖霊の満たしの証


ある日、私たちの町で特別集会がありました。それは、聖霊派の人たちが開いたもので、彼らは私と似たような事を信じていた事が分かりました。私は説教者の話しを聞いて非常に喜びました。同じ信仰を持つ人たちとの交わりが始まったのは、それがきっかけとなりました。その交わりによって、私の信仰は強められると思ったからです。聖霊派の人たちは私と同じような救いの理解を持っており、癒し、聖霊のバプテスマに関しても同じ考えを持っていました。しかし異言に関しては、私が所属していた教団の教えは、彼らとは異なるものでした。それについては、私自身もまだはっきりとした理解を持っていませんでした。聖霊の満たしについては信じていましたが、異言については実際のところ、私は避けていたのです。癒しを信じていた聖霊派の人たちとの良い交わりを保つ為、私は異言については触れずに、仲良く付き合っていたのでした。


ある時、私は聖霊のバプテスマについて主に尋ねました。私自信、それを体験したいと思っていましたが、どうしても異言の事について知りたいと思っていました。「主よ、この聖霊について、誰が正しい事を言っているのでしょうか?私たちの教派の指導者の一人は、人は新しく生まれ変われば、聖霊を持っていると言います。でも、他の指導者は、聖霊のバプテスマと呼ばれる救いに続く体験があるが、異言を話す必要はないとも言っています。そして、聖霊派の人たちは、使徒 2:4 を土台に教えています。」


使徒 2:4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」


主は、私にこの御言葉に注意して読むように促されました。聖霊に満たされた人は皆、「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」とあります。特に、「異言はオプション的なもの」とは明言されていません。むしろ、聖霊に満たされた時、異言を語ったという事が三度もありました。


私が異言について否定的な考えをやめ、ただ聖霊に満たされる事の大切さを認めた時、私は知り合いの牧師の所へ行く事に決めました。牧師は私を快く迎えて下さいました。私はその牧師に聖霊に満たされたいと希望しました。すると彼は答えました。「ケニー兄弟、今、この私の友人の伝道師と集会をしているところなんです。今夜の礼拝が終わるまで待って、それから聖霊を求めたらどうですか?」


既に夕方の六時になっており、礼拝は7時から始まる事になっていました。しかし私は、聖霊の満たしを受け取るのには、それほど時間は掛からないでしょう」と答えました。それでその牧師は、私を彼の家へ入れてくれました。私は居間に行って、大きな椅子のそばにひざまずきました。牧師と伝道師がそうするように言ったのではありませんでした。私は、ただ内からの衝動に駆られてそうしたのです。それから私は手を上げ、目を閉じ、祈り始めました。「主よ、私は聖霊の満たしを受ける為にここに来ました。信仰によって私は新しく生まれ、信仰によって癒しを受けました。今、私は信仰によって聖霊の満たしを受けます!私は今、聖霊に満たされています。そして今、私は聖霊が私に言葉を与えて下さるので、異言で話す事を期待します。ペンテコステの日に使徒たちがしたように、また使徒言行録を通して信者たちがしたように、異言を話す事を期待します。私は神を賛美します。聖霊が私に言葉を与え、異言を語る事ができるので、主よ、あなたに感謝します。」それから私は、「ハレルヤ」と十回ほど言いました。全く何の変化も感じませんでしたが、私は何も感じないからという理由でやめる事はしませんでした。


II コリント 5:7 「私達は見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」


この聖句の意味は、神が私たちに教えている事を信じて歩むという事なのです。ですから、「ハレルヤ」と私が何度か言いながら何も感じなかったとしても、私は聖霊と異言を与えて下さった神に感謝しました。聖霊の満たしを受ける事に関しては、人それぞれ違う経験がある事については、私も知っています。多くの人は、他の異言で話すという一般的な経験以外には、超自然的な現れは全くないものです。一方で、炎のようなものが現れて、教会の人々が一斉に異言を話しだしたというケースも聞いた事がありました。天井から光のビームが降りてきて、異言を話しだしたという人もいると聞いた事もあります。私の場合、炎も光のビームも見る事はありませんでした。私はただ目を閉じていたのです。しかし突然、私の内側に、燃えるような火を感じました。何が起こるか分からなかったので、「主よ、この火照りが止まらなければ、私はやめなければなりません!」と言いました。


その時、奇妙な言葉が心の中に沸き上がって来る感じがしました。その言葉が何なのか、口に出せば分かるような気がしました。それで私が口に出すと、異言が流れるように出て来ました。私の時計を見ると、祈り始めてから僅か五分たったほどでした。私はそのまま異言で一時間も祈り続けました。やめようと思えばやめられたのですが、私はそのまま祈ろうと思いました。私はその体験を通して、神の言葉を信じるなら、聖霊を受けるのに時間は掛からないと理解したのです。


他の賜物


聖書に書かれている事を見て、それを信じた後、私は聖霊に満たされました。それから、私は神の御言葉をよく調べるようになり、使徒言行録の中で、信者が聖霊に満たされると、異言を語る事がある事が分かりました。多くの人々が、聖書にそのように書かれている事を見ても、それをあまり信じていない事には驚きです。その中には、説教者や牧師も含まれています。「では、異言を求める必要がありますか」と聞かれる事が時々あります。私はそういう人たちに言います。「いいえ、聖書は私たちが異言を求めるようにとは言っていません。私たちが求めるのは、異言を与えて下さるお方、聖霊です。」私の場合、異言を求めてはいませんでしたが、異言で話す事を期待していました。聖書は、聖霊によって完全に満たされると、異言を話すとあるからです。


私は異言を話したので聖霊の満たしを受けた事は分かっていたのでしたが、正直に言うと、全てが満足というわけではありませんでした。聖霊派の人たちが聖霊に満たされた時の体験が壮絶だったと証言しているのを聞いた事があったので、私は圧倒されるような、感情的に高まるような体験を期待していたのです。聖霊のバプテスマは、単に肉体的、感情的に影響を与える祝福を受けるだけではない事を、私はまだはっきりと知りませんでした。ただ私は、異言を話したのだから、聖書が言うように、聖霊の満たしを受けたと確信したのです。


ですから私は、その後も、主の御霊で私を満たして下さった主に感謝し、賛美し続けました。それ以来、失望を感じる事はありませんでした。それからしばらくして、私は知識の言葉を通して御霊が働いている事にも気づきました。次第にその賜物がはっきりと現れる事が分かってきました。聖霊に満たされると、異言を話すだけでなく、他の霊的賜物を受ける事があるようです。たとえば、使徒言行録19章では、エペソの弟子たちが聖霊を受けた時に異言を語っただけでなく、そのうちの何人かは預言もした事が書かれています。そして多くの場合、他の霊の賜物も、神と共に歩み初めるにつれて、加えられるようです。しかし、ここで覚えておかなければならないのは、異言で話す事が最初の賜物であるという事です。それこそが、聖霊の満たしを受ける時に期待すべきものなのです。


知恵をもって歩む


聖霊に満たされた後、私は所属していた教派から離れて聖霊派に移りましたが、私が新しい仲間に加わった途端に、その人たちを正そうとするのが私の役目ではない事を知っていました。別の場所の新しい教会で牧師として二年目に入った時、私は聖霊派の人々が聖霊の満たしを求めにやって来るのを見ました。彼らは、聖霊に満たされる為に、祈りながら聖霊をひたすら待っていました。私は他の教会の人々に、彼らと共にいて、一緒に祈ってあげるよう指示しました。私は、彼らがそのようにする必要がない事を知っていましたが、その時には何も言いませんでした。人々は、「主よ、ここに来て下さい」と歌いました。しかし聖書によると、聖霊はもう来られたのです。私たちは、聖霊に来て下さいと懇願する必要はないのです。人々がそのようにして歌ったり、懇願する必要がなかったのですが、私はその教会に来て二年は、何も言いませんでした。何故なら、それが彼らのやり方であって、彼らはその方法でも、聖霊の満たしを体験していたからです。私は彼らとの議論を避ける事にしました。


このような状況において、何をするべきでしょう?私はただ、ひたすら聖書を開いて説明し、それを証明する私自身の証を加えました。彼らは議論する事もなく、私の言う事に耳を傾けました。そして彼らは徐々に、聖霊の満たしを受ける為に、聖霊が来られるのを待つ必要がないと理解して行きました。私は最終的に、聖書的な方法で彼らが聖霊の満たしを受けるように導く事ができました。


2023年5月1日月曜日

6 神は求めている人を満たされる

神は求めている人に訪れる


聖霊に満たされ、異言を話し始めるまでは、適切に霊的に成長する事はできません。聖霊に満たされ、異言を語らなければ満たされないものがあるのです。私の場合、聖霊を受ける前に、既に五年間説教をしていました。私は霊において、自分が救われた事、自分が神の子である事を理解していました。私は人々に説教し、他の人々が救われるのを見て来ました。病人の為に祈ると、彼らが癒されるのを見ました。しかし、聖霊を受けて異言を話すまでは、私の霊には決して満たされる事のない虚しさがありました。


ある教会の牧師が次の証しを私に話してくれました。昼食会の数日前、この牧師は自分の教会の聖堂で聖霊の満たしを受けていました。皆で座って食事をしていた時、私がこの牧師に目をやると、彼の顔が輝いていたように見えました。それからこの牧師は立ち上がり、証しを私たちにシェアし始めました。「今日ここに来られて本当に嬉しく思います。以前、皆さんについての否定的な噂をよく耳にしていましたが、残念な事に、私はそれを信じていたのです。しかし、当時の私の心はとても飢えていて、正しい判断ができませんでした。その頃、その飢えを満たしてくれるものは何もないように思えました。私は何年も説教をしてきたし、教会も新しい建物を建てたばかりだったにも関わらず、私の中には虚しさがあったのです。新約聖書を読めば読むほど、自分には人々の霊的なニーズに応えるだけの力がないと、自分の霊の中で確信するようになりました。」 


その牧師はそれから、数日前に教会の聖堂の通路を上り下りしながら祈っていた時の事を話してくれました。彼は祈りました。「主よ、新約聖書を読むと、あなたの初期の弟子たちは私にはないものを持っていた事が分かります。あなたは弟子たちに、高い所から力を授かるまでエルサレムに留まるように言われました。何らかの方法で、私が受け取る事ができるはずです。自分が救われている事は知っています。しかし、奉仕の働きを続けて行くには、それ以上のものを持たなければなりません。私はとても不十分だと感じています。あなたが私に与えたいと望んでおられるものを受け取らずに、再び教壇に立つ事はできません。虚しい気持ちで人々に向き合う事はできないのです。それから、聖霊派の人たちや異言についてよく耳にしますが、主よ、どう考えて良いのか分かりません。しかし、それがあなたからの必要なものであれば、それを与えて下さい。」牧師は教会の通路を行ったり来たりしながら、主に語りかけました。突然、彼は両手を上げて絶望的に叫んだのです。「神よ、聞いて下さい。あなたの霊で私を満たして下さい。」すると聖霊が彼の上に望み、彼は異言を話し始めました。この牧師は、これが聖霊派の人たちがいつも話している事なのだと理解し、すぐに、同じ体験をした誰かと交わりたいと思うようになりました。私の知っている、別の牧師の話しからも、神が求める人々を聖霊で満たす事が分かります。


私は、ある教団の牧師と釣りに行った事があります。その牧師は私との会話において、ただお互いにとって異議のない聖書の話題ばかりを話しました。聖霊や異言について一言も語りませんでした。それから何年かして、私は彼に電話で話す用事があり、彼の電話番号を調べて電話をかけました。電話に出た牧師は、二人で釣りに行った事を思い出してくれました。すると、この牧師はこう漏らしたのです。「恐らく、私はあなた方が持っているものを受け取ったようです!」「どういう事ですか?」と私が尋ねると、「聖霊のバプテスマの事です」と彼は答えました。そして電話越しに異言を語ったのです。「それですよ。あなたは聖霊のバプテスマを受けたのです。神を褒め称えます」と私は彼に言いました。この牧師の証言は、私が長年に渡って聞いてきた他の多くの人々の証言と同じです。これらの証言と御言葉から、そして私自身の個人的な経験から、神は御霊を求めている人の所に来て下さるという事実を、私は知っています。


求めている人々


1960年に私が経験した御霊に満たされた体験の中で、ここで話している事に関連するものを、また紹介しましょう。何故なら、私は神が御自分の民が御霊に満たされる事を望んでおられると確信しているからです。カンザスで開いた集会で起きた事です。私は数年前に主が与えて下さったある幻を会衆に話している最中でした。突然、私はその幻の一部を間違って解釈していた事に気づいたのです。その瞬間まで、幻全体の解釈を受け取った事はありませんでした。その啓示に打ちのめされた私は、すぐに話すのをやめ、説教壇の後ろにひざまずいて祈り始めた。会衆も私と一緒に祈り始めました。祈りの時間が終わる頃、私はトランス状態に陥り、身体感覚がなくなるように感じました。そのトランス状態の中で、私は突然、別の場所にいました。花が咲き乱れる美しい庭に向かって歩いていたのです。庭には白いフェンスが巡らされ、たくさんの小道が通っていました。庭の真ん中は、つる草や花で溢れ、その両脇には大理石のベンチが置かれていました。


私が東側からこの庭の門の所まで歩いて来ると、主が門のそばに立っておられました。主は手を伸ばされ、私の右手を握られ、左手で門を開いて私を中に引き入れて下さいました。それから、庭の真ん中へと私を導いて下さいました。主はベンチにお座りになり、私を隣に座らせました。私が西の方を見ると、庭の西側に川が流れていました。川は庭に入る所で非常に狭くなっていました。しかし、この川が我々に向かって流れているのを見ているうちに、川幅はどんどん広くなり、約8キロメートルもの幅があるように思えました。突然、川は水の川ではなく、多くの人々の川となりました。私は、彼らが強大な軍隊のように私たちに向かって流れてくるのが見えました。私は尋ねました。「主よ、私の見ているこの川は何ですか?この人たちは誰ですか?」


するとイエスは答えられました。「庭に流れ込むこの川は、他の教派から人々で、聖霊のバプテスマとペンテコステのメッセージの充満に導かれる人々です。この時代において、私は全ての求める人々を訪れ、 多くの人が私が訪れないと思うような宗教的な地域にも訪れるでしょう。人々が心を開いて求めているからです。あなたが見ている庭に流れ込んでいる人たちは、これから来る人たちです。」神に感謝します。何年も前に見たあの幻以来、私たちは数え切れないほどの大勢の飢えた心が聖霊の満たしを得るのを目の当たりにしてきました。そして、その川にはまだ終わりがありません。そして、幻の中で私は尋ねました。「主よ、これらの花々とあの素晴らしい芳しい香りは何を表しているのでしょうか?」イエスは答えられました。「これらの花の美しい香りは、私の霊の充満に入る者たちの香りとして、私の御座に昇る賛美です。あなたはその一翼を担わなければなりません。様々な教派の人たちと協力するのです。私の到来に備える為に人々を助けるのです。私はどのように、何をあなたがすべきかを示します。」この真理は、1960年代、私たちがカリスマ運動と呼んでいる神の動きの中で、私が確信したものでした。


