2022年12月16日金曜日

異言についての理解

 異言について正しく理解する必要性があったのは、前世紀に限った事ではありません。使徒パウロもその時代、このテーマについて信者たちに語りかける必要がありました。実際パウロは、コリント教会への手紙の中で、異言を話す事自体が目的であると勘違いしている人々を扱っていました。

 

 異言の祝福と現象は、聖霊に満たされる事に共通して付随します。異言を語らない人は、本当に聖霊に満たされているのかという質問をよくします。それは、「満たし」の定義によります。十分に聖霊の中に浸かるなら、より自然と異言が出ますが、同じ聖霊の満たしでも、少しだけ聖霊の中に浸かるだけなら、その人は異言を語らない事があります。しかし聖書では、人々は聖霊のバプテスマを受けると同時に異言を語り出した事を示しています。異言は、教会が誕生した日に、誰もが使えるようになったのです。教会が続いている今も、イエス・キリストをいつ受けたかに関係なく、全ての信者が使える事を疑う理由はありません。


生ける水の川


 イエス・キリストを救い主として受け入れる人は皆、内在の聖霊として聖霊を受けています。実際、聖霊が私たちを引き寄せて下さらなければ、私たちはキリストを賛美する事はないでしょう。しかしイエスは、内在する聖霊と溢れ出る聖霊には違いがあると明言しています。ヨハネによる福音書四章では、主が与えなければならない水は、永遠の命に至るまで湧き出る、救いの泉となると告げています。そしてイエスは、ヨハネ七章で、後に与えられる聖霊について語っています。


 ヨハネ 7:38「私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 


 イエスは、永遠の命を受ける事と、私たちから流れ出る生ける水の川という聖霊の力を区別しているのです。人の心の奥底から、聖霊という生ける水の川は、私たちをリフレッシュさせるだけでなく、他の人々へのミニストリーにおいて、大きな助けとなります。聖霊が私たちから流れ出るには、イエスを信じて聖霊を受けるだけでは十分ではありません。聖霊の中に浸るという、聖霊のバプテスマが必要です。御霊の内在だけで、御霊がクリスチャンから流れ出る事はありません。実際、全てのクリスチャンが、この事を体験してはいません。又、御霊の中に留まるには、異言で祈り、霊の歌で神を賛美する事も有効な手段だとパウロは教えています。


霊で祈り、知性でも祈る


 1コリント 14:15「それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」


 聖書は霊的な祈りと知性での祈りを区別しています。異言の言葉は理解できないかもしれませんが、無意味な事ではありません。それは、聖霊によってもたらされた賜物なのです。


言語


 1コリント 14:10「世界には、恐らく非常に多くの種類の言葉があるでしょうが、意味のない言葉は一つもありません。」


 地球には、今では六千以上あるとも言われています。従って、誰かの異言を判断する時には、その言葉が話されている言語かどうかの根拠に基づいたものでなければなりません。聞き慣れない言葉だからといって、それが異言ではないという結論は、単なる憶測にしか過ぎないのです。祈っている本人も知らないうちに、その語る異言が世界のどこかの部族や民族が話している言語だと、後になって判明した事はよくある話です。


神に語りかける


 1コリント 14:2「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。誰も理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」


 異言は、私たちが神との親密さを得る為の特権的な恩恵があります。すなわち、私たちに他者に奉仕する力を解き放ち、キリストの品性である、御霊の実を現わす事を助けるという恩恵です。主は私たち一人一人を大切に、個人的に愛しておられます。聖霊によって祈る時、私たちは神にのみ語りかけています。私たちは御霊によって奥義を語っているので、私たちの中におられるキリスト、私たちの新しい人について語っているのです。私たちが神の奥義を語る事は、私たちの成長を大いに促します。


 聖霊が来られた理由の一つは、神が私たちと霊的なコミュニケーションを通して、私たちをより神の子として成長させたいからです。異言の祈りは、私たちの知性と脳の働きによるものとは違います。異言は霊からの言葉です。これにより、私たちは自分自身が霊的存在である事に気付かされ、目覚めていくのです。そうすると、霊的な歩みが歩めるようになります。何故なら、異言で祈ると、私たちの魂が霊の下に置かれて、霊の影響を受ける事になるからです。


 1コリント 14:4「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」


 異言で語る人は自らを成長させるだけでなく、神の愛の内に自分自身を保ち、永遠の命に導くイエス・キリストの憐れみを待ち望むようになります(ユダ 1:20-21)。


異言は休息を与える


 イザヤ28:12「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」


 異言は、私たちを助ける為に共に来て下さる、慰め主である聖霊を歓迎する事でもあります。私たちが御霊によって祈る時、主の励ましと力が私たちの中に超自然的に注ぎ込まれます。


異言は賛美と執り成しの次元を広げる


 ローマ 8:26「同じ様に御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、執り成して下さるのです。」


 私たちの賛美が御霊によって力を得ると、それは霊歌となって、暗闇の業を退ける道具となります。霊歌は戦いの道具であり、執り成しの道具です。私たちはしばしば、どう祈ればいいのか分かりません。しかし聖霊は、その状況に関する御父の御心を知っておられ、私たちが人間の能力を超えて、必要な方法で正確に祈る事を可能にして下さいます。


聖書による異言の目的


 これらの御言葉に書かれている異言の利点を見ると、教会が誕生した日に、主が異言を皆に与えた理由が分かると思いますう。異言は、単に聖霊降臨の証拠となる目的だったのではありません。今日でも、聖霊のバプテスマを受けた証拠としての異言が強調されていますが、そこにだけ焦点が置かれ、その事についての議論だけが必要以上に大きくなっています。しかし異言は、それ自体が何かを証明するものとしてではなく、教会が教会である為に必要な資源として与えられているのです。


 御霊による満たし(聖霊のバプテスマ)に異言がしばしば伴うのは、私たちが神の力を受ける為でもあります。ある種の聖霊体験をした人々は多いのですが、彼らが神の力によって歩めていないのは、その力を解き放つ異言を用いていないからです。聖霊によって十分に浸かると、私たちは神の力を受けます。それでも、私たちが神の力によって歩めていないのは、異言の祈りによって歩んでいないからなのです。聖霊は、私たちを満たし、溢れさせ、異言を解き放つ事を望んでおられます。しかし、私たちはそれを知らずに、意味も無く異言について議論しているのです。こうした状況があるのは、私たちが御父の約束として受ける聖霊をまだ良く知らないからなのです。


1 異言に対する反論

異論#1:「イエスは異言を話さなかったので、私も異言を話す必要はない。」 イエスのミニストリーでは、異言や異言の解き明かしは見られませんでした。それらの御霊の現れは古い契約の時代にも見られません。これら二つの聖霊の賜物は、使徒言行録2章に記されているように、ペンテコステの日に聖霊...