私はある会合で、ピーターソンという人と共に講演者の一人として、その場にいました。ピーターソン兄弟は、ある集会で、ある人が教えの最中に聴衆の後ろに立ち、異議を唱えた時の事を話してくれました。聴衆の誰もが彼の言葉を聞き取れるわけではなかったので、ピーターソン兄弟は言ました。「兄弟、言いたい事があるなら、皆に聞こえるようにここに来てくれないか。」明らかに動揺していたその男性が前に出てくると、ピーターソン兄弟は彼にマイクを手渡しました。その人は、「私は牧師ですが、異言は話しません。しかし、私はあなたや他の誰よりも聖霊に満たされています!私は異言で話さないし、異言で話す必要もありません!」


ピーターソン兄弟はとても冷静で優しい人でした。彼がマイクをこの人から取って言いました。「愛する兄弟よ、あなたが今持っているものに満足しているなら、それは私たちにとって喜ばしい事です。これ以上神を望まないのであれば、或いは、必要なものは全て持っているというのであれば...」 するとその牧師は割って入ってきて言いました。「いいえ、私は神をこれ以上求めないとは言っていません。」そこでピーターソン兄弟は「あなたの話し方から、私はあなたが今まで望んでいたもの全てを持ったのだと思いましたよ」と言いました。「いやいや、私はまだ求めていますとも...」とこの牧師が答えると、彼はそれ以上何も言えなくなりました。そこでピーターソン兄弟は、彼に手を置いて祈りました。「主よ、この人は求めています。もっと与えて下さい。」するとこの牧師は、すぐその場で聖霊に満たされ、異言を話だしたのです!そうなったのは、この人が求めていたからでした。彼は神と共に歩む事に前向きだったのですが、神をより深く理解する為には、異言で話す事が必要だという事に気づいていなかっただけなのでした。この牧師は、新生において既に聖霊に導かれていましたが、その日、彼は神との歩みにおいて、新しい、より深い次元に足を踏み入れたのでした。


求める人への賜物


第二次世界大戦直後、ある教派のアフリカ宣教師の証言を読んだ事があります。1947年、ある女性宣教師はアフリカの潅木地帯で35年間休む事なく宣教した後、初めて米国に戻りました。滞在先のニューヨークの教会に彼女が訪れた時、そこの牧師夫妻が彼女を祈りの部屋へと迎え入れてくれました。そこでは、教会の人々が救いの為に、聖霊に満たされるように祈っていました。宣教師が観察していると、祈祷室にいた何人かの信者が異言を話し始めました。牧師婦人はその女性に、「あの人たちは聖霊に満たされているのです 」と説明しました。宣教師はこう答えました。「聖霊派の人たちと一緒にいた事はありませんが、彼らが異言について話していたのを聞いた事はあります。この人たちがおかしな言葉で話しているのがそうですか?」「あなたが聞いているのは、異言で、聖霊に満たされたというしるしなのですよ」と牧師婦人は答えました。


宣教師は話ました。「まあ、私もそれをずっと持っています。神が私を祝福してくれましたが、何と呼ぶのか知りませんでした。数年前、若い独身宣教師として初めてアフリカに来た時、私は宣教師になる事について華やかな考えを持っていたのです。でも、実際に行ってみると、それは大変な事でした。わずか数カ月後、私は藁葺き屋根の小さな草小屋で膝をついて祈りました。『主よ、あなたが私を呼んで下さった事を信じます。あなたの御手が私の人生に注がれていると信じています。しかし、私にはその為のものがありません。主よ、もっとあなたが必要です』と。私はできる限りそのように祈り続けました。しかしある日、私は絶望的な気持ちになり、祈りの中で叫びました。『主よ、私は続けられません!あなたが私を送って下さった事は分かっていますし、応援してくれている人たちを失望させたくはありません。でも、もっとあなたが必要です。でないと、私はあきらめて家に帰るしかありません。』すると突然、私はここにいる人たちが話しているような、奇妙に聞こえる言葉を話し始め、その後、同じ奇妙な言葉で歌い始めたのです。私は喜びに満たされ、神様が私に何か良いものを与えて下さったと思いました!それが誰にでも与えられるものだとは知りませんでした!しかし、それ以来35年間、毎日、私は神と二人きりになり、その奇妙な言葉で神と交わりを持って来ました。私もよくそうやって歌います!それは私を高め、とても祝福してくれます。」


この女性宣教師の証しから、聖霊によるバプテスマや異言を何と呼ぶか、それらについてよく知っているかどうかは、それほど重要ではない事を示しています。重要な事は、この超自然的な祝福を受ける事なのです!私は、この証しに関連する、別の証言を聞いた事がありました。それは、フルゴスペルの宣教師からでした。彼はアフリカのある教会に招かれて説教した時の事を話してくれました。その宣教師は、論争になりそうなテーマを避け、救いのメッセージを説く事に努めていました。彼の救いのメッセージの後、7人が救いを求めて祭壇に進み出ました。教会の祭壇にその教会の奉仕者たちが彼らの周りに集まりました。


この宣教師はクリスチャン全員を祭壇の周りに招いて祈りました。すると、救われに来た7人のうち3人が突然、異言を話し始めたのです!その宣教師は失敗したと思い、そこの教会の牧師に謝ろうとして言いました。「兄弟、私は問題を起こすつもりはありませんでした。私はただ救いのメッセージを説いただけです!」その教会の牧師は、「どうしたと言うのです?」と言いました。「この信者の方々は異言を話しているのです。聖霊に満たされたのです」と宣教師が答えると、「それを聖霊の満たしというのですか?私たちの回心者は、それをずっと体験してきていますよ。私たちはそれを清めと呼んでいるのです。まあ、私たちがそれを何と呼ぼうが、神は御名を呼ぶ全ての人に、この貴重な贈り物を用意されたのですね」とその教会の牧師は言いました。どこの信者であれ、ただもっと神を求めて、聖霊に満たされれば良いだけの事なのです!


2023年4月3日月曜日

7 聖霊の満たしを受けるには

聖霊の満たしを受けるには


聖霊に満たされようと思っても、なかなか聖霊を受けられない人がいます。その理由の一つに、異言に対する誤解が、つまずきとなっている事があります。異言とは、私たちを通して聖霊が語られる事ではりません。


I コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


神は、私たちの理解とは別に、私たちの霊によって祈る方法を用意されました。聖霊が祈られるのではなく、聖霊が私たちの祈りを助けて下さるのです。厳密には、聖霊が私たちと共に祈って下さいます。しかし、聖霊が私たちを通して異言を語って下さるのではありません。むしろ聖霊は、私たちに語る異言の言葉を与えて下さり、私たちがそれを発するのです。多くの人々は、ここを見逃しています。彼らは聖霊が話して下さるのをじっと待っていたり、私たちの口を動かして下さるのを待っています。聖霊は言葉を与えて下さるお方ですが、それを信仰によって発するのは私たちなのです。


使徒 2:4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」 


ペンテコステの日、聖霊は異言の言葉を与えましたが、信者がそれを話したのです。私は、この事を理解していない人と会話をした事を覚えています。1952年2月、私はある教会で集会を開いていた時の話です。ある教会の女性が、その集会について手紙を書いて、彼女の友人を教会に誘った事がありました。「ここの教会の人たちはみな、聖霊を受けています。週末に一緒に集会に参加しませんか?」その人は長年、聖霊のバプテスマを求めていた人でした。それで、この誘いを受けた人は土曜の礼拝に来ました。彼女が聖霊の満たしを受けるように、私は彼女に手を置いたのでした。 次の日曜日の朝にも、その女性は礼拝に来ていました。その日曜日の朝、私は説教をし、礼拝を牧師に引き継ぎました。牧師がアナウンスをしていると、手紙を書いた女性が手を挙げ、兄弟と牧師を遮るように言いました。牧師はそれに気づいてアナウンスを中断しました。その女性は、「ケニー兄弟が私の友人に手を置いたのですが、もう一度そうして頂く事はできないでしょうか?彼女はもう戻らなくてはなりません。聖霊の満たしを受けられなくてがっかりしています」と言いました。牧師は私の方を見たので、「分かりました。そうしましょう」と私は答えました。それでその女性が前の方に出てきたので、私は彼女に手を置きました。その時、聖霊が彼女に言葉を与えたのですが、彼女は異言を話しませんでした。私は彼女に長々と助言を与える時間もなかったので、そこで終わりになりました。そこの牧師はその夜の集会を解散させようとしていたのです。


その後、私が教会の駐車場で歩いていた時、彼女たちが車で座っていた所を通り過ぎました。聖霊の満たしを求めていた女性は、がっかりした様子で座っていました。私も申し訳ない気持ちでいました。それで私は、彼女たちの車の所へ戻り、窓をノックしました。彼女は私を見て驚きましたが、窓を開けてくれました。私はその女性の問題をはっきりと理解していました。ただ、礼拝の遅い時間に、皆の前で色々と言わなかったのです。そこで私は、「姉妹、聖書はそこにありますか?」と尋ねました。彼女はうなずきました。「使徒言行録2章4節を開いて、読んでもらえますか」と私は言いました。女性はその一節を声に出して読みました。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。」それから私は、「その聖句によると、誰が異言を話しましたか」と尋ねました。「どうしてですか?聖霊です」と彼女は答えました。私は彼女がそう言う事を知っていました。それが彼女の問題だったのです。彼女は、聖霊が彼女を通して異言を語られるのを待っていたのです。しかし、聖霊が異言を語られるのではありません。そこで私は、「もう一度その箇所を声に出して読んで下さい」と言いました。彼女はもう一度読み、再び私は同じ質問をしました。「誰が異言で祈ったのですか」と私が尋ねると、聖霊が異言を語ったと彼女は答えました。私はもう一度その箇所を彼女に読んでもらい、また、同じ質問をしました。彼女がその箇所をもう一度読んだ時、「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた」という意味がやっと理解できたようで、「人々が異言を語ったのですね」と彼女は答えました。そして彼女は言いました。「私は、この聖句が聖霊が異言を語ると言っているものだと思っていました。」


その後、私は人々が異言を語った事が書かれてある別の聖書箇所を彼女に見せました。「別の質問をしても宜しいですか?」私は彼女に尋ねました。「どうぞ」と彼女が答えると、私は「あなたの内に何かあって、それが口から出て来るような感覚がありましたか?」すると彼女は、「ありました。私はそれを抑えていたのです」と彼女は言いました。「そうするべきではなかったのですよ」と私は説明しました。「その促しに委ねて異言を話せば良かったのです。もしかすると、その抑えている何かをまだ感じているのではないですか?」と私は言いました。「そうです」と彼女は言い、「では、そのまま委ねてみて下さい」と私が言ったとたん、その女性は異言で流暢に話し始めました!その女性は窓を開けまま車の中で座り、異言を話し、主との素晴らしい交わりをしました。他の教会の人々がその近くに歩いて来ると、先程の聖霊の満たしを受けずに落ち込んでいた女性が、急に流暢に異言で話しているのを聞いたのでした。何年もの間、私は聖霊の満たしについて奉仕する際に、このような間違った考えを持った人々に何度も出くわして来ました。ある人々は、聖霊がその人の意志とは関係なしに、ただ異言が口から出て来るものだと思っています。しかし、聖書は聖霊が人々を通して異言を語られるとは言っていません。聖書は、人々が異言を語ったと言っているのです。


I コリント 14:18「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」


パウロは、「聖霊が誰よりも私を通して異言を語って下さる事を神に感謝しています」とは言っていません。パウロ自身が異言を語っていたのです。


聖霊が促すままに語る


信者は、聖霊によって促されて異言を話す事があります。聖霊は強いて誰も何かをさせようとはしません。しかし、聖霊は導いたり、促したりします。私たちが聖霊の促しを感じる時には、それに抵抗してはいけません。御霊の人を助ける事に関しての促しは、いつでもタイミングが良いものです。


ある時、私が招かれた教会で、人々が聖霊を待たずに満たされる事について説教した事がありました。それらの人々にとっては、新しいメッセージでした。メッセージの後、私は聖霊に満たされたい人は前に出てくるように言いました。前に出てきた人の中に、何年も聖霊の満たしを受けずにいた、男の人がいました。最初の五人に私が手を置くと、彼らはすぐに異言を話し出しました。それから、その男性の所に私が来た時、彼は目を閉じて、両手を上げていました。彼に手を置こうとした時、私は知識の言葉によって、彼の問題を知りました。私は、「目を開けて、私を見て下さい」と彼に言いました。「あなたの人生には、聖霊に満たされる事を妨げるものは何もありません。あなたには、聖霊の満たしを受けるのを妨げるような隠れた罪などはないのです」と私が言うと、「ええっ!本当にそう思いますか?」と彼は目を開いて言いました。後で聞いた話によると、悪霊がこの男性を思いの中で苦しめていた事が分かりました。その為に、彼は夜も眠れず、ひどい頭痛に数日も悩まされていたのでした。隠れた罪などあるわけがないのです。私たちの良心はそれを教えてくれます。もし、良心が何も訴えていないのなら、何かに悩まされる必要はないのです。


それから、私はこの人に言いました。「私があなたの上に三回ほど手を置きます。そうすると、あなたは聖霊に満たされます。」またこの男性は聞きました。「本当ですか?」私は、「その通りです」と答えました。彼は大きな期待に満ちていました。そして私が「イエスの御名によって、聖霊に満たされなさい」と言って彼に手を置くと、彼は少しどもり始め、異言で少し話し始めました。私は、「兄弟、それです。御霊はあなたに異言の言葉を与えています。そのまま大胆に異言で話して下さい」と言いました。するとその男性は、声を上げて異言で祈り始めました。突然、彼は自分が他の言葉で話しているのが聞こえ、感激してあちこちで踊り始めました。後に聞いたところ、彼は20年以上も、悪霊に苦しめられて来たと言いました。人が御言葉を知らないなら、敵はその人を思う存分苦しめる事ができるのです。そして彼もまた、聖霊が彼を通して語られる事が異言だと誤解していたのでした。それが理由で、彼も正しく聖霊に満たされ、異言を話す事ができなかったのです。もしあなたが聖霊のバプテスマを受ける為に祈り、異言を話す事で悩んでいるのなら、これらの人々の証しを参考にして下さい。御霊があなたに語るべき言葉を与えおられると信じ、信仰によって異言で語るのです。実際、異言で語るたびに、私たちは信仰を実践しているのです。


十分に満たされる


ヨハネ 7:37-39「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受ける事になる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」


イエスのもとに来て飲む水とは、聖霊の事です。そして、ペンテコステの日に、人々は聖霊という水を飲んで満たされました。従って、私たちが聖霊に満たされるには、御霊を飲めば良いのです。イエスは来て、飲みなさいと言って私たちを招いておられます。聖霊に十分に満たされる時、私たちは異言を話します。それはまた、自分の霊が満足するまで、異言で自由に話しなさいという事でもあるのです!


I コリント 12:13「私達はみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」


パウロも同じように水の例えを用いています。このバプテスマは、キリストという一つの体に属するもの、つまり、新生の意味としてパウロは使っています。しかし、ただ一杯の水を飲んだだけでは、聖霊の充満には至りません。クリスチャンである限り、聖霊はあなたのうちに宿りますが、それと聖霊の満たしは別の事なのです。御霊によって生まれる事と、御霊に満たされる事は別の事なのです。聖書は、半分だけ、2/3だけとは言っていません。ただ満たされなさいと言っています。ですから、もし聖霊に満たされていないなら、満たされるまで聖霊を飲んで下さい。どのようにして、満たされている事が分かるのかというと、その答えは、使徒言行録2章4節にあります。人々が聖霊に満たされると、彼らは異言を話し始めたのです。聖書を読むと、多くの場合、人々は異言を話した事が分かります。イエスの招きはシンプルなものです。「誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」です。しかし、口を閉じていては飲む事ができません。聖霊を飲むにも、御霊に委ね、口を開けて、異言を語る事について、神に信頼をおかなければいけないのです。一度異言を話せるようになると、毎日異言で祈る事によって、聖霊を十分に飲み続ける事ができるのです!


信仰


異言を話す事を妨げるものの一つに、信仰の欠如があります。聖霊は異言の言葉を与えられますが、その人が自分で決断して、口を開き、話さなければならないのです。イエスに聖霊のバプテスマを求めた後、心を静め、聖霊が内面に言葉を与えて下さる事を感じ取れば良いのです。聖霊に心を開き、聖霊に十分に満たされると、自然に異言が出るようになるので、できる限り神を信頼し、神に委ねた方が良いかもしれません。一方、もし異言を発したなら、そのまま思い切って、言葉を口にしてみる必要があります。ここでも、あまり考えすぎずに、神に信頼して、口に出してみる事です。その人がリラックスして異言で話せる環境も必要かもしれませんし、他の人が周りで一緒に異言で祈ってあげる事も悪くありません。


ある夜の集会で、若い男性が聖霊を受けたいと前に出て来た事がありました。私がその人に手を置くと、彼は聖霊の満たしを受けたのですが、その人は異言たった二つの言葉だけを話ました。次の夜、牧師が集会中に救われた人、癒された人、聖霊に満たされた人の証しを求めた時、この青年が立ち上がって、「昨夜、私を聖霊で満たして下さった神を褒め称えます」と言って、自分の席に座りました。次の夜、牧師はまた証しをしたい人がいるか会衆に聞きました。再びこの青年が立ち上がって、「神に感謝したいと思います。二日前の夜、ケニー兄弟が私に手を置いて下さった時、私は聖霊の満たしを受け、異言で話す事ができました」と証しをしました。更に次の夜、牧師は再び証しを求めました。すると、この同じ青年が席から飛び上がって話し始めました。彼は、「皆さん、三日前の夜、主は私に聖霊のバプテスマを授けて下さいました。家族がこの特別集会に出席する為に毎晩遅くまで起きているので、私は昼に仕事を終えて帰宅し、寝不足の分を補う為に、昼に仮眠を取ろうとしていました。でもこの二日間、昼寝ができませんでした。」 


それからその青年は、昼寝ができなかった理由を説明しました。私が彼に手を置いた翌日、彼が眠りにつこうとした時、悪霊が彼の心に「昨夜、聖霊に満たされたいとあなたが願った時、あなたは何も得られなかった」と何度もささやいたのでした。彼は「いや、私は聖霊に満たされました」とはっきり答えたのですが、そうすると敵は、「しかし、あなたは異言を語らなかった」と言ったのです。それで彼は、聖書を開き、使徒言行録2章4節を開いて、それを声を出して、悪霊に聞かせるように読みました。「ここに書いてある。『すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始めた。』昨日私は、まだ異言を始めたばかりなので、二つの言葉だけを話したが、私は聖霊の満たしを受けたのだ。」


次の日、この青年が昼寝の為に家に戻ったところ、また悪霊が邪魔をしに来ました。その為に、彼は寝る事ができませんでした。悪霊は、彼が二言しか異言で話せない事について彼を責め立て、彼の信仰を破壊しようとしたのです。しかし彼は、また同じ聖書の箇所を読み、悪霊にこう言いました。「私はたった二つ言葉を話しただけだ。でも、そこから始まるのだ。私は異言を話し始めたので、聖霊の満たしを受けているのだ。」それからこの男性は、私たちに次のように話しました。「今日の昼、また昼寝をしようとしたら、悪霊がこの二日の間に、私に言っていたのと同じ事を言い始めたのです。そこで私は起き上がって、聖書を開いて使徒言行録2章4節をもう一度読み聞かせました。それから私は、『三日前の夜から私は異言を話すようになったのだ。だから私は、聖霊の満たしを受けているのだ』とこの悪霊に向かって言ったのです。すると私は、自然にこの悪霊に対して笑い始めました。そして、自分が何をしているのか分からないうちに、異言を流暢に話すようになっていたのです!そして私は、残りの時間をずっと異言で祈っていたのです。」


この青年は確かに聖霊の満たしを受けました。彼がした事は、聖書の約束を信じ続け、悪霊に惑わされずに、信仰を保っただけでした。聖霊はその彼の信仰を後押ししたのでしょう。ですから、信仰がここでも鍵となるのです。そこまで神を信頼して、御言葉に留まり続けるなら、その信仰があなたを肉から霊の領域へと導き、その結果、あなたは御霊の助けを得る事になるのです。十分に聖霊に満たされていなくても、信仰によって自ら異言を話す事を決断したり、御言葉に留まって信仰を保ち続ける事で、聖霊もあなたの信仰を後押しして下さるのです。神と神の言葉に信頼を置いて下さい。そして、聖霊の助けを信頼して下さい。そうしないと、不信仰に陥って、「やっぱり、ちょっと何か口から出たといっても、聖霊の満たしを受けていないのだ」と考え始め、やがては全てを疑い始めるでしょう。悪霊は、そのような疑いに満ちた議論を使って信者を縛りつけ、本当は聖霊の満たしを受けているのにも関わらず、その恩恵を享受できないようにするのです。ただし、次の事も知っておいて下さい。聖霊に十分に満たされると、より自然に異言が出て来るのが通常です。しかし、あまり十分出ない場合でも、この男性のように御言葉に留まり続け、信仰を保つなら、聖霊は助けて下さいます。


ある人々は、自分で決断して異言を話そうとして、徐々に異言が話せるようになって行きます。もちろん、それを肉の努力としてやるのではなく、御霊が言葉を与えて下さるという信仰に基づいた行動としてやるべきです。ですから、もしあなたが異言で少ししか言葉を口にしなかったとしても、信仰を持ってその言葉を繰り返し言ったり、そのまま別の言葉で話そうと実践し続けて下さい。あなたのその信仰の一歩がある時に、御霊もあなたを助け、あなたに言葉を与えて下さるのです。初めて聖霊の満たしを体験する人々の中で、異言を一言、二言どもるような感じで異言を語る人たちがいます。異言で流暢にすぐ話す人もいれば、そうでない場合もあります。そんな時でも、そのまま異言を話し続けて下さい。そうすれば、やがてあなたの心の奥底から、安定した流れがあなたの口から流れ出し、神の祝福が満ち溢れるようになる事でしょう。


外見的な行動に目を向けない


私たちは往々にして、霊的な事柄を肉的な基準で判断しようとし、その人が外見上どのように振る舞うかによって、その人が神から何を受けているか、あるいは受けていないかを決めてしまう事があります。例えば、聖霊の満たしを受ける為に、三人の人が前に出たとします。そのうちの一人が聖霊の満たしを受けると、異言を静かに話し出したとします。もう一人は、異言で話しながら、喜びで霊の歌を歌いました。三人目は異言を語り、喜びのあまり踊り出しまし、泣きながら集会にいた人全員とハグしました。翌日、誰かがその場にいた人々に「昨晩の礼拝では何があったのですか?」と尋ねたとします。そうすると殆どの人々は、「三人が聖霊の満たしを受けましたが、そのうちの二人は本当に聖霊の満たしを受けました」と言うのです。人が聖霊に十分に満たされると、確かに異言で話し出します。時には、感情を伴う事があるでしょう。しかし、誰がより深く聖霊に満たされているかについては、外側の行動だけでは分かりません。その後、その人が信仰によって大胆にあるき始め、様々な分野で神の力にあって歩み始めるなら、その人は深い霊の領域を体験したと言えるでしょう。基本的には、聖霊の満たしを受けたかどうかを周りの人たちが判断するには、その人が異言を話すかどうかによります。しかし、それ以上に重要なのは、その人の後の歩みです。一度だけ聖霊に満たされる事が大事なのではなく、そこを起点として、異言によって祈る生活が続くかどうかなのです。


満たし以上のもの


何年も前、私はある牧師夫妻の教会で集会を開いていました。この二人は、私の親しい友人でもありました。ある朝の礼拝の時に、一人の女性が「私の為に祈って欲しいのです。私は聖霊に満たされる必要がある事を知るようになったのです」と私と私の友人に尋ねました。そこで私の友人の牧師が、「今が絶好のタイミングですね。祈りましょう」と言いました。彼女は、「いいえ、皆さんに祈って欲しいのですけれど、今は受け取る事ができません。もっと調べなければならない事があるので」と言いました。彼女は、聖霊を受ける準備ができるまでには、もっと祈り、準備する必要があるという意味でそのように言ったのでした。「あなたは救われているのですよね?」と彼が尋ねると、「はい」と彼女は答えました。「イエスの血を通して罪が赦されていますよね?新生した神の子ではありませんか?」彼女は、「はい。そうです」と答えました。「今もし、死んでしまっても、天の御国に行くのではないですか?」と彼が聞くと、「そうです」と彼女ははっきりと答えました。その牧師は、「天国に行くのにあなたはふさわしい者であるなら、御霊の満たしを受ける事にも、十分ふさわしいのです。それ以上、祈る必要はありません」と答えました。この女性はようやく理解し始めました。それから、私たちはこの女性の為に祈りました。すると彼女はすぐに御霊の満たしを受け、異言で話し始めたのでした。


クリスチャンはしばしば、この女性が考えるように、聖書が教えていないものを信じています。人々は、神が与えると約束されたものを受け取るのにふさわしい、立派な人になる為に、何かをしなければならないと考えるのです。或いは、異言について否定的になって、恵みによって受けられる祝福の中から、自ら外に出てしまうのです。神の子が信仰をもって聖霊に満たされたいと願う時、天の父はその願いを拒む事はありません。この事をしっかりと知っておかなければなりません。人が聖霊の満たしを受ける時、異言を話す事になります。ただ、聖霊に委ねて異言を話せば良いだけの事です。ですから、神を信頼し、これらについて書いてある御言葉を信頼して、リラックスして、異言を話し始めて下さい。私たちの天の父は、聖霊の満たしを求める者に、違うものをお与えになりません。ただ神を信頼し、聖霊に十分に満たされて下さい。そして、御霊が与える言葉を口にして下さい。自分自身や他の人々の意見ではなく、御言葉に信頼を置き、それを実践するだけです。そして、神が与えるこの異言でたくさん祈る事を通して、私たちは全く新しい霊の領域に入る事ができるのです!


2023年4月2日日曜日

8 より素晴らしい体験

より素晴らしい体験


聖霊を受ける事は、最初の霊的経験以上のものです。これが、非常に多くの信者が見逃している点です。彼らは聖霊に満たされた日(聖霊のバプテスマを体験した日)を思い出しますが、それは一度きりの経験ではありません。聖霊のバプテスマとは、聖霊の中へ浸る、聖霊に満たされるという意味なので、日々体験していくものなのです。私たちが聖霊と日々歩むには、聖霊の中へ入って行き、完全に満たされる必要があるのです。そうする事によって私たちは神の力を受け、人生を超自然的に歩む事ができるようになるのです。聖霊に満たされたその日、私は一時間半も異言で話し、異言で三つの歌を歌いました。しかし、その体験は私にとっては始まりに過ぎませんでした。一部の信者は、最初の聖霊のバプテスマを大事だとし、それが彼らの人生で最も素晴らしい出来事だったと言います。しかし、彼らはそれ以上の御霊の体験について話しません。彼らは自分自身を更に霊的に成長させる事はなく、最初の体験を望み続けます。しかし、何年も前に体験したものを、聖霊との唯一の交わりとして振り返る必要はありません。


聖霊は日々、私たちにとって、より現実的になるべきです。私たちが御霊を最初に迎えた日よりも、今の御霊は私たちにとってより現実的であるべきです。そうでないなら、私たちは御霊と親密な交わりを持って歩んで来ていないのです。私たちは、いつも御霊の内在の臨在を意識していないのです。主にあってのあなたの最大の経験は、今日、主と親密な交わりを持って歩む事であるべきです。毎日あなたの中に住んでいて、あなたが遭遇するあらゆる状況を勝利に収めて乗り越えられるように、力を与えている偉大なお方を意識すべきなのです。あなたが毎日そのように生きていると、聖霊はあなたにとってますます現実の方となり、あなたは自分の人生において力を与えて下さる聖霊の存在を十分に享受し始めるでしょう。


山での体験


私は1958年にカリフォルニア州で開かれた集会で伝道しました。そしてその翌年の夏に、同じ集会で伝道する為に再び戻って来ました。私がそこにいた二年目の時に、ある女性が立ち上がって、前年の集会での経験について証言しました。彼女は言いました。「昨年ここに来た時、聖霊のバプテスマについて知りませんでしたが、ここを去る時には、私は聖霊に満たされました。集会が終わって実家に帰ってからは、とても苦労しました。子供たちの学校の準備をしたり、子供たちの為に服を縫ったり、教会での責任を果たしたりと、生活はとても忙しくなりました。私は霊的に乾いて無力だと感じ始めました。実際、私は去年の夏以来、聖霊を受けた時のような祝福はもう受けていません。ですから、ここに戻って、また祝福を受けるのが待ちきれませんでした。」私がそれを聞いた時、その女性は全てを見逃していたと思いました。彼女は一年間飢え乾いており、力を失っていましたが、彼女の内側には偉大なお方が常にいたのです。


この女性は正しく教えられていなかったので、無力で、霊的に乾いていると感じたのでした。多くの人は、「去年のように、また祝福を受けられたら、きっと助けになる」と考えます。そして、それが彼らにとっての敗北となるのです。聖霊があなたに臨み、あなたがその力に満たされているなら、あなたは毎日聖霊との交わりを楽しむ事ができます。一度だけの体験で終わりにするべきではありません。「山での体験」に戻るまで待つ必要はありません。あなたは人生の毎日において、霊的に山の頂上にいる事ができます!


力を受ける


私の聖霊のバプテスマの体験は、私にとっては、少しがっかりしたものだったと話しました。この体験をする前には、私はかなり保守的で控えめでしたので、聖霊の満たしを受けた時は、主にあって大声で、感情的な時間を過ごすだろうと思っていました。しかし、私は異言で話す事以外は何もしませんでした。それで、私は少し気持ちが落ち込みました。他の人が御霊に満たされると騒がしくなり、喜びの叫び声を上げるのを見た事があります。私は自分が満たされた時に、そのような感情的な体験ができたらいいのにと思いました。私は祈りました。「主よ、聖霊派の人々は、聖霊が人に臨む時、その人は力を受けると言います(使徒1:8)。力はどこにあるのでしょうか?私に以前よりも力があるなら、私はそれをまだ知りません。」多くの場合、私たちは力が何であるかを知りません。私たちは力を感じるものだと思っていますが、いつもそうであるとは限りません。イエスは感情的な体験について約束されませんでした。イエスは、聖霊が私たちに臨む時、超自然的な力を与えられると約束されたのです。


使徒 1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、更に地の果てまで、私の証人となります。」


私はがっかりしましたが、聖霊のバプテスマの経験を受け入れるのに十分な聖書の言葉が私の中にありました。私は自分に言い聞かせました。「御霊に満たされる事は、私が思っていたようなものではなかったが、それは聖書的だったので、それに留まろう。私は聖霊に満たされているのだ!」しかし私は、その経験について誰にも話しませんでした。会衆に説教もしませんでした。私はまだ若かったので、それについて誰かに話す前に、何かが起こるまで待つ事にしました。私は人々に何も言わなくても、力の証を見てもらいたいと思いました。また、私はそれについてまだ何も言うべきではないという感覚を霊の内に持っていました。


さて、私たちの会衆にペリー氏という人がいました。彼と彼の妻はヨーロッパへの旅行で四か月間不在でした。私は彼らが戻る直前に聖霊に満たされました。ペリー氏がヨーロッパに出発する少し前に、聖霊派の人々が私たちの教会に通い始めました。

その小さな地域ではその教会しかなかったからです。それらの家族は、聖霊派の教会を見つける為に遠くまで行くしかなかったので、代わりに私たちの教会に来たのです。あらゆる種類の宗派の人々が私たちの教会に出席しましたが、ペリー氏は、聖霊派の家族が来始めている事を知った時、満足していませんでした。それで彼は、コール氏という他の教会員に会って言いました。「聖霊派の人々を来させるべきかどうかは分かりません。」もちろん、公の集会ですから、来て欲しくないと私たちが思っても、人々は来る事ができました。ペリー氏は続けてコール氏に言いました。「異言がここに入ってきたら、私は家族をこの教会から引き離すつもりです!私はここに通いません。」


その後、ペリー夫妻はヨーロッパに向けて出発し、彼らが去っている間に、私は聖霊に満たされ力を受け、その証拠としての異言を話しました。言ったように、私はそれについて少しがっかりし、私が感じるべきだと思っていた方法で、「力を感じなかった」ので、その時、この事を会衆と共有しませんでした。しかし私は、自分の満たしの経験について、一人だけ個人的に話しました。それがコール氏でした。コール氏は非常に霊的で、聖書的な人で、私が何かを言う前に、私に何が起こったのかを理解していました。彼と彼の家族は、私が週末に説教する為、地方に出るたびに、親切にも彼らと一緒に滞在する事を許可してくれました。コール氏は、ペリー氏が去る前に、私たちの教会に来る聖霊派の人々について言った事を私に話しました。


ペリー氏が戻ってきてしばらくした後、コール氏は彼との会話について、私に話してくれました。ペリー氏は、「留守の間、私たちの小さな説教者に何かが起こったようだ!」とコール氏に言いました。コール氏は、誰かがペリー氏に私の事を言ったのかと思っていました。そこで、コール氏は言いました。「どういう意味ですか、ケニー兄弟に何かが起こったのですか?」ペリー氏は言いました。「彼は以前よりも優れた説教者ですよ。」コール氏は答えました。「ペリーさん、ケニー兄弟はとても力強い説教者だといつも思っていましたよ。」ペリー氏は答えて言いました。「私もそう思っていました。でも、以前にはなかった何かを持っているんです!」その時コール氏は、私について誰もペリー氏に話していないと気づきました。ペリー氏に話し続けるように促す為、コール氏は、「確かに。では、私たちの説教者が持っているものは何ですか」と尋ねました。ペリー氏は言いました。「それが何であるか分からない。しかし、今日彼が説教する時、それを感じる事ができます!彼が話す時、以前にはなかった力があるんです!」私自身が感じていなかったとしても、教会の人々は、私の人生に加えられた力を感じていました。ペリー氏は続けて言いました。「私はいつもケニー兄弟の説教を楽しんできました。しかし、彼が今説教すると、それには力があります。彼のメッセージにはインパクトがあります!彼の言葉には、以前にはなかった権威があります。」


コール氏は、ペリー氏が他の誰かから、それについて何か否定的な事を聞く前に、私に何が起きたかを話すべきだと考えました。それで、コール氏は言いました。「あなたがいない間に、私たちの説教者に何が起こったのか知りたいですか?」ペリー氏は答えました。「はい。」「彼は、聖霊に満たされ、その証拠としの異言を話したのです。」コール氏は後になって、私に言いました。「私がペリーさんにそう言った時、彼は頭を下げ、長い間何も言いませんでした。彼が見上げようとし、『それまでだ。私は私の家族を連れて行く。例え教会に分裂を起こしてもだ』とでも言うか、私は分かりませんでした。しかし、ペリー氏が見上げると、彼の目には涙が浮かんでいたんです。そして、彼は言いました。『一つだけ言っておきます。それは私を信じる者にさせます。以前ケニー兄弟が説教するのを聞いたし、それ以来彼の説教を聞いている。彼には以前にはなかった力、霊の深さがある。』」


ペリー氏のこの言葉を聞いて、私は悔い改めて祈りました。「神様、私はいつもその力を持っていましたが、それを疑っていました。この力は、個人的な益の為だけに与えられたものではない事が今分かりました。他の人を祝福する為に与えられたのです。だからこそ、私が知らなかったとしても、会衆は私に何かが起こった事を知る事ができました。」それから私は、私生活でも違いに気づき始めました。以前にはかろうじて困難を乗り越えていたのですが、聖霊を受けてからは、新しい勝利の感覚でそれらを乗り越えるのに役立つ、増し加わった「何か」がある事に気付いたのです!私は祈りました。「主よ、私は権力について、違った考えを抱いていました。どうにかして、力を体で感じられるものにしようと思いました。ダイナマイトのように、爆発するような感じをするものだと思っていました。私は肉体的にそのように感じなかったので、私には力がないと思っていました。でもあなたは、私の最も深い所から、生ける水の川が流れ出し、それらの川が流れ出て他の人々を祝福すると言われました(ヨハネ7:37-39)。それが、私が聖霊から受けた力の目的であり、私の会衆はその違いを見たのです!」


しばらくすると、私の説教の違いについて話していたのは、ペリー氏だけではありませんでした。教会の人々もそれについて話していました。彼らは互いに言いました。「私たちの説教者に何が起こったのですか?彼は力を持っている。彼の秘密は何ですか?何であれ、それが欲しい!」ついに、私に何が起こったのかを会衆に伝える時が来たと私は決心しました。私は言いました。「私が知っているのは、私が聖霊で満たされ、異言で話したという事だけです。聖霊を受けて異言を話す時、あなたも力を受けるでしょう。」その神聖な力は、私が御霊に満たされるまで、私の人生に現れていませんでした。私の会衆はそれを知りました。彼らは過去二年間、私の説教を聞いていたのですが、私の説教にそのような力がある事に気づいていませんでした。神を賛美します。私の証しは人々に強い印象を与えたので、彼らのほぼ全員が最終的に聖霊に満たされました。


そして、私たちがその教会を御霊に溢れた教会に変えるのに、そう多くの時間はかかりませんでした。誰も去って行く事はありませんでした。むしろ、その教会は数年間でさらに大きくなりました。その経験の後、私は聖霊に満たされた時に受けた恩恵を二度と疑う事はありませんでした。神の力を感じるかどうかの問題ではないのだと理解しました。それは聖霊を信頼する事、私の中に住む大いなる方の力を解放する事だったのです。


聖霊に耳を傾ける


聖霊に満たされる前に、私は主との祈りと交わりにおいて、多くの祝福された時間を楽しみました。多くの場合、私は夜の殆どを英語で祈り、一晩中祈る事もありました。しかし、神の前で何時間も過ごしたにも関わらず、その祈りの場を何となく不満に感じて去りました。私は、主に言いたい事を言っていないようにいつも感じていました。私は思いのまま、主がどれほど素晴らしいお方であるかを主に伝えましたが、それでも上手く表現していないように感じながら、祈りの時間を過ごしていました。しかし、私が聖霊に満たされ、異言で祈り始めた後、私の祈りの生活は劇的に変わりました。ついに私の霊は自分自身を表現する事ができ、私は自分の霊において満足して祈りの時を過ごしました。もちろん、私は既に新生しており、聖霊は私の内におられました(ヨハネ3:3-8)。御霊は私が神の子である事を私の霊で証しして下さいました(ローマ8:16)。そして私が若い時、病気に患って、ベッドに横たわっていた時、聖霊は私の心に語りかけ、聖書にある神の癒しに私を導かせようとして下さいました。


私が今まで説教を聞いたのは、救いのメッセージだけだったので、私を癒しに導いてくれる御言葉と聖霊がどうしても必要でした。私はずっと日曜学校と教会に通い、病の床につくまで欠席する事はありませんでしたが、聖霊に耳を傾け、従う訓練は全く受けていませんでした。しかし、若くして病気で横たわっていた私は、聖霊が私の霊に語られた時、内なる声を聞くようになりました。誰も聞くようにとは言いませんでしたが、私は自分に言いました。「この声を聞く事で今より悪くなる事はない。結局、医者は私が死ぬだろうと言ったんだ。私はこれ以上何もできない。それなら、ここで自分の内側から耳を傾け始めてみよう。」そして、私が聖霊に耳を傾けた時、御霊は私を神の癒しへと導きました。聖霊が私の心に話しかけられました。「今、あなたは自分が大丈夫だと信じなさい。」私は言いました。「もちろんです。」聖霊は言いました。「では、起きなさい。朝ですから、もう起きなければなりません。」私は寝室で、一人で座った姿勢になるのさえも苦労しましたが、ベッドの上で体をひねって、ベッドから足を床に押し出す事ができました。それから私は寝台の支柱をつかみ、体を引き上げました。そのベッドにもたれかけて、私は宣言しました。「悪魔と悪霊たちの前で言う。神の言葉によると私は癒され、私はそれを信じる事を宣言する!」突然、神の癒しの臨在の温かい輝きが全身に降り注ぐのを感じました。そして、私はまっすぐに立ち上がり、癒されて部屋を歩き始めました。ひどい苦しみのベッドで寝ていた私ですが、どのようにして私はその癒しの瞬間にたどり着いたのでしょうか?私は新生で知り会う事になった聖霊に耳を傾けたのです。その後、同じ聖霊の声に耳を傾け、聖霊のバプテスマに導かれました(使徒1:5)。


水を飲む事を考えて下さい。その病床で生まれ変わった時、私は水を一杯飲みました。それが私の新生の経験です。しかし、私をキリストにある新しい創造にして下さった同じ聖霊が、私を神の癒しへと導いて下さいました。それから私は、聖霊を受け、満たされるまで御霊の水を飲みました。それ以来、私を通しての神のミニストリーと私への神の扱いは、何倍にも増幅されました。聖霊はクリスチャンをできる限り導きます。しかし、聖霊に満たされ、異言で祈る人にとっては、聖霊の導きが遥かに大きくなります。私は、毎日異言で絶えず祈る習慣に従う場合にのみ、この聖霊の特別な体験が私の人生ある事を発見しました。異言で幾つかの言葉を少し発するという事ではありません。それだけなら、あなたの人生における聖霊のミニストリーは、あなたが御霊に満たされる前と大差はありません。私が話しているのは、本当に異言で祈り、毎日神と時間を過ごす時間を取る事についてです。異言でたくさん祈る事によって、御霊に満ちた生活を維持しようと努力するなら、聖霊はあなた自身の霊を通してあなたとコミュニケーションを取ります。


I コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


あなたの霊に神に祈る力を与えるのは聖霊です。聖霊はあなたに言葉を与えながら、あなたの祈りを超自然的に導き、あなたを通して、物事が起こる前に共に祈って下さいます。何年もの間、私の家族には、病気や死は一度もありませんでした。そうなる前に、二年も前に祈った時もありました。この種の啓示の知識は、預言者の啓示の賜物だけではありません。私も預言者として活動していますが、イエスは、聖霊が来るべき事を信者に示すと言っています。


ヨハネ 16:13 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いて下さいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いた事を全て語り、これから起こる事をあなた方に伝えて下さいます。」


信者は誰でも、神に強く求める前に何かについて御霊によって知る事ができます。信者が異言で祈ると、多くの事が明らかになります。聖霊のバプテスマを受けて以来、異言で祈っていると、このような経験を何度もしました。聖霊は、物事が起こる前に起こる事を私に示してくれたので、私はそれらについて祈る事ができました。それは単に異言で祈って、自分が何について祈っているのかを霊で感知する事でした。


奥義を祈る


物事が起こる前に、異言で祈るよう聖霊が警告して下さった事について、私の体験から話しましょう。私は1978年にボルチモアで集会を開いており、礼拝が終わってからホテルの部屋に戻っていました。私は本を​​読もうとしましたが、私の中でずっと不安な気持ちがありました。それで最後に本を置いて祈り始めました。私は「主よ、何ですか?」と尋ねました。イエスは、聖霊は自分自身について話すのではなく、聞いた事を話すと言われました(ヨハネ16:13)。つまり、聖霊があなたに語りかける事を期待できるという事です。聖霊は御言葉の著者である為、確かに聖書を通して語ります。しかし、あなたが異言で祈る時、御霊はあなたの内側でも話します。御霊によって奥義を祈りながら(I コリント 14:2)、私は主に尋ね続けました。「何ですか?」


しばらくすると、家族の誰かが病気にかかったような身体の危険にさらされているような気がしました。私はすぐに妻の事を思い出しました。私は別の所で奉仕をしていて、彼女は家にいたからです。しかし、異言で祈り続けているうちに、それが私の妻ではない事を心の中で悟りました。それから、私の子供たちの事を考えました。私は彼ら一人一人の為に異言で祈りました。祈っている内に、身体的な危険にさらされているのはどちらでもない事が分かりました。それから、母の事を考えました。彼女について異言で祈り始めた時、私が祈っていたのは彼女である事が分かりました。その時、電話が鳴りました。それは私の妻で、「ケニー、あなたのお母さんが病院にいます」と言いました。私は答えました。「大丈夫です。分かっています。既に警告を受けており、答えは分かっています。聖霊は私に彼女は大丈夫だと言っていました。」


状況を把握するのは良い事だと思いませんか?新生を通して聖霊を知る事は、私たちにとって非常に有益ですが、聖霊によるバプテスマはその祝福に追加されるのです。神は、聖霊のバプテスマと異言を通して、より多くの御霊を体験する機会を私たちに与えて下さいます。新生とは、神の恵みを罪人に紹介する事です。しかし、聖霊によるバプテスマは、神が神の子供たちに神の超自然的な力を紹介する事です。


冒険の始まり


もう一度言います。最初の聖霊の満たしは素晴らしい事の始まりですが、それはあなたが主と共に体験した最高のものであってはなりません。実際、神との歩みの中で私に起こった最大の出来事は、異言で祈った結果としてもたらされました。私は新生の聖霊を知っていました。もちろん、御霊に満たされる前から、私は聖霊を知っていました。聖霊が私に臨み、説教の為に私に力を与えて下さいました。私は、公には癒しについて説教し、個人的には人々に手を置いて癒しました。私が生まれ変わってから最初の五年間、私のミニストリーで起こった癒しと、人々の回心について、神に感謝します。しかし、1947年に聖霊に満たされるまで、私は超自然的な現れを経験した事がありませんでした。私は既に五年も説教をしていたのです。聖霊に満たされた後、私は異言で沢山祈る事を学びました。誰も私にそうするように言いませんでした。当時、私たちはこの主題についての学びがありませんでしたので、私はいつでも異言で祈るべきかどうかさえ知りませんでした。


しかし、英語で祈るより異言で祈る方が簡単だという事は分かりました。また、他のどの方法よりも霊的に深める事ができる事を異言で学んだので、それを実行しました。例えば、私のミニストリーでこれまで見た中で最も大きな癒しは、異言で祈った後にもたらされました。祈っていると、自分が祈っていた事を霊の中に見ました。私たちは霊的な事だけでなく、物質的な事についても御霊によって祈る事ができます。そして、私がただ従い、霊の中で見た事を実行した時、その人は癒されました!最初の聖霊の満たしは素晴らしい事です。しかし、その最初の体験は始まりに過ぎません。私たちが神の霊の領域でどのように行動するかを学ぶ時、神は私たちの為に超自然的な冒険の全てを準備しておられます。ですから、異言で話す事についての議論をさらに進めたいと私は思うのです。神との超自然的なコミュニケーションの真価と無限の可能性に気づいたら、この賜物をこれまで以上に活​​用したいと思う事でしょう。

2023年4月1日土曜日

9 パウロの理解

パウロの理解


今日の教会は、異言で話す事の価値について何も知りません。異言が聖霊のバプテスマの最初の証拠である事を知っている人はいますが、異言についての他の聖書的目的を理解していません。ある有名なクリスチャンの指導者が、異言について否定的な手紙を別の聖霊に満たされた人に送った事があり、私はその手紙の抜粋を読む事を許されました。このクリスチャンの指導者は手紙の中で、パウロが異言を話す事について非常に曖昧な見方をして、コリント人に異言を話す事を思い留まらせ、禁じようとしたと述べていました。しかし、パウロはそうは言いませんでした。そのクリスチャンの指導者は、自分が言いたい事を述べる為に、文脈を無視して聖句の一部を取ったのです。この人は、パウロが言った事を用い、自分の主張を証明しようとしました。


I コリント 14:19「しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」


教会において、パウロは他の人たちを教える事を優先にしていたので、知性の言葉を語る事が良いとしたのです。しかし、パウロは誰よりも異言で語ったとも言っていました(I コリント 14:18)。パウロがコリントの人々よりも多くの異言を話したとしたら、多くの時間を異言の祈りに費やしたに違いありません。I コリント14章の残りの部分を読むと、異言で話す事が、コリント人がやりたかった事の全てであった事が分かります。コリントでは、礼拝の最中の間違ったタイミングで、間違った方法で異言を話していたので、パウロはその事に関して彼らの教会を正さなければなりませんでした。


I コリント 14:22-23「それで異言は信じている者たちの為ではなく、信じていない者たちの為のしるしであり、預言は信じていない者たちの為ではなく、信じている者たちの為のしるしです。ですから、教会全体が一緒に集まって皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来た時、あなたがたは気が変になっていると言われる事にならないでしょうか。」


パウロは23節で、初心の人か信じていない人が入って来た時、皆が同時に異言を話すのは教会全体にとって良くないとはっきり言いました。パウロがそう言わなければならなかったとしたら、それはコリントの信者たちが、実際に教会でやっていた事を意味するに違いありません。パウロはこれらのコリント人に、異言を話す事そのものについて間違っていると言っていませんでしたし、彼らに異言を話す事を禁じていたわけでもありません。しかし、その超自然的な賜物に非常に興奮し、活気に満ちていたので、初心の人や未信者の事を忘れてしまい、一度に異言を話していたのです!パウロはこれらの信者たちに、教会の礼拝では聞く人たちを教え導いたり、成長の為に全ての事を行ったりするべきだと言っていたのです。その後、彼は公の集会で異言を話す事について、さらに指示を与えました。


I コリント 14:27-28「誰かが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。」


異言の賜物がある事を神に感謝します!神は異言を解き明かす賜物も用意されました。知性が実を結ぶ為には、異言は私たちの理解できる言葉で解き明かされなければなりません。異言は未信者へのしるしなので、彼らが教会にいる場合は、異言の解き明かしがないなら、黙っておく必要があり、そうでなければ、他人に聞こえないよう、自分に対し、また神に対して語るべきなのです。しかし、初心者や無知な人ではなく、信者だけが集う場においては、問題ありません。


目的と用途の違い


I コリント 14:19「しかし教会では、異言で一万の言葉を語るよりむしろ、他の人たちにも教える為に、私の知性で五つの言葉を語りたいと思います。」


パウロは、異言を話す人が非常に多かったにも関わらず、コリントの信者全員よりも多くの異言を話して下さった事を神に感謝しました。しかし、教会では、異言で一万語を話すよりも、自分の理解力で五つの言葉を話す方がましだとパウロは言いました。それは、人々が理解できる言葉で話す事によって、他の人に教える事ができるからです。つまり、異言の主な目的は、それを用いて教えたり説教したりする為ではないとパウロは言ったのです。I コリント 14:4によると、「異言で語る人は自らを成長させる」とあるので、異言は主に、信者自身の個人的な霊的な成長の為のものです。それは、神とコミュニケーションをとる為の個人的な方法です。


この箇所で、パウロは教会ではなく、主に私的な祈りの生活の中で異言を話したという事を意味しました。もしかすると、パウロは朝起きて異言を話していた事でしょう。彼は食事の合間に異言を話し、夜寝る前に異言を話していたに違いありません。パウロはそのようにして、異言で話す事を大切にしていた事でしょう。人は自分が価値を感じていないもの、あまり重要でない事、または反対している事に対して、神に感謝しません。ですから、異言は主に、私たちの父なる神と個人的に交わる為の賜物である事が分かります。もちろん、個人的な異言においても、解き明かしを伴う事もあります。しかし、これら二つの霊的な賜物は、主に教会の利益の為に与えられています。この二つが一緒に使用される事は、預言の賜物と同等です。それについては後で話しますが、私たちが今理解しなければならないのは、あらゆる場合において、異言の言葉を与えるのが聖霊だという事です。しかし、それらは目的と用途が異なります。


さて、もし信者たちが教会で一緒に神を賛美しているなら、異言で一斉に神を賛美する事は全く問題ありません。しかし、説教者が御言葉を教えようとしている時に、全員が異言を大声で話すのは間違っています。また、説教者が解き明かしなしで異言で人々を教えるのに1時間費やすのも、正しくありません!その場合、説教者は自分を築く事になりますが、人々はそれから何も得られません。これが、この箇所でパウロが語っている事です。


異言の価値


神の言葉はとても単純明快です。しかし、一部の人々は、信者は異言を一切話してはならないと、パウロが教えていたと主張し、教義を作り上げてしまいました。パウロの願いは、全ての信者が異言で話す事でした(I コリント14:5)。彼はこの超自然的な賜物の価値を完全に理解していたので、他の誰よりも異言を話した事を神に感謝しました。パウロは個人的な経験から、日常生活に祝福と力の源があるのは、異言を話す事によってだと知っていました。では、この主題についてパウロが知っていた事をさらに探ってみましょう。その過程で、異言で話す事の価値と目的について聖書が何と述べているかを知る事ができます。異言を話す必要性​​を知れば知るほど、私たちの証しはパウロの証しと一致するようになり、「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています」と言って、信仰の宣言をするようになります。


2023年3月3日金曜日

10 神とのコミュニケーション

神とのコミュニケーション


I コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


異言で話す時、私たちは人と話しているわけではない事に注意して下さい。私たちは神に話しかけています。つまり、神は、私たちが超自然的に神に話しかける事ができる、神聖な手段を私たちに与えて下さったという事です。残念な事に、殆どのクリスチャンは、この賜物を本来あるべき形で利用していません。「そういうコミュニケーションが必要なのですか?」と聞く人もいます。それは必要であるに違いありません。神が私たちに用意して下さったからです。パウロは続けて、「霊において、奥義を語る」と言いました。ある聖書の訳では、「神聖な秘密を話す」となっています。あなたが異言で祈る時、誰もそれを理解できないのはその為です。あなたは神の奥義を御父と話しているのです。奥義とは、隠されているという意味があるので、サタンもあなたを理解できないでしょう。それが、悪魔が異言と激しく争う主な理由だと私は思います。彼は秘密の会話に参加できないからです。あなたが御父と奥義を祈っている時、悪魔はあなたが何について祈っているかを知る事ができないので、できる限りの方法で戦って来るのです。神の奥義について、神と話す事に何か価値があるでしょうか?あるはずです!そうでなければ、神はご自身とのコミュニケーションの為に、この神聖で超自然的な手段を教会に与えなかったでしょう。


人ではなく神と話す


私の知人、ルーク氏はある教団の教会の人で、小さな町の農民でした。私はこの町の小さな教会を牧師にする為にやって来た事がありました。ルーク氏は、私が到着する数年前に、この辺りであったリバイバル集会を開いた説教者について話してくれました。説教者は、リバイバルの初めに、新生についてだけ説教したそうです。町中から、数百人の農民とその家族がこの説教を聞きにやって来て、多くの人々が救われました。その地域全体が、これらの集会で起こった事に興奮しました。リバイバルが数週間続いた後、説教者は聖霊のバプテスマについて、そして異言について説教し始めました。人々はそのメッセージを受け入れ始めました!ご想像の通り、この小さな町は大騒ぎになりました。集会で奇妙な言語を話す地元の人々に何が起こっているのかについて、人々は自分たちの理論を持っていました。例えば、テントの集会を照らす為に、柱に吊るされたガスランプと関係があると思った人もいました!その頃、田舎の野外集会には電気がなかった事がよくあったのです。ある人は言いました。「それらのガスランプは光の輪を放つ。説教者はランタンの光の中に何かを入れて、あなたに異言を話させているに違いない。」


当時では、霊的な事柄について無知だったのが普通であったのを知る事ができます。説教者が病人の為に祈る時に使用した油についての理論もありました。病人を油を塗って癒すという概念は、その人々にとって新しいものでした。その為彼らは、「説教者は、人々が奇妙な言語で話すようにさせる為に、その瓶から何かを人々に与えたに違いない。説教者に近づき過ぎるな。さもないと何かが来るから」と考えたのでした。人々はあらゆる種類のばかげた考えを持っていました。実際には、彼らは心配する必要はありませんでした。聖霊はその人が望まない場合、その人の上に臨む事はありません。御霊は完璧な紳士です。その地域全体は、聖霊のバプテスマと異言で話すという事について、どちらか一方に分かれていました。誰もがそれについて話していて、多くの人が、何が起こるかを見る為だけにテント集会に行きました。好奇心旺盛な見物人は、ランタンの明かりから離れた影の中に立ちます。結局の所、彼らは、人々が奇妙に振る舞う原因が何であれ、彼らに臨む事を望んでいなかったのです!


その後、近所の農夫が救われ、ルーク氏は私にこう言いました。「私はその男を知っていました。彼は正直であり、誠実な人でした。それで、別の農家の友人と私はお互いに言いました。『その隣人が異言の経験をした場合、私たちは彼をよく知っているので、それが本物である事が分かります。彼は偽物などには興味ありません。』」ルーク氏は続けて言いました。「当時の人々が知っていたのは、祭壇に来て、聖霊に満たされる事を求めるだけでした。それで、友人と私は物陰に立ち、あえて祭壇に近づき、この男に何が起こったのかを観察しました。ある夜、この近所の農夫は祭壇で一人で祈っていました。他の誰もが去り、私の友人と私は他の誰よりも彼に近くにいました。私たちは、彼が祭壇でひざまずいて祈っているのを注意深く見ていました。突然、彼は両手を上げ、天を見上げ、この奇妙な言語で話し始めました。誰も彼にランプの光を当てたり、油を塗ったりする事なく、それが起ったのです!一緒に物陰から見ていた友人がこちらを向いてこう尋ねました。『彼は何を言っているんだ?』私は答えました。『分からない。私に話しているのではない。』」ルーク氏は、その言葉がどれほど聖書的であるかを知りませんでした。つまり、ルーク氏は、I コリント14:2に沿って話していたのです。


I コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


この人は、ルーク氏や他の人と話していたのではなく、神の奥義を神に話していたのです。


理解を超える祈り


I コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。」


別の聖書訳によれば、「私の霊は(私の中の聖霊によって)祈る」とあります。祈っているのは聖霊ではない事に注意して下さい。神はあなたの霊の中で言葉を発する事によって、あなたの祈りを助けています。パウロは、私たちの理解とは別に、神が私たちの霊が祈る事ができる手段を私たちに与えて下さったと語っています。私たちの知性は、御霊によって祈る事とは何の関係もありません。そのような祈りは必要でしょうか?神が超自然的な準備をされたので、必要に違いありません!ある人が私にこう尋ねました。「自分が何を言っているのか分からない祈りは何の役に立つんだ?」私は答えました。「私は自分自身に話しているのではなく、神に話しているのです!」もう一度言いますが、私たちが異言で祈るのを助けて下さるのは聖霊ですが、祈りをしているのは私たち自身でもあるのです。その事を覚えて、次の聖句を見ましょう。


I コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


パウロが「御霊によって」という言葉を使う時、何を意味しているのでしょう?エペソ人に書いた手紙でパウロは、「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。」と言っています(エペソ6:18)。I コリント 14:2の御霊による祈りが異言の祈りを指しているなら、エペソ 6:18 での御霊による祈りも、異言による祈りを指していると結論付ける十分な理由があります。


I コリント 14:14-15「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り(または、霊と共に祈り)、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


15節の「霊と共に」という言葉に注目して下さい。人々が祈る祈りの殆どは知性で祈るものであり、聖霊とはあまり関係がありません。しかし、パウロはここで、霊と彼の知性で、両方の方法で祈ったと言いました。聖霊に満たされる前、私は御霊と共に祈る事と御霊による祈りについて、様々な聖句を見て来ました。私は自分の教団の様々な牧師に尋ねました。「御霊と共に祈る事と、御霊によって祈るとはどういう意味ですか?」何人かの牧師は言いました。「それは、もう少し『気合を入れて』 祈るという事だ。」


時々、私たちは教会の賛美歌を歌っていました。賛美リーダーが言います。「さあ、次の詩を霊と理解をもって歌いましょう」しかし、彼が意味したのは「次の節はもう少し元気に歌おう。もう少し『気合を入れて』歌おう」でした。しかし、I コリント14のこの一節が話しているのは、そのような事ではありません。パウロは、「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈ります」と言っています(14節)。パウロはこの事について、コリントの人々とエペソの信者にも書きました。両方の手紙で彼は、「御霊によって」という表現を使っています。また、I コリント 14:15では、「御霊と共に」という表現も使用しています。パウロがこれらの表現を使用している所を見ると、彼が異言で祈る事について言及している事が分かります。もちろん、預言の霊によって「御霊によって」祈る事もできます。預言の霊による祈りは、あなたが異言で祈る時に聖霊があなたを捕らえ、霊感によってあなたの知っている言語で祈り始める時に起こります。


時々、預言の霊によって、私の理解できる言葉で一時間以上祈った事もあります。私は自分が何を言っているのか分かっていましたが、私の知性はそれとは何の関係もありませんでした。言葉が私の霊から出ていたからです。この種の祈りの例は、詩篇で見る事ができます。ダビデ、モーセ、その他の詩編著者の祈りは、神の御霊によって与えられました。古い契約の下では、誰も異言を話しませんでした。既に言ったように、異言と異言の解き明かしは、新しい契約だけのものです。しかし、これらの人々は、御霊によって、または、預言の霊によって祈りました。預言の霊によって祈る時、あなたは自分の舌を自分の霊に結びつけ、聖霊の霊感によって自分の言語で祈りますが、あなたの知性はそれとは何の関係もありません。あなたの祈りは、あなたが自分で考えているものではありません。代わりに、それらは完全に聖霊に霊感を与えられて、あなたの霊から出てきます。これは、自分の言っている事を理解していても、頭で祈ったり、自分の理解から祈ったりする事ではありません。むしろ、これは御霊によって祈る別の方法です。


エペソ 6:18「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。その為に、目を覚ましていて、全ての聖徒の為に、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」


私たちが異言で祈る時、私たちは自分自身を築き上げる(成長を促す)だけでなく、全ての聖徒の為に祈るという神の命令を果たす事ができます。当然の事ながら、私たちは全ての聖徒を知っているわけではないので、私たちの知性で全ての聖徒の為に祈る事はできません。しかし神は、私たちの理解とは別に、超自然的なコミュニケーションの手段を提供し、まさにそれを可能にしました。ここで少し立ち止まって、神が私たちの為にして下さった驚くべき事について考えてみて下さい。神は私たちの霊が私たちの知性から離れて祈る事ができる方法を私たちに提供してくれました。


I コリント 14:14「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが...」


異言を話すというこの賜物を通して、私たちの霊は今、霊的存在である神と直接コミュニケーションを取る事ができます。一度御霊に満たされると、初めてあなた自身の霊が神と直接話す事ができるのです。それ以前は、知性で神と話していたのですが、異言を話す事は霊と霊のコミュニケーション手段です。イエスがサマリアの井戸で女に言われた事を覚えているでしょうか(ヨハネ4:4-26)。女はイエスに言いました。「私たちの先祖はこの山で神を礼拝しましたが、ユダヤ人たちはエルサレムで神を礼拝しなければならないと言っています。それについてどう思いますか?」イエスはそれらの見解のどちらも正しいとは言いませんでした。イエスは答えました。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)。サマリアの山で神を礼拝する必要はありませんし、エルサレムで神を礼拝する必要もありません。神は霊的な存在であり、私たちはどこでも神を礼拝する事ができます!しかしイエスは、神は霊である為、霊と真理をもって礼拝しなければならない時が来たと言われました。


これは、異言で話す事の価値を示すもう一つの指標です。あなたが異言で祈る時、あなたの霊は、霊である神と直接接触しています。思い出して下さい。パウロは、あなたが異言で祈っている時、あなたの霊が祈っていると言いました(1コリント14:14)。あなたは神聖で超自然的な方法で神と直接話しているのです。私は自分自身の経験から、知性だけで祈る事と霊で祈る事には大きな違いがある事を知っています。知性の祈りは、私が幼い頃から祈っていたやり方でした。8歳の時、私は祖父の納屋に行き、神と二人きりになり、一時間も祈ったものでした。主をどれほど愛しているか、主がどれほど素晴らしいかを英語で伝えようと懸命に努力した時の事を覚えています。でも、その祈りの場に二時間は留まっていたとしても、内心では満足してはいない気がしていました。どうすれば満足できるのかと思いました。私の霊は、自分自身を表現する機会が本当にありませんでした。しかし、聖霊に満たされ、異言で話した後、私の霊がついに神と通信できるようになったので、不満を持って祈りの場所を離れる事は決してないと気付き始めたのです!


実は、御霊に満たされる前、私がどれほど主を愛しているかを主に伝えようと祈ろうとした時、つまり、私の語彙の全ての言葉を使っていた時、私の唇と舌はある種の感覚を持っているように思った時がありました。ある日、もっと祈ろうと努力した時、舌が部分的に麻痺したように感じた事がありました。私は怖くなったので、起きて立ち去りました。それからは、舌が再びそのように感じるほど長く祈る事はありませんでした。何かを感じ始めるとすぐに祈るのをやめて起き上がり、その場を立ち去りました。しばらくすると、私の舌は再び正常な感覚に戻ったのでした。


祖父の納屋での祈りの時間に何が起こっているのかを理解したのは、御霊に満たされてからの事でした。聖霊はその時にも、私に言葉を与えようとしていましたが、私は知りませんでした。聖書にあるペンテコステの経験について誰も教えてくれませんでした。私の周りには、その祈りの時間に私に起こった事について話す人が誰もいなかったので、私は聖霊に委ねませんでした。私は起き上がってその場を飛び出したのでした。後で聖霊に満たされて異言で話した時、もし当時聖霊に委ねていたら、ずっと前に異言で話せたかもしれない事に気づきました。聖霊はいつも私の中にいて、私を満たして溢れさせようとしていたのです!私は自分に言い聞かせました。「理解さえしていれば、ずっとこうして祈っていたのに!私は異言を通してずっと自分自身を築き上げていた可能性があった。私は自分の成長を促し、超自然的に神と話していたかもしれなかった。」しかし、ありがたい事に、私はそれ以来ずっと異言で祈るようにしています。


知性を持って祈る事しかできなかった頃、私はあらゆる形容詞を使って主を賛美し、主がどれほど素晴らしいかを伝えようとしていました。しかし、どういうわけか、心の奥底で、不満を感じていたのです。私はその事について、時々次のように説明します。私は米国中の集会に行きました。その間、私は年間数千マイルを移動しました。旅行中、見知らぬ町にいると、どこで食事をすればいいのか分からない事が何度もありました。でも、昼過ぎに車を運転してお腹がすいたら、美味しそうなレストランに落ち着いて、そこで食事をしたものです。


さて、誰でもそう思うでしょうが、私は美味しい食事の為にお金を払う事には問題がありませんでした。しかし、まずいものを食べた後で、苦労して稼いだお金をレジに置く事が嫌いでした。それは、何かだまされた気分でした。この事は、祖父の納屋の祈りの場所を出るたびに起こった事と非常によく似ています。私の霊は、「だまされた!」と叫んでいたのです。しかし、その時私は、聖霊に委ねる方法をまだ知りませんでした。自分の霊が祈る事ができるとは知らなかったので、自分の知性を最大限に発揮して神に話しかけました。しかし、私が聖霊に満たされ、異言で話し始めて以来、私の霊が満たされずにその祈りの場を離れた事は一度もありません。何故かと言うと、私の霊が聖霊の霊感の下で言いたい事を言えるようになったからです。


両方の祈り


教会全体がいかに祈りに欠け、遅れを取っているかが、すぐに分かります。多くのクリスチャンは、知性の祈りだけで何とかやってこようとして来たので、彼らが霊的な進歩を遂げていないのも不思議ではありません。神はご自分の子供たちに霊で祈り、知性で祈る能力を与えてくれました。しかし彼らは、一つの祈りだけでやり遂げようとしているのです!一つの方法で祈る事は、片輪がパンクした状態で自転車に乗ろうとするようなものです。そうすれば、遠くまで行く事はできません。この例えで私が言いたいのは、知性の祈りだけでは、達成できないものがあるという事です。異言による祈りは、私たちを霊的に前進させ、より良い結果をもたらします。教会の大多数が、異言の祈りは使徒と共に死んだと決めつけたので、信者は知性の祈りでしか祈れず、霊的に前進して行く事ができなくなりました。その為、殆どのクリスチャンは知性による祈りだけで、霊的歩みを始めてしまったのです。その結果、それらのクリスチャンは何年も同じ場所に留まり、大きな進歩を遂げる事はありませんでした。


彼らは前に進んでいると思っているかもしれませんが、神が望んでおられる目的地と比較すると、全く到達できていません!ですから、パウロは次のように言ったのです。


I コリント 14:15「それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう...」


私たちの人生で神のベストを実現するには、二つの祈りが必要です。多くの人々は、この問題について御言葉が何と言っているかを教えられていません。異言で話す事は、今日では信者の為のものではないと、未だに言う人もいます。しかし、当時の信者が霊で神に祈る必要があったとすれば、私たちもそうする必要があるのは当然の事です。私たちは知性で祈る必要がありますが、それだけでは上手く行かないのです。本来の祈り方が分からないという単純な理由からです。


ローマ 8:26「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。」


一方、霊で祈る事についても同じ事が言えます。異言で祈るだけではやっていけません。周りの人があなたの祈りに一致するには、彼らの理解できる言語で祈る必要があります。従って、両方の種類の祈りが必要です。しかし、あなたがまだ聖霊に満たされて異言で祈った事がなければ、ぜひ積極的にそれを信じて下さい。そして、神の超自然的な手段によって御父と意思疎通する方法を学んで下さい。


2023年3月2日木曜日

11 霊的成長の手段

霊的成長の手段


パウロは、コリントの教会や、彼が説教した他の教会への手紙の中で、異言で祈るよう勧めました。パウロは、このように祈る事が重要である理由は、異言が霊的な成長の為の神聖な手段だと言っています。


I コリント 14:4「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」


パウロは、コリントの信者たちに、霊的な成長の手段として、個人的な礼拝や祈りの生活の中で、異言で話す事を続けるように勧めていたのです。ギリシャの学者によると、「成長」というギリシャ語の意味は「充電」に近いという事です。「充電」という言葉は、バッテリーに関連してよく使用されます。従って、I コリント 14:4を次のように言い換える事ができます。「異言で話す者は、自分自身を築き上げ、電池のように自分自身を充電します。」つまり、私たちが異言で祈る時、私たちは聖霊の力によって私たち自身を充電しているのです!


この「成長」という言葉は、霊的な事柄に関して、我々が熟知し、真理の言葉を体験して行くという意味で、超自然的な手段についての事です。もちろん、人を霊的に成長させるもの、築き上げるものは、精神的、肉体的に対しても良い助けになります。パウロは、異言で話す事が信者を神の力で充電し、強めるという事実について理解していました。


I コリント 14:18「私は、あなた方の誰よりも多くの異言で語っている事を、神に感謝しています。」


パウロは、「私は、あなた方よりも異言を話す事によって、自分自身を築き上げ、電池のように充電しているのだ!」と言ったのです。


ユダ 1:20「しかし、愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」


あなたが霊的な歩みの内から出てしまうと、バッテリーが切れた状態になります。この聖句はそれを充電する方法を教えてくれます。聖霊によって祈るのです。「自分自身を築き上げる」という言葉に注目して下さい。異言は、あなたの為に働く霊的な成長の手段なのです!ユダは「聖霊によって祈れば信仰が得られる」とは言っていません。信仰は聞く事によってもたらされ、聞く事はキリストについての言葉によってもたらされます(ローマ 10:17)。しかし、異言で祈る事は、あなたの最も聖い信仰の上に築き上げます。ですから、異言で話す事は、主にあなた自身の個人的、霊的な成長の為です。それはあなたを築き上げ、あなたを強化するので、あなたに益をもたらします。


スミス・ウィグルスワースは英国の説教者で、あらゆる所で聖霊の素晴らしい働きを経験しました。ウィグルワースのミニストリーでは驚くべき事が起こりました。例えば、イギリスの聖霊派の年配の牧師はこの偉大な神の人の働きの下で、多くの人が死から蘇った事を私に語った事があります。ウィグルスワースは、わずか六歳の時に、かぶを引く仕事に就きました。その後、児童労働法が制定される前の時代に、彼は工場で働いていました。彼は大人になってから、誰かが彼に自分の名前を署名する方法を教わったのでした!ウィグルワースは、御霊に満たされて異言を話すまで、人生で一度も本を読んだ事がありませんでした。それから聖霊は彼に聖書を読むように教えました。スタンリー・ハワード・フロッドシャムは、ウィグルスワースの伝記の中で次のように書いています。「異言の賜物は彼にとってかけがえのない宝物であり、彼は毎日何度も神への愛と敬愛の念に駆られました。地上の汚れた言語ではなく、神が恵み深く与えた聖霊によって与えられた愛の言語でした。彼は、この異言で話す事が常に霊的な成長の源である事を発見しました。彼は、「愛する者たち。あなた方は自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい」という御言葉を実践して歩みました。


自分自身が成長されていない限り、人々を成長させる事はできません。しかし、霊的に築き上げられたら、他の人を助ける事ができます。ウィグルスワースのような人々の成功を体験したいと思っている人は多くいますが、彼らは神の偉大な人々が払った代償を払いたいとは思っていません。彼らは手っ取り早い、ファーストフードのような解決を求めています。しかし、神は「即席のもの」を扱ってはいません!神はいつもと同じように、神の言葉で述べた真実に従って働きます。それらの真理の一つは、I コリント 14:4とユダ 1:20に見られます。神は私たちに、霊的な成長の為の神聖で超自然的な手段を与えて下さいました。聖霊によって毎日多く祈る事によって、最も聖なる信仰の上に自分自身を築き上げるのは、私たち次第です。


自身を充電する


「成長という言葉に、バッテリーのように自分自身の魂を充電する」という意味があると初めて私が知った時、私は以前、自分がしている事をよく理解せず、ただ異言で祈る事が正しいと分かっていた時の事を思い出しました。しかし、振り返ってみると、最も素晴らしい癒し、最も超自然的な経済的奇跡、または、悪魔を追い出す最も素晴らしい経験の前には、私はいつも時間を取って異言で祈るように導かれている感じがしました。主はあなたの前に何があるかを知っています。あなたはそこに何があるか分かりませんが、主は知っているのです。


私は、1950年3月に、妻と私がミズーリ州にある小さな教会の牧師だった時の事を覚えています。妻と私はその日、日曜日の礼拝の準備をする事以外、何も計画していませんでした。いつものように、妻がベッドを直して寝室の掃除をしている間、私は別の部屋の掃除をしていました。その日の朝、いつもの雑用をしていると、どういうわけか、異言で話す事から逃れる事ができませんでした。大声では祈りませんでしたが、立って掃除をしながら、異言で静かに祈っていました。それから私は隣の教会に行って、全てが整っている事を確認しました。その頃、人々はボランティアで教会を掃除していました。時々、彼らはきちんと仕事をしなかったので、私は全てをチェックし、きちんと掃除する為に行きました。そうしている間、私は異言で祈り続けました。教会が日曜礼拝の準備ができている事に満足した後、私は教会にさらに1時間留まりました。私は異言で祈りながら、教会の通路を行ったり来たりしました。私は祭壇にひざまずき、異言で祈りました。私は異言で祈る時間を割く為に、意図的にいつもより長く教会に留まりました。


それから郵便局に郵便物を取りに行きました。暖かい日だったので、静かに異言で祈りながら、公園を通って郵便局まで歩く事にしました。郵便局で荷物を取ろうと待っている間もずっと小声で異言で祈り続けました。それが異言で祈る事の素晴らしい点です。他の人の周りにいれば、大声で祈る必要は全くありません。どんなに静かに主に話しかけても、主はあなたの言う事を聞いて下さいます。私は郵便物を受け取って、それから牧師館に戻るまでもずっと、私は異言で祈り続けました。朝の9時から午後2時まで、私は異言で祈っていました。私はしなければならない事をしながら祈っていました。異言で祈れば祈るほど、何か強いものを内に感じました。当時、私は異言の目的についてよく知りませんでしたが、自分自身を築き上げている事を感じました。私は霊的なバッテリーを充電していたのです。私は自分に言い聞かせました。「明日の礼拝に向けて、神様が準備を整えて下さっているに違いない。日曜日は本当に素晴らしい集会になるだろう。」しかし、その日の午後3時30分頃、妻と私には予期せぬ訪問者がありました。


ある女性が妹を家に連れて来ました。この二人には、もう一人の女性も同行していました。この姉妹は近くの精神病院の受刑者でした。彼女は独房に3年半も監禁されていましたが、それは彼女が自殺しようとした為であり、彼女は自分自身や他の人にとって危険であると考えられていたのです。この可哀想な女性は、3年以上の間、独房に閉じ込められていました。彼女の健康状態が悪化するまでは、運動も日光もありませんでした。その為、機関の当局は彼女の母親と父親に手紙を書きました。「あなたの娘さんが数週間の一時、帰宅するのは良い事だと思います。彼女は、もはや精神的に不安定ではありませんが、依然として危険で常に施設でのケアが必要です。しかし、私たちは助けが不足しています。日光と新鮮な空気の為に、彼女を外に連れ出すのに必要なスタッフがいません。数週間、彼女をあなたの家に連れて行ってくれませんか?彼女をよく見て下さい。ただし、公園に行って下さい。彼女を一日中日差しの中に置かないで下さい。環境の変化によって食欲が改善されなければ、彼女は長く生きられないので、彼女と一緒に歩く為に最善を尽くし、彼女に運動をさせて下さい。」


それで、この女性は施設に行き、その妹を迎えに行き、家に連れて帰りました。数日後、その女性は妹を私たちの牧師館に連れて来ました。私は今まで悪霊に強く影響された人に対処した事がありませんでした。私のミニストリーで人々は癒されましたが、私はこの種の状況にどう対処したらよいか分かりませんでした。もちろん、体の病気になるのと同じように、精神の病気になる可能性がある事は知っていました。その場合、私はその人が癒されるように祈って油を注ぐ事を知っていました。しかし一方で、悪霊が人の思考をつかむ事があるという事も知っていました。その場合、その悪霊を追い出さなければなりません。私は、その人を導く為に神の御霊に頼らなければならないと思いました。その日の午後、二人の女性と彼女の友人が私たちの所に来て、私たちは彼ら全員を招待しました。その婦人は妹に言いました。「スミス夫妻です。こちらが、私が話していた牧師です。」


彼女が「スミス夫妻です」と言った直後、正気でない妹の方が聖句を引用し始めました。蛇口から水が出るのと同じように、この女性の口から御言葉の全文が流れ出ました!私はどうすれば良いか分かりませんでした。そのような人の周りでは、どのように振る舞うべきだったのでしょう?それから私は口を開いて、間違った事を言ってしまいました。「そのように聖書を知っている人は、神を本当に知っているに違いありません。」その女性は、直ぐに手を伸ばして髪を引っ張り始めました。彼女の目は燃え、彼女が叫びながら言いました。「いや、いや、いや!私は神を知る事ができません。赦しがたい罪を犯してしまったからです!」もう一人の女性は妹の肩をつかみ、揺さぶり、最後に顔を平手打ちしました。後でその女性は言いました。「私は嫌いでしたが、妹をその発作から解放する為に医者が私にそうするように言ったのです。」


その後、その女性は落ち着き、居間の椅子に座らせる事ができました。そこに彼女は彫像のように座り、まばたきもせず、まっ直ぐ前を見つめて動く事はありませんでした。私たちは何か助けが必要だと気づいたので、私は彼女の妹に言いました。「あなたはここにいて下さい。妻と私はメアリー姉妹を連れてきます。」メアリー姉妹は私たちの教会の女性で、神と共に歩み、物事を変える方法を知っていました。それができる人は多くありませんが、彼女はできる人でした。妻と私はメアリー姉妹の家に行き、私は妻に言いました。「メアリー姉妹に、何故彼女が必要なのかを話して下さい。私は車の中で待っています。」そこに座って待っている間、私は新約聖書を取り出して少し読み、それから私は祈りました。「主よ、あなたに頼るしかありません。」当時の私たちは、悪霊に対する方法をあまり理解していなかったので、神に頼らなければならないと思っていました。しかし、神に感謝します。私たちの内に住んでいる聖霊は、私たちに来るべき事への備えをさせて下さいます。神がこれを行う一つの手段は、私たちが異言で祈る時です!


それで私は主に祈りました。「この女性がただ癒しを必要としているだけなら、私は彼女に油を注ぎ、彼女に手を置いて、あなたが彼女を癒してくれる事を期待する事ができます。しかし、ここに悪霊が関わっているのなら、あなたは私がそれに対処するのを助けて下さらなければなりません。あなたが示して下さらなければ、どうしたらいいのか分かりません。」妻はメアリー姉妹と一緒に車に戻り、私たち3人は牧師館に戻りました。正気を失った女は、居間の中央にあるまっ直ぐな椅子に座ったままでした。私の妻と私が去ってから、彼女は1インチも動きませんでした。彼女は彫像のようにそこに座って、まっ直ぐ前を見つめていました。私の妻、メアリー姉妹、正気でない女性の妹、そして二人の女性に付き添っていたもう一人の女性は皆、ひざまずきました。私は部屋の隅にひざまずき、皆で祈り始めました。私たちがかなりの時間祈った後、神の御霊が私に言いました。「彼女の前に立って、『出て行きなさい。汚れた霊よ。イエスの御名によって!』と言いなさい。」私は人生でそのような事をした事がありませんでした。私はそれについて、しばらく主と議論しましたが、最終的には従いました。私はその女性に近づき、彼女の前に立って言いました。「出てきなさい。汚れた霊よ。イエスの御名によって!」何も起こらなかったようでした。その女性は、以前と同じように精神的におかしいように見え、そのように行動していました。


しかし、私がそれらの言葉を言った時、神の力が私に来て、信仰の言葉を語った事を知っていました。月曜日の午後、精神的に不安定な女性と彼女の妹に同行していた別の女性が私たちの家に来て、動揺して言いました。「スミス兄妹、また祈って下さい!」私は「どうしてですか?」と尋ねました。「あの女性は、最初に正気を失った時と同じように、また発作を起こしています!」私は別の事を言おうと口を開いたのですが、驚いた事に、代わりに次の言葉が口から出ました。「それがどうかしましたか?イエスが悪霊に若者から離れるように言った時に何が起こったのか、聖書で読んだ事がありませんか?聖書は、霊が去る前に少年を投げ倒し、引きつけさせて出て行ったと言っています(マルコ 9:17-29)。」それから私は宣言しました。「それが彼女の最後の攻撃になるでしょう!私は土曜の午後、その悪霊を去らせる信仰の命令をしました。そして悪霊は、それに従わなければならないのです!」


そして、まさにそれが起こりました!精神的におかしかった女性はその日、完全に解放されました。医師たちは全ての検査を行い、彼女の健康状態が良好である事を確認し、彼女を家に帰したのです!15年後、妻と私はある町で伝道していました。そこには、以前は正気ではなかったこの女性の姉妹が住んでいたので、一緒に昼食を食べる為に出かけました。私たちは、彼女の姉が過去15年間どのように暮らしてきたかを尋ねました。彼女は言いました。「妹は元気です!彼女の知性は完全に正常で、この15年間ずっとそうです。彼女は会社で働き、教会で日曜学校のクラスを教えており、神の為に燃えています!」


この話で言いたかった事は、聖霊はいつもより多めに異言で祈るよう私を促し、この精神疾患の女性との出会いの準備をさせてくれたという事です。当時の私には何が起こっているのか本当に理解できませんでした。しかし今振り返ってみると、御霊が来るべき事の為に私を準備していた事に気付きました。私が知らなかったとしても、聖霊は何が起こるかを知っていました。御霊は、私が異言で祈る事が、私の成長を助けになる事を知っておられました!


先に述べたように、神との歩みの中で私に起こった最大の出来事、最大の癒しの奇跡、大きな経済的な突破は、私が長い間異言で祈った後にもたらされました。私は御霊によって祈る特権を神に感謝します。私たちの最も聖い信仰の上に私たち自身を築き上げる、この超自然的な手段を神に感謝します!そうです。私たちは聖書を読む事によって築き上げられます。異言の祈りによっても助けられます。これは神が私たちの成長を促す為に与えて下さった方法の一つなのです!


内にある力を出す


異言の祈りは、私たちの魂と知性に対する成長にも効果的です。使徒パウロは次の聖書箇所で、御霊によって神の力によって強められる事について書いています。


エペソ 3:14-16「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にある全ての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなた方を強めて下さいますように。」


パウロは、霊に満ちた信者に向けて手紙を書いている事に注目して下さい。エペソにいた信者たちについて、使徒行伝19章で既に読んだ事を思い出して下さい。パウロは彼らに言いました。「信じた時に聖霊を受けましたか?」(使徒 19:2)。6節では、「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした」とあります。ですから、エペソのこれらの信者たちは、新しく生まれ、イエスの罪の赦しと聖霊のバプテスマも受けていました。それにも関わらず、パウロはエペソ 3:16で彼らの為に、神の霊によって強められるようにと祈ったのです。あなたが新生して聖霊のバプテスマを受けたからといっても、それはあなたが頂点に辿り着いたわけではなく、それ以上神との歩みに他に何も必要ないという事ではありません!あなたはまだ、神の霊と共に歩み、御霊によって励まされて、与えられた力を発揮する事を学ぶ必要があります。御言葉を知り、聖句を引用し、神の約束に沿って告白する必要があるのは事実です。これらは全て重要です。しかし、あなたはまた、神の霊の中の深みに入って、神の力にあって歩む必要があります。その為の一つの方法は、異言で祈る事です。敵はあなたの信仰とあなたの人生に対して攻撃する事を決して止めないので、神の力の出し方を学習する必要があるのです。


あなたが聖霊と共に歩む時、与えられた力を発揮して敵を撃退する事ができます!私たちの内におられる方は、この世にいる者よりも偉大(I ヨハネ 4:4)なのですが、私たちが持っている強力な内なる強さが発揮されるには、御霊と共に歩む事、霊的に成長して行く事が必要です。その為には、異言で多く祈る事が最も効果的なのです!

2023年3月1日水曜日

12 神の御心に沿って祈る

神の御心に沿って祈る


異言で祈るとは、神の完全な御心に沿って祈る事です。聖霊は神の御心が何であるかを知っているだけでなく、私たちを御言葉に導きます。パウロは、私たちが神の完全な御心に沿って祈るのを助ける為に、私たちの生活における聖霊のこの役割について語っています。


ローマ 8:26-27「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


26節の「弱い私たちを助ける」という言葉に注目して下さい。多くの人は、この「弱さ」という言葉の意味を、いつも肉体的な患いや病気を意味していると誤解しています。しかし、この場合の「弱さ」は、「私たちが、何をどう祈ったらよいか分からない」という弱さを意味します。私たちの祈りの「弱点」は、何について祈るべきかを常に知っているとは限らない事です!信仰によって、悪霊に命じて追い出したり、問題に命じたりして山を動かす事は、私たちの基本の祈りとして知っているべきです。しかし、どうやって祈っていいか分からない時、知っている限りの祈りを終えたら、聖霊の助けを借りて祈るというオプションを思い出すべきです。


私たちが祈っている人々が本当に必要なものは、何かを別な事であるかもしれません。あなたは、自分の為に祈る事さえ、その全てを知りません。もちろん、お腹がすいたら、何か食べられるように祈る事は知っています。家賃の支払いが遅れている場合は、財政の為に祈る事を知っています。しかし、あなたは未来を知りません。また、問題の原因が思いもよらない所にある場合もあります。そして、神があなたに示さない限り、あなたは霊の領域を見る事ができず、あなたに立ち向かおうとしている悪霊に対して効果的に祈る事もできません。


エペソ 6:12 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。」


私たちに対して舞台裏で働こうとしている邪悪な勢力がいます。ですから、特に悪霊の策略に対して効果的である為には、異言の祈りで対処しなければなりません。私自身の体験から例を挙げましょう。ある時、私はフロリダで集会を開いていました。妻と私は、その頃の経済情勢の為に非常に心配していました。集会を開いて祈っていた人々の教会で、私はひざまずいて祈っていた事を覚えています。「主よ、経済の情勢が悪化していて心配です。神の霊よ、どう祈ったらいいのか分からないので助けて下さい。」それから私はそれを異言で祈り始めました。間もなく神の御霊が私の心に語りかけ、「気にしないで良いのです。すぐに情勢が良い方向に向かいます。全てが上手く行くでしょう。」そして、全てが上手く行ったのでした。神を賛美します!私たちは、「聖霊様、私はこの状況に関してどう祈るべきか分かりませんが、あなたはご存じです。ですから、私が祈るのを助けて下さい」と言う事ができます。そして、御霊はまさにそれを忠実にして下さいます!


聖霊は私たちを助ける


ローマ 8:26-27「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


私がミニストリーを初めて間もない頃、ジョンソン氏という、ギリシャ語に詳しい年配の方がいました。私は彼の説教を何度も聞いて学びました。彼はこの聖句について、次のようにコメントしていました。「ギリシャ語は文字通り、聖霊は明確な言葉では発する事のできないうめき声で、私たちの為に執り成しをして下さいます。明確な言葉とは、私たちの通常の言葉を指します。」ジョンソン氏は、これらの「うめき声」には、異言で祈る事も含まれていると指摘しました。


パウロは祈りの中で「明瞭には言い表せない言葉やうめき声」について語っています。ジョンソン氏は、うめき声は、聖霊があなたから離れて行うものではない事を強調しました。むしろ、聖霊はあなたのうめきの祈りを助けます。ある聖書では、1コリント 14:14を次のように訳しています。「私が異言で祈れば、私の霊は、私の中におられる聖霊によって祈ります...」


繰り返しますが、あなたが異言で祈る時、それはあなたの内なる聖霊によって、あなたの霊が祈っているのです。内なる聖霊があなたに言葉を与え、あなたはそれをあなたの霊から発しているのです。御霊は言葉を与え、あなたは異言で祈ります。この方法によって、聖霊はあなたが神の完全な御心に従って祈るのを助けます。


ローマ 8:27 「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒たちの為にとりなして下さるからです。」


うめきながら御霊による祈りも、聖霊があなたから離れて行う事はありません。それらのうめき声は、あなたの奥深くから来る聖霊によって促されます。しかし、あなたが口を開いて祈る時、あなたはそれらがあなたの唇から出るのを許しているのです。何年も前、私たちが開催していたセミナーで、私が礼拝の終わりに壇を降りた時、一人の女性が話しかけてきました。彼女は、最近聖霊に満たされた教団の信徒でした。彼女は言いました。「ケニー兄弟、ローマ 8:26-27に、聖霊が私の為に祈って下さると書かれている事を知って以来、私はもうあまり祈る事はありません。聖霊が私の為に祈っているなら、きちんと仕事を成し遂げる方法を知っているので、私が祈る必要はありません。」


この女性のように、ローマ8章の1つの聖句を基に、教義を作り上げ、パウロが意味していない事を主張する人もいます。しかし、聖書は常に私たちに祈るよう勧めているので、この発言が非聖書的である事はすぐに分かります。そして、ローマ 8:26は、聖霊が私たちの為に祈って下さるとは言っていません。神の完全な御心に従って、うめきを通して私たちの祈りを助けて下さるのです。


ローマ 8:26 「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなして下さるのです。」


パウロは、聖霊が私たちが祈るのを助けて下さると言い、その一つの方法を示しました。それは、うめきを通してです! 神の御霊はあなたに祈るように促しますが、あなたはそれに応えなければなりません。御霊はあなたを強制的に祈らせません。御霊が祈りの責任を負うのではなく、あなたに祈る責任があるのです。聖霊は、あなたのとりなし手、祈りの助け手として、あなたのうめきを通して、とりなしして下さるのです。この御霊の働きにあなが協力して、この種の御霊による祈りをするかどうかは、あなた次第なのです!


祈りの重荷


聖霊が私たちの祈りの助け主である事について、次の点を説明しましょう。その事は、聖霊に満たされて聖霊派のグループにやって来た、ある教団の牧師によって語られました。私と彼は二人とも、幾つかの異なる聖会でゲストでした。ある日、この牧師は私に言いました。「ケニー兄弟、あなたが異言を教えている時に、私が以前に理解していなかったものが分かりました。妻と私はまだこの御霊に満ちた人生を歩んだばかりですが、私たち二人が聖霊に満たされて異言で話した直後、私たちの教会に来る、3人の幼い子供の若い母親が心臓手術が必要になりました。」そのような重大な手術は、今日ほど成功してはいませんでした。この手術の過程において、何らかの形で、この若い女性の心臓は停止した事がありました。


医師たちはやっと彼女の心臓を再び動かしたのですが、女性は意識不明のままでした。その牧師は私に話しました。「医師は、この女性の脳は酸素を十分に得ていなかったと私たちに告げました。意識が戻ったとしても、ただの植物人間で何も分からないだろう。彼女を死なせた方がいいだろうと彼らは言いました。」


その夜、牧師はうめき声を聞いて目覚めました。彼がベッドの反対側に手を伸ばすと、妻がそこにいない事に気づきました。ようやく居間から聞こえるのが、彼女のうめき声だと分かりました。最初、その牧師は彼女が病気だと思いました。彼はベッドから起き上がり、居間に行って妻に尋ねました。「大丈夫?病気なの?」彼女は言いました。「いいえ。あの若い母親と彼女の3人の子供たちの為に祈るのが重荷になっています。彼女は死ぬにはまだ若過ぎます!その子供たちは母親を必要としています。」牧師は続けて話しました。「妻ができる事は、うめき声​​を上げて異言で祈る事だけでした。私には分かりませんでした。そのように誰かが祈るのを見た事がありませんでした。


私は聖霊に満たされ、異言を話しましたが、妻がその夜の祈りの中で体験した事は違っていました。御霊に満たされた時、私は喜びを感じました。しかしこの夜、妻は祈るという強い重荷を霊に感じていたので、祈りの中で深くうめき声を上げていました。だから、私は何が起こっているのか分からなかったので、彼女を放っておく事にしました。ケニー兄弟、今日の集会であなたが教えてくれるまで、その夜、妻に何が起こったのか本当に理解できませんでした。しかし妻は、そのように1時間半ほど祈り続け、ようやく彼女は立ち上がって床につきました。彼女は私に言いました。『負担がなくなりました。解放されました。』


翌朝、私たちがお見舞いに行くと、その若い女性はベッドで起き上がって微笑み、完全に治っていました!数年経ちましたが、その女性はまだ元気で、家族と一緒に教会に通っています。」聖霊は、この牧師の妻がその夜、効果的に祈るのを助けました。彼女はその女性の為に、どうやって祈ったら良いかを知りませんでした。しかし、聖霊が助けに来て、彼女が神の御心に沿った祈りをやり遂げるのを助けてくれたのです!うめき声による御霊の祈りの中で、彼女は神の完全な御心に沿って祈ったのです。聖霊は私たちの執り成し手です。御霊は私たちの生活のあらゆる面で私たちを助けて下さいますが、特に、祈りにおいて私たちを助けて下さいます。


私たちの助け主


イエスはあなたを助ける為に聖霊を送って下さると約束されました。「助け主」とは、あなたをサポートしてくれるお方です!


ヨハネ 14:16 「そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。」


私たちの生活における聖霊の役割を定義するギリシャ語の「パラクレート」は、七つの意味を示します。すなわち、聖霊が私たちの「慰め主、カウンセラー、助け主、仲介者、擁護者、力を与えるお方、そばにいるお方」として送られた事を意味するのです。聖霊はそれらの全てであり、私たちの中に住んでおられます!聖霊は、祈りの分野で私たちの「パラクレート」、助け主として送られました。それは、私たちが異言で祈る時、勝利に至るまで助けて下さるという事です。御霊は私たちの仕事をサポートをしてくれますが、私たちの為に仕事をして下さいません。


聖書のどこにも、聖霊があなたから離れて、何かをして下さるとは書いていないのです。あなたの人生の全てにおいて、聖霊はあなたがそれをするのを助けて下さいます。聖霊が路上で誰かに会い、その人を救った事はありません。人が救われるのは、常に聖霊によって働いた人たちです。私たちとは関係なしに、聖霊が人を救って下さるなら、宣教師を伝道地に派遣する必要はありません。私たちはただ聖霊にお願いして、救われていない人々に福音を伝えてもらい、彼らを救ってもらうように働きかける事はできないのです。しかし、イエスは神の民に、全世界に出て、全ての被造物に福音を宣べ伝えるように言われました(マタイ 28:19)。


イエスは聖霊にそうするように言いませんでした。また、使徒言行録のどこにも、聖霊が路上で誰かに会い、人を癒したという記述がないのです。しかし、聖霊に満たされた信者が彼らを通して聖霊が働くようにさせ、彼らのミニストリーを通して、人々が癒された事は書かれてあります。また、聖霊がどこかへ行って、信者を聖霊で満たした箇所はありません。しかし、聖霊に満たされた人々が福音を伝え、彼らの働きによって聖霊が人々の上に望んだ箇所はあります。他の人が信者に手を置き、聖霊が彼らを満たした所を読む事ができます。御霊は神の霊的な法則に従って働きます。その法則を理解するなら、私たちは神と共に働く事ができるのです。それが聖書が私たちを共同相続人、またはキリストとの協力者と呼んでいるものです(ローマ 8:17)。私たちは神と共に働く者です。(II コリント 6:1)イエスは、私たちが彼と協力する方法を一つ教えて下さいました。


マルコ 16:20「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らと共に働き、御言葉を、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」


弟子たちは説教しに行きました。主は彼らと一緒に働き、それに伴うしるしで彼らの言った事を確かなものとしました。私たちは主と一緒に働きます、そして主は私たちと一緒に働いてくれます!これは、私たちの生活のあらゆる分野に当てはまります。特に祈りではそうです。


共に祈る


あるギリシャ語の学者は、「同様に御霊も私たちの弱さを助ける」の中の「助ける」という言葉は、三つのギリシャ語の語根に由来している事を指摘しています。その三つは、「一緒に保持する」、「共に」、「対抗して」という意味を持ちます。ですから、この「助ける」は文字通り、「御霊も私たちと一緒に対抗する」と読む事ができます。それは、私たちが人生で遭遇する障害や妨げに対して、聖霊が祈りの中で私たちと一緒にいる事を意味します。それがローマ8章26節で言っている「助ける」という語の意味です。聖霊は私たちの弱さや祈りの欠点を助けて下さいます。ですから、もし私たちが祈らなければ、聖霊には私たちと一緒になって反対するものは何もないのです。御霊の役割は、私たちが障害物を動かすのを助ける事だからです。


利己心を取り除く


クリスチャンが時間をかけて自分の理解で祈る祈りを分析すれば、それらの祈りの大部分が利己的である事に気付くでしょう。多くの場合、彼らの祈りは、同じ祈りをして来た人のようです。「神よ、私と妻と子供たちを祝福して下さい。私たち四人です!」このように全く同じ言葉を言わないかもしれませんが、彼らの祈りの時間の殆どは、自分自身と愛する人たちだけに費やされているという事です。しかし、異言の祈りは御霊に導かれた祈りである為、私たちの祈りに利己心が入る可能性を排除します。知性で祈る時、あなたの祈りは非聖書的または利己的になる事があります。


神の完全な御心ではない祈りの結果がもたらした例を、聖書から見てみましょう。それは、1サムエル記8章にあります。神はイスラエル人が周囲の国々のように王を持つ事を望まれませんでした。神は彼らの王になりたいと思っていましたが、イスラエルの子供たちは他の全ての国と同じようになりたいと思っていました。そして彼らは、自分たちの王をしつこく求め続けたのです。神は、「では、あなた方が王を持つ事を許可する」と言われました。しかし、その時点から、イスラエル人は再び神の完全な御心の中に留まる事はありませんでした。これは、多くの人が見逃している所です。神は何度も彼らに対処し、彼らの人生に対するご自身の御心が何であるかを彼らに伝えました。しかし、彼らは肉で望むものを祈り、神に求め続けました。ついに神は、「では、あなた方が望むものを持つがよい」とされたのです。


同様な例を、もう一つ挙げましょう。ある若い女性の事です。彼女はその過ちの為に、その後、大変な苦しみに会いました。彼女は、私がコロラド州で牧師をしていた時、私の教会に来ている方でした。彼女は美しい方で、伝道に燃えていた人でした。しかし、この若い女性は、未信者の男と付き合っていたのです。彼はクリスチャンであると主張しましたが、時々教会に行くだけで、信者でない事は明らかでした。彼女は、二人の関係が神の御心ではない事をずっと知っていたにも関わらず、ついにこの若い男と婚約しました。ある夜、私たちが教会で祈っていると、この若い女性が来て、二人の婚約の件について祈りました。


神ははっきりと彼女に語りかけ、その男と結婚しないようにと告げました。その後、彼女は起き上がり、教会の人々に軽く挨拶を交わして言いました。「これで決まりました。私は彼と別れます。」彼女はこの男と別れる事になりました。しかし、結局、彼と復縁して結婚してしまいました。どうして彼女はそうしたのかというと、主が彼らの結婚を認めるまでずっと頑固に祈っていたからです。もっとも、神の御心に逆らっている事を知りながら、肉にあって歩んでいる人が神の声を正確に聞こえるという事はありません。従って、彼女が聞いた声が神からものだったとは限らないのです。


イスラエル人がしたように、またこの若い女性がしたように、あなたが神の御心を知っておきながら、尚も違う事を追い求め続けるなら、あなたは自分の好きな事をするでしょう。何故なら、あなたには自由意志があるからです。そして、神はあなたがやりたいままにさせます。それは、神がそうするように許可しているのではなく、あなたの自由意志を尊重しているという事です。私たちには、あらゆる事に対して自由が与えられていますが、その責任もあるのです。主の教えに従うか、それとも、悪い種を蒔いて悪いものを刈り取るかは全て私たちの選択によるのです。


神は本当にその女性に、その男性と結婚しないように言われたので、彼女はそれについてこれ以上祈るべきではありませんでした。彼女は神に従うべきだったのです。しかし、彼女は自分の願いを主張し続け、ついに、「あなたが望むようにしなさい」と言う声を聞いたのです。その後、その女性はこの男と結婚しましたが、あっという間に町で最も惨めな人になりました。私たちはしばらく彼女に会いませんでした。彼女はすぐそこに住んでいたのですが、教会にさえ来ませんでした。しかし、ある時彼女は、私たちの教会のある年配の姉妹に手紙を出しました。その女性は手紙の中で、「私は4か月間も家に閉じ込められていました。夫は私にとても嫉妬していて、仕事に行く時は私が家から出ないようにします。鍵も無いし、一人で外へ出かける勇気もありません。私は彼なしではどこにも行きけなくしてしまいました。」神がこの女性にその男性と結婚しないように言われたのも当然でした。手紙は、「私は自分の家に4か月間、囚人のようでした」と続きました。


彼女はこの手紙を家からこっそりと出す方法をやっと見つけ、友人に郵送するように頼んだのでした。なんと悲惨な状況でしょうか。この若い女性は、「どうして神は私を守って下さらなかったのだろう?」と思ったかもしれません。神はいつも私たちを守って下さるお方です。しかし、私たちは神の守りの中に留まる必要があるのです。神はその女性にご自身の御心を教え、どうするべきかを示して、祝福を受けるように導こうとしました。


こういうわけで、私たちが祈る時、その事について、神の御心に沿っているかが分からないのなら、イエスの教えた事聖書から読んで、自分の中に入れなければなりません。イエスの教えの言葉があなたの中に留まっている事を確認して下さい。イエスが言ったように、あなた方が私に留まり、私の言葉があなた方に留まっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それは叶えられます(ヨハネ 15:7)。それから、毎日異言で祈る時間を持つようにして下さい。主の言葉があなたの中に留まり、異言で祈る事によってあなたの霊が築き上げられる時、あなたはあらゆる状況について神の御心に沿って祈っている事を知るでしょう!祈る時は、決して神の言葉から離れてはなりません。あなたの祈りの生活の中で、御言葉の強固な土台を築いて下さい。その土台がなければ、神の御心ではない欲望に駆られてしまうかもしれません。


そして最終的には、神がイスラエルに答えたように、あなたにも「そのようにしなさい」と答えられるかもしれません。イスラエルが王を持つ事は神のベストの御心ではありませんでしたが、彼らは王を望んでいたので、王を得たのです。そしてその時点から、彼らは二度と神の完全な御心の中にいませんでした。神が彼らを祝福しなかったという意味ではありませんが、神が望んでいた全てで彼らを祝福する事はできませんでした。


私たちは神の完全な御心を求めるべきでしょう。だからこそ、私は異言で祈るという賜物に注目しています。異言の祈りの中では、利己的な祈りを可能な限り回避できるからです。私が異言で祈る時、私は肉によってではなく、霊によって御父と語り、神との交わりの中で祈れます。思考を一新する事で、神の完全な御心に沿って祈れます。また、御霊によって祈る事も、神の完全な御心に沿った祈りを可能にするのです。何故なら、御霊と共に祈る時、私たちは聖霊の助けを得るからです。

1 異言に対する反論

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